むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

騎西城(埼玉県)

2016年10月31日 | 百名城以外の城
騎西城きさいじょう
別名 私市城・根古屋城
構造平城
築城者小田助三郎
築城年代1455年(康正元年)
指定史跡― 
場所加須市根古屋633-2 地図


1455年、上杉氏が守る城を古河公方足利成氏が攻略した。
その後1590年、小田助三郎が守る城を上杉謙信が攻め落とした。


加須市観光案内看板

加須市騎西生涯学習センターにある観光案内看板
この道向かいに騎西城の本丸跡があります。
そして、この敷地内に騎西城模擬天守が建てられています。


騎西城模擬天守

天守閣を持つ三層の建物になっていますが、史実では平屋の城だったそうです。
この日は閉館されていて天守閣の入城はできませんでした。



藤まつり(4月下旬~5月上旬)及び文化祭(11月上旬今年は11月5日~7日)の期間に
特別に一般解放するようなので、この機会に発掘調査の出土品や民俗資料などの展示品を見学することが
できます。


土塁跡

昭和40年頃との比較

土塁の周囲は田んぼで、現在は土塁を残して住宅地になっています。


土塁跡にある看板

本丸跡の民家との間に看板があります。


武州騎西之絵図

この絵図を見ると、本丸は沼で囲まれていたことがわかります。
城の南側は武家屋敷が並び、妙光寺から東側には足軽町が並んでいます。
城下の様子がよくわかる絵図です。


騎西城復元図

絵図を見ながら周囲を散策してみると要所に標柱があり、裏書きで説明が記されています。
標柱のある場所を探してみました。


天神曲輪跡

生涯学習センター植え込み内にある「天神曲輪」の標柱


二の丸跡

生涯学習センター北側角地にある「二の丸跡」の標柱


御蔵屋敷跡

米などの穀類を貯えた蔵屋敷があった場所と思われる。


障子堀跡

ここでは障子堀が発見されている。
城の周囲には二重の障子堀が巡らされていたようだ。


的場

城兵が弓矢や火縄銃の鍛錬した場所と思われる。


大手門跡

大手門(正門)があった場所で、門は冠木門があったと思われる。


前玉神社

大手門付近にある前玉神社は前玉姫命を主祭神とし、幸いをもたらす神として崇拝されています。
元々は玉敷神社があった場所ですが、騎西城内でたびたび出火するため類焼を恐れて移転したらしい。
境内には疱瘡(天然痘)にかかった時にお参りすると治るといわれる疱瘡社がある。


天守こそは完全模擬天守ですが、かつての騎西城の遺構が残っている場所を探し歩くと
歴史が見えてくるところがおもしろいのかなと思います。


平成28年10月23日 登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

関宿城(千葉県)

2016年10月30日 | 百名城以外の城
関宿城せきやどじょう
別名― 
構造平城
築城者簗田成助
築城年代1457年
指定史跡― 
場所千葉県野田市関宿 地図


現在ある天守に見立てた模擬櫓(千葉県立関宿城博物館)は1995年に江戸城富士見櫓を参考に再現されたものです。
関宿城本丸跡はここから約500mほど南に下った場所にわずかと、大半は河川になってしまっている。



千葉県立関宿城博物館

この博物館は「関宿城」と名が付いていますが、治水と利水がテーマの博物館です。
常設展示室と企画展示室、最上階には展望室があります。
常設展示室では河川についての改修工事や産業の発展の資料や模型を展示、紹介しています。
企画展示室では関宿藩や関宿に関する展示を行っています。


駐車場とトイレ

駐車場は入口前にあるのでとても便利です。
駐車場と共にトイレもあります。


入口

利根川と江戸川の分流点にある関宿の治水についての展示や資料が充実しています。



何か意味ありげな石だけど…ただの庭石かなあ?


