むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

米沢城(山形県)

2020年04月30日 | 続百名城
米沢城よねざわじょう
別名舞鶴城・松ヶ岬城
構造平城
築城者大江時広
築城年代1238年(暦仁元年)
指定史跡県指定史跡
場所米沢市丸の内 地図
スタンプ設置場所米沢観光コンベンション協会観光案内所
城郭検定出題あり

鎌倉時代には長井時広が居館を置き、伊達氏から蒲生氏、上杉氏と移り変わり、以後米沢藩は上杉領として
明治維新を迎えるまで続きました。
伊達政宗は米沢城で育ち、豊臣秀吉の命により仙台城に移封されるまで青年期を米沢で過しました。
米沢藩初代藩主の上杉景勝を支えて来た直江兼続とともに米沢の城下町の基盤を築いています。
また、江戸時代には米沢藩の藩政の立て直しを行った名君上杉鷹山公も知られています。



上杉城史苑

駐車場は上杉城史苑の前にあります。
ここでは、地元の特産物や地酒、戦国武将グッズなど販売されています。
帰りにはこちらでお土産を買っています。


駐車場
雨が降っているにもかかわらず、多くの観光客でいっぱいです。


上杉鷹山公の像

上杉家10代藩主上杉鷹山公は、困窮・崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代の名君です。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉を残していますが、
この言葉、会津出身の母親に小さい頃からよく聞かされていました。
米沢の上杉鷹山公の言葉だったとは…母の言葉ではなかったのですねw


松岬神社

上杉神社に上杉謙信とともに祀られていた上杉鷹山が松岬神社に分祀された神社です。
かつてはここに景勝公御殿がありました。
 

舞鶴橋

米沢城の大手口(表参道)で、米沢城の別名が舞鶴城であったことから
舞鶴橋と名付けられています。


上杉謙信公祠堂跡

上杉謙信公の遺骨が納められていた場所で、現在は別の場所で上杉家御廟所
移葬となっています。
伊達政宗出生地の碑も近くにあるのですが、近年の調査では政宗の出生地は
舘山城ではないかといわれています。


米沢城下絵図

米沢城を中心として、城下町が栄えていたことがわかります。


上杉謙信公の像

昭和49年に地元の彫刻家によって作られた謙信公像です。
米沢城には多くの銅像が存在しますが、この銅像もシンボル的な存在ですね。


天地人の銅像

大河ドラマ「天地人」でも有名になった銅像です。
この二人の主従像は、他にない銅像でこの二人の絆の深さはいいなあと
いつも思います。


かねたん

直江兼続をモチーフにしたキャラクター「かねたん」誕生10周年記念に
立てられた石像です。
以前訪れた時にはこの存在に気付かなかった^_^;


観光案内所

今回は続日本100名城のスタンプと攻城団チラシをもらいに寄りました。


スタンプ
観光案内所内に続日本100名城のスタンプが設置されています。
そして、そこには攻城団のチラシも置いてあります。


上杉神社

米沢城本丸にある上杉神社は、1876年にかつて奥御殿のあった場所に創建されました。
奥御殿は簡素で、本丸の大半は表御殿が占めていました。


本殿

大正期、火災のため焼失してしまいました。
現在は、米沢出身の建築学者である伊東忠太が設計し、再建されたものです。


上杉神社庭園

本丸御殿跡に残る池泉回遊庭園で、「松岬城堞図」にも庭園が描かれています。


春日神社

越後の上杉家の居城があった春日山には、奈良の春日大社から分祀された春日神社があります。
上杉家は、藩主の移封とともに会津、米沢と移ってからも、その信仰は変わらずこの地にも
上杉家の氏神として、上杉神社とともに祀られています。


菱門橋

藩主御殿の手入口で、通行の取り締まりを厳重に行ったことで「秘し門」とも呼ばれていました。
そして、ここには馬出を構え虎口を二重に固めていました。


南参道

御堂に勤仕する僧侶がここを使用したという。
朱色の橋が印象的で通行を厳しく取り締まるという印象の無い橋ですが
当時は直江兼続が指揮した米沢城下造営の一環で整備された堰からの
水を取り入れる場所に近い事もあり、御入水奉行が管理するといった重要な場所でも
あったということです。


上杉神社稽照殿

上杉神社の宝物殿として刀や甲冑、絵画など約300点ほど展示されています。
直江兼続が所有していたといわれる「愛」の前立の甲冑もあるそうですが、
今回は日帰りのため先を急ぎます。



稽照殿の脇に朱色の小道があります。


福徳稲荷神社

この稲荷社には白狐の霊が祀られていて、興味深い伝説も残っています。
1740年(元文5年)に将軍家から御鷹の鶴拝領があり御請けの飛脚を立てたのですが、
本書と下書とを取違えて大失態。
御城代岩井大膳元則の飯綱の修法にて、神使白狐の懸命のはたらきで飛脚の持っていた本書と下書を
道中でこっそり交換し、難を免かれました。
しかし、その白狐は急ぎ走り続け稲荷神社へ辿り着くと絶えてしまいまいした。
その後、骸は大膳の申立にてにより櫃に納めてこの稲荷祠に祀られたと伝わります。


