goo blog サービス終了のお知らせ 

毎週小説

一週間ペースで小説を進めて行きたいと思います

東京の人 63

2010-07-17 18:21:47 | 残雪
よく見えなくて戸惑っていると、京子がすぐに寄ってきた。
「いらっしゃい、よく来てくださいました」
近くで眺めても、髪をかなりアップ気味にして、長めのドレスを着ているので、別人になっている。
そういえばクラブ、となっていた。
「誰だか分かりませんでしたよ」
「そうかしら、何になさいます?」
「ウイスキーの水割りを」
「シングルで」
「うん」
ブランデーなんか高そうで、とても頼む気がしない。
「お勘定はできるだけサービスしますから」
寺井を見透かしたように話しかけてきたが、正直ほっとした。
何を話してよいか黙っていたら、察して、歌うから聴いていてと言って、一人マイクを握った。
バラード調の静かな曲からはじめたが、あまりのうまさに引き込まれてしまった。
いつのまにか、ママが隣りに座っている。
「京子ちゃん、上手でしょう、歌手を目指して今でもレッスンを続けているのよ」
「そうなんですか、遊びにきてる時とは全く違って、もうびっくりですよ」
「こんな小さな店ですけど、ダントツのNo、1よ」
銀座にも出られるのではないか、と内心思った。
3曲終えると、寺井の席に戻ってきた。
「こんなにうまいとはね、驚きの連続です」
「たいしたことないわ、大勢いるのよライバルは・・それよりも」
お客が丁度居なくなったのを見届けて、にじり寄ってきた。
ママも遠慮して、離れている。
「かおりさんは、別に変わらない?」
「かおり、うんいつも通りだけど、なにか」
「いえ別に、特に近頃、知らない人とか、昔の友達とかから連絡はなかったですか」
「僕は特に気づかなかったな」
「戻るのはいつなの」
「早ければ明日にも戻ってくるけど」
「そう、じゃあ遊びに行こうかな、話したい事結構あるし」
寺井は長居をしたくなかったので、1時間少し過ぎた頃店を出た。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 62

2010-07-10 20:16:01 | 残雪
しばらく話を聞いていたが、粘ってなかなか動きそうもないので、出来るだけ連絡を取ってみるといって帰ってもらった。
かおりが京子に電話をすると、待ちかねていたらしく、すぐにやってきた。
「ああ、あの中村ね、あの男は真面目なのよ、面白味はないけれど」
「本当に心配はしていたわよ」
「私のお金をね、父は周りの人達と共同で事業を考えていたらしいけど、親戚連中はあまり信用していなかったみたい」
「あてにしていたのに、京子さんが全部処分したものだから、恨まれてしまったのね」
「そんなところ・・・それよりも聞いて貰いたいのは、私にお店を出さないかって、話がきているの」
「お店って、クラブを始めるの?」
「いいえ、レストランなの、私をよく指名してくれる社長さんがいてね、自分で何店舗も経営してるひとよ」
「でも、レストランの経験はないでしょう」
「店の準備と経営は全部やってくれるので、私はとりあえず経理面をみればいいって」
寺井は二人の話を黙って聞いていたが、怪しげだなと思った。

雨が続いても、ゆりが咲き、むくげの花も咲き出すと、近づく夏を実感できる。
そうしたある日、かおりは実家に帰っていった。
母親に話があるので3,4日で戻るとだけ言ったので、寺井もあえて聞かなかった。
春子の近況も知らせてくれ、と頼んでおいたが、あまり気乗りしない様子で、相変わらず春子からも連絡は全くない。
そのかおりが留守の間に、京子から、今度は寺井と二人で会いたいと連絡があった。
それも、いま錦糸町のお店にいるから、来てくれないかとの事だった。
新しい店の売り上げに協力しに行く訳だが、他に用事もなかったので、ちょっとだけ顔をだすつもりで店に向かった。
駅を降りて、高速道路に近い雑居ビルの5階にその店があった。
うす暗いドアを開けると、店の中もやはり暗くてよく見えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 61