マンホール

関宿城博物館をデザインしたカラーマンホールが玄関に飾られています。


最上階より

博物館内展示物撮影禁止だということなので館内から外を移してみました。
最上階からは筑波山や日光山連山、天気が良いと富士山や東京スカイツリーが見られるそうです。
ちなみにこの日は曇っていて東京スカイツリーは見えませんでした。

本丸跡(城郭跡)

本来の関宿城のあった場所はこちらの方角です。
写真の中央の堤防下の木がこんもりしてる辺りが本丸曲輪の名残です。


千葉県立関宿城博物館日本庭園

博物館に隣接して日本庭園があります。





庭園入口の門

ここから日本庭園が広がります。


庭園からの天守閣

関宿城の天守閣は古記録に記されたことに基づき江戸城の富士見櫓を模して再現されています。



しかし、本当の三階櫓の外観は不明である。




水辺公園

博物館に隣接して広場があります。
日本庭園側から門の外に出たら、芝生の広場にブロンズで出来た動物たちがいっぱい。
ウサギ、ゴリラ、パンダ、カメ、コイがいます。
ちょっと珍しい光景でついつい背中にのってみたくなってしまいました。
大人のこども心をくすぐる遊具?オブジェ?です。



三県鶏鳴之地

この先に「三県鶏鳴之地」の碑があります。

関宿城下では茨城県、千葉県、埼玉県の三県が隣接しているため
早朝鳴く鳥の声が三県に響くことから
「三県鶏鳴之地」と呼ばれるようになったそうです。




入城(入館)してみて関宿城の歴史、展示物に期待して入るとがっかりしました。
時期によって展示物は入れ替えがあるようですが、関宿城に関しての資料は少なく、
パネルと甲冑がひとつ置いてあるだけでした。
なので、アンケートに率直な感想を書かせていただきました。
また、以前に書かれたアンケートが掲示されていたのですが、そちらにも同じ思いの方が
いたようで共感しました。
やはりお城の歴史を訪ね歩いている人にとっては期待と違った展示量に残念と感じるようです。
企画展や博物館セミナー、歴史講座など期間限定、単発的な企画ものはあるようなので
地元の方々は学べる機会はあるようです。
今後は関宿城や関宿藩に関する常設展示内容の充実を期待したいと思います。



平成28年10月23日 登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

逆井城(茨城県)

2016年10月26日 | 百名城以外の城
逆井城さかさいじょう
別名飯沼城・逆井古城
構造平城
築城者逆井常宗
築城年代1452年~1455年
指定史跡県指定史跡
場所坂東市逆井 地図

西仁連川の河岸段丘に造られた城で、1573年~1592年にかけて逆井氏の築いた城の上に
北条氏が城を築いている。
その頃の北条氏の城郭を復元整備された公園です。



駐車場

公園になっているので本丸周辺には沢山の駐車場があります。


二層櫓

入母屋の望楼型二層櫓を再現。


二層櫓入口

櫓内はスリッパで。


櫓の1階

6m四方の平面を持つ。


櫓の2階




廻り縁

外壁は下見張りと土壁で出来ていて、土壁の面は足元に剥がれおちた土がパラパラと落ちています。
左下に見える二重の堀は船着き場として利用されていた。


主殿を望む




広場では地元のお年寄りの方々が集まって楽しそうにおしゃべりをしていました。


平櫓と塀



井楼矢倉(西二曲輪)

物見櫓の役割をしていた。
敵の動きを監視するための櫓です。


井楼矢倉からの眺め

かつて田んぼの一帯は沼だったんですね。


関宿城薬医門

明治の廃藩置県により廃城となった関宿城の城門で、民間に払い下げになっていたもののひとつで
民間からこの地に移築されました。
正面からの写真なのでよくわからないと思うのですが本柱が門の中心線から前方にずれています。


主殿

この主殿は逆井城のものではなく、潮来市の大台城(1595年築城)の遺構を参考に復元されたものです。
逆井城と同時期に存在した城としてここに復元されています。


右半分が主室で左半分が控室となっていて、室町時代中期の主殿建築の特徴が見られる。



庭園

主殿の正面には枯山水の庭園が広がる。



観音堂

この観音堂は町指定の文化財で、岩井市の大安寺にあったものを町が譲り受け、移築復元したものです。
建立時の棟札と再興時の棟札が現存しています。
堂内は板敷きで、天井は棹縁天井になっている。
天正期特有の様式を残す貴重な建築物とされています。


