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キャバクラ-未婚10代母,娘残し無念暴行死

2017年09月02日 | 事件

   毎日新聞2017年9月2日

   東京都港区新橋のキャバクラ店で7月、勤務中だった与島稜菜(りょうな)さん(当時19歳)が、店の経営に関与していたとされる伊藤英治郎被告(31)=傷害致死罪で起訴=に顔を踏みつけられるなどの暴行を受け、亡くなった。与島さんは2歳の長女を育てるシングルマザー。自立を模索するさなかだった。

「ママに会いたい」。骨つぼの前で、まだ死の意味も分からない長女が訴える。両親によると、与島さんは高校1年の時、同級生の子を妊娠して中退。出産後、「自立のために勉強したい」と高卒認定を取り、がんで闘病中の父親(53)と、働く母親(52)に支えられ、長女を保育所に預けて弁当店のパートをしていた。早朝勤務だったため「昼間は子供をみられるのでは」と区役所から指摘された。

  無資格でできる産婦人科の看護助手になったが、「できた命を大切にしたい」と出産を選んだ与島さんには人工妊娠中絶に関連する業務が耐えられず、昨夏退職した。

 中学時代から与島さんの勉強や子育てを支援していたNPOの男性(27)は「根を詰めて働き、親に頼らず自分で何とかしたいという気持ちが強い子だった。子育てを支援していた助産師は、いつも子供最優先で愛情を注ぐ姿を見て看護職を勧めていた」と振り返る。

 昨年10月から「やり直したい」と高校時代の同級生と長女との親子3人で暮らし始めた与島さん。「動物の看護学校に行きたい」と夢を語った。しかし、日々の生活費を巡るけんかが絶えず、生き抜くために見つけた職がキャバクラだった。後から知った両親は長女を引き取り、与島さんにも実家へ帰るよう促したが、次第に連絡が取れなくなった。支援のNPOとも、子育てサロンが閉鎖されてからは疎遠になっていた。

  「これがうちの娘?」。事件後、両親が病院で目にしたのは別人のように何倍にも顔を腫らし、意識不明の重体となった姿だった。顔では判別できず、手の爪を見て「娘の好みのネイルだ」と確認できた。医師の説明では「持って2日」。脳の腫れがひどかった。

  与島さんがいつも身につけていた母親とおそろいの指輪は、ひしゃげていた。目や鼻からの出血が止まらず、母親は「痛かったね。寝たきりでもいいから頑張ってね」と声をかけながら毎日タオルで拭き続けた。願いは届かず、5日後に息を引き取った。

 

 「これは殺人ではないですか。稜菜は事件前日、『昼間働きたいから辞めたい』と(伊藤被告に)伝えていたそうです。出勤しなければよかったのに。どうしてもっと親を頼らなかったのだろう」。母親の胸にはさまざまな思いが入り乱れる。

    ◆

  事件後、キャバクラやスナック従業員の労働組合「キャバクラユニオン」が緊急声明を発表。キャバクラの労働環境について「暴力は私たちが常に向き合わされている現実」と訴えた。

  布施えり子共同代表によると、相談してくる女性の大半は、昼間の仕事は非正規で十分稼げないことを理由にキャバクラ勤務を始めるという。すぐに働けて、日払いで給料をもらえる仕事は頼みの綱だ。

  業界に入ってくる女性が増える分、「使い捨て」のリスクは高まっている。給与の未払い、長時間拘束、即日解雇は日常茶飯事だ。店長やオーナーが暴力で支配し、従業員は不当な扱いに抗議できない心理状況に追い込まれやすい。客や経営側の暴力に泣き寝入りするしかないという相談は多い。与島さんも、従業員の男性が暴行される様子を見て出勤できないことがあったという。

  ネット上には、被害女性やユニオンに対する中傷があふれた。「高給の代償だ」「女性を売り物にすればリスクはつきもの」--。布施さんは「水商売への差別的視線を感じる。被害者へのバッシングが、ますます被害の声を上げづらくさせる。まず実態を広く知ってほしい」と訴える。

    ◆

 「10代の妊娠は『予防すべきリスク』とされ、母親に対する偏見は根強い。出産後の苦境は自己責任とされ、公的支援はないに等しい」と指摘するのは、若年母親の生活実態を研究してきた大川聡子・大阪府立大准教授(地域看護学)だ。

