青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

汲み取りトイレで知ったこと!

2023-06-29 | 昭和・懐かしい北摂の風景

日本のトイレは世界一だと言われます。そう言われてもう何十年も経ちますが、本当にそうでしょうか?ウォシュレットやいろんな機能の付いたトイレばかりが話題になりますが、違う視点からトイレのお話を。

僕が豊中市に住んでいた子供時代、家のトイレがそれまでの「汲み取りトイレ」(ボットントイレとも言いました)から、下水道が整備されて水洗トイレになったのが、昭和40年代の半ばでした。その後バキュームカーが来ることは無くなりました。

同じ豊中市でも、昭和50年代に入っても水洗化されなかった家に住んでいた友人は、「友達に家に来てもらうのが恥ずかしかった」と、当時を思い出します。

写真は昭和59年(1984年)の吹田市。バキュームカーでの汲み取り作業中の様子。昭和の終わり近くになっても、大阪府の住宅地でまだ汲み取りが必要な場所はあちこちにありました。狭い道路で作業車を停めての作業。道路右奥には「整友会診療所」の看板が見えます。

でも、大阪府の中でも都会で育った僕には水洗トイレが当たり前でも、田舎や地方に行けば汲み取りトイレが普通でした。平成、1990年代に入ってからのこと。会社の先輩が「もうすぐ僕の町でも下水道整備が始まり、水洗トイレになる」という話をした時、「え?どういうことですか?僕の家は小学生の時から水洗トイレですけど・・」とつい言ってしまい、先輩から「どこでもそうだと思うな」とえらく怒られました。場所が兵庫県川西市(田舎ではない)の普通の住宅地だったので、平成の今になって水洗トイレではないということに驚いたのです。

そこから更に10年後。大阪府の北摂で新興住宅地の一戸建てを買おうとした時、僕が驚いたのはその新築物件。住宅の設備に「浄化槽」という文字。ガレージの下が浄化槽になっているというのですが、要は汲み取りトイレだという事。更に飲み水も井戸水。家の横に貯水槽があるわけではなく、宅地の中にいくつかの貯水槽があり、そこから何十軒かの家に水を供給するのです。マンションと同じようなものですよと言われましたが、いつ水源が枯れるかは誰にも分からないし、事実枯れていた水源もありました。水道代もべら棒に高い。このすぐ後に阪神淡路大震災があり、水道は井戸なので止まりませんでしたが、水が泥水のように濁ってしまい使い物にならなかった。更に言えば地下水の流れも変わり、水の量も変わってしまいました。

行政は地域によってまるで違う。住みやすい町とそうでない町があるということを、僕は若い時は意識出来ていませんでした。

昭和~平成の僕らの時代、就職し、結婚し、子供を持って、マイカー、マイホームを購入するのは当たり前、それで一人前だと世間に見なされました。世の中の流行で、会社から遠くても広い一戸建て等と言われました。しかし、郊外に家を求めるのは価格が安いからで、安いから上水道の不便さもあれば、バスを使わないと最寄りの鉄道の駅まで出れない。令和になって、そういう住宅街へのバスは本数が減ったり、廃線となったり、スーパーも閉店で無くなったりしています。地方の田舎の話ではなくとも、過疎化が進んでいる所もあります。家自体の値段に差はあっても、光熱費や交通費、税金等を合計すると、安い家も高い家も、実はそう大差は無かった。便利な場所の高額な物件の方が、あれから何十年も経った今でも資産価値があり、安かったものは資産価値ゼロという物件がいくらでもあります。

若い人に言いたいのは、世の中のブームに流されないで!ということ。交通の便が良く、通勤時間もかからない、ハザードマップにもかからない綺麗な賃貸物件に住めばいいのです。転勤や転職の足枷にもなりませんし、隣に変な人が来たら引越しもお手軽です。被災しても修理する義務もなく転居すればいい。手枷足枷の無い生活は、選択肢を広げてくれますよ。ただ、誰かに依存するような、30超えても親との同居(親の介護の必要もないのに)であるとか、お試し同棲、家賃が払えないためのシェアハウスというのは、僕は反対です。

 


この国はどうなってる!体調不良って何だ?

