むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

月輪館(埼玉県)

2023年09月27日 | 陣屋・館
月輪館つきのわやかた
別名月輪城・大堀
構造
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所埼玉県比企郡滑川町月輪 地図

月輪館は、室町時代に存在した月輪兼実の居館であったと伝わります。
百間堀があったとされ、別名大堀とも呼ばれています。
堀の遺構は戦前まで現存していましたが、太平洋戦争により
航空基地として飛行場が造られたために消失してしまいました。




げんざい私有地となっているため中に入って散策ということは
難しいので、周辺の道から見える範囲での遺構探しとなります。



奥の方に残る土塁が見えます。



若い頃によく訪れた場所ですが、その頃とはすっかり様子が変わり
当時は城跡(館跡)があろうとは思っても見てなかったので探すことなく
時は過ぎていました。
現在は百間堀の一部が名残として見ることができます。


令和4年2月27日登城

今回の参考本



岩崎陣屋(秋田県)

2022年12月23日 | 陣屋・館
岩崎陣屋いわさきじんや
別名
構造陣屋
築城者佐竹義理
築城年代1869年(明治2年)
指定史跡
場所秋田県湯沢市 地図

1868年(慶応4年)佐竹義諶は拠点を椿台城から移して、
岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置きました。
その後、廃藩置県以降は岩崎藩を岩崎県と改め秋田県になったため、
岩崎陣屋は1873年(明治6年)に消滅しました。



いわさきこども園

重機がある、お奥にある建物が「いわさきこども園」です。
この辺りが陣屋地であったようですが遺構は消滅しています。



羽州街道の東方の山手寄りに藩庁や学館、武館があり、
それらを中心に米蔵、弾薬庫、家臣の屋敷が立ち並ぶ城下町が作られていました。



明治3年2月、佐竹義諶は岩崎藩の藩主となりました。
義諶は近くの椿台陣屋(岩崎城)から移転し、戊辰戦争戦いぬきました。
しかし、明治3年4月に義諶が岩崎藩発足後わずか2ヶ月で急逝。
翌年には廃藩置県により岩崎陣屋は廃され、岩崎県となりました。
その後、秋田県に統合となったことで岩崎県も廃され県庁としての役割を終え、
その建物の一部が岩崎城の麓の八幡神社に残っています。


八幡神社

1087年(寛治元年)、源義家が奥羽の豪族清原家衡、武衡を金沢柵に攻める際に、
岩崎霊符森に八幡神社を建立し、鐙を奉納し戦勝祈願したと伝えられます。
1803年(享和3年)、秋田藩九代藩主佐竹義和から源義家奉納の鐙を
藩庫に納めるよう命があり奉進したと伝わります。



岩崎藩陣屋からの移築殿舎が現存しています。
唐破風は陣屋の殿舎のもので湯沢市の文化財にも指定されています。
良く見ると、懸魚には岩崎藩主佐竹家の家紋(五本骨扇に月丸)が付いています。
瓦に家紋があるのは普通ですが、懸魚に家紋が付いてるのはあまり見たことがないかも。

岩崎陣屋は、現地に行ってみても遺構もなく保育施設になっているため
中はもちろんのこと、あまりうろうろ出来る場所ではないので
「湯沢市ふるさとふれあいセンター」という施設に寄って資料を探してみました。
展示交流ホールに歴史書や鹿島様に関してのチラシが置いてあったのでここだけであれば無料で利用できます。


令和4年7月17日訪問


今回の参考本



井出館(静岡県)

2022年10月14日 | 陣屋・館
井出館いでやかた
別名井出代官屋敷
構造館跡
築城者井出氏
築城年代鎌倉期
指定史跡市指定文化財
場所静岡県富士宮市借宿91 地図

井出氏は鎌倉時代この地に居住した小土豪でしたが、富士大宮司家に仕え、今川、武田氏に従属。
今川義元から代官を命じられ、大宮宮中奉行職を安堵しています。
武田信玄の駿河侵攻時には、今川・武田・北条の戦乱に巻き込まれ、一族はそれぞれに分散ししました。
井出館は、1193年(建久4年)に源頼朝が富士の巻狩りに立ち寄ったことが
「吾妻鏡」に記されていることが知られています。




今年は大河ドラマでも話題になった場所です。
ここに駐車場もあります。


狩宿の下馬ザクラ

桜が有名らしく、以前テレビで見て以来ずっと来よう!と思っていた場所です。
ならば、桜の時期に来いよ!となるところですが、私の目的はこの桜ではありません。
ちなみに、この桜の木に源頼朝が馬を繋いで休憩されたとのことです。



立派な長屋門が見えます。





高麗門

この門の前に立ち確信しました。
今までのモヤモヤが解消された瞬間です。(なんとなく察してください)


