退任が近づいてきた黒田総裁
「このまま政策が続けられれば、危機的な事態に陥りかねないという危機感があり、これ以上、待てないということだ。新しい資本主義の政策が本格的に稼働し始め、日銀総裁が任期満了を迎える、このタイミングが非常に重要だ」
1月30日、政府と日銀に対して厳しい言葉を投げかけたのは、「令和臨調」の運営幹事で第2部会「財政・社会保障」共同座長を務める三菱UFJ銀行の平野信行特別顧問だ。
「令和臨調」は「次の時代に持続可能な日本社会と民主主義を引き継ぐ」ことを目指し経済関係者や有識者100人超が参加して昨年6月に発足した組織である。
その「令和臨調」が初めての緊急提言として発表したのが「政府と日本銀行の新たな『共同声明』の作成・公表を」である。
今回の緊急提言の主旨は、2012年12月の総選挙で(1)大胆な金融政策、(2)機動的な財政政策、(3)民間投資を喚起する成長戦略、といういわゆる「三本の矢」を掲げて大勝し政権復帰した第二次安倍内閣が、2013年1月22日に日銀と共同で出した「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携について(共同声明)」に代わる新たな「共同声明」を作成・公表を求めるというものである。
2013年1月に安倍内閣と共に共同声明を出したのは当時の白川日銀総裁だったが、共同声明に謳われた「(2%の)物価安定の目標の下、金融緩和を推進し、これをできるだけ早期に実現する」ことを実行に移したのは後任の黒田総裁であり、そのための手段が「異次元の金融緩和」であった。
つまり、今回「令和臨調」が出した緊急提言の内容は、異次元の金融緩和を続けることに対する「危機感」を表明し、「日銀総裁が任期満了を迎える、このタイミング」で「異次元の金融緩和」を見直し、「一定の時間軸の中で金利機能の回復と国債市場の正常化を図る」ことを求めるというものである。
黒田日銀総裁の任期が4月8日に迫り、岸田総理が次期総裁候補を2月中に国会に提示することを表明しているこのタイミングで、「令和臨調」が公表した「異次元の金融緩和」に対する危機感と修正を求める緊急提言は非常に興味深いものであり、次期総裁候補指名、黒田総裁の進退にも少なからず影響を及ぼす可能性を感じさせるものである。
マイナス金利「最大の被害者」
注目すべきは「令和臨調」のメンバーである。
まず、共同代表に増田寛也日本郵政取締役兼代表執行役社長が名を連ねているところ。日本郵政はいわずと知れたゆうちょ銀行を抱える持株会社である。
日銀がマイナス金利政策を採っていることは周知の事実だろう。しかし、昨年12月時点で476兆6460億円に達している日銀当座預金残高のうち、マイナス金利が適用されているのは全体の6.6%の31兆3820億円に過ぎないことはあまり知られていない。
しかも、都市銀行のマイナス金利適用残高は0円、地方銀行は870億円、第二地銀は180億円と、いわゆる“銀行”の残高でマイナス金利を適用されているのは全体の0.3%、1050億円に過ぎない。
では誰がマイナス金利の適用を受けているかというと、ゆうちょ銀行や大手信用金庫が含まれる「その他準備預金制度運用先」で、その額は16兆8070億円とマイナス金利適用残高の53.6%を占めている。
2022年3月末時点で預金残高193兆円のゆうちょ銀行は国内最大の銀行であり、全国254の信用金庫の預金総額155兆円を大きく上回っていることから、マイナス金利適用残高の半分以上はゆうちょ銀行の預金だと想像される。
このように、黒田日銀の看板政策であるイールドカーブコントロール(以下YCC)におけるマイナス金利の影響を最も受けているのはゆうちょ銀行だが、その持ち株会社のトップである増田氏が共同代表を務める「令和臨調」が、黒田日銀総裁の任期満了が迫るこの時期に「異次元の金融緩和」の修正を求める緊急提言を行ったところが一つ目のポイントである。
「女性初」副総裁の可能性も
もう一つ興味深い点は、今回の緊急提言を三菱UFJ銀行の平野信行特別顧問と共にまとめたのが、「令和臨調」の運営幹事であり第2部会「財政・社会保障」共同座長を務めている翁百合氏だというところ。翁氏は日銀出身で、黒田日銀総裁の後任候補にも名前が上がっている人物である。
翁氏が新総裁になる確率は低いと思われるが、支持率が低迷する岸田内閣にとって「女性初」というニュースは捨て難いものでもあるはずなので、次期副総裁に指名される可能性は十分にあるはずである。
問題は岸田総理が「女性初」の日銀副総裁に翁氏を指名した場合の影響である。