2023-06-27 | 今を考える

ここ数日「コロナ第9派の入り口」だとか、「第9波の可能性」だとか、どうも奥歯にものの挟まったようなマスコミの表現が多過ぎる!

そして同時に、あちこちでいろんな公演が中止になっているのですが、その理由も「公演関係者に体調不良者が確認された」というものが多過ぎる!

中止するだけではなく、更に中止を継続したり・・・。

具体的な俳優さんの名前を出し、体調不良の為にその方が休演したり降板することはやむを得ない。更に病名などを公に出来ないこともあるだろう。

しかし、「公演関係者に体調不良者」と言うだけでは納得出来ない。関係者って、どれだけの責任を負っている人なのか?その人がいないと公演が出来ない人なのか?

ここは法治国家であり、民主主義国の日本です。なぜ、これだけ中途半端なニュースが飛び交うのか?

もし「コロナ」なら、そう言えばいい。5類の病気じゃありませんか。5類移行を望んだのは多くの国民です。そして、「コロナ」が再び広がり過ぎているのなら、マスク着用を呼び掛けたり、正しく感染拡大防止のためのアナウンスをしないといけない。ウイルスが変異して危険なものになったなら、5類から元に戻せばいい。

国民が安心出来るように、真実を公表し、みんなで正しい行動を取る。当たり前のことをすれば良い。

一体何を恐れ、何の為に、誰の為に、これまでに無かったような、こういう報道が増えているのか?コロナよりも正しい報道が為されない国であることの方が大問題です。

マイナカードも同じ。現時点で一体誰がマイナカードで恩恵を受けているのか?更にこの先国民は恩恵を受けるのか?それとも不安を感じることの方が多いのか?恩恵がない、お金が掛かるだけの物なら、それは「無駄」なものだから止めればいい。どうも日本の政治家や官僚は「とにかく突き進み、後戻りをしない!」。これは戦争に向かった、過去の日本の姿と全く同じです。


アタック25 ~僕が楽しんだ数少ないゲーム!

2023-06-26 | こんな「モノ」ありました!

任天堂がテレビゲームを発売してから、もう何十年も経ちました。最初に「ファミコン」を見た時は、これはどこまで普及するんだろう・・と恐ろしく感じました。子供は止めろと言っても止めないだろうと。その後「スーパーファミコン」にパワーアップし、他社もいろいろなハード&ソフトをリリース。僕は子供にはゲームをほとんどさせませんでした。恐らく友達の家で遊んだでしょうが、我が家ではほとんどさせませんでした。

ところが、子供にはさせなかったくせに、僕自身が楽しんだゲームが4つあります。「遥かなるオーガスタ」「ペブルビーチの波濤」という2本のスーパーファミコンのゴルフゲーム。PC版の「三国志」。そして、このPC版の「パネルクイズ・アタック25」です。

このゲームが凄かったのは、「jpgファイル」で自分たちの写真を回答者の顔に出来ました。予選会、面接を経て本選出場という、実際と同じリアルな流れ。児玉さんの声で、児玉さんの司会でゲームは進み、問題を読み上げるのは沢木美佳子さんの声。かなりの音声ファイルを使っていたでしょう。何度楽しんでも同じ問題が出た覚えがありませんでした。その上、テレビと同じように〇〇問題もあれば、アタックチャンスもある。正解すればパネルも自由に取る。

ここまでまるで自分がTVに出場しているかのように遊んだ上で、見事トップ賞に輝けば、番組では海外旅行を賭けたVTRクイズに挑むのですが、このゲームでも自分の取ったパネルの所だけ映像が見れる最後の問題に挑戦出来ました。そして、正解した場合、このゲーム1つに1枚付いている専用のハガキに、正解後に出てくる「ある言葉」を書いて送ると、先着10名(もう少し少なかったかも知れません)に、商品が送られて来ました。