大堀



鐘堀池

天文5年3月3日、北条氏に攻め込まれ城主の逆井常繁は戦死し奥方(娘の説あり)が先祖代々伝わる
釣鐘をかぶって飛び込み自殺したと言い伝わる池。
何人もの人が池を掘って釣鐘を探したため「鐘堀池」「鐘堀井戸」と呼ばれるようになった。



本丸(一曲輪)

小さな社があります。


櫓門と橋

この櫓門と橋は発掘調査により、礎石や柱穴、柱桁の穴が見つかっています。
復元するにあたり、遺構保存のため1mほどずらして建てられており、建物は資料の基に戦国時代末期の姿を
想像して建てられているそうです。




井楼矢倉(東二曲輪)

東三曲輪はゲートボールコースになっていて多くのお年寄りが利用しています。
この日も木のボールを打つ音が鳴り響いていました。


空堀と横矢

東側の空堀や土塁がしかっり残されています。


西外壕

西外壕に掛けられた城内に続く橋。


トイレ

公園内のトイレ


飯沼

川の外側に広がる田園一帯は広い沼地でした。
江戸時代に徳川吉宗の命により干拓が行なわれました。


逆井城は北関東進出を目指す後北条氏の最前線基地として要の城となっていた。




平成28年10月23日 登城



撮影中?

模造刀を振りかざし演技をしている人たちがいました。
そのため建物にしばらく近付くことが出来ず見学できるまで待っていたら時間を費やされました。
他にも城跡を見に来たご夫婦など、不便を口にしていました。
ホームビデオでの撮影だったので個人的な撮影だったと思われます。
見学に来る人はずっと同じ場所に留まることはないのでちょっとの間で良いので
譲り合いの精神で気配りしてくれたらなあと感じました。



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飯島寛騎,瀬戸利樹,松本享恭,松田るか
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)

高山陣屋跡(岐阜県)

2016年10月21日 | 陣屋・館
高山陣屋たかやまじんや
別名
構造陣屋
築城者伊奈忠篤
築城年代1868年(慶応4年)
指定史跡国指定史跡
場所岐阜県高山市八軒町1-5 地図

高山城主金森氏の下屋敷のひとつだったところを、
金森氏が山形県へ移された後に徳川幕府の直轄地となり
この「高山陣屋」で飛騨の政治を行いました。



まずは案内図で確認。

駐車場は市内の有料駐車場を利用することになります。
今回は、高山陣屋から近い「神明駐車場」を利用しました。




この場所での記念撮影が主流。
外国人観光客の多さにびっくり。
たぶん日本人の方が少ない…。


門番所

門にある門番の詰所です。


問屋梅と井戸

問屋梅とは?何か意味のある梅なのだろうか。わからない。


玄関




玄関前の砂の模様も青海波模様。
でも間隔が空いていて本日は手抜き?


玄関の間

文化13年の改築時そのままの玄関で、
高い身分の武士が駕籠で乗り付けられるように式台が低く造られています。
郡代の格式を示す縁起ものの青海波模様の壁が印象的です。


花餅

自然の木の切り株から生えた枝にお餅で花のように飾りつけます。
お正月には紅白の餅を使って華やかに飾ります。
雪国の新年に花を飾りたいという飛騨の人々の思いが生み出した花の代わりの飾りです。


御役所

28畳の広い執務室。
郡代、代官が勤務した場所。


寺院詰所

僧侶が詰めた部屋と町年寄・町組頭詰所。
町役人が詰めていたが身分が違うため、出入口もそれぞれ別にあった。


地役人出勤口

身分によって出入口が分けられいるので出入口もそれぞれです。


座敷



役宅の庭園
もみじが色付くときれいなんでしょうね。


女中部屋

縁の無い畳と雨戸が無いことに注目。
朝日で目覚める仕組みになっており、身分の差が見られる部屋です。





土間



台所

代官の食事を作っていた場所。


御囲い(茶室)

