むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

相良城(静岡県)

2022年08月29日 | 百名城以外の城
相良城さがらじょう
別名相良陣屋
構造平城
築城者田沼意次
築城年代1768年(明和5年)
指定史跡
場所静岡県牧之原市相良 地図

相良城は、9代 将軍徳川家重が、田沼意次を相良1万石の大名に取り立て、
この時はまだ相良陣屋だったのですが、10代将軍家治が城を築くことを許可し、
12年かけて有力な大名のみに許される天守を持った城を築城しました。
しかし、意次が失脚すると、松平定信の命により、相良城内の財産は没収され、
相良城はわずか8年で廃城となり、壊滅的に破却されてしまいました。



牧之原市資料館

牧之原市資料館が建つこの場所が相良城の本丸跡です。
現在は、相良小学校、相良中学校、相良高校、町役場などが立ち並ぶ場所が城域となっていました。


城址碑

牧之原市資料館が建つこの辺りが本丸ということで本丸碑があります。
時代は天正4年、武田勝頼が徳川家康に対抗するべく、高天神城へ兵糧を運び入れるための
拠点として高坂弾正の縄張りで相良に城を築いています。



午前9時~午後4時までということで、この日訪れたのが18時30分だったので
もうとっくに閉館している時刻で、ちょっと城めぐりの順番間違えたなと…😓


旧湊橋

旧湊橋は、田沼街道の起点で城と東海道を結ぶ街道の出発地点でした。
東海道の島田・金谷の渡しの他は大井川を渡ることが許されておらず、
大井川を渡ることができた田沼街道は地元の人々からとても重宝されていました。


仙台河岸

松平定信の命により壊滅的に破壊された相良城ですが、
仙台河岸の一部がこの付近に残っていて、この橋の袂に案内看板も設置されています。



正面に石垣の角が見えます。
他に相良城の遺物を見られるのは、般若寺に相良城の御殿大書院にあった「杉戸」(狩野典信の描いた)と
江戸の太鼓師に作らせたという「陣太鼓」が現存しています。
これらは城が破却された際に競売にかけられたものだそうです。



水路の奥を覗いてみると、なんと石橋がそのまま残っているのが見えます。
だいぶ日が落ちてしまっているのでこれが限界でした。


また、武田氏時代のより古くは、源頼朝の命を受けた相良長頼が1198年( 建久9年)に肥後国へ移され、
後に相良氏は人吉城の城主となっています。
資料館に寄って調べ始めたら、いろいろ面白くて、時間をかなり費やしていたことでしょう。


令和4年8月14日登城


今回の参考本


静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・近江国版)


龍眼山城(静岡県)

2022年08月22日 | 百名城以外の城
龍眼山城りゅうげんざんじょう
別名植松城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所静岡県牧之原市静波龍眼 地図

龍眼山城は、勝間田氏の属城とされていますが定かではなく
城の構造からみると武田氏の築いた城ではないかとの説もあり築城者は不明とされています。
現在榛原公園として多くの市民が訪れています。



榛原公園

南側麓にある榛原公園入口へやってきました。
公園の案内図があります。


駐車場

北側から車で上まで行くことが出来ますが、軽自動車の幅しか無いので
普通車はこちらに車を置いて歩いて登ることをお勧めします。


登山口

ここから登って行きます。
遊歩道として整備されていますので歩きやすく、意外に地元の皆さんが利用されているので
容易に登ることが出来ます。


頂上

登り切った山頂が主郭です。


主郭

公園として整備されていて、トイレもわりと新しいものが設置されています。


展望台

展望台には既に先客がいたので登らなかったのですが、下からでも十分良い眺めだったので
ここからの眺めは良いのだろうということが想像できます。
きっと当時も物見があったのでしょうね。


眺望

そしてこちらが下からの眺めです。
ここからでもこれだけの眺めなので、木々が無ければ下々がよく見えたでしょうね。



最初、北側から車で来た時は道が狭くすれ違いも交差点でなければ出来ないし、
公園とは言うものの、人なんて来ないんじゃないか~?と思っていたら…
車にも人にもすれ違ったので驚きました。


