むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

大坂城~豊臣期(大阪府)

2017年06月29日 | 百名城以外の城
大坂城(豊臣期)おおさかじょう
別名
構造平城
築城者豊臣秀吉
築城年代1585年(天正13年)
指定史跡
場所大阪市中央区大手前 地図
城郭検定出題あり

石山本願寺を退去させ、その跡地に築いた大坂城。
石山本願寺は堀と土塁で防備された城のような造りで、
普通の寺院とは違い武装された要塞のような寺院だったようです。



案内看板

大阪府立男女共同参画・青少年センター前にある案内看板。


北側外郭部の石垣

大阪府立男女共同参画・青少年センター横には埋め立てられていた石垣が出土した形でこの場所に移築復元されています。



三の丸石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿に復元しています。



大坂冬の陣での講和の条件として徳川家康によって破壊され地中に埋められてしまいました。





石山本願寺推定地

大坂城内にある石山本願寺があったと推定される場所です。
山科本願寺が焼き討ちされると本願寺教団の本拠地「石山本願寺」での権力闘争へと発展しました。
石山合戦で敗れた教団は石山本願寺を退去し、京都へと本拠地を移しました。
城のような防御を持つ寺院に発展した石山本願寺跡には秀吉によって大坂城が築かれました。


山里曲輪



秀頼・淀殿自刃の地

大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼と母の淀殿が山里曲輪にあった櫓にひそみ、自害したとされる場所です。
散歩に来られた人や通りすがる人もここで手を合わせて行きます。
私もここで合掌…。
なんともやりきれない思いが伝わります。


豊国神社

豊臣秀吉を祀る神社です。
出世開運の御利益があるということで本殿に金運とお城めぐりが沢山出来るようにお参りをして、
金運アップのひょうたん御守りを買って来ました!


豊臣秀吉像

豊国神社には秀吉像があります。


醍醐の桜

豊国神社内にある「醍醐の桜」。
このしだれ桜は京都・醍醐寺で秀吉が行なった「醍醐の花見」で咲いていた桜の木を、
先進の技術で住友林業がDNA継承を可能にさせて植樹した桜だそうです。


大坂城には3回目の登城となるのですが、今回はとにかく歩きました。
過去に訪れてない場所を中心に散策して歩きました。
やはり朝の城さんぽは気持ちが良いものですね。
ゆっくりいろいろな場所が見られたのでとても充実した時間を過ごせました。


平成29年6月24日登城



知識ゼロからの日本の城入門
小和田 哲男
幻冬舎

江戸城(東京都)

2017年06月28日 |  百名城
江戸城えどじょう
別名千代田城
構造平城
築城者太田道灌、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光
築城年代1457年(長禄元年)、1606年(慶長11年)、1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所千代田区千代田 地図
スタンプ設置場所楠公休憩所・和田倉休憩所・北の丸休憩所
城郭検定出題あり

江戸城は、太田道灌が築いた平城で後に徳川家康の居城となりました。
以来、江戸幕府が開かれ日本の政治の中心となりました。
現在は皇居東御苑として、本丸・二の丸・三の丸が公開されています。


桔梗濠と大手門(外門)



大手門(外門)

石垣と高麗門は現存しています。
近くで見たいけど、昔も今も警戒兵^^;が見張っています。


天守台

ここには、元和、寛永の頃の天守がありました。
元々慶長期に建てられた家康の城はこの位置ではなく、
二代将軍秀忠が家康の城を壊して、この地に新しく自分の城を築いています。





天守の碑



天守台

天守台石垣は明暦の大火の後、前田氏によって再築されたが財政難のため天守は再建することが
出来ませんでした。


天守台石垣

石垣はすだれ仕上げになっています。
焼け跡が石垣に残っている。


大番所

大手門から本丸までには三つの番所があります。
大番所は本丸に一番近い三つ目の番所で、位の高い与力と同心が警護していました。
ここからは大名であっても乗り物を降りて登城しなければなりません。


百人番所

長さ50m以上ある百人番所。
二の丸から本丸へ入る検問所で鉄砲百人組の「根来組」、「伊賀組」、「甲賀組」、「二十五騎馬組」と与力20人と同心100人が交代で警護していました。


平川門

大奥の女中が出入りしていたことから「お局門」とも呼ばれている。


和田倉門跡

現在は石垣だけになってしまっていますが高麗門と櫓門があり、蔵地としていました。


和田倉橋

木橋が架かっていて高麗門が構えられていました。


巽櫓(桜田二重櫓)