中を覗くと入りたくなる…が、入ることは出来ません。


茶室内部

良い感じの茶室です。


使者の間

使者の控室です。
籠が展示されています。


御白州

刑事関係の取り調べを行った場所です。
これって拷問道具ではないですか!
時代劇で目にすることがありますが、実際こんな取り調べをしていたんですね。
恐ろしい~。


御蔵

高山城三の丸から移築された蔵です。
中には年貢米が保管されていた蔵ですが、現在は当時を物語る資料が展示されています。
撮影禁止の札が掲げられていたので内部の写真はありませんが、とにかく広い蔵で現在も外壁工事中
となっています。(見学は可)
とても広く床は畳敷きになっています。


古い町並み

高山市内は古い町並みが大賑わい。
飛騨牛串焼きや団子に五平餅を食べ歩きながら、酒蔵、味噌、漬物、民芸品などのお店を散策。

古い町並みを歩いているといろいろなお店があってあっという間に時間が流れてしまいます。
本来の目的地、高山城への登城が遅くなってしまいました^^;





平成28年10月16日 訪問



御当地グルメ・おみやげ


朴葉味噌ステーキ

古民家風の民芸食事の店「寿々や」にて。
高山のグルメと言えば朴葉味噌。
地元の方に朴葉味噌というのは朝食べるものと聞き驚きました。
しかも、ステーキなど、名物飛騨牛がいっしょに焼かれるものではなかったことも伺い、
更に驚きました。
このお店の従業員の接客体制も凄かった。
多くの客が外国人で、外国語も堪能。年配の方まで相当勉強されているのか外国語が達者でした。
何カ国語が話せるんだろう? 
食べ方の説明などしなくてはならないことが多いからでしょう。
また、カメラやスマホを鞄から取り出すと店員さんが来て撮りましょうか?と声をかけてくれて
記念撮影してくれました。気配りが凄い!

飛騨牛にぎり寿司



こちらは飛騨牛の握り寿司。
見た目は艶艶していて美味しそうですが、
少し炙ってあるところの店の方が美味しいのかなあ。
何軒かあるので食べ比べてみる方が良いかな。
でも食べ比べられるほどの値段ではないのでまたの機会に・・・。

田舎みそ

何軒かある味噌店
おばあちゃんが店番をしていた小さなお店にふらっと寄ってみました。
赤、白、麹、ミックスなどいくつか種類がある中から試食をして白を選んでみました。
甘い香りとお酒のような香りのする味噌です。


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
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高山城(岐阜県)

2016年10月19日 | 百名城以外の城
高山城たかやまじょう
別名
構造平山城
築城者金森長近
築城年代1588年(天正16年)
指定史跡
場所岐阜県高山市 地図


織田信長の安土城に影響を受けた城。

金森長近が飛騨を制圧、4代続くが出羽上山に移されると飛騨は幕府の領地となる。
高山城の管理は加賀金沢藩に任されたのだが、幕命により取り壊しが決定された。
金沢藩主前田綱紀によって取り壊しが命じられ、わずか60日で建物だけでなく曲輪、土塁、石垣までも
すべて破壊されてしまった。



金森長近公銅像

二の丸にある銅像。
ここは城山公園になっていて、駐車場とトイレが完備されています。



駐車場にある土手に階段がふたつありました。
その先に続く道はないのですが何かの名残なのでしょうか。


それではいざ、登山!

今回は大手道ではなく、搦手側からの道を登って本丸を目指してみました。
公園と聞いていたので本丸まで車で行けるのかと思っていたら、車で行けるのは二の丸の公園まで。
二の丸から本丸まではしっかり山道です。(疲れた~)


中段屋形




さらに登る。道は整備されているが体力が無いのでとても疲れます。
蛇も居るので踏まないように注意しましょう!


