青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

故郷喪失者・国籍を隠して闘ったレスラー

2013-11-06 | スポーツの話題

日本人は国際化と言いながらも、欧米文化には諸手を挙げて歓迎するが、アジアの国に対しての態度はどうだろう?戦争によるいろいろな感情もある。しかし、個人レベルでアジアの人々と、もっと仲間になることは出来ないのか?いろんなことを考えて頂きたい今日の記事です。プロレスというジャンルに拒否反応を示さず、ぜひ読んで下さい。尚文中に不適切な言葉使いがありましたら、ご容赦下さいますよう、お願い申し上げます。

じっと反則に耐えていた日本人レスラーが、反撃に転じる。頭突きだ!アナウンサーが興奮し切った口調で叫ぶ。「思い知れ!」アメリカ人レスラーが悶絶する。頭突きの連打でKOだ。でもアメリカ人レスラーは何を思い知らなければならないのだろう?屈託のない笑顔を浮かべながら両手を誇らしげに挙げる若い日本人レスラーの名前は大木金太郎。実は彼のリングネームだ。この時代は誰も、彼に本名があることなど知らなかった。大木金太郎の本名はキム・イル(金一)。生まれは韓国だ。

かつて「空手チョップ」で一世を風靡した力道山は、こんな言葉を残している。「わしがプロレスに命を賭けたのは、単なる職業意識からではありません。相手の毛唐を叩きつけて、眠れる日本人の大和魂をゆすぶるのが最大の念願です。」しかし、力道山は現在の北朝鮮からやって来た在日一世である。かつて日本に植民支配された経験を持つ朝鮮半島の男たちが、日本人の屈辱と愛国心を自らに課して、戦勝国である(彼らにとって本当は同盟国である)アメリカに報復する・・・。しかしプロレスではこういうことは珍しくない。東西冷戦時代にアメリカで悪党として活躍したソ連人レスラーはカナダ人や純度100%のアメリカ人だったし、「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックは、ナチス親衛隊の将校だったと言うプロフィールを公言していたが、ナチスどころかユダヤ人だった。

大木金太郎、キム・イルは、力道山という名の同胞が、日本人のヒーローとなっていると聞いた。貧しい生活を送っていたキムは、屈強な肉体で毎年韓国相撲の大会では優勝していた。そして日本に行って、力道山の弟子になりたいと熱望していた。この時期の日本と韓国との間には、まだ国交がない。だから正規の手段では入国出来ない。手を尽くして偽造の船員証を手に入れ、キム・イルは玄界灘を渡る漁船に乗り込んだ。この時キム・イルは27歳。家には妻と4人の子供を残している。

九州から力道山の居るであろう東京に到着したキムだったが、密入国者と見て取れる姿であったが為に職務質問を受け、入管法違反で逮捕され収容所に入れられる。力道山に憧れて来たのはいいが、何のコネも無く、仲立ちしてくれる知り合いなど誰もいない。そこで彼は収容所から力道山宛に、自分の思いを綴った手紙を書いた。占領教育を日本より受けていた大木は、日本語を書くことが出来たからだ。住所が分からないから、宛名には「東京・力道山先生」とだけ書いた。手紙は届き、力道山は自民党の有力政治家である大野伴睦などの力を借りてキム・イルを釈放させ、身元引受人となった。こうして力道山の弟子になるというキムの夢は実現した。これは作り話でも何でもなく真実です。

(写真上)年上の大木は猪木を、本当の弟のように可愛がった。

日本の英雄・力道山が実は朝鮮人であることは、プロレス関係者にとっては周知の事実だったが、絶対的なかん口令が敷かれていた。だから当然キム・イルの出自も伏せられた。道場にはアントニオ猪木とジャイアント馬場が入門して来たが、力道山の猪木とキムに対する「しごき」は憎悪があるような苛酷で凄惨なものだった。同胞であるはずなのに、なぜこれほどつらくあたるのだろうと大木は何度も思ったと言う。しかしどれほど屈辱的なしごきを受けようと耐えるしかなかった。力道山にとって、自分を慕って命がけで海を渡ってきた大木が憎いはずがない。しかし自分が日本人になり切っているのに、大木の無邪気な同胞意識は邪魔になる。あまり器用そうでない大木を見ながら、「こいつはいつかボロを出すんじゃないか」という危惧を感じていた可能性もあるだろう。入門したての大木は、日本語を流暢に話せない。これに対しての力道山のしごきも凄惨だった。「15分」を「チュウゴフン」と訛るたびに、「この朝鮮野郎!」と平手打ちが飛んできたと大木の自伝にはある。力道山は日本人の前では決してハングルを使わない。大木と二人きりの時でもそうだった。

(写真上)力道山の身の周りの世話をする大木。

力道山は大木に「頭突き」を必殺技にするよう命じた。毎日大木は額を鉄柱に打ち続けた。眉間が割れて血まみれになっても。やがて衝撃で頚椎にヒビが入り、医者から再起不能になると言われたが、力道山は練習を止めることを許さず、病院に行くことも禁止した。大木が生涯に繰り出した頭突きは3万発と言われる。晩年の大木はその後遺症で入院生活を余儀なくされた。

