むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

宝生寺山砦(長野県)

2021年01月05日 | 
宝生寺山砦ほうしょうじやまとりで
別名
構造丘城
築城者伴野氏
築城年代不明
指定史跡
場所長野県佐久市下平宝生寺山 地図

宝生寺山砦は国道142号線、「道の駅ヘルシーテラス佐久南」から見える場所に位置します。
伴野長朝が築城した、前山城の北方の守備のために物見塚の砦とともに築かれた砦です。



駐車場

「道の駅ヘルシーテラス佐久南」の駐車場を借りて散策です。


入口

とりあえず、宝生寺方面へ向かってみることに。


看板

「岸野の唄」という看板の前に立つと、見えた!登山口。
ここから登ってみようと思います。



道は歩きやすく出来ています。



階段も造られているので、整備はともかく管理はされているようですね。



腰郭のような平場に出ました。
ここから更に登ると二の郭、主郭となります。


二の郭

枯草の隙間に、平場が見えて来ました。
どうやら二の郭に到着したようです。



沢山の石塔や石碑が見えます。


主郭

一段高くなっている場所が主郭…というよりは物見か櫓台のようです。
石塔は、お寺の住職のお墓と思われます。


眺望

二の郭から西側を見ると、山の上に櫓らしきものが見えます。
国道142号線を通るたびに気になって仕方なかったのですが、あそこが「虚空蔵山狼煙台」だったのですね。
こちらもいつか、そのうち行ってみようと思っているところです。


石祠

さて、宝生寺に向かって下って来ました。


宝生寺跡

宝生寺があったはずの場所を見下ろしています。
宮坂氏の「信濃の山城と館」では平成11年の時点では荒廃していながらも建物があったようですが
現在は建物は取り壊され、ご覧の通り藪と化しています。


鬼瓦

そんな中に、宝生寺のものであったであろう飾り瓦が落ちていました。


宝生寺入口

先程の看板があった登り口より南に歩いて行くと、宝生寺の入り口がありました。


階段

ここも、前山城へ向かう時などに数回通過しているのですが
石垣も階段も草に埋もれていて、ここに入り口があったことは全く気が付いていませんでした。



覗いてみたものの、この時期草が服に着いて来そうなので突入したくないです(^-^;



南側にある道祖神や石碑。



北側の主郭下へ回り込んでみると、まるで石垣のような大きな岩の上に築かれているようです。
自然にあったものなのか分かりませんが、積んだようにも見える岩です。


「道の駅ヘルシーテラス佐久南」へ寄るたびに、この山を眺めては先延ばしして来ました。
が、時間もかからず、体力も消耗することなく簡単に行く事が出来ちゃいました。
出直すほどの立地ではないので、休憩がてら寄ってみても良いと思います。
但し、土の城が好物でない方を伴っていくとがっかりされると思いますので
独りでサクッと行って来るのがいいのかも。

令和3年1月3日訪問


今回の参考本




北新波砦(群馬県)

2019年02月27日 | 
北新波砦きたあらなみとりで
別名
構造
築城者新波氏
築城年代15世紀後半~16世紀中期
指定史跡県指定史跡
場所高崎市北新波町216  地図

北新波砦は、57メートル四方を土塁と堀で囲み
南側に防御施設と思われる張り出しを設けています。
箕輪城主で知られる長野氏は、長野郷を基盤として発展し、
北新波砦も長野氏に関係する武士が居住していたと考えられています。



駐車場

公園になっているので西側に駐車場が完備されています。


案内看板

駐車場と本丸広場の間に設置されている案内看板です。


北新波砦史跡公園

本丸広場への入り口は東西南北に各1ヶ所設けられています。


復元土塁

復元された土塁で本丸は囲まれています。
土塁の外周を今は埋め立てられて砂利が敷かれていますが堀が廻っていました。


本丸広場

ほぼ正方形で周囲を土塁が囲い、館があったと思われます。
虎口は北と南の2ヶ所とされ、建物跡や井戸跡、生活用具類や古銭
墓石等が出土しています。
そして…ここの芝が気持ちよさそうに見えたので寝転がってみました!

イテテテ…

タワシのように痛い芝生でした


張り出し(内側)

出桝形状の張り出しがあります。



土塁の上には通り道が設けられていて、
張り出しの部分もコの字になっているのが判ります。


詰所

公園東側には長屋門のような詰所があります。
中から話し声が聞こえていて人の気配を感じました。
公園の管理者かな?


休憩広場

休憩広場のあずまやの中には北新波砦の案内や
北新波砦史跡公園周辺史跡案内が掲げられています。


満勝寺郭

北新波砦に隣接して満勝寺があります。
この敷地も北新波砦の郭で城館としての機能を果たしていたものと思われます。


満勝寺

郭内には満勝寺の他に長野幼稚園もあります。
というわけで、散策は満勝寺までで奥の長野幼稚園までは許可無く
進入出来ないのでお気をつけあれ。


武田家の紋

そして気になったのは屋根に見えた菱の紋。
武田信玄の侵攻によって箕輪城が落城した際にこの砦も
オセロのように武田の紋に塗り替えられたのでしょうか。



この日は中で法要をされていました。
そのために入り口の門が偶然解放されていたのかもしれません。
普段は幼稚園の入り口と一緒なので門が閉じられているかもしれない(未確認)です。


