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日馬富士暴行事件以後の大相撲を読み解く

2018年01月19日 | 社会・経済

何が大相撲に差別を呼び込むのか?

   日馬富士暴行事件以後の大相撲を読み解く

              時事オピニオン2018/01/19

 

by星野智幸  (作家)

   元横綱日馬富士の暴行事件に端を発して、2017年末からの大相撲協会を取り巻く騒動はとどまるところを知らない。作家の星野智幸さんは、「相撲ファン」で知られ、これまでも外国人力士に対しての差別的なヤジや「日本人力士ファースト」ともいえる観客の態度に懸念を表明してきた。相撲エッセイをまとめた近刊『のこった もう、相撲ファンを引退しない』を発表した星野さんに、この“日馬富士暴行問題”について、大相撲の行く末について寄稿していただいた。

 

 薄れるかに見えた「日本力士ファースト」の空気

  2017年納めの場所である九州場所の最中に、私の相撲エッセイ集『のこった もう、相撲ファンを引退しない』(ころから)を刊行するにあたって、じつは少々タイミングを逸したのではないかと思っていた。

  このエッセイ集は「大相撲と愛国」をテーマとした本であり、大相撲をめぐる環境に「日本人ファースト」のムードが高まり、外国人力士への差別が蔓延しつつある状況を批判している。筋金入りの相撲ファンである私が、国技館に足を運びながら感じたことだ。2016年に「日本人優勝」「日本人横綱誕生」を期待するキャンペーンが相撲協会とNHKの主導で行われ、ほぼすべてのメディアがそれに乗って大騒ぎしたわけだが、常に幕内の3分の1近くを外国の力士が占める時代に、感じの悪いことおびただしかった。アメリカのメジャーリーグ野球で、アメリカ人ファーストの応援や報道が大勢を占めたら、実力でその地位を勝ち取っている日本の選手がどんな思いをするかを考えてみれば、その異様さはわかるはずである。だが、相撲での日本人中心主義に異を唱える人は、非常に少数だった。

  しかし、「日本人」大関の琴奨菊が優勝し、豪栄道、稀勢の里と続き、稀勢の里が横綱に昇進し、さらに2度目の優勝で怪我を負って以後休場が続くと、「日本人ファースト」の空気は薄くなっていった。なんとなくブームに便乗していた客が減って、相撲を日常的に見るファン(特に女性の相撲ファン)が増えていった。

  象徴的だったのが、2017年の秋場所、日馬富士がただ一人出場した横綱として大逆転優勝を果たしたときである。千秋楽、同じく優勝争いをしていた「日本人」大関である豪栄道に、手拍子でコールが沸いた。大相撲ブームとともに発生したコールという応援の仕方は、日本人力士を応援するときにのみ起こるものだったのだが、このときはすぐに日馬富士コールが起こり、豪栄道コールを打ち消してしまったのだ。秋場所の国技館に3回も足を運んだ私は、日本人力士だから応援する、というような空気が確実に薄れているのを肌で感じ、もう差別の潮目は変わったかな、と思い始めていたのだ。だから、私の本は、出版する前にすでに役割を終えつつあるのかも、と考えたのである。それならそれで、これはかつてあった差別の記録として残しておこう、と。

  甘かった。ここ何年もかけて作られた差別の土壌は、何かことが起これば牙をむくまでに強固になっていたのだ。この本は、世に出るなり、日馬富士による貴ノ岩への殴打事件に巻き込まれていく。

 暴行事件の処置をめぐる問題

  大方の人が感じているとおり、この事件は、日馬富士の暴行問題という側面と、貴乃花親方の行動を源として、何でもありの飛ばし報道合戦と化した側面とが、混ざっていた。さらにその混乱に乗じて、白鵬叩きを始めとするモンゴル力士への差別が猖獗(しょうけつ)を極める事態となっている。だから、問題とその解決を探るためには、それらを一緒くたにせず、丁寧に解きほぐして考える必要がある。