虎口

公園入口となるこの場所が主郭への虎口になります。
右手には今も残る土塁が見えます。
土塁の手前に空堀があったようですが、ご覧の通り現在はその跡もほとんど見られません。


公園入口

ここからは車両も入れない公園になっています。


土塁

主郭と二の郭の間の土塁は綺麗に残っています。


駐車場

公園になっているので駐車場が完備されています。
このような狭い道を奥へ奥へと侵入するような場所なので人気が無いと思いきや、
先客が居たのには驚きました。


二の郭

現在茶畑となっている広大な郭。
全体的に見ると静岡古城研究会発行の「静岡県の城跡」にも記されているように
こちらの方が主郭ではないかという意見には頷けるものがあります。



これだけ大きな郭を中心部に築いていることや、守りの面で考えても
こちらが主郭説を推したいところですね。


大堀切

北側にある大堀切は、二の郭側には土塁を設け、外からの侵入を防いでいます。
この先も郭が存在しますが、茶畑になっています。
ちなみに、北側からのアクセスはくれぐれも軽自動車以外の車で乗り入れるのはやめましょう。
よほど腕に自信が無ければ切り返しても身動き取れなくなるか、ボディ凹ませての強行突破するはめになります。
素直に南側から歩いて登ることをお勧めします。


令和4年8月14日登城


今回の参考本




清水袋城(静岡県)

2022年08月19日 | 百名城以外の城
清水袋城しみずふくろじょう
別名清水城・袋城・浜清水袋城
構造海城
築城者武田信玄
築城年代1569年(永禄12年)
指定史跡
場所静岡県静岡市清水区本町 地図

清水袋城は武田信玄が築いた海城で、武田水軍の根拠地となった城です。
巴川河中に扇状に突き出して築かれた珍しい縄張で、馬場美濃守信房がが担当したものと伝わります。
1582年(天正10年)武田勝頼が滅亡すると、徳川家康の支配となり武田水軍は徳川水軍へと
変わり、城も家康の持城となりました。
慶長13年、家康が駿府城へ隠居するとこの城の存在価値を失い、
本城の外堀を埋めて町屋を建てて廃城とし、清水における武田の支配はわずか14年でした。


上総稲荷神社

江戸時代初期には廃城となり、堀は埋め立てられ町屋にしているので
現在は遺構も残っておらず、宅地になっています。


旧袋城の石

「旧袋城の石」と黄色い文字で記されていた唯一の遺構?がこの石のようです。
文字はすでに消えています。
でも、これって消えると誰か書き直してくれているのではないだろうか…。


社殿

袋城内にあったと伝わる稲荷神社を遷座したと伝わる上総稲荷神社は、1837年(天保8年)に創建されました。
安政南海地震により社殿が倒壊したため、1873年(明治6年)に再建されました。



やはり周囲を見渡しても、地図を見ても、名残らしきものもみつからず…。


巴川口を扇状に埋め立てて、船が停泊できるように構築したという、武田式海城を見てみたかったです。


令和4年8月15日登城


今回の参考本



小川城(静岡県)

2022年08月17日 | 百名城以外の城
小川城こがわじょう
別名法永長者屋敷
構造平城
築城者長谷川正憲
築城年代1394~1428年(応永年間)
指定史跡
場所静岡県焼津市小川城内 地図

小川城は、堀と土塁で囲まれた「長者屋敷」と呼ばれる平城で
焼津の海岸線から約1kmほど内陸に位置し、小川湊にも近いこともあり、
海と陸を押さえるための要所として築かれました。
城主は小説やドラマでお馴染みの「鬼平犯科帳」の鬼平こと長谷川平蔵の祖となる
長谷川正宣で、今川氏と関係が深く小川城にて龍王丸(今川氏親)を匿ったこともあります。
その後小川城は、武田信玄の駿河侵攻によって廃城となりました。



