marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(382回目)初めに神が天と地を創造した(創世記):旧約聖書を読み始める

2017-07-10 07:00:00 | 日記
 初めて旧新約聖書を手にした時、多くの人はどれだけ良いことが書かれていることかと思うのではないかと思うし、あるいは、お題目のように何か呪文のような効力があるものであろうと思うのではないだろうか。あるいは、神様の書物であるから、ある人は神棚(?)のようなところに大事にお供えをして居られるかもしれません。しかし、無論、それはそれで人それぞれでありましょうが、それでは生きている神を体験する事はできません。いわく、とにかく自分の言葉と合致させるような学びをするものであると今は言えると思います。はっきり新約時代に成り、パウロは「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と言われていますから、いかようにも解釈のできる文字についてはイデオローグにもなり、結局、文字に仕えている奴隷としての気付かない自分がいるということになります。宗教の多くの争いはここにあり。
◆さて、冒頭からとても気難しいような議論に入り込むようですが、機械的読むだけであれば、そのまま読むだけでも面白くはありますが、時折、意味不明、無味乾燥のことが出てきて、なにやら分からんというところが至る所に出てきます。
 今まで僕のブログを読まれた方はご理解されているかと思われますが、最低限の基本を除き一人ひとりに語るイエスの言葉なのであって、決して一般化されるものではありません。それではプロテスタントキリスト教会にとって現時点、最低限の基本とはなんぞやと問われれば、この日本においては「日本基督教団信仰告白」ということになろうと僕は考えます。ここで、ドン引きする人が出てくるやもしれません。組織という”しがらみ”からの解放ではなかったのかい!・・・確かに、さて、ここでもデリケートな事をみれば、人間の思考の”しがらみ”からやはり、解放されないものなのだということに気付かれてください。大切な最低限の基本とは書かれている告白されている内容についてその基本が書かれているということ。その人間の組織体に隷属するという意味あいがどうしても入り込んで来ますが、そうではないということです。例えば、「中国基督教団信仰告白」というものが隣国で発行されてとします。その内容が、日本基督教団信仰告白とまったく同じだったとします。告白文の中には、この国の概念は表現されていません。まったく、キリスト者としては違和感のないものであるということです。「日本基督教団信仰告白」については、別に書きたいと思います。
◆さて、旧約聖書を読み始めるということで、余談だらけですが、トリビア!と驚きの様々な解説は、ネットでもyoutubeで探せますが、基本は先に書きましたイエスの言葉です。なぜなら、イエスは、今から2000年以上前に地上に来られたからからです。福音の種は、世界中に撒かれたからです。世界の終わりの始まりが提示されたのです。人類の責任は、非常に重くなったと言えます。基本はここに戻ります。
◆旧約聖書を読むに当たって、解説書もピンからキリまであります。ネットでも探せます。知識としては、いかようにも探せると思える時代です。しかし、それを現在も、生きて歴史に働かれて神を感じるには、やはり、教会生活もして、無論、自分の日々の生活も行って、その中でも自分に対する課題をその中で、解消していく、心理学的に言えば、あの「夜と霧」を書いたヴィクトール・E・フランクルの提唱したロゴ・セラピーを習得するような生活になると僕の生活では思っています。(※ロゴとは、ロゴスのこと。ヨハネ伝第1章1節 「初めに、ことばがあった。」のそのことば「ロゴス」、”意味を見出す心理学”と言われている。)
◆さて、表題は、創世記第1章の第1節です。同志社を設立した新島襄は、神は万物を創造したということばに、今までの自分の思っていた神概念と異なることに驚愕して、聖書の神を求めて密航を決意したと以前、読んだことがあります。考えて見れば、僕らの勉強する物事は神の創られた世界の事象を分析しているに過ぎず、利便性や合理性は、神の事象の一端を解明し利用しているだけに過ぎないのではないかと思わされます。しかし、今やそのことを忘れ、自分の命を自分で消滅させるまでになっています。これは、まさに天上界でのパラダイスの生活から、悪魔がそうしても死ぬことはないと言われて、その一線を越えてしまっている状況になってしまっているということですね。
・・・・続く