三の丸の南隅にある二重櫓。
三の丸では唯一現存する隅櫓です。


桔梗門



坂下門

かつては高麗門と櫓門で桝形門になっていたのですが、高麗門は撤去され正面に櫓門を移し、
現在に至っています。


正門(西の丸大手門)



二重橋と伏見櫓


桜田門

この内側門は渡櫓門になっており、外門は高麗門と西の丸防備のために二重構造の城門です。


外桜田門
この門外で1860年(万延元年)三月三日、大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました。
有名な「桜田門外の変」ですね。




平成23年11月12日登城
平成29年6月23日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

原之城遺跡(群馬県)

2017年06月26日 | その他
原之城遺跡げんのじょういせき
別名
構造豪族居館跡
築城者
築城年代6世紀中期頃
指定史跡
場所伊勢崎市豊城町字原之城 地図
城郭検定出題あり

全国最大級を誇る豪族居館で、掘立柱建物と大型竪穴式住居、倉庫群など置かれていた場所です。

案内看板

スマーク伊勢崎近くにある案内看板。
この案内看板以外は何もなく広い畑が広がるばかりです。



かつての居館跡や濠などの面影もみつけられることは叶わず。



日本最大級であったという遺跡ですがその歳月はすべて風化してしまったようで
意識しなければ何があったのかはわかりません。



のどかな風景が広がります。
地名でなんとなく城があったのかなと思うくらいです。



日本城郭検定のテキストに載っていることで知ったくらいで
群馬県民ながら知りませんでした。
実際現地に出向いてみても広い農地が広がるばかりで案内看板を確認することしか
出来ませんでした。
農地にある段差も低いので畑の区切りに作った感じでしょうから遺構という遺構は
見ることは出来ません。


平成29年6月17日訪問



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス


高津戸城(群馬県)

2017年06月22日 | 百名城以外の城
高津戸城たかつどじょう
別名要害山城
構造山城
築城者山田七郎平吉之
築城年代1097年~1103年(承徳~康和年間)
指定史跡
場所みどり市大間々町高津戸1089 地図


高津戸峡

とても奇麗で神秘的です。
この川の左側の山が要害山で高津戸城がある山です。


はねたき橋

高津戸城の姫様が原因不明の死を迎えたという逸話が残っており、
近くを通る女性を橋の下へと引きずり落としているのではないかと噂されているらしいです。
飛び降りが多いため監視カメラが設置されています。
確かに景色は良いけど下を覗き込むと怖いです。


はね瀧道了尊

はねたき橋の袂にある「はね瀧道了尊」でちょっと寄り道。
子育ての神様として信仰されています。



烏天狗の姿をしており、子供の心に宿ろうとする悪鬼を睨みつけ、懲らしめるためのねじり棒を左手に持っています。
背中には煩悩を焼き尽くす火を背負い、疾風より速く走りぬける白狐に乗っていらっしゃいます。


ねじり木

心のねじれた子供を立ち直らせる為にねじり木を持ち帰り朝夕お唱えし、
大願成就したらねじり木を二本にしてお礼参りをするという。
根性がねじまがってる?娘も連れて来るんだったなあ^^;


さて、そもそもの目的の高津戸城を目指しましょう。


要害山登山口

ハイキングがてら要害山麓から歩いて登ることも出来ます。
案内看板も設置されています。
私はらくちんに車で三の丸の駐車場まで行ってしまいます。


物見台

三の丸手前の物見台。
遊歩道が設置されています。


眺望

確かに眺めが良い!


駐車場

三の丸に造られた駐車場にはトイレと展望台があります。
ここからは徒歩で登城です。


登城口

本丸まではここから一気に登ることが出来ます。


鳥居

最初の鳥居。
この先本丸まであと二つの鳥居があります。





礎石

二の丸付近にの道の両脇に礎石跡があります。
かつてここのすぐ下にある鳥居があったのが移設されたのか?
でもこの礎石の溝は四角です。鳥居は丸だよなあ。
門跡だったりしたらおもしろいんだけど違うんだろうなあ。


鳥居

本丸下の腰曲輪。
なぜかこのような場所に遊具があります。
(誰も遊ばないと思うんだけどなあ)