城址碑と案内看板

発掘調査後遺構は埋め戻され、宅地と化していて現在遺構を見ることは出来ません。
しかし、長谷川氏が龍王丸を匿う間、次期今川家当主を担うことが出来るよう
小川城で武士のしきたりなど龍王丸の教育の場として武家屋敷のような主殿を構えていたと
考えることが出来るような遺構や建物跡がみつかっています。


案内看板

発掘調査では多種多様な発見がされており、建物跡、井戸、板塀、柵、門といった遺構のほか、
周辺では陶磁器や茶道具、人々が生活に使っていた下駄も出土しており、
城下町も繁栄していたことも伺い知れます。


虎口方面

この方向に館正面の堀や虎口(出入口)がありました。
堀は障子堀なのですが、ここでの堀内の区切りは敵の侵入を防ぐためのものではなく
内部に均等に水を溜めておくための仕組みとされていたようです。
もちろん、堀そのものは敵の侵入を防ぐために造られた仕組みではありますが。


住宅地の中にある城址碑と案内看板。
駐車場も無いので、本当にここを見るだけで周囲の住民の迷惑にならないよう慌てて立ち去ることに。
城の遺構は残っていませんが、今川義忠の死後に起きた家督争いの際、義忠の正室北川殿が幼い龍王丸を連れ、
城主の長谷川正宣を頼りに小川城へ身を寄せていたことと、
後に北条早雲の活躍と、ここで身に着けた教養によって今川家の家督を継ぐことができたということを
城址碑と看板があることで知ることが出来ました。


令和4年8月14日登城


今回の参考本



立川氏館(東京都)

2022年08月11日 | 百名城以外の城
立川氏館たちかわしやかた
別名立川城・立河氏館
構造平城
築城者立河宗恒
築城年代鎌倉時代
指定史跡都指定史跡
場所東京都立川市柴崎町4‐20‐46 地図

立川氏館は、武蔵七党西党日奉氏の支族である立川氏の居館です。
鎌倉時代に居館の中に寺を建立し、その後現在の普済寺となっています。
中世以降は小田原北条氏に仕え、後北条氏が滅亡すると水戸藩徳川家へ仕官し
常陸国へと移って行ったとされています。



普済寺入口

随分新しい立派なお寺が見えたと思いきや、1995年(平成7年)に火災で焼失してしまったため、
本堂など新たに建て替えています。


閻魔堂



山門

立派な山門があります。
この山門は火災を逃れたもので江戸時代からの現存のようです。


木像

この日、門の上の扉が開いており、顔を覗かせていた木像は聖徳太子とのこと。


堀跡

この橋の下付近から堀跡がみつかっているようです。


案内看板

土塁脇には案内看板も設置されています。
この日は庭の手入れをされている業者さん?がいらっしゃっいました。


土塁

一番分かりやすいのが本堂東側の土塁です。



本堂東側から山門へ向かって残る土塁。



東側の土塁を外側から見ています。
この辺りの発掘調査では、区画を示すV字溝もみつかっています。


井戸

発掘調査で井戸もみつかっているようなので、これがその井戸なのかなあ?
とても古井戸には見えないので違うのかもしれないと思いつつも、やっぱりこれしかないよなあ。


心源庵

江戸時代に心源庵で庶民の教育機関として寺子屋教育が始まりました。
1872年(明治5年)に学制発布され、明治8年には柴崎学校と改称し、
本格的に学校教育が開始されました。
その後、明治11年に普済寺近くに校舎ができて、現在の立川市立第一小学校へと引き継がれました。
という訳で、ここが立川教育文化発祥の地だとのことです。


六面石幢

仁王像(阿金剛・吽金剛)と、四天王像(持国天・増長天・多聞天・広目天)が
六面の石板に刻まれた国宝「六面石幢」があるのですが、現在保存修理と新保存庫への移設を行うため、
令和6年度まで拝観を停止しているのでこちらの拝観目的の方はご注意を。


