青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

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カール・ゴッチの真のストーリー!

2014-10-13 | スポーツの話題

2007年7月28日、1人の偉大なレスラーが亡くなりました。享年82歳。そのレスラーはレスリングを芸術の域にまで高めたと言われた、ジャーマン・スープレックス・ホールドの生みの親、カール・ゴッチです。

日本では「プロレスの神様」と呼ばれるカール・ゴッチ。日本では猪木を始め、多くのレスラー達が「彼の弟子」と名乗り、ゴッチの威を自分の力を実力以上のものとする宣伝に利用して来ました。スポーツ誌は書かないが、そう断言しても問題は無いと思います。顧問と言う形でお金を払う。コーチという名目でお金を払う。しかしゴッチの意志を継いだ弟子は皆無だし、ゴッチが現代に復活させたかったスタイルの、プロのレスリングを復活させた弟子もいなかった。

カール・ゴッチは日本のプロレス関係者が「神様」と祀り上げたような人間ではなく、レスリングに一生を捧げた「求道者」でした。その為、技術書も自叙伝も一切残していません。死ぬ瞬間まで学ぶ事を求め続けた者に完成はなく、完成もしていない者が何かを残すなど、彼にとってはあり得ないことだったに違いありません。ゴッチは「生まれ変わってもレスリングをしたい。ただその時に、今の自分のようなコーチに出会いたい。本物を探すことに時間を使うという無駄がなくなるからだ。」と語っていました。

ドイツ・ハンブルグ出身。1952年ヘルシンキ五輪にドイツ代表として出場し、銀メダルを獲得。プロ転向後は欧州選手権を獲得するも、挑戦者が現れず、59年に新たなる強敵を求めてアメリカ大陸に渡る・・・これがゴッチのプロフィールだが、事実ではない。ゴッチ自身が作成したものではない。プロレスマスコミが、この強さだけを求め、ショーマンシップを発揮しない男に対して作り上げたものだ。

ゴッチは母親が生粋のドイツ人であるが、父親はドイツとハンガリーのハーフで、ベルギーに生まれた。五輪にもベルギー代表として出場している。本名のカレル・イスタスとして、記録が公式に存在している。少なくとも偽のキャリアではない。それどころか驚いた事に、フリーとグレコローマンの両方のスタイルで五輪出場を果たしている。1945年から50年までの6年間、連続してフリーとグレコローマンの両方のスタイルでベルギー王者だったイスタス(以下ゴッチと表記)は、1948年のロンドン五輪に、両方のスタイルのライトヘビー級に出場しているが、この大会の金メダリストに敗退した。後年の彼が五輪について語らなかったのは、この屈辱を忘れなかった為だと思われる。出場記念のメダルはサインの代わりにファンの子供にあげたと言う。

そして五輪後2年間、国内王者の座を守った後、プロに転向する。「私も人並みに食って行かなければならない。家族がある・・・。こればっかりはどうしようもなかった。」これがプロ転向の理由である。ヘルシンキ五輪代表を辞退してまでの、食べる為のプロ転向だった。

ベルギーの英雄だったゴッチは、数試合で今まで見たことも無い大金を手にしたが、突然イギリスへ渡る。「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイル」のレスリングを学ぶ為に、ウィガンという場所の「ビリー・ライレー・ジム」通称「蛇の穴」へ入門したのである。「そのレスリングスタイルは、アマチュアレスリングよりも上級という印象を受けた。我々アマチュアが知るものより遥かに優れたものだった。」このスタイルは一言で言えば「何でもあり」のレスリングであり、関節技をも含む最強のスタイルといえるモノだった。

「蛇の穴」?そう、漫画タイガーマスクの「虎の穴」のモデルになったジムです!プロレス活動を停止して、イギリスへ修行?プロモーターや関係者の失望は大きかったであろう。しかしゴッチにとっては、地元ファンの声援も、巨額のファイトマネーもどうでもいいことだった。彼は新たな技術の習得、最強への道を選んだのだ。彼はこのジムを訪ねた初日、ギブアップを奪われ続けた。人生で最大の屈辱を味わい、同時に、このジムには学ぶべき技術がたくさんあることを知り、この時から8年間に渡り修行するのである。

ゴッチはここで更にメキメキと力を付けて行く。たまにイギリスのプロの試合に出たが、51年と53年の数十試合だけで、これはイギリスに滞在して生活する費用を捻出する為の手段に過ぎなかった。53年頃には、ライレージムに「人間風車」ビル・ロビンソンが入門、ゴッチとファイトしている。「私はゴッチに全力で向って行ったが、私はとにかくメチャクチャにやられた。叩きつけられ、押し潰され、極められ・・・屈辱の時間だった。」とロビンソンは述べている。この2人の対戦は欧州マットでは1度も行われていない。両雄の対決はこのスパーリングから18年後、日本の国際プロレスのリングで実現する。