長屋

長屋の北側の棟です。
こちらは作業小屋になっています。
この長屋門は火災で焼失していますが、北側の長屋から発見された墨書により、
嘉永元年に再建されたことが判明しています。


馬屋

南側の長屋は、農耕用・輸送用に使った馬を飼育するための厩になっています。


茅葺の見本と大八車

南側の長屋には厩の他に茅葺屋根に使う茅葺の展示がされています。



今年はNHK大河ドラマでも注目を浴びた井出館。
いつかは来ようと思っていたので、寄ってみました。
桜が有名なので桜の時期に来るのがベストなのでしょうが、この日は誰もおらず
ひっそりと静まりかえり、静かな訪問となりました。

個人的に確認したいことが確認出来たので、
また今度、子供たちを連れて訪れる日が来るかもしれないなあ。


令和4年8月15日登城







接待館(岩手県)

2022年09月09日 | 陣屋・館
接待館せったいだて
別名古館・衣河館
構造館跡
築城者不明
築城年代平安時代
指定史跡国指定史跡
場所岩手県奥州市衣川七日市場 地図

接待館は、中尊寺の北側にある衣川の対岸に位置し、藤原秀衡の母の居館と伝わります。
遺構からは大量のかわらけが発見されていることから、12世紀頃に接待館として
規模の大きな儀礼や宴会が行われたと推定され、
奥州藤原氏の祖先である安倍氏の政庁跡と伝わります。
また、平泉府の迎賓館であったとも伝わります。



案内看板

国の史跡「柳之御所・平泉遺跡群」に追加指定されているだけに
他の柵や舘と違って大きくて写真入りの看板が設置されています。



近年の発掘調査から区画内部に建物跡や井戸、厠などの生活に重要な部分が
みつかっておらず、館であったかどうかは断定できないのではないかという話もあります。
そして、源頼朝に追われ奥州へと逃げた源義経が居館としていた場所といえば「高館義経堂」ですが、
源義経最期の地である衣河館が接待館遺跡ではないかという説もあって、
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響もあってか、義経ファンも多く訪れているようです。



堀や溝からは大量の「手づくねかわらけ」と呼ばれるかわらけが出土しています。
ここでは酒宴を伴う儀式が頻繁に行われていたことが判明したり、近年の発掘調査や
地元での聞き込み、吾妻鏡をはじめとする資料など調べ上げ、今までの推測から
新たな発見や判明したことなど、常に史実は塗り替えられていくものなので
現地に足を運んで見聞きしてほしいとボランティアガイド仰っていました。


掘立柱建物跡

掘立柱建物跡は中央から外れた堀の外側(区画外)、東側の平地に1棟だけ建てられていました。
現在は埋め戻されていて見学出来ないのですが、四面庇建物といわれる
12世紀の平泉では多く見られる形状の建物がみつかっています。


当初は藤原秀衡の母の居館と考えられていたようですが、最近では発掘調査によって
井戸や厠がないことから生活を営んでいたということが考えにくく、
敷地も広大なこともあり、何かの儀式で大勢が集まる場であったのではないかと
考えられるようになったと現地で聞きました。
発掘調査をする場所によっては、他の地区と重なった土地だと費用の面で何かと
難しいという事情もあるようですが、
今後の発掘調査や、有識者の方々のご意見や発表に注目したいところです。


令和4年7月17日訪問





琵琶館(岩手県)

2022年09月07日 | 陣屋・館
琵琶館びわだて
別名成道館・琵琶の柵
構造館跡
築城者安倍成道
築城年代平安時代後期
指定史跡
場所岩手県奥州市衣川並木前22 地図

琵琶館は、安倍貞任の庶兄成道の居舘と伝えられています。
前九年合戦の激戦地となった場所です。
琵琶の形の地形からこの名が呼ばれるようになったとされます。



標柱

琵琶館の標柱があり、案内看板は設置されていません。
衣川柵の西南、大手先の前にあり。
衣川の流域周囲を索回して、其地形琵琶の状をなせり。
故に此の名ありという。
貞任の庶兄成道の居城なり。
其対岸に秀衡の三男泉三郎忠衡の居りし泉が城址あり。
実に南北攻守の要扼の地と称すべきなり。
~胆沢郡誌転記~




この道の先が琵琶館なのですが、地図を見ると民家への私道のように見えるので
突き進む勇気はない。
現在も残る堀(川)を隔てて隣り合っているのが泉ヶ城です。
琵琶館、泉ヶ城と両方を天然の水堀で守られているかたちです。



接待館案内板より

令和4年7月17日登城





小松館(岩手県)

