marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(380回目)永遠の命の言葉を阻害する”しがらみ”とは:旧約聖書を読み始める(序論の3) 

2017-07-08 07:47:02 | 日記
 旧約聖書を読むにあたり、その心構えというかを述べてみたい。いつも”僕の”という前置きが付いておりますので、解釈ご理解の際はよろしくお願いします。それから、キリスト教会の悪口のように思われるような言い回しは、決してそうではありません(これは、人という生き物の負の傾向に対抗する言い回しでもあるのでご了解を)・・・ でパンフ
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 信仰は、「学んで覚える」というものではありません。
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◆まさに、”しがらみ”とは、大きな話から言えば、マックス・ヴェーバーが言った”呪術や魔術”という類いの(現代版の)一部であるのですが、大上段に構えなくても僕が言わんとすることは、内容的には非常に些細な、誰しもが持つであろうデリケートな事でもあるのです。それは、先のブログにある教会の教会へのお誘いのパンフの「キリスト教信仰について」の文を掲載させていただきました(上の文)。その中にも既に僕らの心情にはひっかかる文章が冒頭から書かれいると思うのです。
◆僕らはせっかくの命のことばが与えられているので、そのことばを自分のものにするために、自分の心情(ここで僕が”心情”と書いたのは、肉体に属しているそこから発せられくる当たり前の考え<注:ここでも肉体に付着する考えというのは、国に拠っても異なると思われるのでここでは、僕ら日本の国と理解されたい>)に正直になって、今一度、冷静に疑問に思われるところは自分の言葉で考え(=前頭葉に自分の言葉で整理して)て見る必要があると思います。まさに、欧米の諸哲学に僕らが頭が上がらないのはこの訓練が、外部から<つまり神>の問いに対す地上の人間の格闘がなかったからか思う。かの国の心情評論家とも思われる著名な小林秀雄でも、ベルグソンを学んでいたし、若い頃にドストエフスキーを読まん人間は<文学的にということでしょうけれど>信用できないというようなことを言っていたな・・・)
◆自分の言葉で理解する(応答として)、それがまさに、パンフの次の言葉に該当すると思われます。
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 そうでは、なくて、『聖書』の語りかけにじっくり耳を傾け、その奥深い真理を受け止めることによって与えられるものです。
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◆さて、前に戻り”しがらみ”なのですが、パンフの冒頭の言葉に、ほとんど人は身を引いてしまう思いをきっとするに違いないな。そもそも上から、そう来たかというイメージ。実は、とくにこの国の人々は心情から来る言葉に非常に秀でているので(例えば、俳句や短歌などは、その最たる文化だと思う)「信仰」は・・・といわれても、ほとんどの人はその信仰ということばを、取り出して考えたり定義するような(畏れ多くもとつけた方がよいか)ことはしないのではないだろうか。
◆しかし、それでそのデリケートな心情なるものを除外して、冷静に僕らの今書いた心情に当てはめれば、そのパンフの「信仰」については、当たり前のこと、当然のことが書かれているのが、どこの国の宗教の方?でもおそらく納得するのではないだろうかと思う。
◆ここで基本に戻るとイエスの言葉は、霊の言葉(”神は霊である”と書かれている)と僕らが生かされているこの肉体(この肉体が抱え持つ霊を”魂”と一応呼ぶ)の行き来(つまり、霊と肉体の会話)が、イエスの言葉に共感してこの肉体が、天上へ帰還するために純化していく、そして地上の人生はその訓練の場であると考えられるから、地上での限界のある諸教会のその話されている言葉(説教や例えばこのパンフ)に畏敬を持つか、あるいはかなりの違和感を持つのではないだりうか。まず、自分自身を知る(知らされる)聖書を真摯に読むとはこういうことが並行して行われていく作業(訓練)なのである。・・・・ 続く