  すべてに共通する私の結論は、大相撲はもはや、根本からの近代化をしないかぎり存続できない、ということである。近代化とは、現代日本でどこの組織もが基本に据えている、法治主義(法令遵守)と民主的な運営、情報公開である。

  まず、日馬富士の暴行問題については、現代の日本が法治主義に基づく民主社会である以上、格闘競技の選手による器具を使っての暴力は、理由が何であれ、まず警察と司法によって裁かれるべきである。示談等の解決方法も、その過程で探られるべきだ。暴力が始まった時点で止めに入らなかった同席者に責任の一端があることも、疑いえない。この点について、処分内容の是非はともかく、当該の力士ら(日馬富士、白鵬、鶴竜)が処分を受けることも必要であったと思う。相撲界は特別だからという理由で一般社会の法を免れることは、できない。

  ただ、明らかになったのは、力士全体の中に、後輩や下位力士への教育には多少の暴力は仕方がないという意識が、今でも共有されているという事実だ。だから一般社会からしたら看過できない暴力でも、力士たちには大した問題に見えなかったのだ。それは力士だけの問題ではなく、むしろ部屋を運営し力士を指導している親方や相撲界全体の文化の問題である。

  その点に関して私は、相撲協会がやや末端に責任を押し付けているような印象を持っている。現場にいた力士が処分を受けたのに対し、相撲協会の幹部の大半は、暴行問題での直接の処分を受けてはいないのだ。処分という形ではなく、八角理事長の「自主的な」報酬の返納、および伊勢ケ浜親方の「自主的な」理事辞任に留まっている。これでは、B、C級戦犯だけ罰して、A級戦犯には自分で反省しなさいと言っているようなものではないか。自主的に引退した日馬富士に対し、今後の基準とするために処分を発表したのだから、協会幹部に対しても、理事会で処分を下すという形は必要だったのではないか。(貴乃花親方は正式な処分を受けたが、これは暴行の責任とはまた別個の、協会員としての責務を果たさなかったことによる。貴乃花親方の問題については後ほど論じる。)

  ここでわかるのは、相撲協会の規律は時として恣意的に運用されるという事実である。このことは、暴力事件の外の騒動を見ると、よりはっきりする。

 恣意的な解釈を許す「品格」という規定

  最も問題視せねばならないのは、白鵬が千秋楽に「万歳」をした行為について、「厳重注意」という正式の処分を行ったことである。私は、白鵬のあのときのインタビューでの発言(「日馬富士関と貴ノ岩関を再び土俵に上げてやりたい」)と万歳は、相撲ファンのもやもやとした不安を和らげるための言動だと思っているが、もちろん批判的な人も大勢いることは承知している。おそらく白鵬も、批判覚悟で選んだ行為だろうとは思う。

  しかし、正式な処分を発令する論拠が何なのか、ということになると、はっきりしない。新聞報道によると、八角理事長は「横綱の品格に関わる言動ということで厳重注意をした」と述べているが、では何が「横綱の品格」に関わるかは、何の定義もない。つまり、そのときの理事会や審判部や横綱審議委員会の気分で、つまりきわめて恣意的に、何が「品格」に関わるか、が決められるのである。そして処分されるのである。これを民主的な法治主義と言えようか?

  大相撲につきまとう「品格」「国技」という言葉は、何の実体もなければ、意味も持たない。なぜなら、それが具体的に何を意味するのか、論理的な定義がなされていないからである。解釈に無限の幅があり、意味をいくらでも変えることのできる、空虚な言葉なのである。その時点で権限を持つ者たちが、好き勝手に基準を設けて、恣意的に力士を批判する道具でしかない。戦前の「国体の本義」という言葉と同じ使われ方だ。

  朝青龍以降、この言葉は常に、力士を批判するときに使われてきた。

「品格がない」「国技にふさわしくない」といった否定形で。そしてその対象になるのは、ほとんどがモンゴル人力士をはじめとする外国人力士である。何がいけないのか、おかしいのかを明示せずに批判をするのは、もはやたんなるいじめであり、排除ではないか。

