日々、仕事をこなしたり、勉強したり、家事、育児に追われているあなた。人の中で気を使って言葉を選び、きちんとした自分を保とう、将来の計画を万全にしようと努力しているあなた・・・・。本当におつかれさまです。その懸命な真面目さに神様がお報いくださいますように。
そして・・・もしもそんなあなたが疲れきってしまう寸前だったとしたら
その努力をされる心の目線がどこに向いているか、少し見つめてみませんか。
有名な聖書の一節にこういうキリストの言葉があります。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけ
がありましょうか。信仰の薄い人たち。 (マタイ6章30節)
神様は、品評会に出るように立派な、有名な花を例に出さず、“野の花”を見つめて語られました。もしかして人間の目にはふれることのない、人から「すごいわね、よくがんばって咲いたね」と一度も言われることがないかもしれない・・・しかも「明日は炉に投げ込まれる」かもしれない、つまりこの世での将来が約束されていない、そういう存在が
“野の花”です。
それを、神は最高級にかざってくださっているというのです。
一節前には「有名なソロモン王の栄光もこの野の花の美しさにはかなわない」と書かれているのです。
神はそのように大事にしてくださる。まして“神の子ども”である、あなたがたは慈しまれ、見つめられ、大事に飾られている存在である。
というメッセージです。
では、神さまからそのように大事にされている私達は、逆にどういう 生き方をするのでしょうか?
相田みつをさんの詩集にこんな言葉がありました。
「水仙は人に見せようと思って咲くわけじゃないんだなあ
ただ咲くだけ ただひたすら・・・
人が見ようが見まいがそんなことおかまいなし
ただ いのちいっぱいに
自分の花を咲かすだけ
自分の花をー」
みつをさんはクリスチャンではありませんが、上の聖書と視点が似ていると思いました。
私もハットしました。社会的にイイことをしても、大事な有意義なことをしても無意識に“人に見せようと思って”咲こうとする・・・・・。
多くの人間の、そしてわたしのクセかな・・と。それが聖書でいう罪でもあると。
心の目線が神様でなく他人に向いている。やがて自分の中味は枯れていく。でもそんな人間だってわかっているから、イエス様は上の言葉をわたしたちにかけてくださっているのでしょう。
今日一日をまず、神さまのあったかい日差しをあびて「ありがとう」って咲きたいですね。