むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

雑賀城(和歌山県)

2021年11月27日 | 百名城以外の城
雑賀城さいかじょう
別名妙見山城
構造丘城
築城者鈴木重意
築城年代1577年(天正4年)
指定史跡
場所和歌山県和歌山市和歌浦中3 地図

雑賀城は、戦国時代に現在の和歌山市和歌浦に存在した丘城で、妙見山城とも呼ばれていました。
雑賀衆でお馴染みの雑賀孫市の父である鈴木重意(佐太夫)が築いた城で、
平時は農耕や漁猟に従事し、合戦があると本拠地とする雑賀城へ結集していました。
雑賀党とも呼ばれるこの党の中心人物が鈴木氏で鉄砲伝来当初から射撃法を習得していました。
本願寺の顕如上人の味方をして織田信長軍と対峙しています。



和歌浦交番

交番横に駐車スペースがあるので交番でひと声掛けて車を駐車、ダッシュで城址へ。
※交番の駐車場ではありませんので公式に許可はされません。自己責任にて。


津屋公園

養珠寺は、紀伊徳川家初代藩主頼宣の母養珠院の位牌を安置するために建立されました。
養珠院は、千葉勝浦城主、正木頼忠の娘で徳川家康の側室でした。
駿府在住の頃の寝室を、書院の一室に移築していたと伝わります。
そしてこの公園は養珠寺の境内の一部を転用して公園化されています。
ここから妙見堂へ登る道があるので公園脇から延びる道を進みます。


参道

神社の参道でもあるため、道は整備されているので
舗装された参道を進んで行きます。


三善社

途中に三善社(白鷹善神・鷹森善神・玉鶴善神)が祀られています。



ひたすらてっぺん目指して進んで行きます。


鳥居

鳥居が見えて来ました。



石段を登って神社でお参りです。

神社?
あれ?ここお寺じゃなかったっけ?


妙見堂

南郭とも思われるこの場所は、
1659年(万治3年)妙見菩薩をお祀りするために建立された妙見堂があります。
眺めが良いので物見のような場所でもあったのではないかと思います。


眺望

紀伊徳川家初代藩主頼宣の母養珠院の遺骨と弁財天石板碑が納められているという
妹背山に建てられた多宝塔がここから正面に見えるようになっていて
妙見堂と多宝塔は一対の建造物と考えられていることが公園にある案内看板に記されています。
平成16年には、多宝塔下の石室内の調査が実施され、
全国の大名や地元の庶民が記したという経石と遺髪が発見され、
遺髪は養珠院のものではないかと推測されています。



妙見堂から一段下がって、廻り込むように背後へと続く道を進んでみることに。



途中、台風の影響でしょうか、倒木があったりするので
避けながら道なりに進んで行きます。



石積?堀切?虎口?
なんだかよく判らないけど何かがあった形跡あります。


千畳敷へ

妙見堂のある場所を、主郭だと思い込んでいたせいで
この先の千畳敷へ行かずに引き返してしまいました。
とんだ失態です😫



このまま下へと下って行きます。
結局藪より歩きやすい整備された道を選んでしまったことにより失敗しました。
虫と戦う覚悟で突き進んでいれば本丸まで辿り着いていたものを…くやしい。



この辺りまで下って来ると、きれいに積まれた石垣が見えて来ます。
???でもこれはどう見ても、公園化した際の石垣なんだろうなあ。



とうとう下まで戻って来てしまいました。


案内看板

行きには気づかなかった案内看板がありました。
先にこれを見ておくべきでした。


雑賀党は雑賀城を本陣とし、周囲に城や砦を築き信長軍にとの合戦に備えていました。
一度は信長軍を退かせて勝利を祝ったのですが、すぐに体制を立て直して再度攻撃を仕掛けて来た
信長に、雑賀党にはもはや抵抗する余力は残っておらず、雑賀城は落城しました。
雑賀党の拠点ともいうべき城跡ですが籠るような城の造りではなさそうです。
そもそも皆さん武士なわけじゃないので舞台は山の上ではなく200万石の広いお寺の敷地に
集結して一揆や戦に集っていたのだと思います。