ハイキングコース

腰曲輪をぐるっと一周してまたここに戻って来られます。


腰曲輪

本丸の下にはぐるっと一周できる腰曲輪があります。


要害神社

要害神社はかつて「金毘羅宮」と呼ばれていました。



ここにもやっぱり残念な遊具が…。
こんなとこ子供が来るのか?とおもっていたけど、春風亭昇太さんのブログには女の子と出会ったことが
書いてあったような…でもやっぱり遊具では遊ばないと思う。絶対に。


要害神社裏




登って来た道を引き返して駐車場へ戻ります。
道はこんな感じでとても歩きやすかったです。


要害山麓にある神明宮に寄ってみました。

神明宮

向拝に掲げてある御神号の額「皇大神宮」は十三代徳川将軍家定の御台所であるあ篤姫の養父近衛忠煕が
揮豪したそうです。



渓谷鉄道大間々駅

大間々駅にやって来ました。
ここから要害山がよく見えます。


あずまや

大間々駅前にある桶の形のベンチがありました。
どうやら100年以上前の醤油醸造が使用していた桶で造られているらしい。


ベンチ

さわってみた感じでは醤油が付くといことはなさそうですが汗がべったりだと…どうでしょう^^;
この日は天気が良かったので暑くなり日陰で休むには思ったより風通しがよく涼しい感じがしました。
なにより、風情ですかね。良い感じのベンチでした。



最後に里見兄弟の仇討の悲話を紹介しておきます。

『里見兄弟の悲話』
桐生氏に仕えていた里見実堯(さねたか)という人物がいました。桐生重綱のとき、重綱のまわりにいる者たちによって、桐生家や政治が乱れたので、実堯が注意したところ、逆にじゃま者扱いされることとなりました。その後、実堯は重綱のまわりにいる者たちによって、死ぬこととなります。その仇を討とうと、実堯の息子兄弟が高津戸に秘密の砦をかまえ、敵を攻めましたが、弟が討ち死にし、兄も切腹して死んでしまいました。そして、目的を果たせずに死んだ兄弟の無念だけが残りました。


なんだか高津戸城って、あまり良い話は残されていないんですね。
周囲を含め心霊スポットだったり…調べれば調べるほど無念や怨念の地みたいな印象ばかり残りました。
そして、膳城・山上城とかつて遊具が置かれる公園としてのブームがったのか城跡に遊具といった
光景がこの辺りでは見られます。
膳城では最新の遊具が設置され続けていてファミリーの憩いの場所として機能していますが
他の城では朽ちた遊具は景観も悪いし不気味なので、なんとかして欲しいです。


平成29年6月17日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

深沢城(群馬県)

2017年06月20日 | 百名城以外の城
深沢城ふかざわじょう
別名阿久沢城 神梅城
構造山城
築城者阿久沢氏
築城年代建武年間
指定史跡
場所桐生市黒保根町宿廻 地図

深沢城は、渡良瀬川上流黒川谷に豪族たちの寄居として築かれ、阿久沢氏の居城となる。
中世末期には上杉・北条等の戦場となるが、北条氏滅亡とともに廃城となった城である。




道中案内看板があるのでそれに従って行くと容易に到着出来ます。


駐車場

正圓寺向いにある駐車場。


本丸を見下す

駐車場から見下す本丸。
道下に本丸とは穴城なのでしょうか。


案内看板

駐車場に小さな案内看板があります。


案内看板

縄張り図がボロボロで見ずらいです。


石碑・石塔

二の丸入口にある石碑と石塔。




箕輪城を思い出すような傾斜のある幅広い堀。
御見事!


本丸

広い本丸です。
いちめん草で覆われているので中に入って行くのは遠慮しました。


二の丸

本丸より高台にある二の丸。


断崖

覗き込むと吸い込まれてしまいそうなくらい深い崖があります。
うっかり落ちたら大変なのでわかりずらい画像になってます。
崖の岩の部分は人工的に削ったかのようにも見えるのですがどうやって近付いたの?という気もします。
とにかく恐ろしい断崖でとてもこちらからは攻め入ることは出来ないでしょう。


腰曲輪

本丸下にある腰曲輪。
木を伐採して見やすくなっているのですが、ふと足元を見ると一直線に木の切株が目にとまりました。
これは何を示すものなのか。
街道などにある杉並木のような並びに見えます。
この先に本来の大手道と思われる登城があるようですが伐採した木が捨てられているので
進むことは出来ませんでした。


