青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

船で行く神戸 ~こんなデートがあった!

2024-02-24 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

京阪神間に「こんなデートコースがあった!」ということで、このカテゴリーに書かせて頂きます。

どこかに出掛ける時、移動方法は勿論大切だけど、同じくらい途中の行程の楽しみ具合もデートの重要ポイント。通り過ぎる景色や風景が素晴らしければ、それだけでワクワクしたものです。だから僕らが若い時は中古車であってもローンで購入し(アルバイト代で支払ったものです)、ドライブ先を厳選し、カーステを取り付けて(当時は自動車にはAMラジオしか標準装備ではありませんでした。)BGMのカセットテープ作成にも力が入りました。

大阪から神戸へデートで行く際、当然電車か車かということになるのですが、「船を使うという手」もあったのです!リッチな船旅気分を味わい、神戸へ船で到着というロマンチックなルートが1992年の夏まであったのです。

それは大阪弁天ふ頭を午後4時半に出航。神戸の中突堤にに立ち寄る、関西汽船の別府航路でした。写真の船がこのデートの舞台「こばると丸」。関西汽船が運航していた客船で、僚船のあいぼり丸と共に、関西汽船が運航した最後の純客船でした。

夕陽を浴びての船旅の出発。暮れ行く六甲の山々のモノトーンな眺めを右に見て、潮風に吹かれる約1時間の船旅はムード一杯。

夕暮れが近づいて来ると、まるで映画の主人公のような気分に。

汽笛が鳴って、到着は港・神戸のど真ん中、ポートタワーのある中突堤なので、これだけで立派なデートコース。停泊中の外国大型船にはキラキラと明かりが点灯され、港のトワイライトは思わずため息が出そうでした。

ポートタワーが迎えてくれる神戸に到着後は、神戸の夜のクラビング(死語!笑)に出発!

92年8月にさんふらわあ こがねの就航により、こばると丸とあいぼり丸の引退により、関西汽船の大型船は全てフェリー化され、このデートコースは終わりを迎えましたが、乗船券は何と驚きの「400円」という格安のルートだったことをご存知の方は、どれだけいるのでしょう?

大阪・梅田から神戸・三宮まで阪急電車で230円(特急29分)、国鉄(JR)なら380円(新快速24分)だったことと比べても、本当に経験しないのが「大損」のデートコースでした。

 


神戸・垂水 ~明石海峡大橋で激変した景色!

2024-02-18 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

海と山が接近していて、小さな洋館が多い街。外国人たちがこの街の自然に心魅かれ、移り住んだことを物語っています。もう半世紀近く前になる学生時代、神戸・塩屋~垂水~舞子を歩いた時のことを思い出します。ウエザー・リポートという名物喫茶店のことについては、これまでに何度も触れていますが、今回はそれ以外のことを・・。

国道2号線を西へ進むと松林の舞子公園が今も昔もあります。あちこちにあるベンチではアベックが仲睦まじく語らっている姿が見えました。

ここで最も印象に残るのが、海べりに立つ「六角堂」。本当は八角形なのですが、遠くから見ると六角形に見えるのでこの名が付きました。正式名称は「移情閣」。孫文が亡命した時に招いた館として有名。この写真は昭和60年(1985年)のもの。現在は・・・

明石海峡大橋の建設によって、こんなにも風景が変わりました。しかし、夕暮れ時の形容し難い美しい移情閣の姿は、今も変わりません。

滝の茶屋駅から垂水駅までの間の住宅街。福田川から2号線に出て西に向かうと古い洋館がありました。それがこの写真の日本一洒落た垂水警察署でした。大正4年に四本氏の別荘として建てられたもので、当時の富豪の生活を物語るような風格のある建物は、昭和61年(1986年)まで警察署として使われていました。現在は篠山市にある「お菓子の里・丹波」に移築されています。

左は塩屋異人館倶楽部という本格的なフランス料理のお店で、「ウェザーリポート」より「もうひとつ上等」なデートコースの定番でした。昭和初期の異人館の建物をそのまま利用しており、僕が最後に行った1986年頃、海を見ながらの食事は最高でした。コースは確か4,500円からでしたが、格式ばらないお店で、コーヒー350円だけでも利用出来ました。

右はシーサイドクラブパレス塩屋で、こちらもフランス料理のお店。海に面したテラスが異国情緒たっぷり。潮風を頬に受けながらお茶を飲んだものです。夜は船の灯りを眺めながら、ちょっと気取ったコース料理を楽しみました。コースが5,000円くらいだったと記憶しています。残念ながら、どちらも今はありません。


庄内駅開設10周年 ~庄内にもあった映画館!

2024-01-28 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

阪急電車・・京都~大阪~神戸を結ぶ、関西を代表する私鉄です。綺麗だし、便利だし、運賃も安い。沿線には娯楽施設があり、誰もが利用していました。国鉄(JR)沿線に住むのとは違い、今でも引越しするなら、駅は代わっても今住んでいるのと同じ、大阪府・北摂、阪急電車沿線に住みたいと思います。

映画が好きな僕は、今では大阪梅田まで観に行きますが、昔は池田・豊中・岡町・十三辺りでも観ることが出来ました。いわゆる2番館、3番館というやつです。そんな映画館が、阪急宝塚線・庄内駅にもあったことを知る人は少ないと思います。

今日の写真3枚はどれも、昭和36年(1961年)の「庄内駅開設10周年」の時の物ですが、正面に映画館が写っています。

当時、庄内駅周辺には「幸運劇場」「庄内シネマ」「庄内東映劇場」と、映画館が3館ありました。通りにあふれる人並にチンドン屋の姿が紛れています。

庄内町時代だった昭和26年に駅が開設されたのを契機に、純農村地帯だった庄内も変貌して行きました。写真の旧三屋地区は、天竺川沿いに能勢街道、駅の東側を国道176号線が通り、市街地化して行きました。

この当時の庄内駅がこれです。地下の連絡通路はまだ無く、遮断機の前は乗降客でごった返しています。庄内駅は当時阪急宝塚線では、乗降客の多い駅でした。しかし、庄内地域には住民登録をしていない人々もおり、いわゆる幽霊人口の多い地域と言われていました。

 


歩くと大変!天橋立鋼索鉄道!