満勝寺の石憧

満勝寺の石憧は1524年(大永4年)に造られ、当時の仏教信仰の様子を知る
貴重な資料とされ高崎市の指定史跡とされています。
石憧は、中国で流行ったものが日本に伝わり日本でも鎌倉時代頃から多く造られるようになりました。
因みに、この石憧の上に載っている笠は別のもので後に付けられたそうです。



本堂正面にも武田の紋が掲げられています。


遺構は既に破壊されていたものの、土塁の復元など史跡として残そうという姿勢が
良く見えます。
また市民の憩いの場としても安心して活用できる良い環境でもあり、この日も
公園には整備をする人、散歩をする人、ボール遊びをする親子の姿も見えました。
平和を感じる史跡でした。


平成31年2月2日訪問




長野業政と箕輪城 (シリーズ・実像に迫る3)
黒田基樹
戎光祥出版



筑前上の砦(群馬県)

2019年02月20日 | 
筑前上の砦ちくぜんうえのとりで
別名
構造
築城者稲葉氏
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市妙義町上高田 地図

筑前上の砦は、安中方面からの敵を迎え撃つ為に築かれた砦で
高田川を挟んで対岸にある郷士谷津の砦(筑前屋敷)を繋ぐ狼煙台とも
言われている場所です。




完全に畑と化した砦跡には遺構とみられるものはほぼ壊滅しています。
砦があったとされるのは、正面の墓地から左側の畑になっている場所と思われています。


旧道

現在この道は農耕車のみ通過でき、一般車は砦を避けるように新道の方を通ります。


堀跡か?

この道から右側が堀跡ではないかと推定されていますが…。
窪みも無いし、むしろ土が盛られていてまったく想像すら出来ません。
この道が堀跡か?



段になった畑があります。
土塁ではなさそうです。



墓地のあるこの辺りが一番高くなっている場所です。



畑以外の土塁を見ると、なんとなくそんなところに砦の名残かなと
思いを馳せてみる…。


宮坂武男氏の「境目の山城と館」を見て訪れたのですが、普段からよく使う道で
この本が無ければ、ただただ…通り過ぎる地点です。
段丘を登るので確かにその分眺望もあるわけですがこの光景を見ても
残念ながらここが砦であったことは知る由もない。
調査もなされていないので詳しいことは判っていません。


平成31年2月9日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

金比羅山砦(群馬県)

2018年03月07日 | 
金比羅山砦こんぴらやまとりで
別名物見山砦
構造物見
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市黒川 地図


金毘羅社を勧請したことで金毘羅山と呼ばれるようになりました。
そして物見山とも呼ばれていることから、この地は戦国期には物見や狼煙を上げる
伝達の重要地点であったと考えられます。



参道からでなく、ちょっとズルして山頂に近い道路側から登ってみました。


堀切

道路から山に入るとすぐに堀切が見られます。



かなりはっきり確認することができるのですがどのくらい前に
造られたものなのかわからない。



堀切は南側へ大きく周り込んでいます。



堀切を見たあと、獣道のような誰かが歩いたあとを辿って
頂上を目指します。



途中、参道と合流し、そこから登るとすぐに虎口かな?と思わせるカーブに出ると
金比羅社が見えて来ます。


金比羅社



案内看板

小幡羊太夫が官軍と戦ったことから物見山と名付けられたと言い伝えがあるようです。
江戸末期には金比羅様を祀ったことで金比羅山と呼ばれるようになりました。



この社を覗き込むと、更に小さな小窓が見えて、その小窓の奥に石祠が見えるようになっているのがすごい!
おもしろいカラクリで造られた社だなあと感心しました。
ただ単に空気を取り入れる為だけに付けられた小窓とは思えない造りです。


石祠

金比羅社の裏手に廻るとこのような石祠があります。
金比羅社の正面でお参りすると、自然にこの石祠にもお参りしたことになります。



社を背後から見るとわかるのですが、正面から社内を覗き込んだ時に
石祠が見える位置(低い)に小窓が造られているのが解ります。
普通に付ける窓の位置でないことが解ります。



社の背後に郭が広がります。
少し藪になってますがこの時期なら散策できる程度に歩けるので
広さを確認することが出来ます。



木々が生い茂っているので眺望は望めないので物見としては実感が
湧きませんが、この木々が無かったら見渡すことが出来ていたのでしょうね。


腰郭

東側の腰郭。
主郭を取り巻くように周囲に一段下がって腰郭が配されています。







道路に戻って来ました。
ここに小道があるのでいってみると…


一之宮貫前神社方面

物見山では見られなかった眺望が望むことが出来るので
中腹ではありますがここで物見の気分を体験することが出来ます。


黒川城方面

鉄塔が見える左側が黒川城になります。


道路のカーブが広くなっているのでそこに駐車することが出来ます。
通行の妨げにならない場所を選んで道路側から登って行くと近いです。

物見山と呼ばれていたことから戦国期は物見や砦として使われていたのでしょう。
この周辺には黒川城、宇田城、高田城など多くの城跡が存在します。
それらを見張るためだったり、伝達のポイントとしても適した場所だったのでしょう。



平成30年2月10日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版