土塁

墓地側に土塁と、この道路が区切りとしての堀の名残であろうか。


残堀川

残堀川側から見ると、この川と崖が要害になってるのが分かります。


立川氏に関しては、鎌倉時代には「吾妻鏡」の中に立河三郎兵衛基泰の名が登場しますが、他に資料が無く謎が多い。
しかし、館跡に関しては東西に土塁が残っており居館としての縄張りを見ることが出来ます。


令和4年2月5日登城


今回の参考本



稲庭城(秋田県)

2022年08月08日 | 百名城以外の城
稲庭城いなにわじょう
別名早坂館・鶴ヶ城・貝館
構造山城
築城者小野寺重道
築城年代1193年(建久4年)
指定史跡
場所秋田県湯沢市稲庭町梺  地図

稲庭城は、下総国出身の小野寺氏の本拠地で、源頼朝に戦の褒美としてこの地を賜りました。
1600年(慶長5年)山形の最上義光の3千の兵に攻められ、自ら稲庭城に火をかけて背後の山から横手城へ逃れるも、
関ヶ原の戦いで上杉景勝軍(西軍)に加勢したことで改易となり、石見国津和野へお預けの身になり稲庭城は廃城となりました。
現在、二ノ丸に建つ稲庭のシンボル模擬天守は観光スポットとして建てられ
スロープカーが運航し、難儀することなく二の丸まで運んでくれます。



稲庭城址入口

国道398号線を走っていると稲庭城址入口が見えて来ました。
ここからが本来の登城口と思われますが、この先に駐車場があるのでそちらに行くことにします。


駐車場

稲庭城へはこちらに駐車して登ることになります。
ここからスロープカーで行くことが出来るので気軽に行くことが出来ます。
もちろん、遊歩道が整備されているので昔ながらの道のりを楽しむことも出来ます。


古館庵

スロープカーのチケットはこちらで購入します。


スロープカー乗り場

GWに行った唐津城では斜行エレベーターで楽して登りましたが、
今回もスロープカーを使って楽して登っちゃいます👍



折れのある本来の道を目で追いながら進んで行きます。


二の丸

スロープカーの到着場所は二の丸です。
そして模擬天守が出迎えてくれます!


夫婦松

正面には、小野寺道勝がこの地を去る際に、
自分と奥方の身代わりに植えていったと伝わる松の木が二本あります。


烽火台

夫婦松の隣には烽火台があります。
登ってみると、周囲は樹木で眺めは望めません。


古城碑

烽火台の上にある古城碑。
この石碑に記されている内容は模擬天守最上階に展示しています。
「稲庭城古城碑文」という読み下し文にしたチラシも作成して置いてあるので頂くことも出来ます。


模擬天守

天守受付で御城印を購入することが出来ます。
帰りのスロープカーは受付で呼んでもらうことか出来るので、
自分の都合でゆっくり見学出来るのがありがたい。


稲庭うどん

受付の方の話によると、江戸時代初期に稲庭地区で佐藤市兵衛という人物が干しうどんを作り、
その製法を二代目の佐藤(稲庭)吉左エ門が引き継ぎ稲庭うどんの始まりとなりました。
佐藤家に伝わる稲庭うどんの製法は、佐竹藩より門外不出にすることを命ぜられ、一子相伝の技として子孫に伝えられました。
将軍家や大名たちの間で稲庭うどんの評判が広まり、明治時代には宮内庁御用達になりました。
現在は私たちも食することが出来る「稲庭うどん」ですが、当時は一般庶民が食べらるようなものではなかったのだと説明してくれました。


黄金の間

金箔貼りの黄金の間は、値段が付けようがないほど。
天守に展示されているものを見ると、伝統的な職人の技術が
町の産業を支えていることがものすごく押し出され、地元の繁栄がよくわかる展示になっています。