  しかも、相撲協会では、この言葉を正式な処分の根拠としているのである。いわば、理由は自分で考えろ、と言いながら処罰しているようなもの。

  私は、相撲界の暴力の最も根本的な要因の一つは、この「品格」のような不明瞭な言葉の使い方にあると思う。指導される側は、その理由を示されずに、処罰されたり暴力による制裁を受けたりすることが、相撲部屋文化の中心を占めているのだ。

 親方絶対の家父長的部屋制度

  それを可能にしているのが、親方絶対の部屋制度である。絶対的な権力を持つ親方を頂点とし、子である力士は移籍はできず師事したら引退までずっと「親」の支配下にあり続けるこの制度は、戦前の家父長制をほぼそのまま温存していると言える。公益財団法人日本相撲協会の定款によると、力士は相撲協会に所属する「協会員」であり、部屋の親方は協会から力士の「人材育成業務を委託」される、という形を取っている。にもかかわらず、現実には協会は親方を飛び越えて協会員たる力士にアクセスすることはできないことが、今回の貴乃花部屋の貴ノ岩の扱いで明らかになった。相撲協会は依然として、親方を族長とする各部族の集まりのようなものであり、各部屋は密室として一種の治外法権の状態を作りうることが示されたのである。

  これを民主化すること、すなわち親方の権限の及ぶ範囲をより明確にし、家父長的な権威を解体することなしには、暴力をベースとする相撲部屋文化は変わらないだろう。そして、これは相撲部屋だけでなく、いじめ的な過労死やハラスメントが看過された電通の事例等を見てもわかるとおり、日本社会の組織に根強く残っている価値観でもある。

  2007年から2011年にかけての不祥事の連続で、相撲協会もその独善的な制度を改めざるを得なかった。まったく不十分とはいえ、かつてよりはオープンになり、「相撲とはこういうものだから」「伝統だから」という言い分だけで押し通すことは、減ってきている。おそらく、貴乃花親方は、このような民主化路線に異議を唱えているのではないか。

  週刊誌やテレビのワイドショーなどでは、貴乃花親方を、守旧的な相撲協会に対する改革派のイメージで語っているケースも多い。注意してほしいのは、貴乃花親方はほぼ一言も、自らは語っていないという事実である。メディアにはまったく口を開いていないし、相撲協会に対してさえ、ほとんど何も言っていない。(1月17日に貴乃花部屋HPにて、ようやく貴ノ岩のけがの状況についてコメントを発表。)メディアが伝えているのはすべて、貴乃花親方に近しいとされる人物等からの証言という形でしかない。

 「品格」同様、ここもブラックボックスなのである。貴乃花親方が何も表さないがゆえに、メディアが好き勝手に解釈をつけ、物語を作り上げているだけなのだ。あまりにも実証性を欠くこの報道は、ほとんど意味をなさない。

  わずかに貴乃花親方自らの言葉として、私たちが知ることができるのは、貴乃花親方のブログの過去の言葉と、九州場所後の打ち上げの席で後援者相手に行ったスピーチ等である。これを読むかぎりでは、貴乃花親方は、相撲を近代化とは逆方向、すなわち復古的な方向へ変えたいと望んでいるように見える。

「日本国体を担う相撲道の精神」

「陛下が書かれた角道の精華という訓」

 「この角道の精華に嘘つくことなく、本気で向き合って担っていける大相撲を。角界の精華を貴乃花部屋は叩かれようが、さげすまれようが、どんなときであれども、土俵にはい上がれる力士を育ててまいります」(以上、サンケイスポーツ2017年11月27日付紙面)

「日本の国益のお役に立てるための、相撲道の本懐を遂げるためのものです」

 「神道の精神で鍛え上げられたのが“親方”です。大相撲は神の領域を守護代するという意義があります。肉眼では見えないもの無形のものに重点をおき精進することにあると思います。立派な信仰心を持ち神の領域へいけるようにしてきたのが“親方”です。(中略)生活の場から修練し、心を納めてきているのです」(以上、貴乃花部屋ホームページ「貴乃花親方からのメッセージ」2016年3月25日)