  厚生労働省の人口動態調査などによると、10代で妊娠した人の4割が出産し、出生数は1万~2万人の間で推移している。中卒や高校中退で、アルバイトやパートの不安定雇用となるケースが多いとみられる。未婚での出産や離婚で、実家の援助がなければ孤立しがちだ。

  出産を選ぶ若年母親は、もともとの家庭環境や学校生活に課題を抱え、母親となることで社会や新たな家族とのつながりを求める志向が強いという。米国や英国では、子供への貧困の連鎖を防ぐため、高校併設の保育所や、教育や職業訓練を受ける未成年の親には保育料を免除する制度も整備されている。大川准教授は「日本でも母親の就労や教育に関するニーズの把握と、将来設計を含めた支援のための制度構築が必要だ」と話す。【稲田佳代】

 

 キャバクラユニオンへの相談=火木土日曜の午後3~9時、03・3373・0180。

 SOS赤ちゃんとお母さんの妊娠相談=24時間、0120・783・449。


まるで戦前の「たこつぼ労働」を思い出す。
以前の記事にもあったが、高校生が妊娠すると「退学」という「処分」で高校はその責任を放棄する。ここで食い止めなければ・・・・・


関東大震災から一夜明けた9月2日の午後8時頃・・・・

2017年09月02日 | 事件

「歴史修正が恐ろしい」日本フォークソングの始祖、中川五郎はだから歌い続ける

かつて朝鮮人虐殺が起こった現場で、彼は語った。

  ハフィントンポスト2017年09月01日

 1923年、関東大震災から一夜明けた9月2日の午後8時頃。東京府北多摩郡千歳村字烏山において新宿方面に移動中のトラックが自警団によって止められ、竹やり、棍棒、トビ口などで武装した人々に取り囲まれた。

   車中に乗っていたのは17人の朝鮮人労働者たちで京王電鉄の依頼を受けて土木作業現場に就く途中であった。すでに「震災の混乱に乗じて転覆を図る朝鮮人暴徒が世田谷方面から集団で襲って来る」等のデマが千歳村に流布されており、尋常ならざる興奮状態であった武装集団は数回の押し問答の末、朝鮮人という言葉に反応し手にした凶器で襲い掛かった。

   法に基づいた調査もなされずにただ朝鮮人ということだけで凄惨を極める私刑が行われた。当時35歳だった洪其白さんたち13名が犠牲になった。

   かつてその朝鮮人虐殺が起こった現場、千歳烏山の大橋場の現場を今、じっと見ながら中川五郎は言う。

「僕は1980年代に10年ほど烏山に住んでいて、このあたりもよく通っていながら、事件のことを知らなかったんですよ。それから烏山神社のことも。だから加藤さんの本を読んだときはショックでね。すぐに歌を作って現場を訪れました」

   加藤直樹著「九月、東京の路上で」(ころから刊)は当時の文献や証言に踏み入り関東一円で同時多発的に巻き起こった虐殺の事実を徹底的に検証した良書である。難民を助ける会の長有紀枝理事長はボスニアのスレブレニッツァで起こった「民族浄化」を長年に渡って研究してきたアカデミシャン(立教大学教授)でもあるが、「九月」を読んで自分の足元でも同様にこのようなジェノサイドが起こっていたことに衝撃を受けたと語っている。

   中川もまたこの本に突き動かされて「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」を作った。虐殺事件に触れる世田谷区50年誌によれば、かつて烏山神社にあった13本の椎の木は「自警団に殺された13人の朝鮮人の霊をとむらうために植えられた」とあるが、加藤は新たに「烏山神社の椎の木は朝鮮人供養のためではなく、殺人罪などで起訴された加害者のご苦労をねぎらうため」という地元に暮らす古老からの証言を掘り越している。

  「怖いことです。僕も住んでいたからこそ分かるんですが、千歳の村でかばい合う意味での絆があったんでしょうね。身内の団結というか、例え誤ったことでもそれは地元のためにやったことだからと正当化してしまう。内向きでそれを正義にしてしまう。日本の恐ろしい所、この国が犯して来た過ちです。これを歌わなければと強く思ったわけです」