稲庭城復元想像図

この図を見ると、スロープカーから下を覗き込んだ時に見えたジグザクの遊歩道が
昔からの登城路であったことが分かりました。
夏でなければ歩くのもいいなあと思いつつも、スロープカーはやっぱり楽ちん!
結局、往復使ってしまいました(^-^;


ジオラマ模型

現在模擬天守があるのは二の曲輪です。
ということは、本丸はいずこへ?と思った時にこの模型。
本丸までは、もう城域に居るのだからそう大変なことではない…と思う。


展望台

最上階へやって来ました。
烽火台にある古城碑の説明とチラシがここにあります。
石碑の内容が気になる方はこちらで読み下しの紙をもらって読んでみてください。


眺望

現在の国道398号線が小安街道で、かつて後三年合戦の際に源義家らが
多賀城から横手方面へ進軍したルートとされているだけあって
この方向には多くの城址があります。


二重堀

道路でわかりずらくなっていますが、道路から両側を覗き込んでみると
堀切があるのが確認できます。


堀切

まだ遺構が残っています。


不動岩

この時期、木々で見えずらいのですが
小野寺侯が信仰したお不動様を祀っていたという不動岩が見えます。


主郭へ

この辺りは熊の親子が出没するそうで、危険なので行かない方が良いと
模擬天守の受付の方に言われたので入口の確認だけして引き返すことにしました。



階段を登った先はこんな具合で酷い藪なわけではなかったのですが
とても心配されていたのでこのまま戻って天守受付に無事を報告、スロープカーの迎えを
手配して頂きました。



スロープカーの乗降口へやって来ました。
5分ほどでやって来るというのでそれまでちょっと散策。


鞍掛神社

二の曲輪の一段下に石祠と鞍掛神社がありました。



迎えが来たので帰ります。



最大勾配33度、なかなか楽しい乗り物でした(^-^)


稲庭城へ行こうと決めた時から楽しみにしていたのがスロープカー。
3年前にリニューアルしたということで、デザインが少しシンプルになり、
足元が良く見えるよになっていました。
高所恐怖症の方にはちょっと怖いかもしれませんが、昔の道(遊歩道)の折れを
見ながら登って行くのが見どころのひとつということで、歩かなくても様子を知れて得した気分!
本丸までは熊の出没しない時期にリベンジできたらなと思います。

令和4年7月16日登城

今回の参考本





名護屋城(佐賀県)

2022年08月03日 |  百名城
名護屋城なごやじょう
別名
構造平山城
築城者豊臣秀吉
築城年代1592年(天正20年)
指定史跡国指定史跡
場所唐津市鎮西町名護屋 地図
スタンプ設置場所佐賀県立名護屋城博物館
御城印佐賀県立名護屋城博物館
攻城団チラシ鎮西町観光案内所・唐津駅観光案内所

豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に拠点として築いたのが名護屋城です。
当時の大坂城に次ぐ規模ながら、たった5ヶ月で築城し、全国の大名の陣が周辺に置かれました。
150以上とも云われる大名の陣には20万人もの人口で城下町が構成され大変賑わいました。
1592年(文禄元年)の朝鮮侵攻から秀吉の病死により撤退するまでの7年間戦いは続き、
名護屋城の役割を終えると、名古屋城は取り壊し、唐津城の資材となりました。



駐車場

一番近い、信号名「大手門」のから入る駐車場を利用しました。
駐車場からまずは名護屋城博物館を目指します。


大手口前井戸

駐車場から歩き始めて間も無く道下に井戸跡があります。


名護屋城博物館

ここでは日本100名城のスタンプと御城印をゲット!
もう夕方だったので閉館になる前に博物館を見学してから城址を散策することにしました。


常設展示

常設展示は朝鮮半島との交流の様子と名護屋城築城と周辺の陣など
古代から現代までの歴史をテーマごとに展示しています。


安宅船

「肥前名護屋城図屏風」に描かれたものを再現しています。
日本の船らしいというか、船に矢倉が載ってます。
そして現代ではエンジンで動く船が当たり前ですが、
この時代は50人から200人くらいの手漕ぎの船というからこれも凄い!


黄金の茶室

秀吉が名護屋城で披露した「黄金の茶室」を16500枚の金箔を使い5500万円かけて復元したものです。
黄金の茶室の復元て、大坂城の西の丸庭園でも見ましたがそれとは違うようですね。
意外にあったりしますね。


観光案内所

さて、日が暮れてしまう前にこの広い城址を見学してこなくては!
ゆっくり散策したいところですが、先を急ぎましょう。


大手口

正面にあるのが五つある虎口のひとつで大手口があった場所です。


大手道

大手口から東出丸まで約100mの直線の道で出来てます。
大手口は石垣があるものの、門に扉があったという跡がみつかっておらず
正面ながら開放的な門であったと今のところは考えられています。



東出丸の虎口です。


東出丸

右手の石垣は櫓台で、ここは大手口や三の丸を警護するための詰め所があったと考えられています。



ここではきっちり大手道を見下ろせる構造が分かります。
大手口の開放的な門の見張りはここでカバーしていたのかも。


三の丸虎口

三の丸の虎口です。
ここにも門跡が発掘調査でみつかっています。


三の丸

本丸の東の下段にあるのが三の丸です。
櫓台や多門櫓、それらを繋ぐ塀で囲まれた郭がありました。


三の丸井戸

築城当時のままと思われる井戸です。
現在は浅くなってしまっていますが、水の湧く位置まで掘っていると考えれば
かなり深いものであったのではないかと推定されていますが定かではありません。


本丸大手口

L字に曲がった階段を登ればいよいよ本丸です。
ここには伊達政宗が仙台城大手に移築したと言われる門がありました。
その移築門は第二次世界大戦までは現存していたのですが、残念なことに空襲で焼失してしまいました。
しかし、九州から仙台まで運んで来るなんてよほどその門が気に入ったのでしょうか。
別の理由があったにせよ、その労力を考えると凄いですよね。


本丸

本丸に到着しました!
とにかく広いです。


本丸御殿跡図




下を見て歩くと御殿などの建物跡のあった場所が示されています。


青木月斗句碑

「太閤が睨みし海の霞かな」
石碑に刻まれたこの句は、1933年(昭和8年)にここを訪れた青木月斗が詠んだものです。


天守台

ここからの眺めが最高です!
天気によっては遠くに対馬も望むことが出来ます。



5層7階の天守があった場所です。
地上6階、地下1階で石垣から約30m弱の高さがありました。
唐津城が建てられる頃には石垣までも完全に破却されてしまったようです。



名護屋城を取り巻く各地の大名の陣が見渡せます。
時間があれば全部の陣を巡って見たいものです。


遊撃丸

1593年(文禄2年)に明国の遊撃将軍(講和使節)が滞在し、
もてなしを受けたことからこの名が付いたと伝わります。


本丸多門櫓跡

屏風絵にも描かれている長屋状に造られていた櫓で、武器や食料の倉庫として使われていました。
芝生に丸石がゴロゴロしている部分が旧石垣、色の変わった部分から外側が拡張され多門櫓があった場所です。
本丸が一回り大きくなったということですが、なぜこのように広げる必要があったのか謎です。


本丸旧石垣跡

本丸ははっきりしたことはわかりませんが、築城後に何らかの理由で拡張されています。
その時にこの石垣ごと埋められ、この石垣より外側に本丸が広げられています。
そのことがわかるように築城当時の石垣が露出されているので、ぜひご覧あれ。


本丸新石垣櫓台

こちらは拡張された場所に造られた櫓台跡です。
櫓の周囲の通路にも玉石が敷かれていましたが、現在は保存のため埋め戻されています。


馬場

馬場を上から覗き込んでいるこの場所の下に、10mほどの高い石垣が眠っているようです。
拡張の際に石垣ごとそのまま埋められているので、見ることはできないものの、
旧石垣が保存されているということになります。
そして、後から築かれた石垣は御覧の通り破却されています。


一旦三の丸へ戻って、本丸北側へ下ってみましょう。


水手通路

本丸北側へ下り、水手曲輪方面へ廻り込んで来ました。
舗装路の方は現代の道で、石垣の沿いを通るのがかつての通路です。
舗装路と違って道は角々と曲げられています。


水手曲輪

城内に井戸を掘ってみたのですが水不足のためここに貯水池を造り
雨水を貯めて使用していました。



正面、天守台跡を見ながら真っすぐ遊撃丸へと進みます。


遊撃丸

先ほど本丸から見下ろした遊撃丸の内部です。






正面が天守台で、右側の石垣と真ん中のこんもりした土塁との間(虎口)に
門が設置されていたと推定されています。


二の丸

遊撃丸から二ノ丸へやって来ました。
本丸から見下ろしたとおりにとても広い曲輪です。


二ノ丸合坂

石垣や土塁の上に登るための石段が数か所設置されています。
雁木?と思ったのですが、ここでは「合坂」と呼ばれています。
これがあることによって、兵の移動が容易になっていたようですが、破壊されていたものを
現在はきれいに修復、このように展示されています。


二の丸長屋建物跡

発掘調査により、この掘立柱建物跡は名護屋城があった時代のものと判明。
建物は3棟あり、2棟の長屋は四つの部屋に区切られ、
築城時の仮設住宅?などまだどのように使われていたのか解かっていないことが多い。



こうやって見ると、二の丸かなり広い。


弾正丸

二の丸より一段高く、搦手の玄関口になっている弾正丸へやって来ました。
ここは、秀吉の正室ねねが出た浅野家が守備する曲輪で、浅野長政の官位が弾正少弼だったため
名付けられた曲輪です。


搦手口

大手口と違って、城の守りを固めるため喰い違い虎口になっています。
縁者となる浅野長政が守備を任されるという重要な虎口は敵の侵入を防ぐだけでなく
いざとなったらここから秀吉を逃がすという重要な役目も担っていたことも推測されています。


南側の石垣

当時は長く高い石垣がこの斜面を覆っていたのでしょう。
馬場下の石垣は破却され、石垣がV字に崩されているのが分かります。


上山里丸

現在の広沢寺の下段にあり、秀吉の居館や「草庵茶室」があった場所と推定されています。
能舞台や庭園なども備わっていたという。


山里口

上山里丸に通じる虎口で、こちらは積み直しはされていますがしっかり石垣が残っています。
破却が免れたこともあって、綺麗に修復されています。



大手口に相当する重要な場所だけに、二重の食違虎口で厳重にガードしている様子が分かります。







鯱鉾池から続く堀です。
正面には台所丸があり、その奥には殿町が続きます。


大野治長陣跡

名護屋城周辺には130ヶ所とも言われる全国から集まった諸将の陣屋跡が点在しています。
どこを向いても名立たる戦国武将の陣跡といった様子がちょっと周辺を周っただけで実感できます。


海の見える眺めの良い綺麗な城で、めちゃめちゃ良い場所だなあ、こんなところに
家が建てられたら最高だよなあと思いつつも、ここからは過酷な戦闘の拠点になっていたことに
何ともいえない複雑な気持ちが込み上げて来ました。
日本の戦国武将のオールスターがここに集結し、ここから海の向こうまで戦いに行っていたのかと思うと
何だか自分の小ささと、昔の人の大胆な発想といろいろ考えさせられました。


令和4年5月1日登城


日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス



田沼街道

2022年08月01日 | 関所・宿場
起点:相良湊橋

牧之原市資料館北側にある起点

🏯相良城

起点となる湊橋があるのは相良城があった場所です。
               
🍡島田宿
               
🍡金谷宿



終点:藤枝勝草橋