見るもの。
何となく。
ほぼ『何となく』が答えを出す。
数学も答えが明確でも、その数式の認識はどこで行なってる?
おそらく目で見る数字というモノ。
それは『何となく』見えるから、そこから『そう決める』のではないか。
見えたもの。
聴こえたもの。
全て五感が何となく受け付けている。
受け付けないと見えないし、聴こえないし、感じない。
身体が受け付ける。
身体が『何となく』感じ取る。
感じ取ってくれる。
痛いはずの傷も感じとらないなら、身体は『何となく』ではない。
意識が『きっとこうだ』と受けつけようとしてるから。
だから感じとらない。
感じとらないと、結局、見えないし聴こえないし感じない。
甘いものすら辛いものだと歪曲した感覚になる。
そこには『何となく』が無い。
つまり、結論は正解は『何となく』の居場所に存在する。
『何となく』で感じ取るから生きてる。
生きる事は『何となく』が基礎にある。
意識はひょっとしたら悪役なのかもしれないな。
「生きる事に於いては」という前提で。
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