正圓寺




正圓寺の堀

正圓寺隣の民家の間にある堀切。





墓地

こちらの墓地に阿久沢氏累代の墓があります。


この付近はラリー(自動車競技)で夜に訪れることが多い地域ですが、城跡の散策には初めて訪れました。
このような遺構があったとは…と思うところはラリーで走るような場所では多いのかも。
見なれた風景なのに昼間見る風景は違って見えます^^;
まあ、目的が違うのでそれはそれで新鮮な感じがします。


平成29年6月17日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

五覧田城(群馬県)

2017年06月19日 | 百名城以外の城
五覧田城ごらんだじょう
別名五乱田城
構造山城
築城者阿久沢氏
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所みどり市東町荻原関守 地図


五覧田城は越後の上杉謙信、新田金山城(太田市)の由良氏、深沢城(桐生市黒保根町)の阿久沢氏による
争覇の舞台となった城です。



国道122号線から山側に入り、あとは案内標識に従って五覧田城を目指します。


高橋登山口

案内看板があります。
ここから登山することが出来ますが、体力の無い私にはとても無理な話なので
車にて行ける所まで行っちゃいます


戸屋沢口登山口

この先は舗装路ではなくダートになります。
車高の低い車はあまりお勧め出来ない道となります。


ベンチ

駐車場の広場手前に石でできたベンチがいくつかあります。
現在は草木がボウボウで眺望は無いのですが、
冬場は眺めが良く休憩するのに丁度良い場所なのかもしれません。


駐車場
山頂まで500m弱を残すところまで車で来ることが出来ます。
もちろん、麓から案内看板に従って登山することも出来ます。


案内看板

御影石で造られた五覧田城跡の説明看板があります。
山頂には尾根筋に沿って14ヶ所の郭が存在するそうです。
また南麓の関守には崖上に単郭の遺構があり、ここに関所が設けられ関所を防備するために
五覧田城が築かれたと考えられています。



山頂までの道は駐車場の隅にあります。



山頂まで470mという看板を見て今回は断念。
虫もいっぱい、熊や猪も怖いのでこの先ははやはり冬場に訪れるべきだと判断しました。


山頂にある三の丸とされる場所は公園として整備されており、
天気の良い早朝には富士山も眺めることができるそうです。
やはり冬場に一度は散策してみたい山城ですね。


平成29年6月17日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

臼杵城(大分県)

2017年06月18日 | 続百名城
臼杵城うすきじょう
別名
構造平山城
築城者大友宗麟
築城年代1562年(永禄5年)
指定史跡県指定史跡
場所場所 臼杵市臼杵丹生島91 地図
スタンプ設置場所臼杵市観光交流プラザ
御城印臼杵市観光交流プラザ
城郭検定出題あり



未登城の城







続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


墨俣宿跡(岐阜県)

2017年06月18日 | 関所・宿場
墨俣宿すのまたじゅく
街道名美濃路
設置1602年(慶長7年)
廃止明治3年~5年
指定史跡
場所大垣市墨俣町墨俣173 場所
墨俣宿は東海道と中山道を結ぶ脇街道として整備されました。
宿駅伝馬制度が敷かれてからは6つの宿駅が設けられ、墨俣宿もその一つでした。
美濃路は1600年の関ヶ原の戦いでは徳川軍勝利後、
家康が凱旋した道で「お悦び街道・吉例街道」と称されています。



史跡墨俣宿

本陣・脇本陣・問屋・渡船場が置かれ琉球使節や朝鮮通信使の通行をはじめ、
多くの人馬の往来で大変に賑わっていました。
将軍の上洛をはじめ、幕府へ献上の鮎鮨や、象などの珍獣も、この街道を通っていったなど、
一般民衆の旅の利用はもとより、多くの事件や物語、伝説、史跡、名勝なども沿道に残されています。


墨俣宿碑

大垣城・戸田氏十万石の城下町として繁栄し、当時美濃では最も大きい町でした。
天保期の「宿村大概帳」によれば、家の数903軒、人口は5136人、旅籠屋11軒、本陣1軒、
脇本陣1軒、問屋場1ヶ所、助郷村22ヶ所、茶屋6軒でした。


案内看板

中山道の垂井宿・追分(岐阜県垂井町)で分かれ、
東海道の宮宿(名古屋市熱田区)に至る約14里24町15間(約57km)で、
政治上・経済上からも重要な幕府直轄の街道となっていました。



