学生のころ、私は宗教的神経症と呼べるような状態に苦しみました。自分のやるどんなことでも罪だと思えて気になり、それでいて「自分はキリストに赦されない」という思いをもってもがく毎日でした。「罪をゆるしてください」と祈るものの赦される確信は持てず、毎日が生き地獄でした。そのときの罪意識はある意味病的だったと思います。
それは「罪の全くない自分を確認したい」という欲求だったのかもしれません。
金田福一先生の「荒野にある泉のほとり」にこうあります。
「罪意識には二通りあります。一つはゆるされた感謝を持った、やわらかな罪意識です。その人はいつでもキリストの愛とゆるしの中にいて、しかも自分の罪には鋭く気づくのです。もう一つの罪意識は、他に対していやな思いを与える固い罪意識です。その人は決して自分をゆるさないようなことを口にするのですが、それは、真の悔い改めから出た罪意識ではなくて、その人の心の底には、実は自己義認がひそんでいるのです」
イエス様からすでに雨のように注がれている恵みと赦しをただ受け取るときに偽の罪意識から解放されるという経験をいただきました。でも今でもサタンは弱いところをついてきます。聖霊がもたらすまことの認罪と赦しを見失わないように祈っていきたいです。