青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

テキサス通り ~知られざる北摂の黒歴史!

2022-01-31 | 昭和・懐かしい北摂の風景

郷土史などと大袈裟ではなくても、自分のホームタウン、懐かしい場所の歴史を調べていると、自分が小さかった当時のことでさえ、知らないことが結構あります。まして、自分が生まれる前のことなら尚更です。町の歴史を時間に任せて調べていると、まるで自分が金田一耕助になって、容疑者の過去を調べているような気持ちにすらなる時があります。

ここは大阪・阪急宝塚線・蛍池駅から少し北で上がった176号線の交差点。左折すれば大阪空港へ一直線です。真っすぐ100メートルほど行った先を右折すれば、大阪大学、中央環状線という位置。1950年代後半の写真です。

看板にある「イタミ・エアフィールド」とは、大阪国際空港(伊丹空港とも呼ばれます)のこと。

なぜ、大阪国際空港が伊丹空港と呼ばれるのか?

1945年8月の敗戦後、この空港がアメリカ軍を中心とする連合国軍に接収された時、伊丹の名称を継承して「伊丹エアベース」と名付けられました。その時からの名残で伊丹空港という通称名が定着したようです。

こちらは同じ場所の昭和33年の写真。看板が「大阪空港」に変わっています。向こうに見えるのは池田・五月山から箕面へと連なる北摂の山々。国道沿いには何もありません。昭和33年に看板が変わったのは、この年この空港が日本に返還されたからです。

そして、現在。撮影は2020年です。

写真右側の歩道手前には、いつの頃からか「エホバの証人」の会館があります。歩道橋の左の建物はラブホテル。1990年頃までは確かに、今現在この沿道に残っている多くのラブホテル以外にも、「大陸」「伯爵」などの大きなラブホテルがあり、「伯爵」は現在「葬祭場」に。「大陸」はその前身を隠してマンションになっています。

僕が学生の頃、「昔、高知から大阪に出て来た頃は、ここらは赤線地帯だった」と親父が言ったことがあります。「そんなバカな」と当時は相手にもしなかったので、今頃こんな事実を知った訳ですが、アメリカ軍が「イタミ・エアベース」と呼んでいた頃、この交差点から空港への沿道にはダンスホールやキャバレーが立ち並び、僕の父親によると「テキサス通り」と呼ばれていました。

幼少の頃から蛍池に住み、現在60歳を超えている友人の間でも、「テキサス通り」という名称はおろか、この一帯がそういう地域だったことを知る者はいないと思います。

でも、この写真がその証拠。昭和28年の写真で、ここまでに見て頂いた写真の交差点を左折した光景です。とても蛍池とは思えない。映画やTVドラマの中の戦後の風景が、大阪の静かな北摂の街にもあったなんて驚きました。連合国軍が「イタミ・エアベース」を日本に返還したのは昭和33年(1958年)ですから、こういう風景が長く見られた訳です。そして、僕の親父もそれを見て知っていました。

戦後、豊中市の中でも、蛍池には米軍を顧客とした売春が蔓延し、刀根山には米軍の将校が多く住んでいたそうです。ただし、この周辺は決して政府の政策による赤線地帯では無かったため、一般の家を間借りして仕事をしていた売春婦たちが多かったそうで、そういう場所を提供する一般家庭を「置屋」と呼んだそうです。

こういう地図を見ると、本当に驚きます。親父によると朝鮮戦争後、米兵が去った蛍池では火災が多かったそうです。儲からなくなった水商売の店などに火災保険を掛けて火をつけて、「焼け太り」を企んだ人たちが多かったと、親父は聞いたと言います。

こんな話をなぜ今頃になって?と尋ねると、「別に話すことでもないし、たまたま思い出したから。昔のことで、お前の知らん事はいくらでもある・・」と、大阪の真ん中に御堂筋が出来た頃や、大阪の闇市、服部緑地には競馬場があった等、いわゆる戦後の昭和史ともいうような話をしてくれます。

今ではすっかり普通の町、綺麗な町に姿を変えていても、ほんの数十年前は全く違う姿をしていた・・・そんなことを知るのは、この歳になると本当に興味深いことです。


幻の駅 ~万国博中央口駅・万国博西口駅

2022-01-30 | 昭和・懐かしい北摂の風景

1970年のこんにちわ ♪~日本万国博覧会に行った記憶は、僕の友人達もそれぞれ持っているのですが、ほとんどの人が覚えていないのが、万博にどうやって行ったか?自家用車で、バスで、電車で行ったと口々に言うのですが、では質問です。

万博会場にどうやって電車で行ったの?

そう、今でこそモノレールが万博公園まで通っていますが、1971年以降、万博前には中国自動車が走っていて、線路は全くありません。線路が無ければ電車は走れない。

答は、万博開催中のみ電車を走らせたのです。

大阪万博は1970年3月15日から9月13日の会期中183日間で、のべ6421万8770人の来場者数を記録しました。これは国際博覧会史上2位。これだけの人を捌くのに、電車が無ければお話になりません。

大阪市営地下鉄は、当時最も北にあった駅は「江坂駅」でした。万博に併せて千里ニュータウンが開発されており、江坂より北には「北大阪急行電鉄」の建設が決まっていたので、仮駅の千里中央駅を建設し、江坂ー千里中央間の南北線を建設。そして、万博開催中は中国自動車道の敷地を借りて、万博に「万国博中央口駅」を作り、千里中央駅(仮駅)とを結ぶ臨時線である「会場線」を造りました。開通は万博開会直前の2月24日。昭和のパワーを感じます。

これがその千里中央駅(仮駅)と万博会場を結んだ北大阪急行会場線の写真です。写真右奥に見えるのが、中国自動車道の上り線用地に設置された「万国博中央口駅」。写真左上はガスコンビナートではなく(笑)フランス館で、順に太陽の塔の大屋根、三菱未来館、日本専売公社の虹の塔が写っています。左の土手の上に出来ている大行列は、アメリカ館に入るためのものです。

万博開催時にはこの電車が、ラッシュ時並みの最小2分半間隔で運転され、梅田駅から万国博中央口駅までを24分で結びました。とにかく混雑していたのを覚えています。子供の僕が生まれて初めて経験した寿司詰め状態のラッシュでした。

こちらは現在の大阪モノレール山田駅付近から撮影された写真。

万国博閉幕後の1970年9月14日、会場線は廃止され、万博開催中に完成していた「現在の千里中央駅」が開業しました。会場線廃線跡のうち地上部分は中国自動車道上り線に転用され、トンネル部分は資材置き場として現存しています。

阪急電車にも「幻の駅」があります。

阪急千里線の「南千里駅」と「北千里駅」の間、南千里駅から2.2kmの地点に1969年11月10日から1970年9月14日まで、臨時駅の「万国博西口駅」を設置。こちらは約900万人が利用したと言われています。

1970年の大阪万博は、北摂を大きく開発しました。現在予定されている次の大阪万博や、カジノなどは大阪をどう変えるのでしょう?大成功に終わった1970年万博のように成功して欲しい。間違っても昨年の東京五輪のようなイベントにはして欲しくないと、心から願っています。


飲食・会食、誰が楽しんでいるの?

2022-01-29 | 昭和・懐かしい大阪の風景

僕の住んでいる大阪府、コロナ感染者数が1万を連日超えています。大阪にも東京にも住んだことがある方ならお分かりと思いますが、所詮日本は東京一極集中の国。東京や神奈川等の感染者数は納得出来ます。首都圏はそれほど人がひしめいていますから。東京の山手線の駅など、ほとんどの駅がそれぞれ、大阪なら大阪梅田駅並みに人が乗降しています。

だから逆に言うと、大阪の感染者数がこれほど増える訳が分からない。兵庫県の伊丹市~尼崎市~西宮市~神戸市の感染者数は、意外と少ないと僕には思えます。本当に感染者数が多い地域、場所、差別につながるとかそういう意味ではなく、感染の中心がどこなのかを知りたい。僕は徹底ステイホームを貫いていますが、それでも駅前のパン屋、携帯ショップ、お菓子屋がコロナで臨時休業中。本当に感染の危機を身近に感じています。

そんな中、オミクロンは軽症等と吹くマスコミが多過ぎる。くしゃみ程度の人を軽症と呼ぶのは当然かも知れませんが、40度の熱を3日出していても軽症です。重症とは、実態は「危篤の人」のこと。言葉の本当の意味を広く伝えないから、みんなが出歩く。ブログを読んでいてもこのご時世に、大勢の人が会食を楽しんでいる様子を書かれています。

これだけ世界中で感染爆発し多くの人が感染していても、身近な親しい人が死ぬかエライ目に会わないと、みんな他人事のようです。スポンサーに忖度しているのか、マスコミはどこも言わない書かない。マスクは不織布でないと駄目なんだと全マスコミが連日報道するだけで、感染増加を少しでも抑止できるだろうに、実に中途半端な対策!これでは疲弊するのは、休みたくても休めない社会的使命感を持つ、医師や警官や教職員、公務員らばかり。

サラリーマンや若者は、こんな時でも飲食店や飲み屋で1杯したいのか?それは個人の自由ではなく、単なるアルコール中毒者の日常の姿だと僕は思います。そうでないなら、控えたり自宅で楽しめばいい。

写真は昭和57年(1982年)7月に撮影した、阪急東通商店街の写真です。みんなが涼を求めて歩いています。人と人とが交流するからこそ、お酒も食事も美味しい。そんな普通の楽しみが許される、普通の時間を取り戻すために、僕らは今は我慢しましょう。どの波、第何波の時でも、真面目に感染防止に取り組む正直者が損をしているようです。正直1部のコロナを舐めている人たちによって、感染は拡大して行く。医師や大変な目に遭っている人たちはそう考えています。

こんな時期に、こそこそ飲食・会食に出掛けたり、ウレタンマスクで見た目を気にして「ええ格好」をするのは止めましょうよ。みんなで短期間で終わらせよう!そういうことを出来るのが日本人だったハズです。少数派や過剰な権利ばかりを世の中が謳うから、こんなウイルスも封じ込めない国になってしまったのではないでしょうか?


大阪で1番忙しい「交番」

2022-01-28 | 昭和・懐かしい大阪の風景

繁華街で困った時は勿論、落とし物を届けたり、迷子を連れて行ったりと、若い頃に大阪でお世話になったのが、梅田の曽根崎警察と、このミナミ・難波は戎橋(通称ひっかけ橋)の南詰にある「戎橋巡査派出所」でした。

この写真は昭和30年代のものですが、僕が学生時代に見慣れた戎橋南詰の風景はこれです。橋詰の西側が1部ガラス張りの、モダンな派出所でした。

現在の同じ場所に立つ派出所とは、ずいぶん趣が違います。

昔の開かれた交番と違い、現在は要塞のように見えてしまいます。

しかし、時代は変われど伝統も守られる大阪。その背後には、劇場建築の名手・木村得三郎が設計した大正12年竣工の松竹座が、今もそびえ立っています。古い映画の看板の前には、「高島易断」の占いが出ています。若い人は知らないかな?