2010-06-19 23:00:25 | 残雪
「そんな大金をいつも持ち歩いていたの?」
「そうみたいよ、いつも重そうにしていたから」
「なんでだろう」
「すぐに、どこへでも行けるからって事らしいわ」
「逃げる準備かな」
「でしょうね、でも無用心というか、キャバクラにいってる時、親しい店の子にお金を見せたりしたそうよ」
「じゃあ、たかられたんじゃないの」
「心細いから自分のアパートに泊めて、食事は勿論、使わない電化製品なんかもあげたりしたんだって」
「かおりさんも何か貰ったの」
「私は貰わないようにしているの」
「その方がいいね」
「品物にはあまり興味がないから」
そう言って、寺井を直視してきた彼女の意志の強さに、戸惑いと自分のいい加減さが浮き彫りになるだけだった。
「問題は、彼女の財産を親戚の人達が狙っているとしたら、本当の理由は何だろうってところだな」
「京子さんが隠しているというの?」
「或いは何も知らないか、だな」

今週は、堀切や小岩の菖蒲園を見に行く予定にしていたのだが、夜寺井が一人でいると、中村興産と名乗る男から電話が掛かってきた。
なにかのセールスかと思ったが、京子さんの件で直接お聞きしたいので、休みの日にお伺いしたいと言ってきた。
断るつもりだったが、ご迷惑はかけませんのでぜひ、と頼まれたので待つことにした。
土曜の昼前にその男はやって来て、手土産と総務部課長の肩書きが入った名刺を差し出した。
「実は、京子さんとあまり連絡を取れなくなった親戚が心配しまして、私も遠い親戚にあたるものですから、様子を見にきた次第です」
「よくここが分かりましたね」
「京子さんから連絡が会った時、こちらの電話番号を聞いたそうです、とてもお世話になっているそうで」
「その方は、叔母にあたる方ですか」
「そうです、京子さんの弟の面倒もみています」
押しつけがましい話し方だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 60

2010-06-13 11:10:17 | 残雪
京子は弟の分与の中から、月々叔母宛に仕送りをしているが、それでは納得していないそうだ。
「前に、知らない男が私の後をつけてきた事が何度かあったでしょう」
「ええ、それで一緒によく帰ったわね」
「多分、あれも親戚の仕業なんだわ」
「その根拠は?」
寺井は尋問調になってきた。
「暴走族あがりがいてね、いまは一応水商売やっているけど、殆どやくざ者なの、きっとそちらから手を回したに違いないわ、東京にも時々顔を出すって自慢してたから」
「それが本当だとしたら、ちょっと厄介だな」
「でも私、何も悪い事をした訳ではないし、父も特に借金はなかったから、問題はないと思います」
「お父さんとその人は、日頃からつき合いはあったのかな」
「法事の時に挨拶する程度だったから、皆敬遠してるでしょう」
裏で、何らかの貸し借りがあったかもしれない。
「気にしているせいか、昨日もずっと見張られているようで、それで、私の勝手で申し訳ないんですけど、またかおりさんと同じ職場で働かせて頂けないでしょうか」
「パートでしたら、いつでもOKですよ」
「よかった、知り合いもいないし、よろしくお願いします」
寺井は、きちんと連絡もしてこないで辞めて行った京子をあまり信用していなかったが、目の前で断りきれず、引き受けた。
でもそのせいで、自分達の上に暗雲たちこめる気配が、梅雨に向かう時期と重なり,憂鬱感も強まった。

京子は当分、夜の勤めには出ないつもりなので、かおりと一緒に帰ってきて、夕飯も一緒で、泊まっていく時もあり、かなり親戚を警戒している様子だ。
寺井は、かおりに京子について出来るだけ情報をくれ、と頼んでおいた。
「そおねえ、このまえの金曜日に彼女のアパートに寄ったんだけど、家具なんか高そうな物ばかりだったわ、いつも持っているバッグには、あれで500万円以上あったかしら」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 59 