水手門

ここには井戸に行く門があったようです。



ようやく本丸へ到着。
ここまで登って来た頃には日が暮れはじめてしまい、辺りは薄暗くなってきました。
早く帰らないとヤバいかな^^;とちょっぴり焦り出す。


搦手之門

ここには良く見ると足元に礎石と思われる石が地面に二か所埋まっています。


門の礎石

柱を立てたであろう溝がはっきり残っています。


本殿櫓



拾間櫓

標柱が各所跡にあるのですが櫓が以外に多い。




玄関の石垣

この石垣の上には使者の間が建てられてた。
現在残っている本格的な石垣(復元)が見られるのはここと二の丸のみとなってしまった。
道中、崩れてばらばらになった元石垣であったであろう石もあります。


使者の間玄関

本丸屋形の入口で玄関をくぐると石垣がある。


使者の間と玄関

ここには門が設置されていたようだ。


天守跡

ここにはかつて高石垣の天守台の上に、安土城を思わせる望楼型の天守があったとされる。


本丸屋形平面図

この想定図を見ると高い天守は無く、御殿のような造りであったことがわかる。


本丸屋形

実際山の上で生活したとすれば、信長の安土城のような発想ですね。
安土城ほどではないのですが山のてっぺんで生活するって大変だと思うのですが
昔の人はすごいなあと思う。


風呂屋

お風呂もあったんですね。


大広間




廃城後は城下にある高山陣屋が政務一切を執り行うよになりました。
飛騨が幕府の直轄地になり、役所が置かれ高山城は「高山陣屋」へその役目を変えていきました。




表から行かず、裏から行ったので急な坂道だったのか、とにかく疲れました。(この程度で?と思われるかも)
しかし夕方から登り始め、二の丸駐車場に戻ってくる頃には足元が見えなくなりそうなくらい暗くなっていました。
早朝の城さんぽもできなくなり夕方も油断してるとすぐ日が暮れてしまう。
そんな季節になってきたんですね。



平成28年10月16日 登城


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大胡城(群馬県)

2016年10月14日 | 百名城以外の城
大胡城おおごじょう
別名
構造平山城
築城者大胡氏
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡県指定史跡
場所前橋市河原浜町660-1 地図

大胡城は、大胡氏・上泉氏の居城で、後に徳川氏家臣である牧野氏が入り居城となりました。
しかし、牧野氏が越後へ転封となると大胡領は前橋城主の酒井氏管轄となり、廃城となりました。



駐車場

大胡城跡の碑の先、トンネルを抜けると二の丸に出ます。
二の丸が駐車スペースになっています。


二の丸跡



桝形門跡

土塁と石垣でできた桝形虎口。


三の丸
三の丸側からも桝形門跡を見る


本丸跡

高台になっていて柵の向こう側は崖になっていて登るのは困難。
崩れる恐れがあることも看板で注意を呼び掛けています。





土塁

とても高い土塁です。
この日は強い風が吹いていたので煽られてとても怖かったです。
空堀側は土塁の高さが8mくらいありそうです。

転がり落ちたら…ゾッとします。


本丸虎口

本丸内の一段下がった平地の北側奥には城山稲荷の社があり、
本丸の虎口とその先の二の丸に行く間の堀にかかる土橋があります。




水の手から腰曲輪に続く道


水の手門跡

こちらも桝形虎口になっています。



水の手門跡となりに置かれた石柱。
以前「ねごやはし」として掛けられていた橋の袂にでもあったものでしょうか。(想像)


遺構はとてもわかりやすい形で残された城跡だと思います。
草刈もされていて歩きやすくなっていました。

が、…。

柵の向こうは崖なので…事故にでも遭われた方がいたのでしょうか。
どんな事情、どんなことがあったのかわかりませんが、
三の丸の柵に手向けられた花束が気になりました。

お城というところは攻め込まれないような防御システムがいっぱい詰まった所なので
危険個所は沢山あります。

私も写真を撮ることに夢中になりすぎて事故にならないよう心がけたいと思います。


平成28年10月9日 登城


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膳城(群馬県)