Bloomberg社が日銀ウオッチャーに対して実施した調査によると、回答者37人中25人が雨宮正佳現副総裁を次期日銀総裁の最有力候補だと考えている。雨宮副総裁は黒田総裁のもとで「異次元の金融緩和」や「YCC」の導入を主導してきており、「政策の継続性」を優先する場合には最適な人物だといえる。
しかし、岸田内閣が「政策の継続性」よりも「政策の修正」や「女性初」の副総裁誕生という変化を優先しようとした場合には、「雨宮総裁」の可能性は消える。特に「異次元の金融緩和」の見直しを求める緊急提言を取りまとめた翁氏を副総裁に据えることを優先した場合、「政策継続」というイメージが強い雨宮副総裁を次期総裁に指名するというのは、組み合わせとして好ましいものではない。
一部「政府が雨宮副総裁に総裁就任を打診した」という報道が流れ、東京市場ではこれを歓迎するような動きが見られているが、雨宮新総裁誕生が日本経済や金融市場に好影響を及ぼすと決めつけられるほど現在の状況は単純ではない。
雨宮新総裁誕生とともに生じると考えられるリスクは、弾切れに近い日銀が、負けられない市場との戦いを強いられることと、「ハト派」が「タカ派」に転じたと見做される事態である。
次期総裁に誰が就任しようとも、「出口」に向けて異次元の金融緩和の修正を余儀なくされることは既定路線である。もし雨宮新総裁がこの役割を担うとしたら、過去の言動との整合性を追求されることになるはずである。
さらに「ハト派」とみられている雨宮総裁誕生が「タカ派」姿勢に転じることは、「ハト派」の新総裁誕生を熱望している国内投資家に対して強い失望を与えかねない。どうせ政策修正をする必要があるというのであれば、最初から「ハト派」でない新総裁を指名した方が、中期的には市場に与える動揺は少なくて済むという見方も成り立つはずである。
どのみち日銀総裁の任期は4月8日までであるのに対して、副総裁の任期は3月19日までなので、岸田内閣はどちらか一方の人事だけ優先するわけにはいかず、総裁候補とほぼ同時に副総裁候補を指名しなければならない状況にある。
政府にとっても想定外だった?
正副総裁選びが佳境を迎える中、YCCの長期金利の「変動幅拡大」を決めた12月の金融政策決定会合の議事要旨が発表され、政府側の出席者からの要請に基づき会議が37分間中断されていたことが明らかになった。政府側の申し出で中断したということは、政府側出席者にとって「変動幅拡大」は想定外だったということを感じさせるものである。
政府側出席者が財務省の秋野副大臣と内閣府の藤丸両副大臣に加え両省の審議官と、政治、事務方のNo.2であったことや、就任以来つねに官邸と二人三脚で政策実行に邁進してきた黒田総裁が、「実質的利上げ」と受け取られかねない「変動幅拡大」を官邸に無断で決定することは考え難いことを考慮すると、政府側出席者にとって想定外だったというのも解せないことである。しかし、事前に合意形成出来ていたとしたら政府側から異例の中断申し入れもなかったはずだ。
鈴木財務相が閣議後会見で、秋野副大臣から「発表前に前広に報告があった」と話していること、藤丸内閣府副大臣が岸田派所属議員であるのに対して、秋野財務副大臣が「円安は物価が上がり苦しいが、利上げすると借り入れをしていた中小企業が困る」と主張してきた公明党所属であったところに、想定外の原因があったのかもしれない。
実際のところは知る由もないが、「実質的利上げ」ともいえる「変動幅拡大」は、政府側出席者の発言のように「より持続的な金融緩和を実施するためのもの」ではなく、任期中の利上げ転換、YCC政策の破綻を避けたい黒田総裁と、効果的なインフレ抑制政策を求められていた岸田総理の両者の顔を立てるための妥協策だったというのが実態に近いと思われる。
長短金利のどちらの目標も変えていないから「利上げではない」という詭弁を使えるのと同時に、実際に長期金利が上昇することで「日米金利差拡大による円安」、ひいては「円安による物価上昇」にブレーキをかける効果を期待できる「変動幅拡大」は、岸田総理が金融緩和継続を頑なに維持し円安を為替介入に任せ続ける黒田総裁を快く思っていなかったとしたら、その怒りを鎮めるのに都合のいい選択だったはずである。
12月の「変動幅拡大」に続く1月の「共通担保資金供給オペ拡大」も金融政策としての効果はほとんどなく、ともに政治的要素の強い政策だといえる。金融政策として意味を持っていなかったことは、1月の日銀の国債購入額が過去最大の23兆円に膨らんだことや、足もとの10年国債の利回りが「変動幅拡大」後の上限である0.5%に限りなく近い水準にあるところにも表れている。