令和3年8月1日登城




浅貝寄居城(新潟県)

2021年11月23日 | 百名城以外の城
浅貝寄居城あさかいよりいじょう
別名寄居城・浅貝寄居館
構造平城
築城者上杉謙信
築城年代1571年(元亀2年)
指定史跡町指定史跡
場所新潟県南魚沼郡湯沢町三国 地図

浅貝寄居城は、関東管領上杉憲政の要請により、三国越えの拠点として
上杉謙信が栗林、大石両将に命じて築かせた城で、謙信は三国超えの際の宿所として利用していました。
三国街道沿いに築かれたこの城は、三国峠を越える際の抑えとして重要な監視場所で、
関東の北条氏・甲斐の武田氏の侵攻の備えと関東遠征など、三国超えの拠点となった城館です。



空堀(南東)

ホテルの建物に囲まれた場所に主郭だけが残っています。
どこから入城しようか…とちょっと悩みます。


空堀(北東)

建物の間から入れそうな場所を探してみましたが
この堀を渡って土塁を乗り越えるしかないかなあ。


土塁

目の前の土塁を超えて入城です。
ここは虎口ではなさそうですが、登った形跡があるので
ここから入るのが無難のようです。



主郭の真ん中に標柱が見えたので、ここで間違いありません。
(土塁と堀が見えた時点で間違いないとは思ってますが)



背後となる土塁は、他方面より高く盛ってありますね。
よくぞ残してくれました。



西側にも道路があるのでアクセスできそうですが、こちらの方が
道路と堀の高さがあって、侵入しずらいです。
しかし、他人の敷地に入らずにアクセスできるのは西側だけです。



そして本来の登城口があったはずの方向は…崖になっていて出入りすることは不可能な状態です。
この方向の先に三国街道があるのですが、城址があるとはまったく気付きませんでした。


リゾート開発されても残された主郭は良好なので、もう少し見やすく(アクセスしやすく)なっていると
ありがたいのですが、あまり人知れずひっそり隠れているからこそ(注目されることなく)
そのまま残っているのかもしれません。
しかし、これだけしっかり遺構があるのに人の目に触れないのも
なんだかもったいないような気もしました。


令和3年11月21日登城


今回の参考本




有賀城(長野県)

2021年11月17日 | 百名城以外の城
有賀城あるがじょう
別名天狗山城
構造山城
築城者有賀次郎
築城年代1219年~1222年(承久年間)
指定史跡
場所長野県諏訪市豊田有賀 地図

有賀城は、諏訪と辰野を結ぶ有賀峠の諏訪側の登り口にある
江音寺(館跡)の裏山に築かれた山城です。
諏訪と伊那谷を結ぶ交通の要所で、鎌倉街道、甲州脇往還としても重要な場所でもありました。
鎌倉時代から諏訪氏支族の有賀氏が存在しましたが、武田氏に背き有賀氏が滅びると
有賀の郷は以降千野氏所領となりました。




諏訪側から有賀峠を登り始めて間もなく
「有賀城跡」の看板が見えて来ます。
若い頃は何度もこの道を通ったのにまったく気付いていませんでした。


城裏橋

「城裏橋」と記された橋を渡って登ります。



裏道のようですが、しっかり冠木門があります。
ここから雰囲気創りがはじまっていますね。



運動不足でなければ楽勝な山道ですが、コロナ太りも手伝って
早くも息が上がってしまい、ボチボチと休みながら登って行きます。



いくつもの獣道のような枝道がありますが、江音寺と記された杭と樹に巻かれたテープを頼りに
進んで行くと迷うことなく城址の方へと行くことが出来ます。


竪堀

竪堀の看板が見えて来ました。
ここは主郭のすぐ裏手の大堀切になります。



堀は東西に竪堀となって落ちています。
その堀切を渡り、主郭へと登る道が付いています。


虎口

登りきると、主郭の虎口と平地が見えて来ます。


主郭

主郭に到着しました。
城の背後となる裏手側は、堀から取った土を主郭に書き上げた高い土塁が構築されています。
中の様子が見えない工夫がされていると考えられています。
その高い土塁が崩れないよう、二段の石積で土止めされています。