北西御三階櫓跡

現在この道は北参道として使われていますがかつてはこの道は無く、
左の土塁の上には北西御三階櫓が建っていました。


本丸北門跡



二の丸

二の丸にはかつて、二の丸御殿や城代役家、寺屋敷や二の丸勘定所などの
建物が建ち並んでいました。


うこぎの生垣

食べられる生垣「うこぎの木」
うこぎって何?から始まって、確かピエール瀧さんの「城下町へ行こう!」を見て
米沢に行ったらうこぎを見るぞ!と思っていたので、しかと見ました
苗木をお取り寄せして我が家の庭にも植えてみました。(いざとなったら食べます!)
そして、この生け垣の奥の建物が、上杉家13代茂憲の伯爵邸として建てられた「鶴鳴館」です。
現在は、郷土料理の店となり資料館も兼ねて営業しています。
庭園を眺めながら、落ち着いて米沢牛でも頂きたいところでしたが叶わず…。


米沢市上杉博物館

二の丸跡にある米沢市上杉博物館。
前回は子供を連れていたので、主にこちらに時間を充てて歴史を学びました。
内容はとても充実していて、上杉鷹山公のことや、米沢市の治水など
子供達も楽しめる工夫のされた良い造りになっている博物館でした。



今回も見たい気持ちはあったのですが…入ったらなかなか出て来られなくなってしまいそうな
内容だったので、時間が無いので後ろ髪を引かれる思いを振り切って仕方なく入口で引き返すことに。



文化ホールには能舞台が設置されており、前回訪れた時はここで
子供が能の稽古をしていたので、しばし見学させていただきました。


うこぎソフト

前回、とても気になった「うこぎソフト」。
今度こそは!と、雨が降って少し寒くても食べちゃいました


べにばな庵

前回、今回とも米沢牛串焼きと米沢ラーメンを食べました。
5年間が空きましたが、味も見ためも変わりなくいただきました。


米沢牛串焼きと米沢ラーメン

ラーメンは、ちぢれ麺でスープはあっさり味で串焼き牛はお肉が柔らかく、御当地グルメを手っ取り早くいただくことが出来ました。


塩引寿司

今回、初挑戦の「塩引寿司」です。
テーブルに座って目に付いたのですが、縁起が良さそうだったので追加注文しました。
和歌山ラーメンの早寿司(鯖)のような感覚で注文してしまいました^^;


米沢牛コロッケ

上杉城史苑の米沢牛コロッケです。
大河ドラマ「天地人」で上杉景勝役の北村一輝さんがとても気に入ってメンチカツとコロッケを食べていたとか。


前回訪れた時の写真(SDカード)を失くしてしまったことで、ずっと再訪問したくていました。
近くを通っても、ここは以前訪れているのでまた連れて行ってとはなかなか言いだせずにいたのですが
近頃は再訪問して発見することも多くなって来たので、やはり行きたいところには何度でも行く!と
決めて「連れ行って~」とせがんでみることにしました
やはり見逃したところもいっぱいあるので、新鮮で何度行っても良いものです。


平成26年8月23日登城
令和元年10月27日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

小倉城(埼玉県)

2020年04月23日 | 百名城以外の城
小倉城おぐらじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代16世紀頃
指定史跡国指定史跡
場所比企郡ときがわ町田黒 地図
御城印ときがわ町の建具会館

小倉城は、秩父の山地帯と関東平野の境界にあり、
後北条氏の重臣である遠山氏が城主を勤めたとも伝わりますが、
上田氏という説もあり定かではありません。
本城のある丘陵は青山城のある丘陵と一体で尾根続きになっています。



駐車場入口

小倉城駐車場の看板が見えて来るので、看板に従って行きます。


大福寺

この先に大福寺の駐車場と、大福寺の裏手に登城口があります。
左手には堀跡もあります。


駐車場

駐車場は十分空きがありました。
大福寺の辺りは根小屋または居館があったとされています。


パンフレット

大福寺の軒先に設置されているパンフレットです。
先を急ぐあまりに取り逃した方は、郭1にもあるのでそちらで入手しましょう!


案内看板



登山口

大福寺を正面に見て、右手奥に登山口があります。



道は整備されているので歩きやすいです。


郭3石垣






枡形虎口






郭1(主郭)上段



郭1(主郭)北虎口



土塁



眺望



パンフレット



東虎口



郭1(主郭)下段



城址碑



建物想定図



南虎口



郭2



大堀切



横堀



郭4



虎口



橋(推定)



竪堀



虎口













令和元年12月8日登城


今回の参考本

上杉家廟所(山形県)

2020年04月22日 | その他
上杉家廟所うえすぎけびょうしょ
別名御霊屋・御廟さん
構造墓所
構築者上杉家
構築年代1624年(元和9年)
指定史跡国指定史跡
場所米沢市御廟1丁目5-30 地図