2016年10月13日 | 百名城以外の城
膳城ぜんじょう
別名
構造平山城
築城者膳氏
築城年代15世紀中頃
指定史跡県指定史跡
場所前橋市粕川町膳 地図
膳城跡公園駐車場

膳城は、武田軍による攻防戦での「素肌攻め」が伝わる城。



エントランス広場

前橋市粕川歴史民俗資料館も併設されていますが、
訪れたこの日は展示物入れ替えのため休館で見学することが出来ませんでした。
後日あらためて訪れてみたいと思います。


本丸裏土塁と堀

前橋市粕川出土文化財管理センターの駐車場を抜けて本丸裏に出るので堀底を道路側に向かって歩いて行くと
正面入り口に出ます。
この堀は畝堀であったことが発掘調査で判明しました。


入口

階段を登ると本丸です。


本丸の碑



本丸

平地に城山亭という東屋があります。



残念ながら説明文は読めません。


膳城祉の碑



二の丸の堀

この堀は本丸を囲うよに造られています。


二の丸



土橋

手前は虎口となっていて堀の間は曲輪と土橋で繋がっています。



ところで、
素肌攻め」とは
北条勢力の膳城に武田勝頼軍が平服で巡検をしていた時、膳城の中では酒盛りをしていた。
酒に酔った城兵が喧嘩をしていたところに通りかかった武田軍。
城兵が喧嘩ついでに武田軍に攻撃を仕掛けてきたので、武田軍は武装していないまま応戦。

武田軍も「反撃ついでに攻城してしまえ!」と鎧で武装もしないまま攻城を始める。
武田勝頼は制止をするが、勝頼の制止も聞かず突入し、そのまま膳城を攻め落としてしまった。

武装していない=素肌と例え、「膳城の素肌攻め」と伝えられるようになった。



公園遊具

遊具がお城型です!
大人も遊びたくなっちゃう公園です。


大人の遊具?も備えられていて運動が出来ます。
大人専用で背中を伸ばしたり、腰をひねったりできて長時間車の中に揺られてきた人はここで
少し足腰伸ばして軽く運動されると良いですよ。


平成28年10月9日 登城


女渕城(群馬県)

2016年10月12日 | 百名城以外の城
女渕城おなぶちじょう
別名女淵城
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡― 
場所前橋市粕川町女渕 地図


いつ誰が築いた城かわからないが、上杉、武田、北条の侵攻を受け城主の入れ替わりが激しい
城であったそうです。


駐車場

公園になっているので駐車場とトイレが完備されています。


西宿沼

この沼はお堀の一部とされていました。


本丸跡

本丸のは広くて深い水壕で囲まれている。
現在畑になってるので入り込んで散策はできません。


北曲輪

北曲輪跡の碑の奥は民家になっているので入れません。


水路

本丸から北曲輪を囲むように流れる水路。
これも堀の役割をしていたのでしょう。
ここはホタルの生息地でもあるようです。


曲輪橋

北曲輪と西曲輪の間を流れる水壕


西曲輪

深壕で囲まれている。


長屋門(売り地)

なんとびっくり!この土地(西郭)現在2980万円で売ってます。
別荘にいいかも~とか城建てちゃお!とか勝手な妄想してしまいます(^^;
宝くじでも当たらないかなあ。


多目的広場

広場と城周囲を一周。
散歩には良い環境です。






平成28年10月9日 登城



上泉城(群馬県)

2016年10月11日 | 百名城以外の城
上泉城かみいずみじょう
別名
構造平城
築城者上泉氏
築城年代不明
指定史跡― 
場所前橋市上泉町 地図


越後、会津へ向かう交通の要衝である大胡城の支城


桃ノ木川側から上泉城を望む

正面は一の郭にある西林寺。
河岸段丘であることがわかりやすい。


上泉町自治会館

ここは二の丸にあたる場所です。
駐車場も十分で、トイレもあります。


看板


上泉信綱像

剣聖と呼ばれる上泉伊勢守秀綱(上泉武蔵守信綱)はこの上泉城で生まれ文武両道に優れた人であったと
伝えられています。



幼少の頃から剣の修行を重ね新陰流を創始しました。
また、現在の竹刀の原型となる袋竹刀を考案し剣術の継承と改革を行い、剣術の祖とされています。


上泉城4代目城主であった信綱は箕輪城の長野氏に仕えていたため、
箕輪城落城した際も武田信玄が三顧の礼をもって旗下になるよう申し出たが
これを断って牢人になったという。

上泉信綱創始の新陰流は大和の兵法として世界人類平和の大道としてつながるべしと現代にも伝わる。


本丸

自治会館北側の土塁が本丸にあたる部分です。
本丸にある郷蔵は県指定文化財になっています。


自動販売機

なんだか格好良いデザインの自動販売機だったので一枚。


西林寺

本丸から西の曲輪内に造られた西林寺は、寛文12年、前橋橋林寺七世台照総監によって開かれた寺院です。
西林寺の裏には信綱の墓があります。
墓石は自然石で西林寺建立の際設けられたであろうとされています。


剣聖上泉信綱公略譜碑

お墓の隣には剣聖上泉信綱を讃える略譜碑があり、これを読むと生い立ちを知ることができます。


信綱公を偲ぶ碑



剣道をよく知らないので特別興味もなく、単に剣の達人がいたのかな?位に思ったのですが、
剣道で使うあの竹刀を最初に考案したのがこの銅像の人なのね!と関心しました。

お城の遺構はあまり見られなかったのですが、剣聖上泉信綱のことを知る登城となりました。




平成28年10月9日 登城


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今村城(群馬県)

2016年10月10日 | 百名城以外の城
今村城いまむらじょう
別名稲荷山城
構造平城
築城者那波宗俊
築城年代477年(文明9年) 
指定史跡市指定史跡
場所伊勢崎市 地図


本丸は台地を利用して三角状に築かれ、これを中心に輪郭式に諸郭が囲むものとなっていた。
本丸の三隅には古墳を利用した櫓台があったと伝わる。


今村城跡

民家脇にある石碑
一般向けの駐車場やトイレなどの施設は無く、民家と田んぼの間にひっそりと石碑があるだけです。


今村城跡石碑

天正期には上杉軍が金山城攻めの際に一時拠点として使われた城でもあります。
上杉VS北条の争奪戦が繰り返され、1590年には廃城となる。



耕地整備以前は土囲いや堀跡などが確認されていたものの、現在は本丸跡の痕跡だけがわずかに残っているのみ。



道路からの入口付近にある石は見た感じ古そうで、城に関わる何か(石垣等?)に使われていたのかなあと
勝手に想像してみた。


こちらも民家脇にわりと大き目の石があったので何かに使用されていたなごりかなと一応写真に納めてみた。


堀跡

道と田んぼの段差が堀跡のようです。
わずかな石が草の下に埋もれているのですが縄張り図から推測出来ます。


お地蔵様

本丸横にある社にはお地蔵様が祀られています。



社の横には何か意味ありげな石があります。
何に使われていたのかは近くに示すものが何も無いのでまったく不明です。


他にも何か城の遺構が残っていないものかと周囲に車を走らせてみた。


今村神社の仁王門

本丸から少し離れた場所に今村神社がありました。
通りすがりに立派な仁王さまが見えたので本殿ではなく門の方を写してしまいました(^^;


あまり遺構が残ってなかったので城跡があったことの確認みたいなことになっちゃったのですが
調べる資料も少なく多くの人が訪れる環境でもないこともあり、見応えはあまり感じられない
ちょっと残念な城跡なのかなと思いました。


平成28年10月9日 登城


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平井金山城(群馬県)

2016年10月08日 | 百名城以外の城
平井金山城ひらいかなやまじょう
別名平井詰城
構造山城
築城者上杉憲実
築城年代1438年(永享10年)
指定史跡県指定史跡 
場所藤岡市下日野  地図


関東管領山内上杉氏が平井城の詰め城として築いた城である。
標高326mの金山山頂に本丸、尾根筋に築かれた県指定史跡の城です。

駐車場

駐車場もあるのでここに車を停めて山頂を目指します。
飲み物も忘れずに。
体力使います。


駐車場内にある案内図

看板の左下のボックスにパンフレットがあります。
雷が落ちやすいのか案内看板の下の方には雷が鳴った時の避難方法が書いてあります。
このことは本丸のや井戸曲輪の案内看板にも書いてあったり、避難小屋があることからも
天候の悪い日は、注意が必要なんだと思われます。


城登山口

登山道入口に建てられた案内板
民家脇の道を通り登山道へ。


登山杖保管箱

このボックスの中に杖が数本保管されていたので中から取り出して拝借。
この杖は杖としてだけでなく、途中のクモの巣払いに大いに役立ってくれました。



わりときつい坂道を登り始めて最初の票柱です。


足場はところどころ整備されたふうになってますが結構傾斜もあったり、滑りやすい路面です。

林に入り、しばらく歩くと低い石垣が見えてきます。


低い石垣が階段のようにいくつもあります。

木々がうっそうとしていて夏場は林の中に入って行く気力はないのですが、冬場になると奥の方まで入って行って
見ることができます。


ここは居住に使われていたようです。


平井詰(金山)城の本丸跡へ登る道

低い石垣群の突当りまで進むと、今度は急な登り道になります。
敵兵に攻め登られないように登り口と八合目の物見台跡付近が急になっています。



すれ違いが難しい細い登り道が続きます。


尾根

尾根に突き当たります。
右に行くと物見台があり、下には堀切があります。


物見台の階段跡

物見台に上がる石の階段が残っています。


物見台

眼下には平井城が見えるはずですが木々が生い茂っていて眺めはあまり良くないです。
周囲の木が無ければぐるりと眺めが良かったことと思われます。


堀切

はっきりと判り易い堀切です。


虎口

急斜面にある虎口です。


清水刻字岩

清水の湧き出す所を示す道しるべの役を果たした岩です。



腰曲輪

細長い曲輪が続きます。



尾根上の曲輪群からなり、右の道に行くと堀切や土橋、虎口などがあり、真直ぐ進むと
主郭(本丸)に到着します。


本丸





狼煙


ところどころ落ちてしまってる看板

1438年永亨の乱が起こり上杉憲実が立て籠もり、足利持氏を迎え撃ったという。

※現在は落ちていた看板と本丸の標柱は松の木に針金で縛ってあります。(2度目の登城で確認)


本丸南面大石垣遺構

本丸の南面には巨大な石垣跡があります。
井戸曲輪にも大きな岩が利用されていることから、この石垣ももともとここにあった巨石を
利用して造られた石垣かなと私なりに想像してみました。


避難小屋

本丸隣に登山者のための雷避けの避難小屋があります。
本丸にはアンテナが立てられているので雷も落ちやすいのかもしれません。


虎口

こちらの虎口は大手道の方から登って来る方の虎口です。
ここには堀切や土橋、小高い土塁も見られます。


土橋

堀切にかかる土橋を渡ると本日二つ目の避難小屋に辿り着きます。


井戸曲輪

避難小屋の下には井戸曲輪があります。
湧水が少ないため一時的な水場として使われていたと考えられています。



岩盤をL字に削って水を運び込んで使用していたとみられる。
ここまで水を運んだとすればものすごい労力ですね。
きっと雨水などを溜めたりもしたことでしょう。


今回も井戸曲輪までで引き返しました。


井戸曲輪の先を進んで山を下るとこちらの集落に出てて来るようです。

こちら側の登山道には駐車場も無く、車は最初に案内したした駐車場に置いて歩くしかありません。
時間と体力のある方は駐車場側から登ってこちらに下り、駐車場へ戻るというコースで一周するのが
良いと思います。


尾根沿いにかなり遺構が残されていて山城が好きな人は結構見所があるのではないかと個人的には思います。
一度も登山者や登城者には行き会うことはなかったですが、地元の方か管理者が様子を見に来ているのかなという
感じもありました。




平成26年1月18日登城

平成28年10月8日再登城


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