そして、振り返ると素晴らしい眺めです。
諏訪湖が一望出来て最高!なんですけど、ちょっと木が邪魔なんですよねえ。
高島城もみえているのですが、この写真では木に隠れてしまっています。
別の写真数枚にはちゃんと映り込んでいますが、狙って撮れよ!(すみません💦)


土塁

土塁から秋葉権現まで行って見ることにします。


石積

土塁の上から二段になった石積がとてもよく見えます。
先ほど土止めとして説明しましたが、中央に秋葉大権現の参道のように石積が切れているのが
見て取れると思います。
これを見ると、単に土止めとしているのか、秋葉大権現を祭るための石段なのか迷うところです。


秋葉大権現

秋葉大権現の石碑があるこの場所は櫓台があったのではなかという説もあります。
実際は、ここにこの石碑が無かったとしても櫓が建つほどの広さは無いような気がします。


案内看板

ここでも石積同様、土塁について土を盛ったのではなく地山を残して削った説になっています。
主郭の構造に関しては諸説あって、どのように造っているのかが明確ではありません。


横堀

横堀を使って西に連なる郭を見に行こうと思います。


二の郭(副郭)

主郭から見下ろすことが出来る副郭です。
主郭と副郭の間には大きな堀切があります。
ここで大きな段差が出来て守りを厳重にしています。


三の郭

この先、五の郭まで同じような規模の郭が段々に続きます。
しかも、先ほどの横堀は各郭を全部なぞるように掘られています。


四の郭

どの郭も上から下を見下ろして様子を窺うことが出来ますが、
下から攻め登って来ると、上の様子が見えない造りになっています。


五の郭

この連なる郭は天文18年の千野氏が入城した後に造られたとみられ、
織田軍の伊那方面からの侵入に備えられたものとして考えられています。



五の郭の先は江音寺へ。



江音寺の裏手に登城口があります。
江音寺がある場所が館跡になるので、本来有賀城への往来はこちらの道だったと思われます。
しかし、勾配がキツイとのことで私は裏手からゆる~く攻め入ってみました。


若かりし頃は、土の城にまったく興味がなかったのでここにこのような城跡があったとは
知らずに通過していました。
これからはきっと、ここを通るたびに「良い城があるんだよなあ~」なんて思いながら
通ることになるのですね。


令和3年10月10日登城


今回の参考本



楢葉城(福島県)

2021年11月15日 | 百名城以外の城
楢葉城ならはじょう
別名山田岡城・木戸城・山田岡館・館山城・木戸山田岡館
構造平山城
築城者楢葉隆祐
築城時期平安時代末期
廃城時期1602年(慶長7年)
指定史跡
場所福島県双葉郡楢葉町山田岡舘 地図

楢葉城は、木戸川によって形成された丘陵地に築かれています。
源頼朝の奥州合戦で武功を上げた岩城氏初代である東海小太郎成衝が浜通り南部を賜り、
その後嫡男が楢葉氏を名乗りこの城を居館とし、楢葉一帯を領地としました。
1534年(天文3年)相馬盛胤に攻められ落城すると、下浦常陸守泰清が城主となり、
1570年(元亀元年)に岩城親隆が奪還して再び城主返り咲くことに成功しました。
その後岩城氏の改易によって、楢葉城も廃城となりました。



三の郭

Googleマップに案内されてやって来たところ、車道から一段登って来て耕作地に出ました。
そこが二の郭です。
そのまま正面の丘に登れば主郭だったのですが、地図に示された場所を主郭と思い込み
三の郭にやって来てしまいました。
しかしここ、藪ではないけど一歩足を踏み入れると下から小さな虫🦗がたちがいっぱい飛び立ちます。


水堀跡

三の郭の外側を覗き込むと、なかなか良い堀跡が見えます。
既に日没だったのでこれ以上の侵入は遠慮しておきました。
なにより、細かい虫🦟が多いのが気になり、そそくさと退散。


二の郭

三の郭から二の郭方面を見ているのですが、主郭はこの画面右奥だったんですね。
今回も肝心な所に行ってませんでした😨
(どんな報告だ⁉)


木戸駅

木戸駅にミニチュアのお城の模型があるというのだけは知っていたので見に来てみました。
このようなお城は建っていたかはさておき、
城址があるぞという意気込みがあって…😅嫌いじゃないです。(むしろ好き👍)



こちらは無人駅だったので改札を入って近くで撮影も出来ました。


この日、帰り掛けにちょっとだけ寄った楢葉城跡。
遺構を見に来たのか、模型を見に来たのか、目的がよく判らない訪問となってしまった。
なんとも中途半端な…本当はかなり広いお城なんですよ。(後から調べ)
ちょっと心残りがあるので虫のいない時期に本丸に攻め入ってみたいと思います。
※マダニチェックはしたもののそれではない虫に刺されたのでご注意下さい。


令和3年10月31日登城


続編が発売になっています


真野古城(福島県)

2021年11月05日 | 百名城以外の城
真野古城まのこじょう
別名
構造平山城
築城者坂上田村麻呂?
築城時期8世紀頃?
廃城時期不明
指定史跡市指定史跡
場所福島県南相馬市鹿島区江垂新城 地図

真野古城は、伝承によると坂上田村麻呂が築いたと伝わるが定かではありません。
丘陵地に位置し、新城館・桜平古館・杉の館・田村堀切が結びついて機能していたとみられています。
発掘調査によると、古代陸奥に置かれた七つの軍団のひとつ「行方軍団」との関連が考えられています。
また、多賀城跡から行方軍団のことが記された文書も出土しており、
780年(宝亀11年)頃には行方軍団が存在し、真野古城跡に置かれていたことが推定されています。



遊歩道入口

新城公園を目指して行き止まりまでやって来ると自然に登城口に到着します。
舗装路終点に車が数台停められます。
遊歩道の入り口があるので、ここから登って行くことにしました。
遊歩道はきれいに草が刈り取られていて、歩きやすく整備されています。


堀切

遊歩道を登り始めて間もなく、右手に堀切らしきものが見えて来ます。
谷になっているのは遠目にもわかるのですが、倒木や草木が生い茂り入って行くのは…。



整備したのはわりと最近なのかな?


虎口

虎口が見えて来ました。
上に出られそうです。(楽に攻め入れそうな距離感です)


主郭

看板も草に埋もれていたようですが、草刈りがされています。
ありがたいことです。


案内看板

これを読むと、随分と古い時代のもののようです。


土塁

ベンチの奥の方には、土塁があるようにも見えます。
位置的には土塁があるはずなのですが、草がこんもりとしているようにも見えるし、
これは心の目で見るしかあるまい。



振り返ると…
実は看板とベンチがあるところ以外はすべて藪でした(^^;



すすきもきれいですが、とてもこの中に突入する勇気はありません。
誰か2mほど入ってみた感じがあるのですが、真似をしてちょっと進んでみましたが
先人もそこで断念してますね。



奥に何があるのか気になりながらも、
これ以上は見られるものが無いので帰ることにします。


トイレ

四角いコンクリートの建物はトイレです。
こういう所にあるトイレって、ぜ~ったい使えないこわ~いトイレが当たり前ですよね。
しかし、このトイレは使えるトイレなのです。
中はピカピカにお掃除がされてあるのには、驚きました。
これは管理している方を褒めてあげたくなるトイレです。
外観からは想像できない裏切りでした!(良い意味で)


堀切

さて、トイレを背にして東の方を見てみると、主郭のある山と南側の大地とを
切っている堀切がありました。
奥の方までずっと続いているはずなのですが、やはり草木で覆われていて
その様子は手前しか確認することは出来ません。
幅は車1台がはいってしまうようなサイズです。(先細りしているかもしれませんが)


遠景

東側から見た風景です。
こちら側からだとすすきが見えるような山には見えません。


城址は、すすきののっぱらでよくわからなかった。
古代王朝の時代の城址はやりどこも広いので、台地と言えどある程度広さが重視されているような気がします。
ここの広大な郭の草を全部刈るとしたら相当大変な作業になると思われます。
復興中の地元の方々には看板までの道のりを整備していただけただけでも十分感謝です。


令和3年10月31日登城


11月8日発売です!

桑折陣屋(福島県)

2021年11月04日 | 陣屋・館
桑折陣屋こおりじんや
別名
構造陣屋
築城者松平忠尚
築城時期1700年(元禄13年)
廃城時期1747年(延享4年)
指定史跡
場所福島県伊達郡桑折町陣屋 地図

桑折周辺の信達地方 は、江戸時代に入ると、米沢藩上杉 氏領となりましたが、
1664年(寛文4年)に幕領へと移り、幕府代官所が福島に置かれていました。
その後、信達地方は一時福島藩本多氏領となりましたが、1682年(天和2年)再び幕領となり、
堀田氏の福島藩入部に伴い、残された幕領を治めるため、1686年(貞享3年)に幕府代官所 として桑折陣屋 が設置されました。
初代桑折代官は柘植伝兵衛 でした。1700年(元禄13年)松平忠恒 が二万石で桑折藩を開き、陣屋を使用していましたが、
松平氏は定府 (参勤交代せず、江戸に常任している大名)であったので、桑折屋には代官を派遣して、当地を治めていました。
松平氏は三代忠暁 のときの1747年(延享4年)上野篠塚に転封になりますが、その理由は半田銀山 に有望な鉱脈が発見され、
これを幕領とするためとされ、佐渡奉行の支配下に置かれました。
このころ描かれたとみられる絵図によると、陣屋内には銀山関連の施設があったことが窺えます。
1749年(翌寛延2年)に神山三郎左衛門 が桑折代官として赴任し、一時の仙台藩の預かり支配期を除き、
1868年(明治元年)に前田勘四郎 代官から新政府に引き渡されるまで、代官が派遣されていました。
その間、陣屋は斎藤彦内 ・蓬田半左衛門 等が首謀着となった「寛延一揆 」に囲まれたり、
竹内平右衛門 、寺西重次郎 ・寺西蔵太 ・島田帯刀 等、民政や銀山開発に尽くした代官の治政の場となる等、当地方の中心として機能しました。
代官の中には、竹内代官や寺西重次郎代官等のように、桑折で死去し、町内に墓所があるものもあます。
陣屋は、郡役所敷地より東側、陣屋の杜公園より北側の、現在は住宅地となってい部分を占めていました。(案内看板より)



駐車場

旧伊達郡役所の前に無料の駐車場があります。
こちらを利用して散策です。


旧伊達郡役所

この建物は、1883年(明治16年)に建てらたもので国の重要文化財に指定されています。
その後1969年(昭和44年)まで福島県の行政を担ってきました。
なかなか格好良いハイカラな建物です。


案内看板

門が開いている時間ではなかったため、中に入ることが出来ず、
近くから撮影することが出来なかったのですがカメラのおかげで看板の文字が読めました(^^;



開いていたら中も見てみたい。
こういう建物もわりと好きなんですよね。
桑折西山城もまだ入り口までしか行ってないので次回訪れた時のお楽しみということで。


松尾芭蕉像

芭蕉さん、ここにもいらしたのですね(^-^)
桑折町は、奥州街道・陸羽街道が分岐する宿場町として栄えた町なので
立ち寄った場所がいくつかあるようです。


桑折陣屋横に建てられた旧伊達郡役所を紹介したような形になってしまいましたが、
肝心な陣屋跡はここには写っていません!
旧伊達郡役所を目標にやってきて、ここで満足してしまい陣屋跡をみつけた気になっていました。
本来なら「違うだろ!」って相方に突っ込まれるところですが
この時、睡眠中でして…私独りで平気だからと別行動したために伊達郡役所を見て満足して
帰って来てしまいました。
とは言え周囲は住宅地なので撮影が出来たのかと言えば難しいところではあるのですが。
次回は陣屋の杜公園にも行ってみようと思います。


令和3年10月31日訪問



田中城(福島県)

2021年11月03日 | 百名城以外の城
田中城たなかじょう
別名
構造平城
築城者桑折氏
築城時期15世紀頃
廃城時期1602年(慶長7年)
指定史跡
場所福島県南相馬市鹿島区鹿島田中 地図

真野川の南に位置する中館に、桑折元家が南北朝時代に移り住み真野氏を称していました。
その後、真野氏は真野川の北側へ田中城を築いて、中館から田中城へ移りました。
戦国期は相馬氏に仕えていたので、天正年間には相馬義胤の弟である郷胤が城代となり
相馬郷胤は田中氏を名乗るようになりました。
そして、1602年(慶長7年)に廃城となりました。



土塁

現存している遺構としては、ここに土塁の一部が残っています。
そしてこの辺りから南側が主郭になります。


主郭

この辺りはもともと湿地帯で、田中氏の城よりも前の真野氏の時代には堀を巡らしせていたと考えられます。



現在はこのように、農耕地となり城址として見てもわかりずらい状況になっています。
とは言え、石田三成が軍勢を連れて「葛西・大崎一揆」の討伐の為に陸奥に向かう途中、
田中城に駐屯したということで話題性はかなりある城址だったりします。


1590年(天正18年)郷胤の父である相馬義胤は、豊臣秀吉から小田原へ参陣するよう命じられましたが、
遅参してしまいまい、このとき石田三成のとりなしがあって秀吉に許されました。
以来、相馬義胤と石田三成は大変親しくなりました。
1596年(慶長元年)義胤はかねて親しく交際している石田三成から三成の諱字「三」をもらい、「相馬三胤」を名乗っています。
その後、関ヶ原の戦いを経て、1602年(慶長7年)家康は、佐竹義宣・相馬義胤・岩城貞隆は先年の戦いにおいて
石田三成に加担したとして改易となってしまい田中城は廃城となりました。
徳川の世になると、三胤(密胤)は徳川家中の有力者、土井利勝から「利」の文字をもらい受け「利胤」と名乗るようになりました。
このように、時代の流れで幾度も名前を変えているところが面白い。(この時代にはよくあること)
現代では名前を変えるなんてことは有り得ないはなしですが、
この時代の人たちは驚くような出来事ではなかったのでしょう。
今回は城郭の話から離れた話の方が盛り上がってしまいました(^^;


令和3年10月31日登城





桑折西山城(福島県)

2021年11月01日 | 百名城以外の城
桑折西山城こおりにしやまじょう
別名西山城・高館・赤館
構造山城
築城者伊達稙宗
築城時期1532年(天文元年)
廃城時期1548年(天文17年)頃
指定史跡国指定史跡
場所福島県伊達郡桑折町万正寺 地図

桑折西山城は、1532年(天文元年)頃に陸奥国守護に任じられていた
伊達稙宗が築いた伊達氏の本城です。
越後国守護上杉氏との養子縁組に反対する嫡男の晴宗と稙宗が対立し、
7年間にわたる「天文の乱」の舞台となった場所です。
室町幕府の仲介により晴宗は米沢に本城を移し、桑折西山城は廃城となりました。



登城口






案内看板



山城サミット当日朝に入口まで行ってみました。
日を改めて行って見ようと思います。
今回はここだけ。


令和3年10月31日登城