  時代錯誤な皇国用語が焦点を結ばずにちりばめられ、今ひとつ意味を取りにくいが、こういった文言を読むと、貴乃花親方は相撲の体制を、民主化や法治主義の方向へ変えていくのではなく、親方を絶対としつつ、万民が天皇の赤子であるような家父長制的家族主義をもっと強固に推し進めるべきだと考えているのではないか、との印象を持つ。

  例えて言えば、保守的な相撲協会を改革する人物として貴乃花親方に期待をするのは、統治能力の未熟な政権を変えるために頑なな超国家主義者を頂こうとするようなものだと、私には思える。

  このような「相撲道」の考えを持つ貴乃花親方は、己の相撲道に反する今の相撲協会の制度には従わず我が道を貫く、という決意で、あのような行動を取ったのではないか、と私は想像する。

  こういった親方が現れ、協会のルールを無視して己の考えのみに従って行動した場合に、大相撲を運営し、力士と親方の雇い主である相撲協会が、何もできないというのは、なぜなのか。

  相撲協会という組織が、近代的な制度をまだ十分に備えておらず、その運用にも慣れていないからである。相撲協会と部屋との力関係、相撲協会が持つ権限、親方の権限の範囲、相撲協会が雇用している力士や親方に対して果たさねばならない義務、こういった、通常のプロスポーツの運営組織が備えているべきルールを、相撲協会がどこまで明文化しているのかわからないが、その運用を現代の法治主義に則って行える、親方以外の専門家を、協会の内部に招き入れるべきではないだろうか。現状では、親方の暴走を止める手立てはない。

 差別に対処しない相撲協会

  「品格」という論理的な説明にはなっていない理由で白鵬を処分したことは、相撲と無縁の暴力まで引き寄せた。この社会で荒れ狂う差別と排外主義に、つけ入る隙を与えてしまったのである。とにかく白鵬が悪い、黒幕だ、モンゴル力士はつるんで八百長をしている、などという、貶めることが目的でしかない虚偽の説をはびこらせることになったのは、まともな理由を示さずに白鵬を罰したことと無縁ではない。

  この差別的バッシングは、異常事態に及ぶ。九州場所後の巡業に、「白鵬に一番非がある」「実行犯=日馬富士 主犯=白鵬 協会は解雇せよ」などと白鵬を罵るプラカードを持って乗り込むという、ヘイトデモの手法を使う男まで現れた(産経ニュース2017年12月12日)。そしてその数日後には、「白鵬を必ず殺す」という脅迫文が、やはり巡業の会場に届く。

  ことをここまでエスカレートさせたのは、白鵬への言われなき差別に対し、何もしなかった相撲協会の責任によるところが大きい。運営組織が、所属する選手の人権と働く環境を守るのは、最も基本的な義務だ。だが、ここ何年にもわたる国技館でのヘイト声援などにも何の対処もせず、むしろそれを「日本人力士ファースト」の雰囲気作りに利用してきた相撲協会は、差別という暴力に対してあまりにも鈍い。

  また、日馬富士の暴行事件について諮問された横綱審議委員会が、問われてもいない白鵬の相撲内容まで批判したことも、事件と無関係のことを事件に結びつける方向へ誘導したと言える。相撲内容をこんな形で公式に批判するぐらいなら、「横綱は張り手・カチ上げ禁止」などとルール化すればいい。ここでも「品格」と同様の、恣意的な基準での批判が行われている。

 このように、問題を解決するための壁となっているのは、常に法の欠如、民主的な運営の欠如である。「相撲独自」という言い方ではもう許されないところまで来ている。相撲協会は、部屋のあり方から組織の運営まで、コンプライアンスという基礎を学んで、一から作り直すべきだ。さもないと、力士を守れない。力士を守らなければ、相撲は予想外の早さで崩壊していくだろう。