千葉県船橋市に住んで20年以上になりますが、都心へのアクセスがよい為、東京の郊外にいる位の気持ちしかありません。
現在59万人が住んでいる中核市です。
新宿に生まれ育った私ですが、最初から全く違和感なく溶け込めました。
多摩や八王子ニュータウンは私の小説の故郷的存在ですが、海に近い所に住んでいるせいか、より新鮮に感じているのかも知れません。
昔ながらの商店街がなくなり、ビルが建ち並ぶ時代の変化を映しつつ、7月末に行なわれた今年の市民祭りも、大いに賑わいました。
現在59万人が住んでいる中核市です。
新宿に生まれ育った私ですが、最初から全く違和感なく溶け込めました。
多摩や八王子ニュータウンは私の小説の故郷的存在ですが、海に近い所に住んでいるせいか、より新鮮に感じているのかも知れません。
昔ながらの商店街がなくなり、ビルが建ち並ぶ時代の変化を映しつつ、7月末に行なわれた今年の市民祭りも、大いに賑わいました。
浜田庄司、島岡達三、この人間国宝二人を輩出した陶芸の里益子、やはり関東での一番手は益子焼ではないでしょうか。
元々生活用の雑器を地道に作っていた益子に、イギリスで個展を成功させた浜田庄司が移り住み、河井寛次郎、柳宗悦らと共に民芸運動を起こし、この地にも民芸益子という新風を吹かせました。
日常生活の中での美を追求した陶芸家といえると思います。
以前は肉厚でぽってりした物が代表的でしたが、近頃は多数の現代作家が個性溢れる作品を、作家物専門店に展開する等、大きく様変わりしています。
また4月から5月にかけての連休は、他の産地もそうですが、益子も年最大規模の陶器市が開催され、大変な賑わいを見せます。
元々生活用の雑器を地道に作っていた益子に、イギリスで個展を成功させた浜田庄司が移り住み、河井寛次郎、柳宗悦らと共に民芸運動を起こし、この地にも民芸益子という新風を吹かせました。
日常生活の中での美を追求した陶芸家といえると思います。
以前は肉厚でぽってりした物が代表的でしたが、近頃は多数の現代作家が個性溢れる作品を、作家物専門店に展開する等、大きく様変わりしています。
また4月から5月にかけての連休は、他の産地もそうですが、益子も年最大規模の陶器市が開催され、大変な賑わいを見せます。
1楽 2萩 3唐津、この言葉の意味は京都の楽茶碗、萩焼、唐津焼の事で、格の上位順らしいのですが、それ位、萩焼も千家の隆盛と共に発展してきました。
萩焼は、焼物としては比較的低温で焼かれる為、水分が沁みこみやすく、貫入といわれる表面の細かいヒビの中にお茶等が入り、他の産地の陶器よりも色の変化が早いことから、萩の七化けと呼ばれ、使い続ける楽しさを今に伝えています。
釉薬は、透明と白が多く、色は果物の枇杷の色が代表的です。
淡い色合いの物が多く、上品な感じがします。
萩焼は、焼物としては比較的低温で焼かれる為、水分が沁みこみやすく、貫入といわれる表面の細かいヒビの中にお茶等が入り、他の産地の陶器よりも色の変化が早いことから、萩の七化けと呼ばれ、使い続ける楽しさを今に伝えています。
釉薬は、透明と白が多く、色は果物の枇杷の色が代表的です。
淡い色合いの物が多く、上品な感じがします。
5,6年前から陶磁器にとても興味を覚え、毎日使う湯のみを中心に、マグカップや色々な器を探し歩く様になりました。
それまでは、割れてしまう器にお金を掛ける気はなく、殆ど千円以下の物ばかり使っていました。
最初に三千円の湯のみを買う時は、一ヶ月程も迷ったものです。
今回の写真は備前焼なのですが、釉薬を一切使わず、一、二週間もかけて、松の割り木を燃やし続ける、基本的には千年前と同じ手法で現在まで途絶える事なく作り続けられている、これが備前焼最大の魅力だと思います。
使い続けることによって色つやが良くなり、外見も変化してくるのが陶器の楽しみ方で、湯のみに拘るのはそのあたりにあります。
表面に何も掛けず、焼いた時の灰や、炎の変化だけで作られていく、陶器は土と炎の芸術とよく言われますが、備前焼はその筆頭だと個人的には思っています。
それまでは、割れてしまう器にお金を掛ける気はなく、殆ど千円以下の物ばかり使っていました。
最初に三千円の湯のみを買う時は、一ヶ月程も迷ったものです。
今回の写真は備前焼なのですが、釉薬を一切使わず、一、二週間もかけて、松の割り木を燃やし続ける、基本的には千年前と同じ手法で現在まで途絶える事なく作り続けられている、これが備前焼最大の魅力だと思います。
使い続けることによって色つやが良くなり、外見も変化してくるのが陶器の楽しみ方で、湯のみに拘るのはそのあたりにあります。
表面に何も掛けず、焼いた時の灰や、炎の変化だけで作られていく、陶器は土と炎の芸術とよく言われますが、備前焼はその筆頭だと個人的には思っています。
4月の上旬、天候次第では異なる種類の桜が咲き揃う時があります。
公園のほぼ中央に位置するしだれ桜は、大きさ形も良く、桜の樹の下に立ち、しだれ桜を見上げ、離れた背景に桜並木が重なり合う風景は、一時の幸福感を味わえます。
桜全体で約65種類、約600本有るそうです。
公園のほぼ中央に位置するしだれ桜は、大きさ形も良く、桜の樹の下に立ち、しだれ桜を見上げ、離れた背景に桜並木が重なり合う風景は、一時の幸福感を味わえます。
桜全体で約65種類、約600本有るそうです。
高校時代、父親に一眼レフカメラを買って貰ってから何十年、いままで仕事に追われ、趣味の時間はあまり有りませんでしたが、それを取り戻したい様な気持ちが強くなり、出来る範囲で楽しんで行きたいと思っています。
デジタルとフイルム、どちらが良いか、そんな事には全く構わず、パソコンの編集用ならデジタル、趣味にこだわれば古いマニュアルの一眼レフ、と使い分けていましたが、小型で便利なデジタルの使用が八割位になっている現状です。
主に花を中心に撮っていた頃の都心の撮影場所は、植物公園、庭園、神社、寺辺りでした。
その中でも、深大寺に隣接する都立神代植物公園は、パンフレットにも謳われている様に、花と緑のオアシス、都内屈指の花の散策路だと思います。
4,5月には、桜、牡丹、芍薬、しゃくなげ、つつじ、藤、薔薇等を撮りに毎年何回も通っていました。訪れる度に咲き具合が違い、撮り終えるという事はありません。
デジタルとフイルム、どちらが良いか、そんな事には全く構わず、パソコンの編集用ならデジタル、趣味にこだわれば古いマニュアルの一眼レフ、と使い分けていましたが、小型で便利なデジタルの使用が八割位になっている現状です。
主に花を中心に撮っていた頃の都心の撮影場所は、植物公園、庭園、神社、寺辺りでした。
その中でも、深大寺に隣接する都立神代植物公園は、パンフレットにも謳われている様に、花と緑のオアシス、都内屈指の花の散策路だと思います。
4,5月には、桜、牡丹、芍薬、しゃくなげ、つつじ、藤、薔薇等を撮りに毎年何回も通っていました。訪れる度に咲き具合が違い、撮り終えるという事はありません。
岐阜に旅行したのは数年前になりますが、当時はまだ路面電車が走っていました。
カラオケで柳ケ瀬ブルースを歌う時、必ずあの赤い電車が映しだされていたので、少し寂しい感じがします。でも乗った事はなく、移動はバスを利用していました。
以前父親から、祖父は柳ケ瀬近くで生まれたと聞いていましたので、一度も行ったことのない場所に、ルーツとしての興味を覚えたのかも知れません。
確か3回は行ったはずですが、訪れた場所は岐阜市、関市、美濃市そして郡上八幡と北上する結果となりました。
バスで岐阜公園に行き、金華山ロープウェイで頂上のお城に着きますが、とても急な山で、その分景色は良いのですが、よくここに住んで居られたな、と感心します。
公園の近くにも歴史を感じさせる民家が残っている地域も在り、一時代前に戻った様な生活感があります。
関は刃物の町、美濃は和紙とうだつの上がる町として有名ですが、岐阜から車でそこを寄り道しながら郡上八幡に着きました。
水の城下町、名水百選の一番手として選ばれ、町の中にも湧き水を自由に飲める場所がある等、清流に育まれ、こじんまりとした佇まいの町です。
郡上八幡城から、山に囲まれた吉田川と町並みが見下ろせる景色は、日本の故郷そのものです。
踊りは7月中旬から9月上旬まで行なわれ、お盆は徹夜で踊り明かす、正に夏の風物詩で、私は昼間訪れたので見ることはできませんでしたが、いつかは参加出来ればと夢見ています。
カラオケで柳ケ瀬ブルースを歌う時、必ずあの赤い電車が映しだされていたので、少し寂しい感じがします。でも乗った事はなく、移動はバスを利用していました。
以前父親から、祖父は柳ケ瀬近くで生まれたと聞いていましたので、一度も行ったことのない場所に、ルーツとしての興味を覚えたのかも知れません。
確か3回は行ったはずですが、訪れた場所は岐阜市、関市、美濃市そして郡上八幡と北上する結果となりました。
バスで岐阜公園に行き、金華山ロープウェイで頂上のお城に着きますが、とても急な山で、その分景色は良いのですが、よくここに住んで居られたな、と感心します。
公園の近くにも歴史を感じさせる民家が残っている地域も在り、一時代前に戻った様な生活感があります。
関は刃物の町、美濃は和紙とうだつの上がる町として有名ですが、岐阜から車でそこを寄り道しながら郡上八幡に着きました。
水の城下町、名水百選の一番手として選ばれ、町の中にも湧き水を自由に飲める場所がある等、清流に育まれ、こじんまりとした佇まいの町です。
郡上八幡城から、山に囲まれた吉田川と町並みが見下ろせる景色は、日本の故郷そのものです。
踊りは7月中旬から9月上旬まで行なわれ、お盆は徹夜で踊り明かす、正に夏の風物詩で、私は昼間訪れたので見ることはできませんでしたが、いつかは参加出来ればと夢見ています。