ある時、後援者たちとの食事中に、キキョウの話題が出たことがあった。しかし大木にはキキョウという花を表す日本語が分からなかった。「あとで先生とトイレで顔を合わせた。その時先生は“おい、お前、キキョウも知らないのか?トラジ、トラジのことだ。”と一言つぶやいて先にトイレから出て行った。先生から聞いた最初で最後のお国の言葉でした。」そう大木は述懐する。

(写真上)大木選手にもらった直筆サイン「忍」の一文字が・・

1963年、大木は武者修行に渡米するが、その間に力道山は急死する。心の支えであると同時に、日本における後見人だった力道山を失った大木は、日韓国交正常化を機に韓国に帰国し、韓国におけるプロレスの発展に尽力する。得たファイトマネーは全て、青少年育成や故郷の島々に電気を通す事に使って行く。大木はこの頃から公式にキム・イルを使い始めるが、ファンは衝撃を受けていなかったと思う。力道山が朝鮮半島の出身だと言う事も、ゆっくり認知されていった。しかし日本人は不思議だ。2人が実は自分達が植民統治していた朝鮮半島の出身者であったことが分かっても、とてもあっさりとこの事実を受け入れていた。

時は流れ猪木、馬場は独立。大木だけが日本プロレスに残った。「私だけは日本プロレスを脱退しなかった。その理由は1つだけ。力道山先生が作った団体を最後まで守りたかったからだ。」しかし日本プロレスは1973年に崩壊した。この後大木は韓国で「大韓プロレス」を立ち上げ、馬場や猪木を呼んで興行を行った。

韓国における反日感情はまだまだ根強い時代。日本人レスラーがリングに上がると「チュギラ!(殺せ!)」コールが湧き上がった。「韓国で試合を行うと食欲がなくなる。」と訴える後輩の馬場や猪木に、大木は頭を下げ続けた。韓国人レスラーも日本人との試合を嫌がった。負けたりしようものなら「売国奴」と罵倒される。日本人レスラーが勝てば、「日本帰りのキム・イル」が後で糸を引いているとして、大木は韓国人から憎まれた。日本人の仲間と、韓国の観客との間で板ばさみになった大木は、日本に戻ろうかと考えたが、結局韓国に踏み止まった。日本のリングには既に、自分の居場所はないとの思いからだった。

日本では大木は「韓国の猛虎」というニックネームで、悪役としてリングに上がった。もはや日本人を偽装する必要は全く無かった。力道山の13回忌興行での大木は、何かに取り憑かれたように頭突きを繰り出し、アブドラ・ザ・ブッチャーと凄惨な試合を行った。使った技は頭突きだけであった。そして1982年、大木は首の症状の悪化を理由に事実上引退する。

日本における大木の引退式は、1995年に行われた。頭突きの後遺症に苦しむ大木は、20世紀最強と言われた「鉄人」ルー・テーズに車椅子を押されて登場し、満場の拍手を浴びながら、リングポストに頭を押し当てて号泣した。晩年を迎えた大木は、トレーニングの苦しさや故国を離れるつらさや寂しさについては回想するが、日本人として偽装せざるを得なかった時代の葛藤や煩悶、あるいは日本人に対する恨みや愚痴などを、一切言葉にしていない。

自らを「故郷喪失者」と呼ぶ大木金太郎ことキム・イルは、2006年10月26日、ソウル市内の乙支病院で逝去した。享年77。その死の2か月前、大木は自伝にこう記している。「私はもう1度生まれても、力道山先生の弟子になってレスリングをするだろう。そして先生と一緒に堂々と韓国人として日本のファンの前に立ちたい。日本で国籍を隠して生きるしかなかった先生と一緒にタッグマッチに出場し、世界を制覇したい。そしてもう少し日韓の友情を築く為に力を捧げたい。

プロレスがショー的要素を帯びているから、プロレスラーが弱いということにはならない。事実昭和のレスラー、特に日本プロレス出身のレスラー達の試合は壮絶だった。それは、自分自身の存在を、人生そのものをリング上のファイトとして体現していたからかも知れない。強くて強くてどうしようもない者が、更に鍛えられて闘う世界がプロレス界だった。勝った負けたという単純な記録さえ残せばいいアマチュアの格闘技と違い、人々の脳裏に焼きつく、記憶に残る試合を求められ、貧しい時代でさえも人々に食事を抜いてでも会場に足を運ばせる魅力が絶対条件であったのが、プロレスの世界なのです。

日本人とは、本当に業の深い民族です。他民族を軽視することもあれば、崇めることもある。相手に対する両極端な考えを持ち合わせています。和の民族とこれで果たして言えるのでしょうか?コロナ差別を見ても今の日本人のメンタル面については、いろいろと問題があると言わざるを得ません。