2023-10-21 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

妙見ケーブルと並んで僕の記憶に残っているのは、天橋立のケーブルカー、「天橋立鋼索鉄道」です。

京都丹後鉄道宮豊線の天橋立駅から日本三景の天橋立、笠松公園を経て成相山成相寺へ至る参詣ルートの途中にあるケーブルカー。今、最近の光景をネットで見るとリフトが併設されているのですが、僕の記憶にはリフトは残っていません。

昭和41年(1966年)の夏休みのある日、親父の会社の慰安旅行で貸切バスに乗って、天橋立に。海水浴を楽しんだ翌日の早朝、天橋立ケーブルの線路横を歩いて登り、天橋立の景色を見たのを覚えています。とにかくしんどかった!高知の田舎から出て来た従弟と一緒に登りましたが、田舎育ちの彼の方は楽々登っていくのに、僕はついていくのが精一杯で、往復を歩いた後は疲れてお腹が空いて散々な目にあったという記憶です。

泳ぐのも潜るのも体力面全てにおいて、近所の友達には全く負けたことが無くても、田舎の従弟には完敗。都会の子供がもやしっ子と言われても仕方がない。他の年上の子供たちも、彼には走っても泳いでも敵いませんでした。

何十年も後に自分の子供をここに連れて行った時、同じように歩こうとすると、登る前から「絶対に行かない」と、子供たちは逃げました。(育て方を誤った!)

こんな景色が楽しめるケーブルカーに乗るのは楽しい。のんびりして良いと思います。天橋立と言えば、どうしてもドライブに自動車で行く場所というイメージがあると思うのですが、現地の乗り物も捨てがたいですね。

 


妙見の森ケーブルが消える理由!

2023-10-19 | 昭和・懐かしい京阪神の風景

いよいよ阪急電鉄子会社の能勢電鉄(兵庫県川西市)で展開する妙見の森ケーブルカーが、12月4日に廃止となります。妙見の森ケーブルは黒川~ケーブル山上間666メートルを結び、標高差223メートル、最急勾配23度、平均勾配20度。定員51人の車両2両が最高速度8.6km/hで往復し、所要時間は約5分です。

子供の頃の遠足や、妙見山に遊びに行った折に何度か乗ったことがありますが、大人になってからは妙見山に行くのは天体観測が多く、自動車を使うようになったので、ケーブルカーからは足が遠のきました。ケーブルカーは夜間は運行していないので。

廃線の理由は利用者が減ったからとマスコミは書いていますが、なぜ利用者が減ったのかについては、まともに言及していないようです。

阪急電車宝塚線を見れば分かりますが、清荒神、売布神社、中山観音、岡町、服部天神などは全て有名神社仏閣のある駅ばかりで、戦前はその参拝者が物凄く多かったのです。妙見山もそう。山体が信仰の対象であり、山頂近くには日蓮宗の関西地区における重要寺院である能勢妙見堂'があります。戦前、神社仏閣に足を運ぶことは、今のように初詣だけではなく年中行事であり、人々の娯楽だったのです。昔の写真を見れば分かりますが、大人は和服やスーツという正装。子供は学生服という姿でみんながお参りしています。

妙見の森ケーブルは、戦後半分以下に急激に落ち込んだ利用客回復の為、ハイキングコースを整備したり、バーベキューテラスや足湯などの施設を作ったり、近年では独身男女の出会いの場を能勢電鉄が主催し、その会場に妙見の森を利用したりとあらゆる手を尽くして来ました。

しかし、そもそもケーブルは戦中に線路を軍に供出し、戦後復旧しますが、建設経費削減のために運行距離が短くなりました。山上まであったケーブルを短くし、そこには代わりにリフトを作りました。現在妙見山に登ろうと思えば、能勢電車・妙見口駅で下車、そこからケーブルの黒川駅まで徒歩20分掛かります。(バスは大幅な運行減で、まず乗ることは出来ませんので歩くしかないのです。)そこからケーブル~リフトを使うという不便さ。

更に戦後の娯楽は、阪急電鉄が宝塚に宝塚歌劇、温泉、遊園地を作り、梅田を阪急の一大アミューズメントパークとして作り上げた為、神社・仏閣巡りから、映画鑑賞やデパートでの買い物、遊園地に移り変わり、妙見山を訪れる人も、妙見の森ケーブルを利用する人も激減し、利用客は減少の一途を辿って回復することが全く無かったのです。周辺の大阪府豊能町・能勢町は昨年過疎指定されましたし、今回の妙見の森ケーブル廃止は寂しいながらも、仕方がなく、むしろ今日までよく続いたと思います。思い出を持つ人たちには、廃線前にもう1度利用して頂きたいですね。