ゴッチの上達ぶりを知ったビリー・ライレーは、ジムのレスラー達に通達する。「これ以上の高度な技術を教えるな!」と。「これは至極当然のことで、外から来た人間はいずれここを去り、いつ反対側のコーナーに立つ人間になるか分からないのだから、そういう可能性を持つ人間に、そのジムの秘伝とも言うべき高等技術を易々と教える事はあり得ないんだ。」ビル・ロビンソンはこう説明してくれました。それでもライレーの言いつけなどお構い無しに、ゴッチにその卓越した技術を叩き込んだ師範もいました。

その後、欧州各国で活躍し、ゴッチはプロからアマに戻り、レスリングのナショナルチームのコーチを務めている。そして2人の選手をローマ五輪に送り出している。

ゴッチは17歳の時に左手の小指を、ある事故で友人を救出した際に失っている。これはレスリングをするには大変なハンディだ。なぜなら小指はレスリングにおいて最も必要な指だからです。(ヤクザが小指を詰めるのも、ドスを握るのに、最も大切な指が小指であるからです。)そして少年時代には、ナチスの捕虜収容所で2年に渡り、強制労働をさせられたという事実も残っている。45年4月28日、アメリカ軍によって彼は解放された。そして救ってくれたアメリカ軍人達は、ゴッチに英語を教えてくれた。「私が世界で1番なりたかったものが何だか分かるかね?アメリカの軍人だよ。ベルギー出身の私には望むべくもなかったが。」

1959年、ゴッチはイギリスが彼を大きく宣伝して売り出そうとしたのにも関わらず、家族と共にアメリカ大陸へと渡った。そこは終戦直後に憧れた、アメリカ合衆国がある「夢の大陸」だった。それから6年後の1965年にアメリカの市民権を取得した日を、「我が人生最良の日」とするカール・ゴッチにとって、プロレスのリングは「自分の能力を発揮して、最も大きい糧を得られる場」に過ぎなかったのです。

日本プロレスの第3回ワールド・リーグ戦に参加したのが、日本への初来日だった。この当時のリングネームはカール・クラウザー。その実力は群を抜いていて一躍注目の的となった。来日第1戦で吉村道明と対戦して芸術品と言われたジャーマン・スープレックスを披露。力道山は1度だけ対戦するも引き分けて、その後は試合を2度と組みませんでした。負けず嫌いで強気の力道山も「あいつは本当に強えぇ」と舌を巻いて敬遠したと言われています。この時、ゴッチを見て、「これが自分の目指すレスリングだ」と決意したのが、アントニオ猪木でした。

帰国後にリングネームをクラウザーからゴッチに変え、人気も高まります。オハイオ州認定のAWA世界王者となり2年間保持、NWA世界王者のバディ・ロジャースには挑戦を逃げ回られ、控え室で名レスラーのビル・ミラーと共に制裁を加えて問題になります。結局ロジャースは一度も挑戦を受けませんでしたが。しかし、936連勝を記録した不滅の鉄人ルー・テーズはゴッチの挑戦を逃げず、記録に残されているだけでも6度対戦しています。ゴッチは王座奪取はなりませんでしたが、どの試合も大接戦で、テーズは最も苦戦した相手として、ゴッチの名前を挙げています。1960年代の中頃はテーズとゴッチにジュニアへビー級の王者ダニー・ホッジを加えて「世界最強の3人」として全米が認めました。しかし、次第にショーアップされた試合へと変わりつつあるプロレス界で、ゴッチは次第に浮いた存在になっていきます。徹底的に強さを求める試合内容に、対戦相手が嫌がるようになってプロモーターの要請にも妥協しないゴッチは仕事を減らしてしまうのです。

そんな時に、日本プロレスから若手選手のコーチの話がありゴッチは引き受けます。若手のコーチとしての仕事でしたが、ゴッチから見ればエースのジャイアント馬場でも若手で、色々とアドバイスし、その為、トップクラスの選手からは敬遠されます。その中で猪木だけはゴッチ教室に積極的に参加して絆を深めていきます。そして成長した猪木は馬場と並ぶ存在になって行くのです。コーチとしてのゴッチは優秀で、若手選手もメキメキと上達しますが、ショーマンシップの欠片もない教え方に、日本プロレスの幹部も困惑の度を増して解任しました。

住まいも日本に移して本腰を入れていたゴッチ。仕事を失った彼は、アメリカマット界への復帰をしようにも、片田舎のプロモーターにしか相手にされない状況になっていました。実力よりも見た目の派手さやオーバーな演出が人気を得る時代に変わっていたのです。ここで妥協して、相手を立てる試合をすればまだ選手として続けていく事は可能でしたが、それを良しとしないゴッチは干されて行きます。ドンドン田舎の小さな町の興行へと追いやられて、やがてゴッチの名前は完全に消え去ります。

ゴッチがファンに完全に忘れて数年が経った1971年3月。かつて「蛇の穴」の後輩だったビル・ロビンソンが、日本に来日する途中でハワイに立ち寄りました。このハワイでロビンソンはゴッチと偶然再会して驚きます。ゴッチはアメリカ本土での試合が無くなり、ハワイに流れて来ていたのです。そしてハワイでの仕事は試合ではなく、ゴミ収集の仕事だったのです。しかしゴッチは、毎日のトレーニングだけは、現役時代とまったく変わらぬ内容で続けていました。

ロビンソンは自分が出場する国際プロレスへの参加を勧めます。己の実力に絶対の自信を持つ天才児には、兄弟子ゴッチも自分を脅かす存在ではないと思ったのでしょう。国際プロレスは、当時人気絶頂で外人でありながら国際プロレスの実質的なエースだったロビンソンとゴッチの初の同門対決を売り物にしようとしますが、ゴッチの実力に不安を感じ、ゴッチのメッキの剥げない内にと、ロビンソンとゴッチの試合をシリーズ序盤戦で組みました。

50歳近いゴッチは衰える所か、全盛期と全く変わらぬ強さを発揮します。注目の対決は互いが相手の技を受けないガチガチの展開ながら、高度なレベルの攻防で観客を沸かせました。中盤からはロビンソンの固いディフェンスを突破して、ゴッチの攻勢が目立つようになり、ロビンソンは防戦一方になります。それでも時間内での決着はつかず引き分けますが、「ゴッチの判定勝ち」は誰の目にも明らかでした。国際プロレスもこれは売り物になると、5度も対戦させましたが、全て時間切れの引き分け。しかしゴッチはロビンソンからジャーマン・スープレックスで1本を取っています。初対決の時よりもゴッチの優勢となった試合内容でした。両雄の対決は、雑誌がどちらも傷つけないように、互角の勝負だったと書いていますが、事実は違いました。数年のブランクがあってさえも、ゴッチの方が強かったのです。

モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)との対戦でも、あの巨体に見事なジャーマン・スープレックスを決めて、そのままフォール勝ちを奪っています。当時のロシモフは身長2メートル18センチ、体重180キロで全盛期の頃よりは小さい?のですが、まさに巨人を見事に投げたのです。

ゴッチは猪木が新日本プロレスを旗揚げした時に、強力な助っ人となりました。自ら猪木の相手を務めたこともあります。若手選手を指導して「ゴッチ道場」から藤波、佐山、前田、藤原、木戸、高田、山崎、船木らの多くの選手を輩出しました。そして、いつしかゴッチは「プロレスの神様」と呼ばれるようになりました。その後もUWFを始めとする若者が新しく船出する団体への協力を惜しまず、日本のプロレス・格闘技界に多大な影響を与え続けました。

ゴッチの技術は現在の総合格闘技には通用しないと言う意見がありますが、それは間違っています。彼の弟子達が、ゴッチの全てを学んでいなかっただけのことです。一例を挙げると、猪木がロビンソンと戦った試合は名勝負でしたが、猪木はこの試合を評価していません。なぜならあの試合をコントロールしたのは、ロビンソンだったからです。ロビンソンは「蛇の穴」で学んでいます。猪木はゴッチには学びましたが、それはプロレスに優先した技術だったため、タックルを学んでいないのです。これが2人の差です。まともなタックルを出来る選手は、猪木ら日本プロレスからの選手には、ほとんどいません。猪木はロビンソンに面白いように倒されています。ゴッチ自身はフリーとグレコの両方で五輪に出たことでも分かるように、タックルに関しての技術が無かったなんて考えられません。

ビリー・ライレー・ジムがそうであったように、宮本武蔵を尊敬し、「五輪の書」を愛読書としていたゴッチが、自分が人生の全てを捧げ、学んできたことの全てを、どれだけの大金を積まれても、ショービジネスで生きる者に伝えるはずがないのです。理想を追い続けたゴッチの人生は、本当に充実した人生だったと思われます。

「人は死ぬまで学び続けるものだ。学ぶ事が無いと思ったら、それは死んでいるのも同然だ。」(カール・ゴッチ)