2022年09月06日 | 陣屋・館
小松館こまつだて
別名小松柵
構造館跡
築城者安倍則任
築城年代平安時代
指定史跡
場所岩手県奥州市衣川横道下 地図

小松館は、前九年合戦の際安倍貞任の叔父良照(安倍則任)が守備した柵であるという伝承が残っています。
安倍氏滅亡後、1366年(貞治5年)に葛西氏家臣の破石氏が居館とし、
滅亡する1590年(天正18年)まで、この地を支配していました。
北部に門跡が残っていたのですが、東北自動車道の建設のため破壊されました。



案内看板

康平五年(一〇六二)八月、磐井の小松柵において
源頼義と清原武則の連合軍を迎え撃った安倍貞任の叔父僧良照の居館であったと伝えられる。
東側は衣川が南流して断崖になっており、西及び南側は小成沢(東北自動車道の建設のため側道として埋められた)の崖に囲まれ、
北館から続く台地の突端部で、東西六〇m南北一六〇mある。
門跡は北部にあったが自動車道の工事で破壊された。
安倍氏の滅亡後は荒廃していたが、貞治五年(一三六六)葛西氏の家臣、破石氏がここに館を建てて住み、
天正十八年(一五九〇)葛西氏と共に滅亡するまでこの地を支配していたという。
~看板転記~



参考話
群馬県利根郡みなかみ町にある湯檜曽温泉は、安倍貞任の子孫によって発見されたと言われている場所があります。
子孫によって営業を続けてきたという温泉宿「本家旅館」がありましたが、現在は廃業しています。
貞任の息子を含んだ残党が、奥羽山脈の尾根道を南下し新潟と群馬の県境で三手に別れ、それぞれ姓を「阿部」に変えて、
新潟県南魚沼の清水・群馬県湯桧曽・群馬県奥利根藤原に分かれ住んでいたといいます。
(ウィキペディア参照)

これは一度行って見なければ!
調べたところ、足湯もあるので水上方面へ行った際には利用してみよう(^-^)


令和4年7月17日訪問





安倍館(岩手県)

2022年09月05日 | 陣屋・館
安倍舘あべたて
別名舞鶴舘・落合舘・古舘
構造館跡
築城者安倍忠頼
築城年代平安時代後期
指定史跡
場所岩手県奥州市衣川石神 地図

安倍舘は、北股川と南股川が合流する間にある丘の上に築かれていました。
安倍頼良(頼時)、父忠良、祖父忠頼の三代の居舘で、
約80年余りの間この舘に住んだと伝えられています。



入口

この案内看板隣の道を入って行くと遊歩道があり、展望台もあります。
そのまま道なりに登って行くと郭にたどり着きます。
展望台もあるようです。


案内看板

高さ三十丈(九〇m)の丘で、その構造は、東に向かって凹字形となり階段上になっている。
東南北の三面は衣川(南股川と北股川の二つがこの舘の下で合流する)で、
西は山岳が蜿蜒と続く頗る要害の地である。
これは安倍氏累代の居城であって、その地勢から舞鶴舘、落合舘ともいわれている。
-中略-安倍頼時の祖父忠頼は俘囚の長となり、父忠良は陸奥の大掾となったが、
その忠頼の代から八十余年間、この舘に住んだと伝えられている。
また、南股川を隔てて八幡神社があり、源頼義が夷賊平定を祈願したと伝えられ、
また安倍舘が攻撃された時、頼義軍の陣地が設けられた場所とも言われている。
~看板転記~




この山が城域になっています。


安倍氏と聞いてすぐに思い浮かんだのですが、安倍晋三元首相。
確か山口県の方じゃなかったかなあと思ったのですが、やはり御先祖様はこちらの出だと
ボランティアガイドさんから話を伺いました。
衣川には沢山の城柵や舘(たて)が点在しているので周辺を散策し、今回は入口の確認のみです。
この辺り、ひとつひとつ巡っていると一日ではとても足りません。


令和4年7月17日訪問





古谷館(群馬県)

2022年05月25日 | 陣屋・館
小谷館こややかた
別名潜龍院館・郷原御殿
構造
築城者真田昌幸
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡
場所群馬県東吾妻町大字郷原923  地図

天正10年に織田・徳川連合軍に攻められた甲斐の武田勝頼は、武田家の再挙を図ろうと
真田昌幸が岩櫃城へ招き入れ、麓のこの地に御殿を築きました。
しかし、勝頼は天目山で自刃してこの地に来ることありませんでした。
その後、勝頼のために築かれた御殿は祢津潜龍斎昌月に与えられ山伏寺は「潜龍院」とされました。



古谷

古谷登山口駐車場を利用して潜龍院へ向かっていざ、出陣!
近くには古谷登山口 トイレも完備されていて、そこにはパンフレットも用意されています。
左手には密岩神社があります。



看板に従って民家の間の道を進みます。



看板や矢印を見ながら行けば、迷うことなく行くことが出来ます。



ここから道幅がぐっと狭くなり、普通車では入って行けなくなります。


虎口

ここは、最初に訪れた時に道の両側に岩が門のようにあることに気付き
虎口か?と思った場所で城門かつ、要害となっていたと思われます。






草刈りなどもされて管理されています。


岩櫃山登山口

岩櫃山へはここから山頂を目指すことになります。
見ているとハイカーだけなく、ロープを持った登山家もこの奥からやって来ます。



ちょっと覗いただけで、とてもこの先へ行こうという気がしない(^^;


岩櫃山

こ~んな岩山絶対登れないし。


潜龍院跡

さて、本題に戻って潜龍院です。
現在は石垣しか残っていませんが、ここに勝頼を迎え入れるための御殿が建てらていました。
当時はとにかく急いで勝頼をこの地へ逃れさせようとの思いで、突貫工事したとのことで
御殿はたったの三日で建てたとも伝わります。


案内看板

石垣の前には案内看板があります。
この石垣だけでも数日かかりそうなものですが、昔の人間の力は恐ろしい。



有事の時なので御殿を建てた際に、この石垣まで築かれたかどうかまでは疑問で、
後の潜龍院とされた頃に改めて石垣を築いたのではないかと勝手に想像してしまいます。



とても広い平地になっています。



潜龍院の向いには物見か古墳のような土塁があります。
その背後は大きな岩が見えます。


土塁

土塁を隠すかのように南面に巨大な岩があります。
土塁の上に石碑らしきものが見えますが、それが何かは分かりません。
寺院跡ということなのでもっといろいろな石碑や石塔があっても不思議ではない。



北東の奥の方にお墓があります。
そして、道なりに東の方へ進むとハイキングコースの途中で
岩櫃城と潜龍院を中継する郷原城があるので、時間があったら行ってみて下さい。





武田勝頼がもしここに来て居たら歴史がどう変わっていただろうか。
真田一族もどんな手法で織田・徳川連合軍を迎え撃っていただろうか。
もしかすると勝頼が自刃する場所が天目山から潜龍院に変わっただけだったかもしれない。
いろいろ想像してしまう。

ここに来て、岩櫃山を見上げたら
なんとなくいろいろな勇気が湧いてくるような「錯覚?」に陥ります。


令和2年5月30日訪問
令和4年5月22日再訪問


今回の参考本



岡田館(福島県)

2022年03月21日 | 陣屋・館
岡田館おかだだて
別名
構造平山城
築城者岡田胤盛
築城時期1334年(建武元年)
指定史跡
場所福島県南相馬市小高区岡田 地図

岡田館は、南北朝時代に岡田胤盛によって築かれたと伝わります。
岡田胤盛は、相馬重胤と共に下総から原町あたりに移り、以後相馬中村へ移るまで
岡田氏代々の館とされていました。



丘の上にこんもりとした林がある場所に岡田館がありました。
岡田館とされる場所は、初発神社の境内の平地に在りました。
北ノ内と地図にあるので、ここから攻めてみることにしました。


土塁

北ノ内から見上げた土塁。


北ノ内

北の内と呼ばれる主郭の北の外郭から境内へと続く小道を進みます。


境内

何やらロープが張られています。
参道は通れないということか?



ありゃ、参道側へ行けないぞ!


立入禁止看板

立ち入り禁止の看板がありました。
どうやら地震で灯篭がズレたりして危険なようです。



階段の手すりは単管パイプで出来てます。
工事中なのでしょうか。
正面から来ていたら詰んでたかも…。


拝殿

こちらも地震で崩れた所を修築したみたいですね。


石扁額

旧陸奥中村藩主の相馬子爵家第30代当主相馬順胤の謹書なのでしょうか。
「順胤」と読めるので調べたのですが大正時代のものであればこの方か書かれたものではないかと。


土塁と石垣

神社西側を防御する土塁。
底辺には石を積んで補強しています。



東側、一段下がっている郭。
参道の階段を使わずにここから参道方面に行けそうなので
もう少し散策しようと思います。



神社入口の階段が見えます。
簡易的な手摺も付いて行けそうな気がしますがロープもあったことなので
ここから見るだけにしておきます。



しかし、振り返って参道入口の方を見ると…。
ゾッとする光景が



やかり、正面参道入口から攻めて来ると通行止めになってました。



こうして見るとそれっぽい🤨


石の鳥居が崩れているとは想像もせず、たまたま北東から登城したので
鳥居が崩れている現場を見た時は結構ショックを受けました。
まだまだ震災の爪痕がしっかり残っているものなのですね。


令和3年10月31日訪問





中館(福島県)

2021年12月17日 | 陣屋・館
中館なかだて
別名江垂館・中館古城
構造平山城
築城者桑折元家
築城年代南北朝時代
指定史跡
場所福島県南相馬市鹿島区江垂中舘 地図

中館は、南北朝時代に桑折元家が移り住み真野氏を称していました。
1542年(天分11年)相馬領内の反乱により中館に本陣を構え、反乱を抑えました。
この時城の修築とともに岡田堀切や大井堀切などを構築しています。
その後、真野氏は約2kmほど北に田中城を築き、田中城へ移ると中館は廃城となりました。



日吉神社参道

日吉神社を目指してやって来ました。
神社の参道があろいますが、横着者なので境内の方まで
車で移動してしまます。



日吉神社の境内近くまで来ると駐車場に車を停めて、
周囲を散策することに。


日吉神社

先ずは神社へご挨拶。
日吉神社は、陸奥国司北畠顕家が籠った霊山城落城の際、桑折五郎元家が
霊山城の守護神「山王大権現」と「熊野権現」を奉じて逃れ、この地に安置しました。
それが今の日吉神社になります。



この地に落ち延びる際に、主従7人と他に6人で七福神に扮して
「宝財獅子踊」を踊りながらこの地へやって来たと伝わります。
この踊りは、町指定無形民俗文化財として今でも大切に伝えられています。


日吉神社の大杉

境内には樹齢800年と推定される山王大杉があります。
実際は見てのとおり、樹齢800年よりはだいぶ若い感じがします。
とは言え、御神木なだけに貫録のある大きな杉の木です。


土塁

中館と北館の間にある空堀と土塁です。


北館

北館は広く、平で周囲には土塁が残っています。


土塁

二の郭と三の郭との間にある境目です。


案内看板

さて帰ろうと思っていたところに、看板発見!
あやうく見落とすところでした。


本来の縄張は土塁はもっと高く、堀はもっと深く段差のある造りであったのでしょう。
農地や宅地として使いやすく造り替えられていると思われるので、
自然な地形に見えて、ちょっと縄張が想像しずらかったです。


令和3年10月31日訪問




桑折陣屋(福島県)

2021年11月04日 | 陣屋・館
桑折陣屋こおりじんや
別名
構造陣屋
築城者松平忠尚
築城時期1700年(元禄13年)
廃城時期1747年(延享4年)
指定史跡
場所福島県伊達郡桑折町陣屋 地図

桑折周辺の信達地方 は、江戸時代に入ると、米沢藩上杉 氏領となりましたが、
1664年(寛文4年)に幕領へと移り、幕府代官所が福島に置かれていました。
その後、信達地方は一時福島藩本多氏領となりましたが、1682年(天和2年)再び幕領となり、
堀田氏の福島藩入部に伴い、残された幕領を治めるため、1686年(貞享3年)に幕府代官所 として桑折陣屋 が設置されました。
初代桑折代官は柘植伝兵衛 でした。1700年(元禄13年)松平忠恒 が二万石で桑折藩を開き、陣屋を使用していましたが、
松平氏は定府 (参勤交代せず、江戸に常任している大名)であったので、桑折屋には代官を派遣して、当地を治めていました。
松平氏は三代忠暁 のときの1747年(延享4年)上野篠塚に転封になりますが、その理由は半田銀山 に有望な鉱脈が発見され、
これを幕領とするためとされ、佐渡奉行の支配下に置かれました。
このころ描かれたとみられる絵図によると、陣屋内には銀山関連の施設があったことが窺えます。
1749年(翌寛延2年)に神山三郎左衛門 が桑折代官として赴任し、一時の仙台藩の預かり支配期を除き、
1868年(明治元年)に前田勘四郎 代官から新政府に引き渡されるまで、代官が派遣されていました。
その間、陣屋は斎藤彦内 ・蓬田半左衛門 等が首謀着となった「寛延一揆 」に囲まれたり、
竹内平右衛門 、寺西重次郎 ・寺西蔵太 ・島田帯刀 等、民政や銀山開発に尽くした代官の治政の場となる等、当地方の中心として機能しました。
代官の中には、竹内代官や寺西重次郎代官等のように、桑折で死去し、町内に墓所があるものもあます。
陣屋は、郡役所敷地より東側、陣屋の杜公園より北側の、現在は住宅地となってい部分を占めていました。(案内看板より)



駐車場

旧伊達郡役所の前に無料の駐車場があります。
こちらを利用して散策です。


旧伊達郡役所

この建物は、1883年(明治16年)に建てらたもので国の重要文化財に指定されています。
その後1969年(昭和44年)まで福島県の行政を担ってきました。
なかなか格好良いハイカラな建物です。


案内看板

門が開いている時間ではなかったため、中に入ることが出来ず、
近くから撮影することが出来なかったのですがカメラのおかげで看板の文字が読めました(^^;



開いていたら中も見てみたい。
こういう建物もわりと好きなんですよね。
桑折西山城もまだ入り口までしか行ってないので次回訪れた時のお楽しみということで。


松尾芭蕉像

芭蕉さん、ここにもいらしたのですね(^-^)
桑折町は、奥州街道・陸羽街道が分岐する宿場町として栄えた町なので
立ち寄った場所がいくつかあるようです。


桑折陣屋横に建てられた旧伊達郡役所を紹介したような形になってしまいましたが、
肝心な陣屋跡はここには写っていません!
旧伊達郡役所を目標にやってきて、ここで満足してしまい陣屋跡をみつけた気になっていました。
本来なら「違うだろ!」って相方に突っ込まれるところですが
この時、睡眠中でして…私独りで平気だからと別行動したために伊達郡役所を見て満足して
帰って来てしまいました。
とは言え周囲は住宅地なので撮影が出来たのかと言えば難しいところではあるのですが。
次回は陣屋の杜公園にも行ってみようと思います。


令和3年10月31日訪問



椎谷陣屋(新潟県)

2021年10月29日 | 陣屋・館
椎谷陣屋しいやじんや
別名
構造陣屋
築城者堀直央
築城年代1715年(正徳5年)
指定史跡県指定史跡
場所新潟県柏崎市椎谷2074 地図

椎谷陣屋は江戸時代に椎谷藩が設けた陣屋で、藩祖の堀直之は江戸町奉公や神社奉公などの重要な役職に就いた
歴代の藩主も若年寄や大番頭、秦者番などの要職を務めています。
当初は、超願寺を仮陣屋としていましたが、椎谷に陣屋を設け五代直孝の時代に現在の地に移りました。
陣屋は慶応4年5月に戊辰戦争で水戸藩の浪士によって焼失、残念ながら当時の建物は残されていません。



北国街道

国道352号線(北国街道)沿いにある椎谷陣屋跡入口です。
江戸時代に天領の出雲崎から信州を経て江戸へ佐渡の金銀を運んだ重要な道でした。


大手門跡

東屋のある辺りにかつて大手門がありました。


案内看板

車道から入ってすぐに案内看板が設置されています。


東屋

この東屋のある場所に大手門がありました。
東屋の中には椎谷陣屋や馬市などの説明などが掲げられています。
まずはここでパンフレットを入手して散策へと出かけましょう。


陣屋入口

こちらの階段を登って陣屋へと入ります。



この草の生え具合、あまり歩いた感じがしない。


虎口

登りきったところに表門があったようです。


表門跡

土塁の上に看板があります。


砲術稽古場

表門から入ってすぐに砲術稽古場跡があります。
看板の周囲までは草刈りがされていますが、砲術稽古場は見渡す限り藪です。


馬場跡

ここも看板は確認できますが奥の方は藪になっています。


案内看板

立派な看板があります。
寄贈者を見ると、椎谷堀家22代目の方です。
しっかり陣屋の遺構を守られていらっしゃるんですね。


縄張図

これを見ると周囲に土塁が残っていると想像出来ます。
その部分は草に覆われて、近くで確認することは出来ませんでした。


藩邸跡

先ほどの看板の図と神社の位置が違っているようですが
この神社の右側にある石碑のあたりが藩邸だったようです。


石碑

椎谷陣屋の歴史を物語る石碑がある、この付近に藩邸があったようです。


虎口

搦手側の虎口です。
虎口から出たところに武器蔵跡や長屋跡があるのですが
現在民家が立ち並んでいるので撮影は遠慮致しました。


役所跡

武器蔵から階段状になって郭があります。
役所跡には民家が建っていません。


長屋跡

海とは反対側に下りきった平地が長屋のあった場所です。
長屋は藩士の居住区で、海側を除く三方に陣屋を取り巻くように上級藩士のが置かれていました。


武家屋敷跡

道路の左手の低い方が武家屋敷跡になります。
この道を進むと廻り込んで大手に出ます。



大手から入ったので、戻って搦手から出ようと思います。
ここをまっすぐ登って行くと裏門(搦手)へ出ます。


裏門跡

内側から見た裏門跡です。
海が見える見晴らしの良い場所です。
つまり、下から登って来る人が良く見える場所でもあります。



外から見た裏門跡です。
左手に見える民家のある場所が武器蔵跡とされる場所です。
ここで敵が見えたら、すぐに武装出来そうですね。


搦手口

下ってみると、国道(北国街道)へ出て来ました。


椎谷の馬市跡

搦手入口には「史跡 日本三大馬市椎谷の馬市蹟」の碑があります。
初代藩主が良馬育成と馬匹改良を奨励し、農民に種馬を貸し与え駿馬を買い取っていました。
その後、一般にも馬の売買が許されると椎谷の馬市が開かれるようになりました。
安芸の広島、奥州の白河、そしてここ椎谷の馬市が「日本三大馬市」と言われています。