僕はそれを頂きました!アタック25のバックや、出場者も実際にもらっている結構なグッズの詰め合わせで、ゲームソフトの値段を遥かに上回るものでした。

このゲームは子供にも自由に遊ばせましたので、かなり楽しんでいました。こういう良質のゲームというのか、ソフトが増えることは大歓迎なのですが、現実には歓迎出来ない面白いだけのゲームが世の中には多いようです。僕自身頭が古いことは認めた上で、ゲームをする時間があれば、他にもっとすべきことがあるだろう・・・そう言いたくなる。歩きスマホでゲームをしている人は、馬鹿にしか見えません。将棋やオセロでも楽しんでくれた方が、余程良いと思うのですが・・。

 


梅田東映、最後の日!

2023-06-25 | 昭和の映画館

何事にも始まりがあれば、終わりがあるもの。

物心ついた時から、映画館がそこにあるのは当たり前でした。1970年代に入ると同時に映画館に足げく通うようになった僕は、大阪・梅田にあった映画館に親しみ青春時代を送りましたので、それが無くなる日が来るとは思ってもみませんでした。僕が青春時代に足を運んだ映画館、今では1館も残っていません。

この梅田東映は、最後の日を見届けたという意味で、印象深く覚えています。梅田東映があった「梅田東映会館」すら今はありません。大阪駅前ビルと北新地の間にあった東映会館は、阪急梅田駅から少し離れていた分だけ、映画館へ歩きながら友人たちと、これから観る映画についての期待を語り合ったものでした。

梅田東映会館は2002年4月28日、43年の長い歴史に幕を降ろしました。こちらにも梅田東映会館の写真を掲載しています

最後の日でしたが、満員の観客・・とは行かず、歴史に幕を下ろす瞬間は寂しいものでした。

東映会館が閉館する際は、梅田東映パラス、梅田東映パラス2、梅田東映劇場の3館が入っていましたが、僕の青春時代は「梅田東映パラス」「梅田東映ホール」「梅田東映劇場」という名称でした。

1番よく僕が入ったのは東映パラス。「十戒」「燃えよドラゴン」「スーパーマン」「スタートレック」「E.T.」「ロシア・ハウス」「ラスト・アクション・ヒーロー」・・・懐かしいです。

 


阪急豊中市場 ~消えた住民の台所

2023-06-24 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

地域住民の台所として存在した「市場」が、昔は誰の家の近所にもありました。市場の中にはお肉屋さん、お豆腐屋さん、魚屋さん・・・いろんなお店が個々に独立していました。スーパーマーケットのような形ではありません。

それぞれのお店でお会計。大きな水槽の中にお豆腐が沢山並んでいた光景、お肉屋さんで「〇〇を何グラム」とお願いした時の、目分量の正確さ。職人技が日常の中で観ることが出来ました。新聞紙やいろんな紙で買ったものを包んでくれたり。レジ袋がどうのこうと言う前に、美味しい新鮮な、どこで誰が作っているかが分かるものを、口に入れることが出来た日が、昭和には間違いなくありました。

阪急宝塚線・豊中駅前にあった「阪急豊中市場」。目の前に新開地デパートがありましたが、長く活気のある市場でした。昭和53年(1978年)の解体直前の写真です。

上は昭和51年(1976) の写真。下は現在の写真で、阪急豊中市場はチェリオビルになっています。

阪急豊中市場は昭和5年の開設以来、近隣住民の台所として長きに渡って親しまれました。こういう市場が蛍池駅では、大阪モノレールの建設によって消えてしまいました。池田駅では今年になって解体された昭和から続いた市場があります。

阪急電車の中には、阪急を生んだ鉄道王・偉大な実業家・小林一三の生誕150年のポスターがあちこちに貼られています。しかし、誰も大きな声で言わないというか、もはや知らないようですが、阪急宝塚線はあり得ない剛腕によって成り立ちました。

蛍池と豊中の間にあった蛍池は、もともとは前方後円墳であったものですが、そのど真ん中に線路を引いて古墳を破壊しています。岡町でも原田神社の境内に線路を引いていますし、服部天神駅も服部天神の境内に駅を作っているので、駅のホームに服部天神のご神木は今も立っています。