米沢藩主上杉家廟所は、「おたまや」と呼ばれ米沢市民に親しまれています。
上杉家歴代藩主の廟が整然と立ち並び、謙信公から十二代藩主がこの地に眠っています。
1984年(昭和59年)に、全国の大名家墓所としては5番目の国指定史跡として登録されました。
上杉家ゆかりの地として米沢城とともに訪れてみてはいかがでしょうか。


第二駐車場

正面約50m手前に第二駐車場(無料)があります。


第一駐車場

第一駐車場は廟所に隣接していて、こちらも無料です。
トイレも完備されていて、空きがあればこちらが近くて便利です。


下馬

ここで、馬(車)を降りて中に入りましょう!
ところで、この門はちょっと面白い格好しています。
一見、冠木門のように見えるのですが、横の柱の上にスリムな屋根が載っています。
そして、縦の柱の両方ともに小さな屋根が載ってます。
雪が多い東北地方ならではの門ですかね




上杉家廟所を取り囲む外堀です。
こちらは空堀になっていますが、内堀は水の流れる用水路が巡っています。


参道

入って直ぐの左手に受付があるので、拝観料一般400円を払います。


平州椿

上杉鷹山公の師である細井平州先生が江戸より持参した雪椿が二百二十年の時を経て、
現代になって未登録種であることが解明されことにより、挿し木により増殖されたものを
十七代現当主である上杉邦憲氏が植樹したものです。


案内看板

杉木立の中にある案内看板に、廟所の配置図があります。



参道を抜けて、ここからが墓所となります。
二代景勝公が逝去された約390年前に歴代藩主の墓所と定まりました。


偶数代

正面に向って左手の中央から順番に偶数代藩主の廟所が並んでいます。
謙信公から数えて二代目の景勝の廟所から並んでいます。


奇数代

右手には三代目の定勝から奇数代藩主の廟所が並んでいます。


初代謙信公

そして、中央には謙信公の廟所があります。
謙信公の御霊は、越後から会津、そして米沢へとずっと上杉家とともにして来ました。


世子

偶数側のちょっと奥に引っ込んだ小ぶりの廟所があります。
これは10代藩主、鷹山公の息子である顕孝の墓です。
藩主になる寸前に疱瘡のために19歳という若さで亡くなってしまいました。


十四代

こちらは、最後の藩主である14代茂憲の廟所です。
米沢藩知事や沖縄県令などを任官し、大正8年没しまたが、「興禅寺」に祀られているため
代わりに茂憲公記念碑が立てられています。


十三代

奇数側にあるこの空間は、空いたままになっています。
明治以降に亡くなられた13代からは、東京の「興禅寺」に眠っています。


資料館

拝観受付の隣に建物があります。



小ぶりな建物ですが、小屋の中には平成の廟屋の大改修の資料や、
鷹山公の墓の発掘資料などが展示されています。


折り紙の兜

拝観受付にある折り紙で作られた兜。
この兜は、「義」「龍」「愛」「毘」の4種類の兜があるそうで、米沢市内の観光地に置いて、
無料でお土産に頂けるというものです。
とてもかわいいので頂いて来ました。
こちらには、「毘」で、ひとり2個まで頂けるといことで
今度米沢へ行ったら今回の旅で入手出来なかった「龍」と「義」の兜に出会えたらいいなあと思っています。


見学していると、受付の方がやってきてガイドをして下さいました。
ただ見ていてら見過ごしてしまったであろう、御廟所の屋根の形も
「入母屋造り」「宝形造り」とあり、古い(土葬)ものは「入母屋造り」であるとか、
並びや、他と違った御廟所の理由など、一通りの説明をしていただいたところで、
拝観客が増えて来たのでガイドをしてくださった受付の方と別れ、帰路へ。
こちらをお勧めして下さったフォロワーさん、ここ良かったです!と感謝。


令和元年10月27日訪問






赤穂義士四十七義士石像(群馬県)

2020年04月19日 | その他
赤穂義士四十七義士石像あこうしじゅうしちぎしせきぞう
構造物石造
建立者元助・浅野長矩夫妻
指定史跡市指定史跡
場所安中市東上秋間岩戸3197  地図

上州下秋間に百姓三右衛門の長男として生まれた元助は、
幼くして母を失った後、三右衛門が後妻を迎えたのですが、家庭が円満に行かず家出をしました。
伊勢神宮へ行く途中、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮へ来た片岡源五右衛門の下僕となり
赤穂に行くと、奉公に励みました。
元禄14年3月江戸城松の廊下の刃傷事件で浅野家は断絶となり、赤穂城引渡しとなったことで
片岡は浪人となり、元助を伴って江戸へ下り吉良への復讐の期を狙っていました。
元禄15年12月13日討入りの際、元助は伴にすることは許されず、
義士が切腹して相果てたので、生まれ故郷の秋間村に帰り、浅野長矩夫妻と
四十七義士の石像を建立しました。


入口

この道を通るたびに、この入口の看板がずっと気になっていました。
なぜこんなとろに忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士?


