【 長篠城 】ながしのじょう
【 別名 】―
【 構造 】平城
【 築城者 】菅沼元成
【 築城年代 】1508年(永正5年)
【 指定史跡 】国指定史跡
【 場所 】新城市長篠市場22-1 地図
【 スタンプ設置場所 】新城市長篠城址保存館窓口
【城郭検定】出題あり
長篠城は駿河の今川方の菅沼元成が築城した城で、武田勝頼軍(約1万5000人)と
織田・徳川軍(約3万8000人)が決戦地「設楽原」で長篠城をめぐって争った長篠の戦いがよく知られています。
1571年に武田信玄に攻め込まれ降伏して以来武田方の城になるのですが、
その後、三河の徳川家康に攻め込まれ徳川方の城となりました。
1575年、武田勝頼が率いる騎馬隊は長篠城を奪還すべく長篠へ向いました。
その頃城主であった奥平貞昌には500の兵しかなく、武田軍に包囲された長篠城では
鳥居強右衛門が城外に脱出し、岡崎城に居る徳川家康のもとに急ぎ走り、救援を要請しました。
再び、休むことなく走り続け仲間の待つ長篠城へ急ぎ帰りましたが、
城を目前に武田軍に捕らわれた鳥居強右衛門は磔にされ、殺されてしまいました。
しかし、彼の活躍により織田信長の援軍とともに織田・徳川連合軍は
決戦の地「設楽原」で武田軍を打ち破ったとされています。
長篠城祉保存館
駐車場はこちらへ。
鳥居強右衛門の話をここで知りました。
良い話なのだけれど…この方の描かれ方がどうにも善人に見えないのはなぜ?^^;
嘘でもいいからもっとカッコイイ人に描いてあげればいいのにと思ってしまいました。
鉄砲や出土した鉄砲玉など展示物も充実しています。
そして、この建物の下にはかつて三日月堀と土塁が発掘調査によりみつかっています。
内堀
現在はこの内堀以外は埋まってしまっていますが、
かつては内堀、中堀、外堀と三重の堀が築かれていました。
城址碑
土橋を渡り、本丸入口にある城跡碑。
ここが北西虎口で、虎口の前には馬出が設けられていました。
本丸跡
本丸には合戦時に500人ほどの兵が籠城しました。
と言っても、兵は全部で500人ほどだったので援軍を呼びに走った
鳥居強右衛門の帰りを、全員ここで待っていたことになります。
そして、決戦の地は設楽原に陣城を構え、馬防柵築いた設楽原古戦場で衝突しました。
土塁と堀
帯郭跡から見た空堀です。
鉤の手に折れた堀は横矢を掛ける構造になっています。
踏切
城の中を飯田線の線路が通っています。
土塁が切れてしまっている!!
遠望
もう、日が暮れてしまったので少し暗い画像ですが、対岸から見た長篠城です。
豊川と宇連川が合流しているこの角度からの眺めもおなじみですね。
日本100名城のスタンプ目当てに行ったため、周辺の見所には寄っておらず
次回訪れたら、長野でおなじみの武田軍の重臣たちの足跡や、
群馬の奥平氏や小幡氏の足跡も追ってみたいものです。
平成24年6月24日登城
【 別名 】―
【 構造 】平城
【 築城者 】菅沼元成
【 築城年代 】1508年(永正5年)
【 指定史跡 】国指定史跡
【 場所 】新城市長篠市場22-1 地図
【 スタンプ設置場所 】新城市長篠城址保存館窓口
【城郭検定】出題あり
長篠城は駿河の今川方の菅沼元成が築城した城で、武田勝頼軍(約1万5000人)と
織田・徳川軍(約3万8000人)が決戦地「設楽原」で長篠城をめぐって争った長篠の戦いがよく知られています。
1571年に武田信玄に攻め込まれ降伏して以来武田方の城になるのですが、
その後、三河の徳川家康に攻め込まれ徳川方の城となりました。
1575年、武田勝頼が率いる騎馬隊は長篠城を奪還すべく長篠へ向いました。
その頃城主であった奥平貞昌には500の兵しかなく、武田軍に包囲された長篠城では
鳥居強右衛門が城外に脱出し、岡崎城に居る徳川家康のもとに急ぎ走り、救援を要請しました。
再び、休むことなく走り続け仲間の待つ長篠城へ急ぎ帰りましたが、
城を目前に武田軍に捕らわれた鳥居強右衛門は磔にされ、殺されてしまいました。
しかし、彼の活躍により織田信長の援軍とともに織田・徳川連合軍は
決戦の地「設楽原」で武田軍を打ち破ったとされています。
長篠城祉保存館
駐車場はこちらへ。
鳥居強右衛門の話をここで知りました。
良い話なのだけれど…この方の描かれ方がどうにも善人に見えないのはなぜ?^^;
嘘でもいいからもっとカッコイイ人に描いてあげればいいのにと思ってしまいました。
鉄砲や出土した鉄砲玉など展示物も充実しています。
そして、この建物の下にはかつて三日月堀と土塁が発掘調査によりみつかっています。
内堀
現在はこの内堀以外は埋まってしまっていますが、
かつては内堀、中堀、外堀と三重の堀が築かれていました。
城址碑
土橋を渡り、本丸入口にある城跡碑。
ここが北西虎口で、虎口の前には馬出が設けられていました。
本丸跡
本丸には合戦時に500人ほどの兵が籠城しました。
と言っても、兵は全部で500人ほどだったので援軍を呼びに走った
鳥居強右衛門の帰りを、全員ここで待っていたことになります。
そして、決戦の地は設楽原に陣城を構え、馬防柵築いた設楽原古戦場で衝突しました。
土塁と堀
帯郭跡から見た空堀です。
鉤の手に折れた堀は横矢を掛ける構造になっています。
踏切
城の中を飯田線の線路が通っています。
土塁が切れてしまっている!!
遠望
もう、日が暮れてしまったので少し暗い画像ですが、対岸から見た長篠城です。
豊川と宇連川が合流しているこの角度からの眺めもおなじみですね。
日本100名城のスタンプ目当てに行ったため、周辺の見所には寄っておらず
次回訪れたら、長野でおなじみの武田軍の重臣たちの足跡や、
群馬の奥平氏や小幡氏の足跡も追ってみたいものです。
平成24年6月24日登城
日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ) | |
日本城郭協会,福代徹 | |
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