marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(392回目)人は知らなくていいことがある 〔創世記第2章〕

2017-07-21 20:56:42 | 日記
 エデンの園の中央には、「いのちの木」と「善悪を知る木」がある。主なる神は人(アダム)に「善悪を知る木」の実は食べてはいけないと命じた。その実を採って食べると必ず死ぬと言われたのだった。(創世記第2章17節)
◆ここで、どうして「善悪を知る木」の方なのだろうか。「いのちの木」であれば「死ぬ」と言われても言葉上は分かるような気がするが・・・。
さて、僕らの普段の思考自体、その判断基準を今一度、立ち止まって考えてみよう。デリケートな問題を含み必ずといっていいほど、他を裁く主体になっている当の自分、あるいは判断している当事者がいるのではないだろうか。つまり、不思議と善悪の判断を自分の思い、それは今までの人生経験、あるいは遺伝的気質にもよるかもしれないが、そういう「善悪を判断している」当事者がいるものなのである。ここで又、小難しくなるがリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」ではないけれど、生き物というものは、生存競争で勝ち抜いた遺伝子が子孫を残してきたように、他を排他して生き延びるように働く極めて動物的な生存淘汰機構が造られている。実は、これは意欲にも結びついている場合もある。他を排他する・・・これは”いじめ”にも結びつく。鶏は弱ったものをつついて殺してしまうとかのように・・・。
◆聖書(新約聖書の方)的に言えば、これは「肉」に属する方なのであるが、そこで、かりそめにもその当人の思考の前に立ち塞がる障害、つまり自由(あえて肉的と書く、真の自由はキリストを知る事にあるから)の障害を壊そうとする場合は、客観的にそれが真か否かは別にして、自己肯定する「善悪の判断」を自分で思考の中に(思い込みの中にといっていいい)作っているものなのである。これは、食欲や性欲の動物としての基本の肉の維持だけではなく、本人にも気づかない、つまり客観性がない、かなりひどい判断のよりどころもあるのである。つまり、内容はともかく自分の生死に拘わっているいるにも関わらず、お祭り騒ぎのそのときの気分によるものもある。つまり、全く動機は、自己中心的であり、それはまだ言葉で定義できそうだが、それ以前という感情。例えれば、空に向かって唾を吐きながら汚い、汚い何をさせるんだと喚いている、端から見ればそのような生まれたままの人ははっきり言って多くいるのである。
◆僕らに周りに例を捜すには困難はない。誰かと話をして「何らかの批判を強くする人間」の判断基準は、客観的なものか否かは極めて深く考えるといい加減なものなのである。実はその理由を聞いても一面だけからの気分である。ここで、客観的に人とはいかなるものであるというような(無論、自分も含めて)冷静に事の判断、その根拠を解析して回答を求めなければ、「ホサナ、ホサナ」とイエスを迎えつつ、お祭り騒ぎのように「十字架につけろ。十字架につけろ。」と一転変わってしまうのと変わらない。
◆そして、おそらく悪魔は、そのように世の中を気づかぬうちに変えていくのであろう。みんなが良ければいいじゃないですか・・・と。
今回、「善悪を知る木」を食べてはいけないと主なる神が、人(アダム)に命じた事は、実に意味深い言葉なのであると考えるのである。さらに、この言葉は、最初の人に神が言われたのであって、その後、創造された女(エバ)に言ったのではないということなのである。会社勤めの方は分かるかと思うが、指示命令系統の混乱が次に生じてくる。悪魔はその隙を突いて、丁寧に女を諭していくのであった。・・・ 続く