黒田日銀が金融政策として意味を持たない政策を連発するのは、残された任期中に看板政策であるYCCが崩壊する事態を避けるためだと思われる。市場圧力に屈する形で政策変更に追い込まれることになれば、これまでの金融政策が失敗だったことを突きつけられる形になるからだ。
故安倍元総理を後ろ盾に「黒田バズーカ」という称号を手に入れ異次元の金融緩和、そしてYCCと副作用のリスクのある劇薬注入に邁進して救世主気取りでいた黒田総裁にとって、晩節を汚すような最後は受け入れがたいはずである。
最優先事項は「黒田総裁の勇退」
「変動幅拡大」と「共通担保資金供給オペ拡大」を連発したことをみると、黒田日銀の目下の最優先事項は「黒田総裁勇退の花道の花を枯らさないこと」になっていると思われる。
もしこの見方が的外れなものでないとしたら、黒田総裁にはもう一つ「花道の花が枯れないうちに勇退する」という選択肢が残っている。それは、4月8日の任期を待たずに前倒し辞任することである。
2013年に政府と「共同声明」を出したのは当時の白川日銀総裁だった。しかし、安倍元総理と白川前総裁の間には「大胆な金融緩和」の解釈に大きな隔たりがあった。
「行き過ぎた円高からの脱却」という目に見える結果を求めていた安倍元総理が「市場」を尺度にした「大胆な金融緩和」を迫ったのに対して、経済学者である白川前総裁は「GDPに対する資金供給量は欧米よりも日本の方が多い」とあくまで「経済規模」を尺度にした資金供給量に拘った。こうした政治家と経済学者間の意見対立は答えの出ない神学論争でもある。
結果的に官邸と対立する形になった白川前総裁は、任期が切れる2013年4月8日を待たずに副総裁の任期であった3月19日付での前倒し辞任を選択し、安倍政権の意を汲んだ黒田総裁にバドンを渡すことにしたのである。この前倒し辞任を発表したのは2月5日のことだった。
もし、安倍元総理が健在で絶対的後ろ盾であり続けていたら、前任者である白川前総裁のように黒田総裁が前倒し辞任を選択する可能性はほとんどない。しかし、安倍元総理が凶弾に倒れ、「新しい資本主義」という看板のもとで「アベノミクスの修正」を目指す岸田政権となった今、状況は変化してきている。
インフレ抑制に苦労する岸田総理が、自身の面子のために金融緩和継続にこだわり円安を放置する黒田総裁のことを苦々しく思っているとしても不思議ではない。さらには「聞く力」をアピールしている岸田総理が、既に2回の会合をもった「令和臨調」の運営幹事兼第2部会「財政・社会保障」共同座長であり「女性初」の正副総裁候補として名前が上がっている翁氏が取りまとめた緊急提言に耳を傾けても不思議ではない。
リスクでしかないが…
任期が目前に迫り今さら金融政策の変更や修正が難しい状況にある黒田総裁が、直ぐに岸田政権との関係改善をするのは困難なことである。さらに、「変動幅拡大」「共通担保資金供給オペ拡大」とたて続けにだした「煙幕作戦」の効果も一時的で、拡大した変動幅の上限が何時突き破られてもおかしくない状況にある。市場では黒田総裁の退任に伴い金融政策の修正が確実視されており、任期切れの4月8日に向けて市場が暴力的になるリスクも否定できないからだ。
黒田総裁自身が、最後まで「異次元の金融緩和を維持した」「YCCを守った」名誉ある総裁として退任することを願っているとしたら、任期満了まで日銀総裁の椅子に座り続けることはリスクでしかなくなってきている。
世界の主要中央銀行がインフレ抑制を最優先事項に金融引締めに動く中、金融市場は頑なに金融緩和維持にこだわる黒田日銀のその後に注目している。解決困難な問題の解決を求められる「ポスト黒田」の金融政策がどのようなものになるのかは不明だが、最も確からしいのは「金融政策がこれまで以上に緩和的になることはなく、正常化、引き締め方向に向かう」ということであり、世界の投資家はそれに向けて戦闘態勢を整えようとしている。
任期切れが迫る黒田総裁の外堀は着実に埋められつつある。「敗軍の将」になるリスクを負ってでも残り2カ月国内外の脅威と戦い続けるのか、敗北する前に「名誉ある撤退」を選ぶか、黒田総裁の「決断の時」が近付いている。
繰り返しになるが、白川前総裁が副総裁の任期に合わせる形で前倒し辞任を公表したのは2013年2月5日、任期満了の2カ月前だった。「決断の時」は刻一刻と迫っていること、同時に「ハト派」と見做されている雨宮新総裁誕生が必ずしも日本の金融市場にポジティブな影響をもたらすと決めつけない方が賢明そうだ。