青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

阪急豊中市場 ~消えた住民の台所

2023-06-24 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

地域住民の台所として存在した「市場」が、昔は誰の家の近所にもありました。市場の中にはお肉屋さん、お豆腐屋さん、魚屋さん・・・いろんなお店が個々に独立していました。スーパーマーケットのような形ではありません。

それぞれのお店でお会計。大きな水槽の中にお豆腐が沢山並んでいた光景、お肉屋さんで「〇〇を何グラム」とお願いした時の、目分量の正確さ。職人技が日常の中で観ることが出来ました。新聞紙やいろんな紙で買ったものを包んでくれたり。レジ袋がどうのこうと言う前に、美味しい新鮮な、どこで誰が作っているかが分かるものを、口に入れることが出来た日が、昭和には間違いなくありました。

阪急宝塚線・豊中駅前にあった「阪急豊中市場」。目の前に新開地デパートがありましたが、長く活気のある市場でした。昭和53年(1978年)の解体直前の写真です。

上は昭和51年(1976) の写真。下は現在の写真で、阪急豊中市場はチェリオビルになっています。

阪急豊中市場は昭和5年の開設以来、近隣住民の台所として長きに渡って親しまれました。こういう市場が蛍池駅では、大阪モノレールの建設によって消えてしまいました。池田駅では今年になって解体された昭和から続いた市場があります。

阪急電車の中には、阪急を生んだ鉄道王・偉大な実業家・小林一三の生誕150年のポスターがあちこちに貼られています。しかし、誰も大きな声で言わないというか、もはや知らないようですが、阪急宝塚線はあり得ない剛腕によって成り立ちました。

蛍池と豊中の間にあった蛍池は、もともとは前方後円墳であったものですが、そのど真ん中に線路を引いて古墳を破壊しています。岡町でも原田神社の境内に線路を引いていますし、服部天神駅も服部天神の境内に駅を作っているので、駅のホームに服部天神のご神木は今も立っています。

 


失われ行くスポーツ施設!~東豊中・打ちっ放し

2023-06-22 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

スポーツ人気の本当の所はどうなんだろう?僕が学生の頃は、テニスコートは何週間も前から予約しないと取れないし、それでも間に合わないのであちこちの河川敷にテニスコートがどんどん作られて行きました。勿論野球のグランドも朝から草野球チームが試合をしていました。しかし、今ではどこも空いているし、朽ち果てている施設もあります。

ゴルフ場のプレー代金は80~90年代より現在の方が安いし、メンバーしか回れなかったコースが今では誰でも回れるようになっているコースも多い。ゴルフ好きにはたまらない環境になっているのですが、コースに行く以前の問題、練習場所は激減しています。あちらこちらにあった打球場(打ちっぱなし)は、どんどん無くなっています。

若者がどんどん減り、そして現役世代が高齢化してスポーツが離れ、全体として競技人口が減少しているのは明らかで、その上でスポーツで汗を流す若者が激減している。見るスポーツとしてサッカーは人気があるし、格闘技も視聴率を取っているようですが、競技人口という裾野が減ることによって、スポーツ本来の人気は下がっているのではないでしょうか?

ここは大阪・豊中市のロマンチック街道(左右に横切る道路)の野畑小学校の校門辺りから、東・緑丘方面を撮った、昭和50年(1975年)の写真です。奥の坂道の左側は竹林になっていますが、現在は造成されて店舗やマンションになっています。

この坂道を千里中央に向かって上がっていくと、左側に東豊中のゴルフ練習場がありました。広い200ヤードの練習場で、僕が初めて行った練習場でした。今のようにカードを購入してボールを買う方式ではなく、フロントでコインを数枚もらって、そのコインで自販機からボールを得る。そして練習が終わった時に清算するという、今から考えると手間のかかる方式でした。

コインと一緒にもらう下敷きに付けられた紙には、入場料、コイン1枚の値段、ゴルフ税、そういうものが明記されていて、料金の内訳がリアルに分かり、「高いな~」と驚いたものでした。今よりも70~80年代当時の方が、料金は高かった気がします。

高い安いといろいろ言いながらも練習が出来たのは幸せで、今ではここもイオンタウン豊中緑丘となり、かつての面影は全く残っていません。この先ゴルフを練習する場所がどんどん減って、競技人口が減って、ゴルフコースが減って・・・日本ではゴルフは、プロレスのように消えて行く気がします。残念でなりません。

 


言葉には“流行り”がある!