この場所は阪神タイガースが優勝した時には、ファンが道頓堀川に飛び込んだり、橋の北側のケンタッキーのカーネルサンダース像を投げ込んだりと騒動を起こした場所。この戎橋が「ひっかけ橋」と呼ばれるだけあり、若者の喧嘩や非行補導も多く、勿論酒の上でのトラブルや事件事故が絶えないエリア。ここで勤務される警察官は、地方の派出所等とは比較にならないほど忙しく、いろんな実務経験を短期間に習得します。だから、東京なら銀座の派出所とここには、優秀な人材が配属されると聞き及びます。

ただでさえ、人が背中を向けて逃げて来る方向へ飛び込むのが警察。コロナ禍でもあり、人と街の安全を守る仕事は大変だと思います。皆さん、警察の手を煩わせる行為は断じて慎みましょう。


鉄砲注射 ~昭和に消えた超ハイテク注射器!

2022-01-27 | 昭和・思い出は色褪せない

受験生にとっては大変な時期、卒業試験にとっても大切な時期。こんな時期に、まさに本物の感染爆発が日本で起きています。日本中が1つになって食い止めないといけない時に、ワクチンが無い、経口薬が無い、病床が無い、補償が無い・・政治家の無能と、マスコミの日和見的な報道。この2つが日本中を不安に陥れている。政治家、その周囲の人間、マスコミこそ、今は要らないような気がする。現場の人間は必死で頑張っている。まさに今、倍々ゲームのように感染が拡大しているのに、経口薬やワクチンが2月末にはとか、3月には・・?遅すぎる。この2年間何を学び、何をして来たのか?

大勢の人にワクチン接種を行うのに、接種券だ、注射針が、医療者の数が・・いろんなものの不足が訴えられていますが、そんな要素を全て解決するハイテク機器が、70年代に実用化されていたのを知っている人がどれくらいいるでしょう?

それは「鉄砲注射」。正式には「ジェット・インジェクター」と呼ばれていた物です。

写真のように鉄砲に似ているので、僕らは誰彼ともなく「鉄砲注射」と呼んでいました。この注射器には注射針がありません!鉄砲の上に薬の瓶が取り付けられていますが、それが空になるまで複数の人に撃ち続けることが出来ます。針が無いので針の交換も注射器の交換も不要です。

BCG、日本脳炎の予防注射、そしてインフルエンザの予防接種にも使われていました。

僕は何度もこの注射を経験しました。友人たちに訊くと、同じ世代であっても知っている人と知らない人がいます。昭和の子供が多かった時代。1クラス40人が1学年10クラスもあった時代、医師が学校に赴き予防接種を効率良く行うために持って来いの機器です。だから、子供の多い自治体で採用されていたのではないでしょうか?

その仕組みは、針を使わず、圧縮空気で皮膚を突き破り薬剤を注入して行くと言う物。しかし、神経線維を損傷する危険性が高いのと、飛び出した血液によって肝炎が感染する恐れなどから1987年に撤収勧告がなされ、1994年には廃止されていたようです。米国でも2011年に使わないよう呼びかける勧告が出されました。

僕の世代は、まさしく鉄砲注射全盛期だったようです。

針が無いから痛くない?そんなことはありません。撃った瞬間は痛くない?のですが、ジワジワと痛んで来ます。痛いかどうかは個人差がありますが、痛かったのは間違いないと思います。ただ、何百人もの人に針を刺すよりは医師も楽だったのではないでしょうか?注射を待つ間列に並び、終わった生徒に「痛かった?」「どうだった?」とみんなが聞く光景は今でも思い出せます。(笑)

昭和の時代って、意外と危険なものがどんどん使われていた悲惨な1面を持った時代でした。決して映画「3丁目の夕日」の世界のような、ノスタルジー溢れる時代ではありませんでした。営利誘拐や婦女暴行などの性犯罪が、今とは比較にならないほど多かった時代です。

しかし、時代は繰り返すと言うか、米国では2014年8月15日に、使い捨てになるなど改良された鉄砲注射が再び承認されています。ただ、使えるのは18~64歳に特定のインフルエンザワクチンを接種する時だけ。主たる目的は、医療従事者の針刺し事故の回避だそうです。加えて、針が怖くてワクチン接種を拒む人を減らすためだとか。ただし、この改良された鉄砲注射も痛いそうです。