2010-06-11 19:46:38 | 残雪
休日の朝からで悪いけど、これからすぐに訪ねていいですか、と言ってきた。
よほど急ぎの話があるらしく、船橋屋のみつ豆をお土産にやってきた。
かおりは、さっそくそれを開けて味見をしたが、甘すぎず、美味しかった。
「すいません、お休みのところ」
「とんでもない、このみつ豆、美味しいわ」
「創業は江戸時代らしいから、歴史の味ね」
寺井は、二人きりの方が話しやすいだろうと席を立とうとしたが、京子は一緒に聞いてくれと言うので座りなおした。
「私の母は10年前に病気で亡くなっているの、父は長岡でカラオケ店をやっていたのだけれど、私が高校を卒業した年に亡くなって・・お酒の飲みすぎなんだけれど、その後東京に出てきたの」
「そう、大変だったのね、京子さん、兄弟はいるの?」
「2才年下の弟がいるわ」
「長岡に一人で?」
「叔母と一緒に暮らしているわ、私と違っておとなしいから、母が亡くなってからはずっと可愛がられているの」
「あなたも、長岡の方が暮らしやすかったのじゃないの」
「実はね、その事で相談かな、聞いてくれるだけでも、と思って」
京子の話をまとめてみると、大体次の内容だった。

父の葬儀の後、すぐに遺産の話がでてきた。カラオケ店は駅から割と近く、土地の一部を持っていたので、それを売却して分けてくれないか、と親戚が頼んできたのだ。
叔母は時々店を手伝っており、弟の面倒もみてきたから当然、みたいな顔をしている。
他の人々も、いろいろな理由をつけては毎日やってくる。
京子は感情的になり、黙ってついてくる弟を言い含めて、小さな家とカラオケ店を売ってしまい、弟の分も自分で管理する事にして、東京に逃げてきたのだ。

「もう長岡には何も残っていないのですか」
寺井は若い娘の行動に、ただ驚くだけだった。
「ええ、全部処分しました、お蔭で大騒ぎになって」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 58

2010-02-19 19:40:42 | 残雪
京子からかおりのところへは、時々連絡が入っている。
夜の商売は最初から目標だったようで、将来は店を持ちたいそうだ。
寺井は、かおりが影響を受けないか心配していたが、水商売には全く関心がないようで、時間を見つけては、資格を取る為の勉強ばかりしている。
京子が来なくなったので、また二人の静かな生活に戻ってきた。

夜は大抵、寺井が先に寝ているが、時々目を覚ますと、かおりは寺井にぴったりくっついて眠っている事が多くなってきた。
離すのだが、寝返りをうったりするとすぐに触れてしまう。でもかおりは無頓着なのか、気づいていない。
いつもはパジャマ姿の彼女だが、週末のその夜はネグリジェだった。
それも夜中に起きて分かったのだが、短めの淡いピンク色で、下半身はかなり露出している。 
際どい部分にそっと手のひらを乗せてみる。まだ動きはない。 
指先をもっと奥の方に伸ばしてみた。すると初めて、ため息の様な呻き声がした。 
体が反応している。 
寺井は、春子の面影を追い求めた。新潟で別れてからは、薄れゆく記憶の頼りなさの中で、はっきりとした彼女の輪郭が浮かんでこない。
自分は薄情なのだ、この頃は連絡も殆どしていない。最も、春子がそう望んでいるようで、かおりを頼む、と何度も繰り返していた、あの意味がいまだに理解できていない。
考え出すと、罪悪感もあり、かおりを一度帰してしまおうかとも思った。
翌朝、几帳面なかおりはいつもと同じ時間に食事の支度をしていたが、寺井が後から起きていくとぎごちない動きになった。
会話の途切れた二人の間に気まずい空気が漂った時、京子からの連絡があった。

                                     
             
                                  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 57

2009-06-21 15:51:23 | 残雪
かおりと一緒の職場に、上原京子というパートが春から来ている。
同じ新潟県出身というので、かおりの後をいつも付いてくる。
年は一つ下だが、化粧も服装も派手めなので、かおりより上に見える。
そのお蔭で、男達の関心が大分彼女にいくようになった。
その彼女が、相談を持ちかけてきた。
この頃一人での帰り道、後を付けられる事が何度かあったという。
その日は少し残業になったので、かおりは京子を自分のアパートに連れていった。
寺井は叔父、になっている。
簡単な挨拶を済ませると、寺井は1DKの自分のアパートに戻った。
いつでも戻れるよう部屋代もきちんと収めて、大家には、出張が多いので留守がちだと説明しておいた。
翌日、仕事を早めに終わらせてかおりの部屋に寄ってみると、京子はもういなかった。
「きょうは連れてこなかったの?」
「用事があるんだって、急いでいたわ」
「夜一人で出かけて大丈夫かな」
「アルバイトしてるのよ」
「何してるんだろう」
「キャバクラよ」
「へえ、どこに行ってるの」
「船橋だって、あまり近くてもまずいとか言ってたわ」
「あの辺り、夜、柄が悪くなるんだよ」
「駅前だから通いやすいって」
「まあ、彼女そういう雰囲気持ってるよね」
「色気はあるでしょ、私と違って」
「確かに夜つとめるには向いているかな、東京に親戚はいるの?」
「あのこ長岡出身で、周りに東京へ行っている人はいないって」
「だれかみてやらないと、あのままでは、危険な事にもなりかねないよ」
「でも結構しっかりしてるわよ」
「この近くに部屋を借りているんだろう」
「うん、ここから10分も掛からないわ」
「できるだけ此処に泊めてやれば」
「ええ・・でも」
かおりは自分の思いを伝えようとしたが、押し留めた。

京子はその後、だんだんと職場に来なくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 56

2009-06-13 17:05:23 | 残雪
「そんな課長がいる本社だったら、行かない方がいい」
「私だって嫌よ、いまの職場のが近くていいし」
「でも、しつこい男がいるんだろう」
「平気よ、アパートで一緒に暮らしてる人が居るって、周りにそれとなく話してあるから」
「そう」
「だから、まだ一緒に居てくれるでしょう?」
「それは構わないけど」
「何か都合の悪い事があるの?」
「それはないよ」
「よかった」
「このお店の向こう側に、手児奈霊堂があるんだよ」
「手児奈霊堂って」
「昔、とても美しい娘がいて、井戸に水を汲みに来る度、村の若者達が競って求愛するが、娘は一人を選ぶことができず、悩んだ末入水してしまう、と万葉集にもでているんだよ」
「万葉集に」
「かおりさんも、どこでも注目されるから、現代の手児奈だね」
「私は違いますよ、そんなにもてないから」

この頃平井7丁目付近で、婦女暴行事件が多発していた。
若いOLばかりが狙われ、警察は同一人物の犯行とみて、近所の聞き込みを強化していた。
未遂に終わった被害者から事情聴衆をしたが、30代から40代のスーツ姿の男としか分からなかった。
サツキやバラが咲き揃った土曜の朝、二人は遅い朝食を取っていると、玄関をノックする音が聞こえた。
かおりが返事をすると、警察の者ですという声が聞こえてきた。
ドアを開けると刑事らしい男が二人立っていて、年配の方が話しかけてきた。
「朝からお邪魔してすいません、実は近頃、この辺りで若い女性が狙われる事件が続発しまして、何か不審な事とか、ひとから聞いた話でも結構ですから、情報収集にご協力下さい」
かおりは特にありませんと答えると、刑事は連絡先を渡して帰っていった。
「近くに犯人が潜んでいそうだな、帰り道は気をつけなければね」
「そうね、でも修さんがいるから」
それが問題だ、と寺井は説教したくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 55