   本が出たのが2014年3月で5月にはもう曲を作っていた。烏山で起きた事件をひとつの物語としてろうろうと歌い上げるバラッドは実に17分49秒におよぶ大作となった。

   「でもね」と続ける。「僕が歌っているのは、94年前のことではなく、今の日本のこと。事件は過去のことでも現在と未来のことを歌っているんです」

   一時ほどではないにせよ、白昼堂々と「朝鮮人を殺せ」と叫ぶヘイトスピーチが横行し、それらを企んだ人物が政党を作った。一年前には相模原の障害者施設で19人が殺害される事件が起こった。

「自分たちと異なる人たち、出自を外国に持つ人であったり、障害を持つ人たちとこの国で共に生きようとするのではなくて排除しようとしている。そんなひどい社会になっているじゃないですか」

   そして関東大震災の虐殺については、歴代都知事が行って来た朝鮮人犠牲者の追悼式に対する追悼文を小池百合子都知事が、約6000人という犠牲者の数に疑義を呈して今回は見送ると表明した。

「ああいう歴史修正が恐ろしい。小池知事は東京大空襲や広島、長崎の被害の数字にはこだわりは見せていないじゃないですか。それでいて関東大震災の虐殺については数字から事実ではないのではないかという言いがかり。仮にその数字に信憑性がなかったとしても、例え犠牲者の数が少なかったとしても、デマがあって自分たちと違う人々がそれを理由に殺されたという悲惨な出来事自体はあったわけです」

「都知事の立場ならば、かつて東京でそういう事件が起こったということ、数字の正確さよりもそれを二度と繰り返さないという誓いを言わないといけないと思うんですよ。ところが、数字の問題にすり替えて、あった事実をゼロにしてしまう。知事が追悼の言葉を送らないなんて考えられないですよ。恐ろしい時代になって来ました。そのおかげで僕はこの年になって歌いたいことがどんどん出て来ました」

 

   岡林信康や高石ともやら日本のフォークソングの始祖の一人、中川が歌い始めたのは1967年、大阪寝屋川の高校二年のときである。アメリカのシンガー、ウディ・ガスリーやピート・シーガーそしてボブ・ディランに大きな影響を受け、被差別の問題やベトナム反戦をテーマに曲を作った。1969年には伝説の第一回中津川フォークジャンボリーにも出演している。

「フォークジャンボリーも第一回は本当に手作りでウッドストックなんかの海外の野外フェスと関係のないところでやったんですよ。画期的でしたね。ところが翌年から野外フェス=ウッドストックになって、71年にも出演しましたが、規模が大きくなりすぎて違和感がありました」

「当時の関西フォークは反戦歌が当たり前でした。でも70年代に入ってその後は政治を歌に持ち込まないということが主流になっていった。僕が影響を受けたアメリカのフォークからすればあんなのはただの流行り歌です。フォークは暮らしを歌う、暮らしは政治を歌う。でも自分たちの暮らしだけで完結してしまう歌が増えた。自分たちだけが幸福だったら良くて他の人は知らない、そんな歌ばかり」

  一時は歌の世界から離れていたが、2000年代になって戻って来た。それはやはりフォークシンガーとして看過できない社会になってしまったからである。

「どんどん不自由になってきてジュネーブでの軍縮会議でも日本の高校生のスピーチが無くなってしまいましたよね。僕の表現に対する考え方は飾ったり、難しいことや誰もやったことのない新しいことをやることじゃなくて、正直になって裸になることです。それが一番伝わる。逆に言うと裸になって真っ直ぐな思いを表現するというのは50年やってきたけど一番難しいんです」

   自ら訳詩集も出しているボブ・ディランのノーベル文学賞についてはこう言った。「受賞理由をよく読むと歌詞が文学的ということではないんです。トラッドなアメリカの民衆音楽をベースにして訴えたいことをやり続けて来たことを文学だという。僕もその評価が正しいと思う」

   ディラン同様に自らも活動を続ける。「まずは人前で歌いたいという気持ちが強い。そして歌詞を見ずに歌いたい」今は月に20回のライブを行っている。9月5日は作って3年歌い続けて来た「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」がついにCDになり発売となる。

中川五郎「トーキング烏山神社の椎の木ブルース」