当時は道の両側には大小の旅籠や商店・茶店などが肩を並べて建っており、
美濃路の宿場の中で最も賑やかな宿場でした。


脇本陣

脇本陣は、本陣のみにて大名などが泊れない時に利用した休泊施設です。
安藤家の子孫が代々勤めた。



明治24年(1891年)の濃尾震災の際に倒壊し、現在は隣接する本正寺に山門が残るのみです。


七里の渡し(海路)や三里の渡し(木曽川河口)より安全性が高く、
関所の取締まりも厳しくないので遠回りでも女性にも重宝されました。
天候に左右されず予定通りの通行が可能なため、七里の渡しを嫌う旅人が多数利用していたようです。

墨俣城から近いので合わせて墨俣宿も散策すると一夜城だけでなく城下町の発展が
良く分かりおもしろいと思います。


平成29年5月4日 訪問


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

山上城(群馬県)

2017年06月16日 | 百名城以外の城
山上城やまがみじょう
別名
構造平山城
築城者山上氏
築城年代1521年~1528年(大永年間)
指定史跡県指定史跡
場所桐生市新里町山上282 地図


花の公園として知られており、冬はロウバイ、夏はアジサイを楽しむことが出来ます。
遊具、芝生広場、日本庭園など市民の憩いの場として親しまれています。

長方形の郭を組み、長い形状の丘陵に築かれた丘城です。


こちらに駐車場がありますが、この先の常廣寺前にも駐車場があります。


日本庭園



芝生広場

この芝生広場が一番広く、遊んだりピクニックに適している場所となります。
段差を利用して滑り台があります。
この段差は遺構なのか公園の為に人工的に作られたものなのかはわかりません。


井戸

公園整備のため発掘調査された際に見つかった井戸跡。
一緒に埋められていた五輪塔やかわらけなどから見ても、人為的に埋められていたと推定されます。


三の丸

ここも広い芝生になっています。
隅のほうには建物でもあったかのように礎石のような石が並べられている場所もあるのですが
遺構であるかどうかはちょっとあやしいです。
もともとあった石というよりも、遺構っぽく置かれた石のように見えます。


堀内道

二の丸と三の丸の間にある横堀は堀底が道として使われており、出入口が設けられています。
そしてここにはアジサイがいっぱい咲くようです。


二の丸

右側の段が上腰曲輪です。


本丸から一段下がった二の丸。
朽ち果てた遊具が点在してます。



二の丸から西側の堀を覗き込むと、結構大きな横堀が見られます。
なかなか見事な堀です。


本丸

本丸にも朽ちた遊具が…。残念。



この奥が1段下がった北曲輪になります。
ここも堀で区切られています。


下腰曲輪
上腰曲輪と下曲輪と二段で構成されてる腰曲輪。


腰曲輪を下って常広寺に出ました。


常廣寺

桐生市新里町の常広寺に伝わる民話で、常広寺の和尚が江戸に行った際江戸の地の地名を名付けたそうです。
高輪や五反田、芝など多くの地名の名付けをしたようですよ。
民話なので信憑性はどうかわかりませんが凄い話ですね。


弁財天堂

山上城廃城後に建立されたと思われる常広寺。
弁財天堂は市指定重要文化財に指定されています。
欄間の彫刻が見事です。

下馬・下乗

ここで馬や輿から降りて下さいというところですね。


山上城内には朽ち果てた遊具が点在していたり、隅の方に積み上げられたりしてとても見苦しい状態です。
使われていない遊具やタイヤはぜひ撤去して目につく所に置いておかずに処分して欲しいものです。
公園としても遺構としてもとても中途半端な感じがしてしまいます。



平成29年5月20日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

大垣城(岐阜県)

2017年06月14日 | 続百名城
大垣城おおがきじょう
別名麋城・巨鹿城
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所大垣市郭町2-52 地図
スタンプ設置場所大垣城天守内
御城印大垣城受付
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

関ヶ原の戦いで西軍の将であった石田三成が入城し、その後関ヶ原で東軍徳川家康との決戦となる。
明治以降まで天守が残っていた(国宝)が第二次世界大戦で空襲により焼失してしまった。



東門(柳口門)

天守の復元とともに柳口門を移築した東門。


麋城の滝

これは見ての通り、人口の滝です。
とても涼しげです。


鉄門跡

現在鉄門は各務原市指定重要文化財となり、中山道鵜沼宿町屋館の道路向かい側に所在しています。


大垣城本丸城郭図



天守

鉄筋コンクリートで復元された天守。
戦災で焼失する前は国宝に指定されていました。
📢石垣の石としては珍しい石灰岩が使われています。
美濃赤坂の金生山から切り出してきたものです。


