marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(383回目)「神が言われた」だけでどうして物事が成るのか(創世記)

2017-07-11 19:05:16 | 日記
 旧約聖書をマジに信仰的(本道でと言ったらよいか)に学ぼうとされる方は、その手のテキストも本屋さんやネットでも沢山ありますので、そちらを捜していただくことで、それでも困る方は近くのキリスト教会へ行かれて(福音主義をお勧めします。分からなければネットでも沢山捜せます。但し、ネットに掲載していない教会もあろうかと思いますが・・・。いずれ建物には十字架がありますから)、そこの牧師先生に訊くのが一番かと思います。そこで、ここでは、僕個人の読み方といいますか、歳を重ねとそれだけ疑問形で深読みしようとする僕の気質で、まぁイエスご自身もお許しくださるであろうと考えている訳です。イエスは弟子を越えて友と呼ぼうと言われている事でもありますし・・・。(牧師さんは、ここに書くようなお話は間違ってもしないと思いますけれど・・・)

◆さて、1節の「初めに、神は天地を創造された」とありますが、たいていは、次の2節からがその成り立ちと読むのは普通だと思いますけれど、実は原典では、この文は完了形となっているらしいのですね。ということは、パラダイスが完成されていたということ・・・。アダムもエバさんも両者裸であったけれど、お互い恥ずかしいなどと思わず、いずれすべての創造されたものが完成型としてあったということ。そのいきさつが1章2節から2章の終わりまでとなるという読み方。ですから、1章1節の後は、3章に飛んでも一応筋がとおる。それにしても・・・
◆神が言われただけで、つまり言葉だけで(本来は音を出せば消えていく言葉ではなく「言」<ロゴス>」)どうして、ものごとがその通りになるのか・・・この言葉は、ですから僕ら地上の限界のある一般の言葉と呼ばれるものとは、当然と言えば、その通りであるのが神の次元の思いを成り立たしめるその源になる「言(ことば)」ということになりますね。
◆それで、今読み始めたのは、旧約聖書ですが、これに対応するのが、な、なんと! 新約聖書のヨハネによる福音書第1章1節から5節になる訳です。
その部分を書いて見ましょう。**********
 (1節)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(2節)この言は、初めに神と共にあった。(3節)万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(4節)言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(5節)光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。***********
◆ここで、ヨハネによる福音書の1章の18節までを読みたいと思います。その中では、御子イエスは、神の独り子であり、まことの「光」であり、「言(ことば)」であると述べているのです。つまり、創世記1章1節では、神は・・・と記されているから、これは父である神でもあれば同時にイエス御自信でもあるように読めることです。前述ヨハネ伝1章1節を読めば、そのように読めますね。だから、イエスが弟子に「父をお示しください」と問われたときに「わたしを見たのは父を見たのである」と言われたのですね。これはつじつまが合いそうです。
◆次に、創世記第1章2節には、「・・・神の霊が水の面を動いていた」とあります。不思議な書き方です。これは、神の物事を成立させるエネルギーの媒体のようなものでしょうか。これは、霊と書かれていますがとても「聖霊」とは解釈できませんね。その中で「神は言われた」という言葉が物事をなりたたしめたエネルギーが「聖霊」と思われることです。すると、ここで、天の父なる神、御子キリスト、聖霊が一体である、つまり三位一体の解釈も理解されるように思います。こういう解釈のもとにヨハネによる福音書の1章の18節までを読めば、理解が少し深まるかと思います。・・・ しかし、ここで気になるのが「闇」ですが・・・・続く