北山は、攀安知(はんあんち)の時代までに
交易などによって経済力、軍事力
政治力と北山は全盛期を迎える
史書中山世監、球陽に攀安知は
驕り、淫虐無動で善政を行わず独裁政治になり
北山側の各按司は離反していったとある
佐敷按司尚恩招は
1406年に中山王武寧を攻撃し滅ぼして
尚恩招が中山王になり その子尚巴志に命じて
1416年に、読谷按司、越来按司を
味方に引き入れ 北山から離反させた
国頭按司、名護按司、羽地按司も中山連合軍に組して
大軍をもって北山を攻め
激しい攻防が繰り返されたが
北山城は難攻不落の城で
戦いは3日続いたが攻め落とせなかった
尚巴志は策を講じ
北山の重臣本部平原を買収し
味方に取り込み北山城はついに陥落し
攀安知は自害し3代94年続いた
王統も滅び北山は独立国としての幕を閉じる
尚巴志は1421年父の死の後を継いで
1422年に中山世の主(王)位に就く
1429年に南山王他魯毎を攻め滅ぼし
三山を統一し琉球国の最初の統一国家
尚氏王統が成立した