毎日の仕事が大変だ、自分には重過ぎると感じることはありませんか?
仕事の失敗で怒られ満員電車に揺られて疲れた体をひきずって帰るとき・・・
夜中に泣き続ける幼いわが子を何時間も抱いて眠れないとき・・・
自分だけが貧乏くじを引いている、とうらみがましくなったりしませんか。
神様を信じていてもそういうとき、「今」自分が神様に愛されているとは到底感じられない。
でもちょっと待ってください。「君は愛されるため生まれた」と歌うとき、私たちは「愛される」ということに
どんなイメージを持っているかを考えてみてください。もしかしたら、やわらかい綿で赤ん坊のようにくるまれている、そんな「愛され方」だけを「神の愛」ととらえていないでしょうか。もちろん赤ちゃんが受けるようなタイプの愛情も神様は豊かに注いでくださいます。ただ、そのイメージだけですと人生の重荷に出会ったとき私たちの信仰は行きづまるでしょう。
聖書にはこんなことが書いてあります。(ヘブル人への手紙)「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたを子として扱っておられるのです。」
やらなければいけない重い仕事、毎日の決まりきった務め(学生、社会人、家庭人として)、そんな、
ばら色とはほど遠い(つらいなあ、と思うこと)ことの中に置かれている、そのあなたのいる場所こそが
神の限りない愛の注がれている現場だといえるのです。
そしてその訓練のただ中で私たちが主の愛に気づいていくとき、「愛されている子」として成長していくことが聖書で約束されているのです。