marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(379回目)旧約聖書を読み始めるーその神髄とはどこに?(序論の2)

2017-07-06 23:13:46 | 日記
 国により翻訳の内容は多少異なれど、世界中の人口の何倍、何十倍、否、無数とも言えるほどの数え切れない人(天に帰られた人々含め)がその内容を文字として読まれてきた聖書を読むということ自体、感激的なことではなかろうか、と思うの僕だけか。
◆しかも、世界中で「神様」と呼ばれている本家本元の神様の話であると、あらゆる宗教が生まれるの中で、土台であるその舞台を初めに創造するとなれば、これ(聖書)がやはり一番始原ではないだろうか。それで、まだ序論な訳だが、畏れ多くて簡単にホイホイと次々ととても機械的に読み進められないというのが、実はまがりなりにも一通り理解した僕の感想である。
◆聖書は福音書は、まずヨハネ伝をとのことでルターのお勧めにより読んできたが、さて基となる旧約聖書となれば、聖書そのものとしてはユダヤ教の人々(イスラムの人々も本家は同じで)聖典中の聖典であるのですが、それにしてもイエスという方が来られて、宗教改革が起こって、万人祭司と神の言葉が解放されて、今、このように福音が届けられた国々においては神の言葉が、自国の言葉で(他国の翻訳でも)読めるというのは、なんと幸いな事ではなかろうか。
◆しかしだ!、真摯に考えて見ると、永遠の命のことばが解放されたが故にですね、それに気がつかず単なる心の安息の宗教の一種でしょ!などと気にも留めず、そのままさらりと見過ごし、聞き流してしまうことはなんと残念というか、それを通り越して実に恐ろしい事でもあるのではないだろうか(人類にとって!)。
◆旧約を読み始めると言うことは、つまりイエスの父の神のことになるのですね。僕らに与えられた字面だけの内容では、それはあまりに深くて、広くて、まぁ人間の言葉ではとてもとても表すことができない事柄が書かれてあるようだ・・・というところまでは推察できそうだ。「旧」と書かれてもそれは、神の独り子と言われるイエスがキリストとして、永遠の命のことばを述べられた約束を「新」と言われている意味であり、古くて過ぎ去った事柄という訳ではないことは理解される。僕らは生きて命があるからこうして書いたり、読んだり、斬った張ったで人生を歩んでいる訳だ。つまり、命を与えている神は、生きて動いて働いているということになるのですね。僕らはその中にあるのですから、決して事象を取り出して知識として本来、理解するものではないというか、実はできないということになります。
◆イエス・キリストは、「聖書(今の旧約)には私のことが書かれているのだ」と言われたのですが、彼が父なる神の独り子と言われてますから、「創世記第1章1節 初めに神は天地を創造された。」の言葉のその「創造者側」に、そのとき彼は居られたことになります。そこで、聖書の一番最後、つまり新約聖書の「ヨハネの黙示録」に、そのイエスが姿を現す場面が多数出て参ります。おお!なんというか、すごい。
 例のユダヤ人ラビ(先のブログ読んでくださいネ! 今後、「例のユダヤ人ラビ」と書くことにします)が「聖書は理論的な書物である」ときちんと話していますから、学べば学ぶほどトリビア!なのですね、きっと。
◆今、プロテスタント教会では、教会どおしで交わり、交流があります。敬愛する教会の教会案内に次の言葉がありましたのでお借りして掲載させていただきます。***************
『キリスト教信仰について』
 信仰は、「学んで覚える」というものではありません。そうではなくて、『聖書』の語りかけにじっくり耳を傾け、その奥深い真理を受け止めることによって与えられるものです。信仰が与えられるためには、何よりも日曜の礼拝に出席し、そこで読まれ、説き明かされる『聖書』の真理に触れることが最も正しい道であり、一番の近道です。さらに、できるだけ教会の集会等に出席されますと、より理解が深まって行かれることと思います。ぜひ、世界のベストセラーである『聖書』に親しみ、その中に記されている神さまの豊かな恵みと、神さまのひとり子イエス・キリストの深い愛の生涯に触れられることを、心よりおすすめいたします。*************・・・続く