駐車場

入口から迷うことなく登って来ると、駐車場がこの道の終点となります。
道は続いていますがこの先は通行止めになっているので車ではここまで。



案内看板もあるのですぐわかると思うのですが、ここから山に向って
登って行きます。
実は誰もいないだろうと思って来たのですが、先客もあり、後には
登って来られる人もまばらにいて、意外に訪れるひとがあるんだなあと思いました。



道は整備されているので、杖をついた年配の方もお参りに来ていました。



とはいえ、歩きやすい服装での訪問が望ましいです。



登りも少しありますが、距離もそう長くないので
この時期、散歩程度に丁度良いです。



なにやら大きな岩場が見えて来ました。


案内看板

この場所は岩戸観音堂があった場所です。


岩戸観音堂跡

大きな岩壁の窪みに、観音様や石祠、石碑が並んでいます。
なんとも幻想的な雰囲気に吸い寄せられます。



頭の上は、大きな岩の屋根になっています。



石の階段があり、石祠にお賽銭を置いて、流行病の早期終息をここでも祈ります。
神とあらば、なににでも縋りたい思いです。


屋根の跡

5歩下がって上の方を見てみると、御堂の屋根の柱痕が見えます。
苗木城の岩で見たのと同じような柱痕に見えたので看板を見たら、
やはり建造物の痕だったことがわかりました。



虎口には石垣があります。
しかし、ここが私の目指していた場所ではないので、再び先に進みます。



竹林を抜けると、またもや大きな岩の壁が見えて来ました。
いよいよ目的の場所か!



到着です。
道もここで終点となります。



四十七の石像がずらりと並んでいます。



これは見事です。(ここは神聖な場所です)
なんだか来てみて良かったと思った瞬間です。
こんなところがあったとは、今までスル―して来たのが悔やまれました。


魂明水

湧水が出ているようです。
それにしても、新幹線の通る音がかなり響きます^^;
この岩壁の向こうには、私もたまに利用する上越新幹線の「安中榛名駅」があるのです。


竹林

では、これにて引き返すことにします。
この道はちょっと進むと景色が変化するので退屈しない道のりです。



長矩夫妻と四十七義士の石像を建立すると、元助は諸国を巡る旅に出て
二度とこの地へは帰って来なかったという…。

その後、明治になると秋間村では帰らぬ元助の行方を尋ねること数十年、
千葉県南房総市和田浦にある長香寺にて手掛かりをみつけました。
村民を護る為、自ら岩窟に入り神仏となったことがわかりましたが、
青年団建立の碑に「元助は石州浜田の人なり」とあるを見て、島根県浜田市へ照会したところ
元助に関する発見はなにもなく、「元助は上州秋間の人なり」と訂正されたとのことです。
そして安中市指定史跡となり、今も3月14日を元助の供養日として供養を行っているそうです。



令和2年3月15日訪問


高瀬陣屋(群馬県)

2020年04月14日 | 陣屋・館
高瀬陣屋たかせじんや
別名
構造陣屋
館主溝口伊豆守善勝
築城年代慶長年間
指定史跡
場所富岡市下高瀬 地図

光厳寺の門前に高瀬陣屋がありました。
越後の新発田城の城主である溝口氏の分家で溝口伊豆守善勝が
甘楽2千石を管轄した陣屋は約100年間続いたが、
善勝から4代目の帯刀政親の時に改易となり、やがて帯刀の子が
江戸に移ると高瀬陣屋は廃されることとなりました。


御殿

道路右側の住宅地から東側が高瀬陣屋の縄張りとなり
御殿があった場所になります。
北西角(止まれの標識の向い)に何やら石碑が見えたので見に行ってみました。


石碑

ここから陣屋跡であるのを示すかのような石碑が立っています。
この写真からは何が書いてあるのか読めないので、日をあらためてまた見に行ってみよう。



道路を北に渡った電柱のところにも何やら石塔があります。


石柱道標

古い往環や市街道があったのでその頃の道しるべか…。
よ~く観察して来なかったのでいつ頃のものなのか?
もうちょっとよく見て来るんだったなあ。


御殿跡

御殿のあった場所を見下ろしています。現在は住宅が建ち並んでいますが、
正面には正門がありました。


馬屋跡

右側の同じ家が建ち並んでいる奥の空き地には馬屋・牢屋作事小屋があったと伝わります。



光厳寺入口へやってきました。
左が光厳寺、右が御殿跡になります。



光厳寺と言えば「仮面ライダーゴースト」のロケ地として知られています。
外観のみ見学は可能となっています。


駐車場

光厳寺さんの駐車場です。
夏になると、ここで賑やかにお祭りが行われます。
以前夏祭りに訪れた時に、ここって城跡っぽくない?と思ったので
やはりそれなりの構造であったなあと今になって納得しました。


山門

仮面ライダーゴーストの「大天空寺」としてこちらの山門前と
境内でロケをされていました。
放映当時は話題になってました。



それでは本殿の方へ行ってみたいと思います。
ここでは両サイドの立派な石垣に目を惹かれます。


中雀門

陣屋跡から、この光厳寺にかけてセットで城としての機能も
していたのではないかと、現地の地形や雰囲気から漂って来ます。
この門の先に本堂があります。


松ぼっくり

誰が拾って置いたのか、大きな松ぼっくりが置いてありました。
結構大きいので注目しちゃいます


本堂

寺の縁起は室町時代人皇九十六代光厳天皇の御開基で
大本山永平寺八世鷹林喜純禅師を開山としています。
テレビで見ると広そうに見えたのですが、思ったよりこじんまりしてます。


扁額

光厳寺は鳳来山光厳寺と号しているように、扁額には「鳳来山」と
記されています。


鐘楼

江戸時代中期の安永年間における三度にわたる火災で古文書など含め重宝類は焼失し、
寺歴に不明な点があるので陣屋との直接の関係性ははっきりわかっていないのが残念です。
戦後、平成と増改築や新築しているため、寺歴は古いですが建物は古いものではありません。



夏の打ち上げ花火も良かったですが、花がきれいなこの時期の散歩も
心おだやかになって良いものです。



外出もままならない状況になって来たので、城めぐりもこの日を最後に
しばらくお休みとなります。(表向きには)
過去の再編集が多くなって来ると思いますが、出来る限りブログの更新は続けて行く予定です。
長い目でお付き合いいただけたら幸いです。


令和2年4月4日登城


今回の参考本




横手城(秋田県)

2020年04月11日 | 百名城以外の城
横手城よこてじょう
別名 朝倉城・阿櫻城・韮城・龍ヶ崎城・衝城
構造山城
築城者小野寺氏
築城年代
指定史跡
場所横手市城山町29-1 地図
攻城団チラシあり


未登城の城





平賀城(群馬県)

2020年04月07日 | 百名城以外の城
平賀城ひらがじょう
別名
構造平城
築城者平賀入道真斎
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市中沢85−3 地図

信州佐久の平賀城の城主平賀氏の一族で、内山氏を名乗っていました。
箕輪衆の一員でもあった頃には平賀氏を名乗り、それが城名として残ったものと思われます。
この城も、上信越自動車道によって主郭を分断しています。




この先が平賀城の城域となります。
上信越道を挟んで右側が主郭、左側が二ノ郭、三ノ郭がありました。



まずは上信越道東側の側道へやって来ました。
この辺りが主郭になるのですが、主郭の西側半分(右側)は
上信越道の真下になります。


主郭

残った半分、東側の主郭です。


四ノ郭

東側から見た四ノ郭(垣崎)です。
畑になっていますが、形は城の縄張りのままです。


堀跡

唯一面影が感じられる場所です。
田んぼになってますが、段差も残り名残程度ではありますが
堀の形が見て取れます。


搦手道

堀と堀の間に馬入れのような道がありますが、
ここが搦手道となっていたようです。


搦手口

搦手道の入口にはこのようなものがあります。
どこかで見たような家紋?



上信越道の西側へやって来ました。
こちらは二ノ郭、三ノ郭があります。


二ノ郭

二ノ郭も北側半分がこの道路と上信越道で消滅しています。


三ノ郭

三ノ郭が一番広く、畑と宅地と化しています。


堀跡

主郭の北側にあった堀の続きが上信越道で分断されていますが、
北西にもあります。
こちらは道下にあるせいか、少し深みがあります。


27.9kmポスト

上信越道27.9kmポスト付近が平賀城なので、
遺構は見えませんが、通過の際には意識してみて下さい。


この先には丹生城をかすめて上信越道が続いているのですが
丹生城までは削られずに済んだものの、よくぞここまで連続伐りして
してしまったものだ
これで、連続破壊された4城すべてを巡ってみましたが、
それぞれ残り方は大小あれど、遺構がみつけられたのが
ちょっぴり救いかなあと思っています。


令和2年4月4日登城


今回の参考本

安土城(滋賀県)

2020年04月05日 |  百名城
安土城あづちじょう
別名
構造山城
築城者織田信長
築城年代1576年(天正4年)
指定史跡国指定史跡
場所近江八幡市安土町下豊浦 地図
スタンプ設置場所安土城天守信長の館・安土城郭資料館・安土城跡信長廟前
城郭検定出題あり

琵琶湖畔に築かれた城の象徴でもある「天主」が岐阜城とともに起源となった城である。
信長の「天下布武」にかけた絢爛豪華な五重六階の(吹き抜け構造)天主は、
安土城完成から3年足らずで何者かの放火によってその見事な姿は消えてしまいました。
羽柴秀吉が後継者となり、甥の秀次に八幡山城を築かせると安土の城下町ごと移住させ
安土城と城下町は、その機能を失うこととなりました。



駐車場

この辺りはかつて琵琶湖の内湖で水堀になっていました。
この位置で見渡しても琵琶湖は見えないのでちょっとピンと来ないですが
ここで想像力を発揮させてみて下さい。
では、を持っていざ!!


大手道

約8年ぶりにやってきました。
その頃は山城歩きをしていなかったので、完全に運動不足でした。
今まで、この道中がものすごく疲れた印象しか残っていませんでした。
しかし、足元を見ると…当時より整備されているのが見受けられます。


伝前田利家邸

まずは右手にある伝前田利家邸です。
羽柴秀吉と向い合わせで夫婦ともどもとても仲良しだったようですね。
ところで、現在残っている絵図は廃城になってから1世紀後に描かれたもので
屋敷跡の名称は推定であって、正確なものではありません。
ということで屋敷名の頭に伝と付いています。
しかも…なぜか信長の側近でありながら明智光秀の屋敷が無いというのも
変ですよね。


伝羽柴秀吉邸

伝前田利家邸の向いにある伝羽柴秀吉邸は、上下二段になった
郭で構成され、二階建ての櫓門で石垣の上の階と繋がっていて、
渡櫓としては最古のであったとされています。


案内石板

ここでは最大の屋敷であったようです。
ここで屋敷跡の様子を確認します。


下段郭

下段郭の建物は、馬6頭を飼える厩があるだけでしたが、
厩の中には武士が控える遠侍が設けられるほどの大きさがありました。


上段郭

上段郭は居住区で、建物は3棟で構成されていました。
入口と奥に台所があり、主殿がありました。
それにしても、上下の段郭の石垣を見ただけでも凄いなあと思うし、
大そうな人物の敷地であることが感じられる郭です。


伝徳川家康邸

現在は摠見寺があります。
摠見寺には信長公所用の鉄鍔、陣羽織が伝わり、襖絵なども
不定期ながら、主に土・日曜日や祝日に特別拝観(抹茶付)500円で出来るそうです。
これは見逃した~ 


石仏

大手道の石材として石仏や五輪塔など使われたものがそのまま残されています。
石材が足りないので近隣の石仏までも使ってしまうとは信長らしいというか…。
「うつけ者」と言われてもおかしくないと思います。(城も燃えるわなあ)
と以前訪れた時はそう思っていたのですが、いろいろ巡っているうちに
転用石をいっぱい見て来た結果、信長だけがやったことではないし、
このころの事情や文化で、諸説ありますが無下にしている訳でもないことが
分かって来ました。
それにしても、石垣なら踏むことはありませんが、
下見て歩かないと、うっかり踏んでしまいそうになります。



石段の高さがまばらなのでとても疲れます。足腰にくる~。
以前に比べてかなり歩きやすく整備されていますが、前回はこれに
かなり体力を奪われました


摠見寺墓地

この奥には摠見寺の墓地があるようです。


伝武井夕庵邸

武井夕庵は美濃の斎藤氏から信長の側近になり
右筆となった人物です。


古井戸

この邸跡には古井戸?古池?の跡が見られます。



結構登って来ましたよ。


百々橋口道合流地点

天主と摠見寺跡へとの別れ道にやって来ました。
まずは本丸を目指すことにします。



では、天主目指して右の道を登りましょう!


七曲り道

伝織田信澄邸・伝森蘭丸邸の石柱があるこの場所は七曲り道の入口です。
覗いてみるも、この先は藪です。
現在、道は未整備のため通行不可になっています。
この先に伝織田信澄邸・伝森蘭丸邸への道があるということか。
森蘭丸ファンは多いと思うのだが…これでいいのか?(整備希望)


伝黒金門跡

巨石に囲まれた出枡形は、鉤の手に折れて門を入って行きます。
これより先は信長が側近たちと日常生活を送っていた中枢部となるだけに
使用されている石もこれまでの石よりも大きいものが使われています。



黒金門は櫓門と薬医門で構成されていたと推定されています。


伝二の丸(西の丸)石垣

人間と比較すと石垣の高さがよくわかります。


二の丸(西の丸)下

正面右側へ延びる階段の先は伝長谷川秀一邸跡があります。
ここまで登って来ると信長側近の屋敷が建ち並んでいることになります。


伝長谷川秀一邸

築城当初は側近の万見重元邸が置かれていました。
当時は、名物茶器や茶会を催される表座敷として使用されていました。
現在は、織田信雄四代供養塔が祀られています。



二の丸南下に回り込んで北に向って折れて二の丸、本丸の入口へ。


仏足石

なんと、この仏足石も石仏同様石垣のひとつとして使われていたもの
だそうです。
石仏や五輪塔が石垣の一部に使われているのはよく見掛けますが、
仏足石かいな!マジか…。
石仏と違ってそう沢山あるものではないのだから
どこから運ばれたものなのか手掛かりはないのだろうか。


蛇石

テーブルのようにある右奥の巨石は、
1万人が3日間昼夜をかけてここまで運んだといわれる巨石ですが、
150人以上の人が下敷きになって押し潰されたとされています。
この巨石が信長公記にある「蛇石」であるかどうか分かりませんが、
天主から最も近い巨石なので、話題のための石として?蛇石と呼ばれています。
実際はどこに使われているのかは、謎のままです。



この階段を登ると二の丸(西の丸)です。


二の丸(西の丸)

本丸下にある二の丸には秀吉が建立したという信長廟があります。
ここには信長愛用の太刀や烏帽子、装束などが埋葬されています。
そして、信長の本丸御殿はここにあったのではないかという声もあります。


信長廟所

本能寺で自害した信長の遺骨は発見されていないが、秀吉が一周忌の時に
この地に廟所を造りました。
信長の遺骨こそは無いが御霊はここで眠る…。



蛇石の東側にあるこの天主下の石垣は、よ~く見ると
火災による高熱によって表面がボロボロになり、
細かく割れていることがわかります。



この石垣の足元からは赤く焼け落ちた大量の瓦が発掘されています。
左が伝説の蛇石ですが思ったより大きく見えません。


本丸跡

二の丸から本丸へ。
ここが本丸御殿跡(南殿)といわれる場所で
信長は御所のような天皇をも凌ぐ御殿を建てようという構想も
あったようですが実現することはありませんでした。



この石垣の上には多門櫓が連なっていたことが想像できる
造りになっています。


伝搦手口

本丸跡の北東隅に、現在は封鎖されている搦手口があります。
鉤の手に折れて石段へと続く構えとなっているはずなのですが、
残念ながら、この先進入することが出来ません。
正面奥の石垣の上にも米蔵跡が残りますが、整備されていないので
こちらも見学不可です。


伝本丸取付台

この階段を登り、くの字に曲がって天主台へ。



直進は天主台へ。
右手に道があるのですが、立ち入り禁止になっているところが
気になります。覗いてみると…


この先八角平への道が続いていますが、現在未整備のため
通行禁止になっています。


天主閣址の石柱

いよいよ天主閣のあった天主跡です。


天主台礎石群

礎石部分が不等辺八角形平面の天主台。



中央部分には1個分の礎石が存在せず、そこには深さ1m程の穴が発見されています。
このことは吹き抜け構造を示すものなのか?
私ならその穴にこれでもかという太い立派な大黒柱を挿してしまおう!
と思ってしまうのですが。
素人なのでこんな考えをしてしまいます。^^;



山岳部を削り出し、石垣で囲まれた天主の基礎。
この部分は地下部分となり穴蔵になっていました。





帰路

帰路は百々橋口道を通って行きたいと思います



帰りは下るばかりと思いきや、
目の前には登りの階段が
また登り~心折れそうになりました。


摠見寺本堂跡

1854年(安政元年)に火災で焼失。
本堂は現在大手道のある伝徳川家康邸に再建されています。



天主と城下を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる
多くの人が摠見寺の境内を通過することになります。
本堂周辺からは多くの建物の跡がみつかっています。
後に、豊臣秀頼によって渡り廊下で結ばれた書院なども増築されました。


三重塔

この三重塔と、ここから下った先の二王門は
安土城築城以前の棟札がみつかっており、
摠見寺を建てる際に、甲賀郡から移築ものです。


摠見寺二王門

二王門は、金剛力士像を祀るための楼門です。
それにしてもこの急勾配、登りだったらきつかった



重要文化財に指定されている金剛力士像は1467年(応仁元年)に
因幡院朝によって作られたものです。


石部神社

百々橋口道入口にある石部神社は、信長が安土城の守護神として
安土城築城の際に修復した古くからこの地にある神社です。



百々橋口道入口で道路に出て百々橋の方へ行きたかったのですが
道路に出られないので、このまま大手道まで道路沿いに歩きます。


出口

本日は、いっぱい観させて頂きました。


スタンプ設置場所

安土城のスタンプは3ヶ所にあります。
そのうちのひとつがここ入場券売り場の出口です。


赤こんにゃく

滋賀県近江八幡市の名物である「赤こんにゃく」です。
私の住まいでもこんにゃくが名物ですが、このような赤いこんやくは
普段目にすることはありません。
地元では冠婚葬祭のご馳走に欠かせない食卓を彩る食材とされているようですが、
派手好きな織田信長が染めさせたという説もあるようで、
信長らしさが滲み出ているように思える御当地名物ですね。


立石

大手道脇の石垣に等間隔に配置された縦型の石は、
毛利氏配下の石工集団の特徴的な積み方を見ることが出来ます。


百々橋口道

現在は通行禁止となっている百々橋口道入口です。
城下の人々は百々橋を渡り、ここから百々橋口道へ進み、
摠見寺の境内を経て大手道へと合流します。


百々橋

この橋が安土城と城下町を結ぶ重要な橋でした。


ガイダンス施設

入館料大人200円、小・中学生100円、小学生未満無料と、有料ではありますが
安土城をがっつり堪能してくると、クタクタになってしまったので
ここでコーヒーを飲みながら、館長さんと談笑しながら休憩しました。
まだまだ整備されていない見所があるので整備をお願いしてみたのですが
年々予算が減ってしまって手が回らないのが現状だそうで…残念。


雛型模型

施設内では、安土城天主上層部7分の1雛型模型の展示をしています。
他にも、城下町での出土品が展示されていたり、VR安土城ダイジェスト映像が放映されています。


日本100名城のスタンプラリーを始めた頃に来た時には、とても運動不足で
大手道でへとへとになってしまって満喫どころではなかったです。
しかも、幼かった娘は身軽にどんどん走って先に行ってします。
それを追いかける体力すらなく、散々でした。
安土城と佐和山城はめちゃめちゃ疲れて、もっとちゃんと
見ておきたかったと後悔していたので、常々リベンジしたいと
思っていました。
8年越しにやっとリベンジ出来ました。
体力が着いたのか、整備が進んだからなのか前回に比べて
あれ?と思うくらい難なく行って来ることが出来ました。
そして、前回見られなかった百々橋口道の方へも行って来られて
とりあえず気が済みました。(^^)v(何回行っても良いです)


平成23年5月4日登城
令和2年1月4日再登城



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
クリエーター情報なし
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八崎城(群馬県)

2020年04月03日 | 百名城以外の城
八崎城はっさきじょう
別名不動山城
構造崖端城(平城)
築城者長尾憲景
築城年代1532年~1555年(天文年間)
指定史跡
場所渋川市北橘町分郷八崎 地図

八崎城は、天文年間(1532~1555)に白井長尾氏によって築かれました。
上杉・武田・北条・真田などにより幾度となく争奪が繰り返されていました。
長尾憲景死後、次男輝景が白井を継いだが北条の人質になっていた小田原の
三男政景が八崎城に入城すると小田原の役後には白井城主となり前田利家に降りました。
こうして八崎城は1590年(天正18年)に廃城になりました。



分郷八崎(名称)由来記

分郷八崎公民館にある案内看板。
分郷八崎村は江戸時代以前から八崎郷と呼ばれていました。
三つの村に別れ、それぞれの名称が付けられたが合併による改名でも八崎村の名称は残されて来ました。
分村、合併を経て「分郷八崎」の名称は今もこの地に残されています。


入口

案内の標柱に従い、ここを真直ぐ下ると大きな堀になっています。


堀底

本丸まで車を乗り入れ出来そうですが、
堀底は写真の見た目以上にぬかっていて滑ります。
歩いていてもすってん転びしそうだったので、
車もスタックしかねないので今回も乗り入れは断念。



本丸前の西側の堀はしかっり残っています。



右手に案内看板が見えて来ました。
この上が御城(本丸)と呼ばれる場所になります。


案内看板

案内看板の撮影に難儀したのは3本の竹。
現地で読むには隙間から読めますが、写真に全体を納めようと思うと
この3本の竹が邪魔して来ます^^;


本丸(御城)

利根川の浸食により現在残された三角の本丸跡です。


二の丸

城の内と呼ばれる二の丸へやって来ました。
かつてはこの道沿いに土塁があったようですが住宅が立ち並び
道の先も終点が宅地の庭に行ってしまい、進入すると申し訳ない状態です。


大手道

本丸から続くほぼ真直ぐの道が大手道となります。
この先は八崎宿となっています。


西曲輪

大手道から西側の利根川の断崖上にある西の曲輪にやって来ました。
こちらには遠目にもわかる土塁が畑の中にまだ残っているようです。


おくらやしき

西の曲輪から北へ向って平地が続くこの方面が「おくらやしき」と
呼ばれる地区です。


八崎宿

再び大手道に戻って来ました。
八崎宿は八崎城の城下町として発展し、
沼田街道西通りの宿場として栄えた地区です。


案内看板

渋川市営バスの分郷八崎バス停横に案内看板が設置されています。
バスを待つ間の退屈しのぎに良いですね。



宿場町の面影を残す大手道の街道沿いには雙玄寺があります。
こちらも城域となるので、何か遺構が残っていないものか
立ち寄ってみました。


雙玄寺

長尾憲景が開基したといわれるお寺です。
こちらには室町時代の古い六体の地蔵が刻まれた
「六地蔵」(市指定重要文化財)が本堂あります。
かつて上野国勢多郡拝志庄(はやしのしょう)と呼ばれていた頃のものです。




雙玄寺の西側、境内と墓地の間に流れる小川は
かつての堀と思われます。


山門

街道から真横に入り、この山門をくぐって来たのですが、
ここから真直ぐ見て、自分が正面から入って来なかったことに気付く^^;
(奥に入口の門柱が見えます。参道はこっちでした)


外堀

東側の堀は菜の花も咲き、もう少しすると桜も咲きそうです。



東を流れる水堀は、本丸方面に近ずくに従い、
深くなっていて、この先は堅固な守りとなっています。
また、この先深堀を挟んで東側に後から築かれた新曲輪があるので
そちらに行ってみたいと思います。


新曲輪

関越自動車道の真下にやって来ました。
ここが新曲輪になります。
以前訪れた時にもここまで来たのですが、その時は何も資料を
持っていなかったので深く追求はしませんでした。



畑になっていますが関越道北側のこの畑を目印に
周囲は藪ながら、新曲輪の面影を感じることが出来ます。


この後、利根川から断崖の城跡をとらえてみようと試みたのですが、
昨年の台風の影響で河川敷の公園には降りることが出来ませんでした。
河川敷の散策もしたのですが花々が咲き誇る中、路面は削り取られて荒れたまま。
残念ながら公園としての利用は難しい状況です。
この光景を目の当たりにすると、
本丸が利根川に削られるという話に納得させられました。
※公園内立ち入り禁止のため写真は無しです。


平成29年7月15日登城
令和2年3月20日再登城