2023-06-20 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

僕が子供の頃、街の何かに名前を付ける時、なにかと使われたのが「平和」だったと思います。

日本人のネーミングには子供の名前もそうですが、その時その時の流行があります。例えば楽曲の邦題は特にそうで、洋楽の原題をそのままカタカナにしてしまうと「長い曲名」になってしまい、ラジオで聴いて気に入っても、レコード屋さんにそのレコードを買いに行けません。1発で曲名を覚えられないからです。

その上、レコード担当者はレコードを売りたいので、その時のヒット曲にあやかりたいと思う。だから例えば「涙の〇〇」という曲がヒットすると、そこからしばらくは「涙の▲▲▲」という題名が流行する。「悲しみの〇〇」とか「別れの◆◆」とか。時には歌詞の内容と全く関係のない題名だったりすることもありました。(笑)

でも、例えばサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」が、「ブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーター」として日本でシングル盤が発売されていたら、僕は確実に売り上げ枚数は少なかったと思います。レコード屋さんですぐに言えませんから。それに英語が今のように一般的ではない時代でしたし。

この写真は昭和40年(1965年)のもので、大阪の国鉄・吹田駅前にあった「平和の塔」。広島・長崎だけではなく、ハトを使えば誰でも平和を連想した時代がありました。今でも公園のハトを想像すれば平和のシンボルかも知れませんが、実際には害鳥と言われるほどに町を汚す犯人です。日本は「水と平和がタダ」と言われたように、今も平和は憲法9条のおかげだと思っている人が多い。それが大きな間違いであることに気が付いて、本当の平和を維持出来る国になって欲しいと、僕は今も諦めていません。

 


恐怖社会~疑問を持つと怖いことに・・

2023-06-11 | 昭和・懐かしい京阪神の風景
本当に大変な時代になったと感じます。太平洋戦争中、日本人は本当に日本が勝っていると思っていたのでしょうか?それとも疑心暗鬼だったのでしょうか?ほんの数十年前のことすら、真実が分からない。
 
宝塚歌劇、星組に続き月組まで公演中止です。コロナともインフルエンザとも発表が無く、公演関係者に複数名の体調不良者が出たとだけの発表。昭和じゃあるまいし、令和の世の中でのこととは思えません。主要キャストが病気や大怪我をしたのなら納得も行きますが、誰がどういう症状かも公表しないで中止では、チケットを入手して交通手段や宿泊先を予約していたような人は納得できるのでしょうか?
 
ネットが発達したことによって、調べ事はネット。昔のように百科事典や辞書は家庭から消えて行く。でも、ネットで調べたことが正しいとは誰も保証していません。昔は自分で図書館で調べたり、先生に質問した後に自分で考えて結論を出していたのに、今は何でもネットを調べてネットを信用する。数年先には本当はAIが出したかどうか分からないのに、「AIによると」という枕詞があるだけで、それを信じる時代になりそうで怖い。
 
 
この写真は昭和45年(1970年)大阪万博の年の大阪・新千里西町市場の様子です。何をしているか分かりますか?
 
商品の表示量に不正がないかどうかを、買い物客が確かめているのです。公衆計量器がこの市場に設置されていたのは、当時ここが大阪府の計量器推進モデルとなっていたからです。自分たちで不正を取り締まることが出来た時代の光景です。
 
放射線汚染が気になるならガイガーカウンター(放射線測定器)を使えば分かることですが、それを設置した市場を見たことが無いし、それを持ち込むと怒られます。僕は東日本大震災後に東京でスーパーにガイガーカウンターを持って行って拒否されました。自分で事実を調べようとすると邪魔が入る。しかし、産地偽装や成分表示の偽装などの不正はいくらでも世の中に増える。ちょっと燃料費が高騰すると、全ての品物の値段が上がる。
 
何が本当で何が嘘かが分からない。僕たちに出来るのは「いわゆる大本営発表」を胡散臭いと思いながらも、受け入れることだけです。自分で調べることさえ許されない風潮なのが、現代社会です。そこに逆行しようとするとネット上で個人情報を晒されたりする。本当に怖い社会になりました。
 

昭和の水害はひどかった・・豊中市・天竺川

2023-06-02 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

今日から明日にかけて、日本中で雨の被害が出ます。少しでも被害が少なければ良いのですが。ここ数年、昔に比べて夏は殺人的に暑いし、自然災害は地震もそうですが、水害が多い。僕が子供の頃は何とか台風で死者が何十人とか、大きな自然災害が定期的にありましたが、地震とは違ってその後堤防を頑丈にしたりして、街の発展と共にそういう災害は少なくなって来ていました。

ところがここ数年は、そういう努力を嘲笑うような大被害をもたらす災害が、日本列島を毎年襲って来ます。街の整備には時間が掛かりますが、僕たちがちょっとした備蓄をしたり、ニュースに耳を傾けて少し早めに避難することは今すぐ可能です。そういう心掛けをこれまで以上にすることで、少しでも被害を食い止めていくことも大切です。

懐かしいと言ってはダメなのですが、これは昭和36年6月末の大雨の時の写真です。大阪府豊中市の天竺川が増水しました。現在の新天竺橋が架かる場所から南を見た風景で、少し水が引いた後のものですが、上流から流れて来た、ダイハツの軽3輪ミゼットが写っています。

天竺川のあちこちで大雨によって堤防がえぐられました。これは服部本町の天竺小橋ですが、既に崩れかかっています。

現在は本当に綺麗に整備されています。