大垣城展示室

大垣市郷土館とセットの入場券を購入して天守内部の郷土博物館を見学。


甲冑



天守鯱鉾

再建された天守と同じもののようです。
古い写真と見比べると少し形がちがっているように見えます。


武器

実際に触れるレプリカ武器です。
甲冑だけでも重いのに、更に武器を持ったら…私はたぶん即効で殺られていることでしょう^^;


最上階からの眺望

ここから金崋山にある岐阜城が見えます。


艮櫓

L字型をした艮櫓は外観復元されています。
ここにも戦災で焼失してしまった国宝となった櫓があったんですね。
古い写真は残されているので、それを見るともったいなくてとても残念でなりません。


東埋門跡

出入口があったことを思わせる崩れた石。


辰巳櫓跡

麋城の滝の上にある辰巳櫓跡。


西門

こちらも模擬門です。
艮櫓と同様、丸の狭間が設けられています。


騎馬武者像

戸田家11代で大垣藩初代藩主戸田氏鉄公の馬上像。
戸田氏大垣藩は明治の版籍奉還まで太平の世が続きました。


大垣市郷土館

戸田公入城350年を記念して建てられた施設です。


城郭模型

城郭と城下の様子がわかりやすい模型です。


麋城の井戸

こんにゃく屋の文七が味の良いこんにゃくを作るために裏庭で土を掘り、節を抜いた青竹を打ち込んだところ
竹の先から奇麗な水が噴き出したと言われています。


濃飛護国神社

戊辰戦争に参加して戦死した54名の大垣藩士を祀っている神社です。
西南戦争で没した12名の大垣在籍の士族も合祀しています。


続百名城にもなった大垣城。
まだ続百名城といった雰囲気や実感の表れは見えなかったです。
城郭内にある公園はゴールデンウィークとあってか家族連れでとても賑わっていました。
戦火で焼失してしまった天守や櫓が残っていたら…とつくづく思ってしまいます。
現代になって空襲で狙われてしまった城を訪れるたびに悔しく思います。
せっかくそれまで残って来た城なのになあ…残念でたまらん。


平成29年5月4日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


第10回日本城郭検定

2017年06月13日 | イベント・行事
日本城郭検定も早いものでもう10回目になりました。
1回から受検をして10回目で1級に挑戦するところまでやってきました。


今回の東京会場は「お茶の水女子大学」です。







シロッぷに会うのも3回目です。
名刺をもらったのでせっかくなので私も自分の準1級の名刺を渡しました。w



10回記念の手ぬぐいです。続百名城が記されています。



さすがに1級は難しかった。
過去問ばかりやってて、今回発売された公式参考書の方をおろそかにしてしまったために撃沈。
やっぱりそうきたか…だよね、本売りたいですよね。
発売したからにはここから出題しますよね…。

旦那さまも一緒に1級を受検したのですが、旦那さまは公式参考書を重点に勉強していたのでそちらは
だいぶ正解していたと思います。
夫婦合わせてやっと合格点ですかね。

1級は5%以下の合格率と聞いているので、なるほどこれは手強い。
範囲が広いうえにテキスト以外からの出題もあるので日頃からニュースや話題にも敏感に
なっていないとなりませんね。


来年はどんな問題が出るのやら…想像がつきませんがとりあえず続百名城の情報収集でもしておこう。



ちなみに女子大なので男子トイレが少なくて男子トイレに行列が!!
受検者の多くは男性なので女子大は勘弁と言ってました。
でも、女性は観光地や人が集まる場所ではいつもこんな苦労してるんですけどね^^;

前橋城(群馬県)

2017年06月05日 | 百名城以外の城
前橋城まえばしじょう
別名厩橋城
構造平城
築城者長野賢忠
築城年代15世紀末
指定史跡
場所前橋市大手町1-1-1 地図
城郭検定出題あり

長野氏は石倉城を本拠としていたが、利根川の変流に伴い厩橋の地へ移り厩橋城が築かれました。
石倉城は利根川の水を引き入れたところ、洪水で大半が流されてわずかに残った三の丸を整備して厩橋城を築いたという。