2009-06-06 20:45:23 | 残雪
里見公園は室町時代、里見氏が北条氏と戦った古戦場跡で、桜の名所になっている。  
その西洋風の広場を通り抜けて坂を上ると、眼下に水量豊かな江戸川を望むことができる。
公園から江戸川沿いに下って右手に行くと、矢切の渡しがあるが、歩くとかなりの距離なので、寺井は諦めて公園近くのバス停から市川駅に戻ろうとした。
でも、かおりはまだ歩きたそうにしている。
「若いひとはいいね」
「修さんだって充分若いですよ、まだまだ」
「でも、すぐ疲れちゃって」
「東京の人は運動不足なんです、動かないんだから」
「そうかなあ、時間が無いんじゃない」
「楽をしすぎているんだと思います、私なんか家の事は全部やっていたから」
「かおりさんは本当によく働いていたね」
「それが当り前だったから、それよりかおりさん、なんてやめて下さい」
「そう、でも呼び捨てにするのも・・」
「私は気にしていません」
そう言って寺井を真っ直ぐに見つめてきた。
相変わらず日本人形の様な顔立ちで、非現実な美しさが寺井の胸を打った。
バスがすぐに来ないので、千葉商科大学裏の狭い道を下り、弘法寺(ぐほうじ)に向かった。小さな案内版が出ている。
ここの伏姫桜と呼ばれるしだれ桜は、樹齢400年と推定されている古木で、結構有名だ。
弘法寺の急な階段を下りると、万葉集に詠われている、真間の継ぎ橋に着く。
紅く塗られた小さな欄干が残っているだけだが、そこに静かな喫茶店があり、コーヒータイムにした。
「私ね、本社に来ないかって言われているの」
「よかったじゃない、認められてきたんだよ」
「物流管理の課長なんだけど、本社に行く度に近くのカフェに誘われるんだけどね」
「何かあったの?」
「眼つきがね」
「変なの?」
「真面目に話してはいるんだけど、私の足元からじっと見上げる様に観察してるみたいで」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の人 54

2009-04-25 20:41:28 | 残雪
かおりと同居するようになって、そのまま年を越してしまったが、結局正月は月岡にも戻らず、寺井は東京の案内役をして過ごした。
春子は、落ち着くまで無理に帰る事はない、と淡々としたもので、遊びに来ようともしない。
かおりはもうすっかり同居の生活に馴染んでしまい、どこへ行くにも、何をするにも、離れようとしない。
職場にはよく溶け込んで、仕事も真面目にこなしているので、倉庫の現場から事務職に抜擢され、本社に行く機会も増えてきた。
かおりは寺井を信頼しきってすぐ隣りに寝ているから、寝返りをうった時など抱き合った形になってしまう。
それでもそのまま寝ているが、ある夜、かおりのパジャマの上のボタンが外れていて、寺井はつい手のひらで確認してしまった。
想像したよりずっと豊かな胸の膨らみを感じ取り、暫くの間触っていたが、かおりは何の反応も示さず、寝息が微かに荒くなった程度だった。
翌朝、いつもの時間に起きて顔を合わせたが、何も気付いていないらしく、朝食を作っている。
その日は土曜日で、休日の話になると、どこかに連れて行ってとせがまれた。
「どこに行こうか」
「どこでもいいわ」
「そう言われてもねえ」
「あまり人のいない所がいい」
いままでは東京にばかり目が向いていたので、久し振りに江戸川を渡り、市川の散策を試みた。
かおりはここの風景にすぐ溶け込んだように見える。
市川は、永井荷風や井上ひさし、北原白秋等の文人が多く住み、万葉集にも詠われた事から、文学・万葉の街として紹介されている。
文学の散策路と名付けられた狭い住宅沿いに、桜並木が真間川まで続いている。
真間川にも、所々年輪を重ねた見事な桜が、当り前に民家の側で咲き誇り、川とハーモニーを奏でている。
松戸街道を右折して、上り坂を和洋女子大の先まで歩き、左に曲がってまっすぐ行くと、里見公園に着く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする