毎週小説

一週間ペースで小説を進めて行きたいと思います

武蔵野物語 57

2009-04-28 19:04:34 | 武蔵野物語
「相変わらず 椿 で飲んでいるのね」
「他にいくところもないしな」
「お父さん、看板まで居ることも多いんでしょう」
「うん、大体ね」
「遅い時間によく来る人っている?」
「遅くって・・酔っちゃってるからよく覚えてないけど、そういえば時々、会社の役員風の人を見かけるな」
ゆりこは黒木の人相を伝えてみた。
「そうそう、そういう人だよ、知り合いなの?」
「うん、ちょっと仕事関係のね」
やはり黒木は時々戻っている。近くに居れば追求しやすい。

年が変わり、3月の年度末まではとても忙しく、深刻な工業関係の製造業に比べると、別次元の売り上げアップになっていた。
新年度からは社員の補充も決まっているが、それまでは全員毎日残業続きで、土曜出勤も多い。
ゆりこは広報担当の責任者も兼任しており、目が回るほどで、プライベートは殆どなかった。
その多忙な3月に、父の元に戻ることにした。一人暮らしの気安さに慣れたところだったが、父の面倒をみてくれるひとはまだ表れず、血圧も高めでお酒のチェックも必要だった。自身も夜遅く、誰もいない部屋に帰るのも無用心と思っていた。
4月になったある日曜日、遅めに起きたゆりこは、ひじり坂から桜ヶ丘公園に向かい、考え事のある時も決まってここを歩くのだが、いつも座る公園のベンチに腰掛けた。
近くに赤いシャクナゲなどが早くも咲き始め、橋近くの桜が咲いている下で、家族が輪を描いている。
いつか何処かで見かけた風景と、現在の情景が交差して、懐かしさを覚えた。
ふと誠二に連絡を取りたくなったが、忙しい日々の中、田口と仕事を組んで彼の実家まで行った、そういう迷っている自分の姿を見透かされそうで、素直になれなかった。
一方、順調なゆりこの会社と対象的に、誠二の勤め先は大幅に業績が悪化してきた。先の見込みも厳しいと判断した結果、3月で退社した。

東京の人 54

2009-04-25 20:41:28 | 残雪
かおりと同居するようになって、そのまま年を越してしまったが、結局正月は月岡にも戻らず、寺井は東京の案内役をして過ごした。
春子は、落ち着くまで無理に帰る事はない、と淡々としたもので、遊びに来ようともしない。
かおりはもうすっかり同居の生活に馴染んでしまい、どこへ行くにも、何をするにも、離れようとしない。
職場にはよく溶け込んで、仕事も真面目にこなしているので、倉庫の現場から事務職に抜擢され、本社に行く機会も増えてきた。
かおりは寺井を信頼しきってすぐ隣りに寝ているから、寝返りをうった時など抱き合った形になってしまう。
それでもそのまま寝ているが、ある夜、かおりのパジャマの上のボタンが外れていて、寺井はつい手のひらで確認してしまった。
想像したよりずっと豊かな胸の膨らみを感じ取り、暫くの間触っていたが、かおりは何の反応も示さず、寝息が微かに荒くなった程度だった。
翌朝、いつもの時間に起きて顔を合わせたが、何も気付いていないらしく、朝食を作っている。
その日は土曜日で、休日の話になると、どこかに連れて行ってとせがまれた。
「どこに行こうか」
「どこでもいいわ」
「そう言われてもねえ」
「あまり人のいない所がいい」
いままでは東京にばかり目が向いていたので、久し振りに江戸川を渡り、市川の散策を試みた。
かおりはここの風景にすぐ溶け込んだように見える。
市川は、永井荷風や井上ひさし、北原白秋等の文人が多く住み、万葉集にも詠われた事から、文学・万葉の街として紹介されている。
文学の散策路と名付けられた狭い住宅沿いに、桜並木が真間川まで続いている。
真間川にも、所々年輪を重ねた見事な桜が、当り前に民家の側で咲き誇り、川とハーモニーを奏でている。
松戸街道を右折して、上り坂を和洋女子大の先まで歩き、左に曲がってまっすぐ行くと、里見公園に着く。