群馬県庁

現在はその本丸御殿の跡に建てられた旧庁舎「昭和庁舎」と、地上33階、地下4階の群馬県庁が置かれています。
本丸御殿を昭和初期まで前橋県庁として使われていました。


土塁
県庁周囲には土塁が残されています。
県庁の有料駐車場から土塁がとても良く見えます。
車はここに置いて徒歩で散策しました。


利根川の氾濫は幾度もあるからかかなりしっかりとした高い土塁が築かれています。




前橋城の碑入口

この土塁を登ると前橋城祉碑と解説の案内看板があります。


前橋城の碑



前橋城祉碑の解説



三の丸緑地






正面ビルとビルの間に車橋門跡があります。
見落としてしまうような場所にあります。


車橋門跡

前橋城の遺構は本丸土塁と、ここにある車橋門跡くらいしかないと言われています。


石柱

ここは車橋門跡ですが、ここから200m程離れた曲輪橋跡から記念碑を移築しています。
石碑に書いてある「曲輪橋御門」というのは本当に存在していたかは不明。
かつて曲輪橋は利根川の岸辺から石倉へ通じる船を並べて板を渡す船橋が架けられていたそうです。


石台

昭和39年に区画整理事業により間隔が狭まれてしまった石台。


車橋門絵図

酒井氏の代に冠木門から渡櫓門に改築、絵図のような門がありました。


前橋公園

前橋公園を横目に臨江閣へいってみようと思います。



前橋公園内にある石碑と案内看板。
周辺には銅像や石碑、看板などがいくつか設置されいています。


臨江閣

臨江閣でお茶でも…と思いきや、現在7月まで耐震改修や屋根の葺き替え工事、冷暖房設備設置のため
入ることができませんでした。(8月19日オープン)
いや~、残念!
でも屋根の白漆喰がまぶしい! 外観と庭を見て隣接する東照宮へ。


前橋東照宮

前橋東照宮は江戸初期の大名松平直基公が幕府より最初に賜った領地、越前勝山(福井県)にて 寛永元年(1624年)に創建した神社で、前橋城に入城後利根川の洪水にみまわれ武州川越(埼玉県)に移住していた時に河越で造営された社殿は、川越よりこの前橋の地へ戻る際に解体され前橋に運ばれて来ました。


手水舎

この手水舎はとても現代的ですね。
お手拭き用の紙タオルが設置されていて便利ですがこのような手水舎は初めて見ました。


群馬県庁展望室

最後は群馬県庁展望室からの眺め。
展望室は無料なのでぜひここからの眺めを御覧になって下さいませ。


県庁や昭和庁舎は何度か訪れている場所ですが城跡として散策したことがありませんでした。
あまり遺構は残ってないし…なんて思っていたので高い土塁を横目にいつもスル―してましたが
車橋門跡があのようなところに隠れて?いたとはまったく気付きませんでした。
ここ数年NHKの大河ドラマで取り上げられていたこともあり前橋城の見所も紹介されて知りました^^;


平成29年6月3日再登城



ぐんまの城30選 戦国への誘い
上毛新聞社
上毛新聞社 出版部


宮尾城(広島県)

2017年06月01日 | 百名城以外の城
宮尾城みやおじょう
別名宮ノ尾城・宮尾ノ城・宮ノ城・要害山城
構造平山城
築城者毛利元就
築城年代1555年(天文24年)
指定史跡
場所廿日市市宮島町要害山 地図
城郭検定出題あり



未登城の城







日本城郭検定公式問題集 日本100名城編
日本城郭協会
学研パブリッシング

松尾山城(岐阜県)

2017年06月01日 | 百名城以外の城
松尾山城まつおやまじょう
別名長亭軒城
構造山城
築城者
築城年代応永年間
指定史跡町指定史跡
場所不破郡関ヶ原町松尾 地図



未登城の城







 おぼえておこう!
関ヶ原合戦の直前に石田三成方によって毛利輝元の本陣として築かれた陣城。



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス


霧山城(三重県)

2017年06月01日 | 百名城以外の城
霧山城きりやまじょう
別名多気城
構造山城
築城者畠山顕能
築城年代1342年(康永元年)
指定史跡国指定史跡
別名津市美杉町上多気 地図
城郭検定出題あり

伊勢の戦国大名である多気北畠氏の本拠地とされている城跡で、
北畠神社境内を中心に比高差240mの詰城とで構成されています。


未登城の城







見所メモ行ったら観たい覚書
中世館跡としては最古の石垣
北畠氏城館庭園(国指定名勝)




よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス