むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

佐津間城(千葉県)

2022年01月29日 | 百名城以外の城
佐津間城さつまじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代16世紀中~末期
指定史跡
場所千葉県鎌ヶ谷市中佐津間1 地図

佐津間城跡は東側に大津川をのぞむ標高25mの台地上に築かれており、台地下の集落とは約9mの比高があります。
土塁と空堀をめぐらせて、周囲を台地から遮断して曲輪を形成単郭構造の城跡で、守備を主体とし、
四方に張り出した構造の櫓台と、その櫓台を利用した横矢構造が確認されていて、曲輪の入口となる虎口の跡も残っています。
また、こうした入口が村落側にあることは、城と村落が一体の関係であったことも推定され、
周囲には屋敷裏や北根郷屋、南木戸などの城に関係する小字名も残っています。
戦国時代に造られた城跡は東葛地方でも数多く確認されていますが、
鎌ヶ谷市内で明らかに城跡として確認されているのは佐津間城だけです。



佐津間城跡構造図

城の大きさは堀の外側で東西50m、南北76m、土塁の内側(主郭)は東西21m、南北35mあり、
築造された時期は戦国時代で、16世紀中〜後半頃と推定されています。



ここから上に登ってみたのですが、住宅地となっていて
うろうろしても只の不審者でしかないので引き返して来ました。


案内看板は設置されているものの、住宅街であり、主郭辺りは林になっているのですが
私有地のため立ち入ることは出来ませんでした。
どの程度遺構が残っているのかこの目で確かめたいところではありますが
主郭辺りは林になっていて、宅地になっていないだけでも、
後世に残るものとして、まだありがたい方なのかもしれません。


令和3年12月30日登城





戸張城(千葉県)

2022年01月18日 | 百名城以外の城
戸張城とばりじょう
別名
構造平山城
築城者戸張行常
築城年代平安時代末期
指定史跡
場所千葉県柏市戸張 地図

戸張城は、相馬系の戸張八郎が城主であったと考えられていますが定かではありません。
戸張氏は平将門の子孫で、鎌倉時代から約200年間この地に館を構えていました。
典型的な直線連格式の造りで、郭は主郭と二の郭から成ります。
三方が崖地で、かつては手賀沼が広がり敵から守るには適した地形をしていました。



文京区立柏学園

国道16号線の柏隧道のトンネルの上に行く脇道を進むと、
文京区立柏学園(廃校)があります。
この敷地内が戸張城跡なので、中に入って見学することは出来ません。


土塁と虎口

門の外から中を覗き込むと、しっかり土塁が残っているのが見えます。
ちなみに、見えている土塁は二の郭の土塁です。
ということは主郭は建物の更に奥になるようです。


土塁と堀

フェンス越しにがっちり張り付いて見てみました😅
土塁の手前には堀も見えます。



結局、指を銜えて敷地の外からフェンス越しに覗き込むことしか出来ませんでした。
仕方あるまい。と諦めて周囲を周回してみたものの得られるものはありませんでした。


令和3年12月30日登城


今回の参考本


中曽根城(千葉県)

2022年01月13日 | 百名城以外の城
中曽根城なかそねじょう
別名淵江城・千葉城
構造平城
築城者千葉勝胤
築城年代1460年~1466年( 寛正年間)
指定史跡
場所東京都足立区本木2 地図

中曽根城は、下総国の千葉勝胤が一族の内紛に破れ武蔵国へと逃れて来ました。
扇谷上杉氏から、赤塚城や石浜城を賜るもこの地に新たに中曽根城を築城しました。
城内には遺構は残っていませんが、千葉氏が信仰する
妙見宮を祀ったのが始まりとされる中曽根神社があります。



中曽根神社入口

南側の路地からの入り口です。



境内の中には中曽根城の城跡碑があります。


城跡碑

中曽根城は 室町時代千葉次郎勝胤公に
よって築城された 周囲六町四方(三十六ヘクタール)で
そとかまえに堀や土居をめぐらしていたと伝えられている
今も小字に 出戸 小屋の内出などの名が残っている
当社の境内は城の一部で 一段と高く
千葉氏の信仰する妙見社がまつられていた 
幾星霜の間に周辺は耕地となり 現在は都市化した
昭和七年 妙見社と興野の雷社と合せて
中曽根神社とし 当地の氏神として祀ったものである

と書かれています。



当初は妙見社でしたが、
現在は興野の雷神社と合祀され中曽根神社となっています。



鬼瓦の部分には武蔵千葉氏の家紋があります。


飾り瓦

ネットで保護された飾り瓦。
こちらは口が開いていないので狛犬ですね。
そして、口が開いているのは獅子なのだそうです。



発掘の際には堀などもみつかっていますが、現在は埋め戻されています。


やはり神社としてきれいに整備されているので地形を見ても
ココが城址と想像するには難しいくらい周辺は平らな住宅地です。
城址碑や案内看板などが無かったら、気が付かないけど、
近頃は神社仏閣すべて城址?と疑ってかかっている私です😅


令和3年12月30日登城


今回の参考本




坂上城(群馬県)

2022年01月08日 | 百名城以外の城
坂上城さかのうえじょう
別名高浜の砦
構造崖端城
築城者高浜氏
築城年代永禄年間
指定史跡
場所群馬県高崎市高浜町492 地図

坂上城は、箕輪城と鷹留城を結ぶ要衝の砦です。
長野氏の支配下にあった高浜氏は、武田氏の箕輪城攻撃の際の攻防戦として奮闘しました。
那波無理之助宗安率いる250の兵は、夜陰に紛れて雉子ヶ尾峠を越え、
雉郷城・里見城の防御線を突破して烏川を越え、明け方に高浜の砦を奇襲しました。
守将匂坂常陸長信は箕輪城にあって不在のため、高浜の砦は手薄のために落城すると、
宗安は高浜砦に火を放って東の白岩へ向かいました。
箕輪から馳せ向かった安藤九郎左衛門勝道と戦って討ち取りましたが、
続いて駆けつけた青柳金王(宗高)らに敗れて退却したと伝えられています。

江戸時代になると、坂上城の小暮繁信は徳川氏に従い
大阪夏の陣に参戦し、武功をあげると、城の鬼門にあたる場所に
高源寺を開基しました。


とりあえず訪れてはみたものの、宅地になっていて人目もあり
道幅は乗用車が入って行くにはちょっと厳しいほどの狭さです。
途中から車を降りて遺構らしきもの(堀・土塁)があることを確認だけして
あとは遠巻きに見て、この日の散策は諦めました。


令和4年1月4日登城


今回の参考本



滝野川城(東京都)

2022年01月05日 | 百名城以外の城
滝野川城たきのがわじょう
別名
構造平山城
築城者滝野川氏
築城年代1469~1487年(文明年間)
指定史跡
場所東京都北区滝野川3 地図

かつて鎌倉へ向かう源頼朝が布陣したという伝承が残るのが、滝野川城です。
豊島氏の一族である滝野川氏の居城で平塚城の支城であったと伝わります。
金剛寺のある場所に城が築かれていたといい、太田道灌との戦いに敗れた豊島氏とともに
滝野川城も廃城となりました。



金剛寺山門

金剛寺の山門です。
金剛寺はもともと石神井川を天然の要害とする寺城として機能していました。
弁天の滝や紅葉の名所と知られていたため金剛寺は紅葉寺とも呼ばれています。


案内看板

山門脇には「源頼朝の布陣伝承地」の案内看板が設置されています。


本堂




金剛寺の裏に公園があるので、行ってみようと思います。


松橋弁財天洞窟跡

この辺りの崖下の岩屋の中に弘法大師の作と言われる弁財天増が祀られていました。
この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納されたと伝わります。



この周辺には滝が多く存在し、夏は水遊びをして涼を取り、
避暑地としても賑わっていました。



自然の山水があったことを想像させられる景色です。
春の桜と秋の紅葉の名所とされていて、当時は茶屋があり、行楽地として親しまれていたようです。


城郭検定の会場が王子駅の近くだった時に、帰りに寄ってみようと試みて
方向音痴の私はしばらく王子駅付近をさまよい、辿り着けずに断念。
今回は、旦那様に連れて来てもらい、リベンジすることが出来ました。
都内は他にも行こうと思って辿り着けずに断念した場所があるので
本当に私の方向音痴はひどいものだと思います。
しかし、東京にも城館が沢山あるので下記の本を見ながらジワジワと攻め入るつもりです。


令和3年12月30日登城


今回の参考本



箕輪城(千葉県)

2022年01月01日 | 百名城以外の城
箕輪城みのわじょう
別名
構造平山城
築城者箕輪三郎
築城年代>鎌倉時代
指定史跡
場所千葉県柏市箕輪 地図

箕輪城は、手賀沼の南側の台地に築かれた戦国期の柏市最大級の城です。
築城は15世紀から16世紀と推定され、松戸市にある小金城を本拠とする
高城氏の支城と考えられています。
土塁と堀によって「田」の字形に主要郭が配され、それぞれを土橋で繋いでいましたが
現在は平成25年の発掘調査の後、手賀沼病院が建てられていて多くの遺構は失われています。



全体図

病院の駐車場を拝借して、駐車場より東に向かうとすぐに
二の郭内の道路沿いに案内看板があるので、ここで縄張りを確認します。


二の郭

しかし、主要な遺構の多くはどうやら病院の建物の下になってしまったようです。
このように、土の部分もありますがあまりに綺麗に整備されているところをみると
やはり埋め戻された感たっぷりです。



画面右側に見えている病院の建物がある方が主郭になります。


三の郭

右の建物のある場所が主郭、左の建物がある場所の奥が四の郭になります。
目の前の駐車場は三の郭になります。


堀跡

この道も堀跡だったものと思われます。



三の郭と七の郭の間の堀跡と思われます。
堀跡からは、応永16年の銘が刻まれた宝篋印塔が出土していることから
築城以前は墓域だったものと考えられています。


七の郭

一部畑となっている場所もあります。
土を見るとなんだかホッとします。


主要な郭部分が建物の下となってしまい惜しい限りです。
「田」の字の外の六の郭、七の郭までも合わせるとかなり広い城であったことがわかります。
支城ながらもこれだけ広い縄張りを持つとなると、まだ行っていない小金城が気になるところです。


令和3年12月30日登城