marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(398回目)神が造られしネフェシュ(人)・・・宿題 〔創世記第3章〕

2017-07-27 02:22:22 | 日記
 神様の始原のお話なので、畏れ多いのか誰でもが口をつぐんでしまう。それは、おそらく不完全な神のかたちに創造されてもあまりに脆弱だったために、実は「われわれのように・・・」と対等に独り立ちにするための、人に多くの試練を経させなければならなかったという・・・きっと、それは、神のパラダイスへの帰還へ仕組み(つまりは、地上に使わす神の独り子イエスをキリストとして信ずる者は永遠に生きるという契約を受領する魂)に全人類を預からせるための神の大逆転の壮大なドラマが、このときから始まったということなのだった。
◆さて、前回のブログの中のヘブル語の「ネフェシュ」という言葉についてなのですが、詰まるところ、今ではデカルト(フランスの哲学者:「我思う、故に我あり」の有名な言葉を残した)の肉体と精神、霊と肉(これもギリシャの影響を受けたパウロさんの手紙にも採用)とかのような考え方の方が言えばなんとなく理解されるのかもしれないのですが、実はそれではなくてそれ以前のというか本来のと言ったらいいか、その言葉の意味は、むしろそのような言葉には分けられない全人的な、魂も肉体も総括的なその人・個人という、つまり神からの霊とのつながりがあるひとりの造られた人間そのものをいう・・・とのことでありました。僕らは、あれこれ恣意的に考えて納得するけれど、むしろ創世記の人の創造場面からすれば、このことばの意味が当たり前のように心に響いてくるなぁ。
◆なぜなら、創世記第2章7節 「〔・・・・〕神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生き物となった。」とあるように、神は特別な霊を人にのみ吹き込まれたのであった。それは、脆弱性があるが、尊厳のある人間と見ることができるのだな。・・・で、少し話がずれたが、ネフェシュとは、神との霊とのつながりのある被創造物としての人というイメージを持たなくていけないなと思わされる解釈のすすめなのでした。例えば、創世記第2章4節は「生きたネフェシュとなった」と書かれており、人の息が絶えたとき、つまり屍だけはそこにあるが息していない人は民数記第5章2節の「死んだネフェシュ」と書かれる、つまりそう言えるということなのだ。だから旧約聖書でここで使われているネフェシュというヘブル語は、本来、大きくあいた口を意味するところから、食欲、欲望、それを起こさせる生命を具体的に指示し、その他、顎、魂を指すのに用いられる。しかし、同時にネフェシュは個々人を指すためにも用いられる(参照は、並木浩一先生の著作からちょい勉強で・・・)という特別な意味合いを持つ言葉のようでした。それが使われている日本語訳(今見ているのは、いのちのことば社の新改訳聖書)は「たましい」と訳されているようです。
◆詰まるところ、神から特別な息を吹き込まれた死ねばちりにかえる神のかたちに似せて造られたのが人ということ。重要なのは、三次元的に目で見て、その姿が確認できる人ということではなく、生きるか死ぬかかは、神の霊に繋がっているかどうか(無論、人がちりに帰ったとしてもの話です)そちらの方が、神にとっての生きるか、死ぬかの話でとても重要な事なのであるということです。死んでも最後の審判で霊の裁きがあるし、パウロに言わせれば「霊の体」と言われているものの方なのです。所詮、誰でもが地上の目に見える肉体は消滅します。しかし、神に対して、地上での生存時、与えられた霊(肉体との一体をこのとき僕は「魂」と言いたい)が死後も、永遠に生きるか、死ぬかに関わってくるのです。聖書でいうところの、永遠の霊に生きるということが、重要な事となるのです・・・。今回は、大切なこと、少し脱線してしまいました・・・ 続く