馬市居小屋

道路の両側の民家や海岸の砂浜などに馬を繋ぐための柵や小屋が設置され、
北は青森、南は愛知から馬の売り手と買い手が多い時は1万人も集まったと言います。


遠景

少し離れたところから見ると、丘陵地に造られた椎谷陣屋の姿がよく分かります。


椎谷は戦国時代に守護代長尾為景と関東管領上杉顕定が戦った地でもあり、
軍事拠点としては重要な場所でした。
今は穏やかで、平和ボケしている私には海がきれいだなあなんて呑気な考えしか
出来ませんでしたが、形が残っていることで改めて考えさせられることも多いです。
新潟は陣屋跡が数多く残っているので今後も足を運んでみたいと思っています。


令和3年7月18日訪問


今回の参考本



南条毛利館(新潟県)

2021年08月26日 | 陣屋・館
南条毛利館なんじょうもうりやかた
別名南条古城・南条館・佐橋荘南条館
構造平山城
築城者毛利氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所新潟県柏崎市南条834 地図

鎌倉時代、源頼朝の重臣である大江広元の孫にあたる毛利経光が
越後国佐橋荘南条に移り住み、四男時親を安芸国吉田庄を与え分家しました。
安芸国の毛利氏と言えばとても有名ですが、その毛利元就のルーツがここであることこが
佐橋神社の境内にある石碑に刻まれています。




丘を登りきると、館があったであろう平地があります。


毛利氏供養塔

わりと新しめの毛利氏供養塔があります。


毛利家供養塔建立の趣意

関氏は、鎌倉時代に佐橋庄を支配した毛利氏を多くの人に知ってもらいたいと
この供養塔を建立しました思いが記されています。


佐橋神社

鎌倉時代、この丘に佐橋庄の地頭毛利氏の館がありました。
子孫は各地に分散し、この地に残った一族は南条氏と言い上杉氏に仕えていました。
(経光の子孫はそれぞれ北条、安田、石曽根、善根の毛利氏となっています。)


石碑

石碑を見て驚いた。
毛利氏と言えば安芸だよなあと思っていたのがぶっ飛んだ瞬間です。
そうだったのか…。


神楽

柏崎では越後国守護上杉房能の自刃後、この地へ逃れて来た妻の綾子によって
古くから舞や狂言など郷土芸能が伝承されています。
佐橋神社でも春季大祭には里神楽や子供神楽が奉納されます。


本堂

1598年(慶長3年)に廃城となりましたが、江戸時代になって城址を保護するために
館跡に佐橋神社が建立されました。
また、佐橋神社と呼ばれるようになったのは慶応年間になってからのことです。


参道

杉並木の間にある道が、佐橋神社へ参拝するための参道です。






佐橋神社石碑

石段を登り切った場所に佐橋神社の石碑があります。


石段

本来は、ここから石段を登って参道を通り、
神社へお参りするというのが道筋なのですね。


妙姫庵跡

ここは妙姫庵があった場所です。
1844年(弘化元年)藍澤南城の妹佐和47歳が出家して玄妙と名乗り、妙姫庵を開いた。
玄妙・妙真・貞順・厚順・良仙・仙宗が在庵し、通称観音堂と呼ばれた。
1971年(昭和46年)以降に仙宗が小出に去り、廃庵となる。


いにしえロード看板

このような説明の書かれた看板がいくつかあります。
南条毛利館跡では「⑤毛利氏の城館址と佐橋神社」・「⑥妙姫庵跡」・「⑦城址殉難者碑」をみつけました。



城址殉難者碑の看板には佐橋神社の境内から出土した頭蓋骨が
毛利経光のものではなかとも書かれています。
もちろん、断定されたことではない話なので期待は膨らみます。


虎口

堀跡?と思ったのですが、どうやらかつての虎口らしい。





ごぼう庵

日曜日と月曜日だけ営業している農家カフェ。
廃寺をリノベーションしているとのことで建物の造りも見て楽しめそうですね。


安芸の毛利元就ルーツが柏崎にあったとは、驚きました。
毛利氏はずっと中国地方の一族だと思っていたので以外だったのと、
私が無知だったので、元就の祖先は柏崎だよという話があまり聞こえて来ないのか、
これは、もっと大きな声で主張しても良さそうなことだよ!
と思ってしまいました。
でもこれって、毛利氏が好きな人にとっては当たり前の知識なのかな。
ほんと、歴史って、知れば知るほど面白い。


令和3年7月18日訪問





四方田氏館(埼玉県)

2021年07月12日 | 陣屋・館
四方田氏館よもだしやかた
別名堀の内
構造
築城者四方田弘長
築城年代鎌倉時代
指定史跡
場所埼玉県本庄市四方田 光明寺 地図

武蔵七党のひとつである児玉党に属し、四方田を本拠地としたことから
四方田氏を名乗り、この地に館を築きました。
四方田氏の名前は「北条本」と呼ばれる戦国時代の武将たちに
愛読された「吾妻鏡」にも見られます。



駐車場

光明寺の駐車場をお借りして現存する堀跡を散策。
正面に見える畑が主郭です。


山門

光明寺の山門です。
いつもながら、先ずはお参りをしてからの散策とします。


本堂

外堀と内堀の間に光明寺があります。
光明寺の東側が主郭となり、外堀は道路と化しています。


内堀跡(西側)

光明寺の東側には今でも内堀跡が残っています。
ここは主郭との間の堀跡になります。



既に埋め立てられて、幅も狭くなっていますが、
堀跡が見えるように?草刈りもされています。


主郭

先程の内堀から東側が主郭となります。
主郭側には民家があるので、勝手に踏み入る行為は控え、
撮影もここまでに留めておきます。



先程の内堀の続きです。
南の方に長く延びていて、これ以上埋め立てられることなく
保存していただいている状況です。



内堀の北端です。
茂みからはっきりと堀が見ることが出来ます。


外堀(道路)を一周巡りチラリと見える堀に興奮しながら光明寺へ。
主郭には住宅と畑が広がり、この日は住人の方が畑で作業をされていたこともあり、
お邪魔しないよう光明寺側からそっと見るだけにして
短時間で切り上げて来ました。
それでも、残っている遺構が見られたので、それだけででも十分収穫でした。


令和3年6月27日登城


今回の参考本



小島氏館(埼玉県)

2021年06月28日 | 陣屋・館
小島氏館おじましやかた
別名
構造
築城者小島氏
築城年代平安時代~鎌倉時代
指定史跡
場所埼玉県本庄市小島5丁目4−12 地図

武蔵武士と言われる武蔵七党のひとつ丹党に、小島郷を本拠地とした小島氏の祖で
小島重光の居館であったのではないかと推定されています。
現在土塁と空堀が北・南・西に残っています。
東側は利根川の崖地になっているため、初めから土塁がなかったと考えられています。


長松寺

長松寺を目指してやって来ました。


案内看板

少しばかりですが、この中に小島氏の居館あったことが記されています。



長松寺を囲むように断片的に残る土塁から
このお寺が館の中心であったと思われます。


石碑

何やら絵が描かれた石碑ですが、文字が読み取れなくて
どのような意味を持つ石碑か分かりません。
う~ん、気になる。


鐘楼

正面に回り込んでみると、破風の金の装飾が映えて綺麗です。


本堂

唐鈴山薬師院と称し、弘法大師空海を宗祖とする真言宗のお寺で
開山は祐海法印と伝わり、江戸時代初期の創建と思われます。



本堂の両脇にある大きな瓶に蓮があります。
そろそろ時期だよなあと思いながら近づいてみました。


めだか

すると、中にはめだかが泳いでいます。
この光景を見ているだけで、暑いながらも涼しげに感じます。


蓮の蕾

蓮の蕾…まだちょっと早かったようです。
来週あたりなら咲いているかな。


土塁(南西)

お寺の西側と北側に土塁が残っているようなので裏の方へ行ってみると
確かに土塁があります。


土塁(西)

西側は道路からも見えていたように、襟のような土塁が残っています。



今は竹林になっている北側にも、西の土塁が続いていたと考えられていますが
土塁は残っておらず平坦になっています。


土塁(北)

本堂の真裏には少し土塁が残っています。


堀(北)

土塁と空堀がセットで巡っていたので、残っている場所には土塁と堀と両方が残っています。


参道

竹林を抜けて、西の道路側に出て来ました。
歩道なのかと思いきや、目の前には朱色の鳥居が見えます。
ここって、確かお寺だったよね?


唐鈴神社

振り返ってみると、神社がありました‼
この道は歩道ではなく、唐鈴神社の参道でした。


堀(西)

参道からは空堀も良く見えます。



ここには虎口でもあったのでしょうか?
土塁と土塁の区切りがあるように見えます。


土塁(南西)

外側から見た南西の土塁です。


鳥居

ここから銀杏並木が続く唐鈴神社の参道だったんですね。
この神社には面白い伝説があり、群馬県の玉村町と深い関係があります。
862年(貞観観4年)群馬県玉村町の火雷神社の神官が祈祷を行っていると魔物が現れ
神鏡を奪おうとしたので那波八郎廣純が刀をとり、その首を切り落としました。
魔物の折れた角を投げた場所は「角渕」、切った手を捨てた場所が「上之手」という地名になって玉村町には残っています。
また、魔物の首を祭ったのがここ唐鈴神社との言い伝えがあるそうです。


この日は、娘の用事で近くまで送迎することになったので
用事が終わるまで近くの城館巡りをして時間を潰すことに。
宅地になっていれば遺構はほとんど失われていたことでしょう。
神社仏閣になっていれば多少遺構が残るもので、断片的ではありますが残っていて良かった。


令和3年6月27日登城


今回の参考書


P176参照