むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

丸子城(長野県)

2018年12月31日 | 百名城以外の城
丸子城まるこじょう
別名飯盛城・依田城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所長野県上田市腰越 地図

1585年(天正13年)、丸子城主丸子三右衛門は真田昌幸の軍に属し
第一次神川合戦において徳川家康の軍と戦った「丸子表の戦い」の舞台となりました。
現在は公園として整備されていて、二の郭には櫓が復元されています。


丸子公園入口

この道路の向いにある公園の駐車場を利用して、遊具で遊ぶ子供たちを横目に公園から登城します。
ちなみに、グーグルマップで丸子城跡をセットすると真下の道路で終了してしまうので「丸子公園」を
入力して丸子公園から登城するのが良いです。


案内看板

ここで位置関係を確認します。
城址への直接の登城口は道金坂登口・辰ノ口登口・腰越登口があります。


自由広場

ルートは何本かあるようですが、今回は目の前の山道を登ります。



細くて落ち葉がいっぱいの滑りやすい道です。
お気をつけあれ。



芝生広場側から登る道に合流します。
案内看板に従って更に登って行きます。



あずまやが見えて来ました。


あずまや

点々とあずまやがあります。



まだまだ登ります。
日影の道は霜が降りたまま融けることなく下から冷たい風が吹いて来ます。
顔や手が冷たくなってきました。



南側の日当たりの良い道は少し暖かい気がします。



櫓が見えて来ました!


櫓と案内看板

二の丸に聳える黒い櫓。
青空に映えます。
ここで、若い女性二人が映え~な感じで撮影してました。
歴女?と思い挨拶してみたものの返事はなく、主郭へ行くことなく帰って行きました。
良いロケーションではあるので、歴史には興味の無いただただ撮影に来た人だったのでしょう。


櫓内部

完全木造です。


櫓からの眺望

眼下は丸子の町、奥の方は上田の町が望めます。
砥石城からの眺めにも似てると思いませんか?


二の郭

櫓から見下した二の郭です。
全体的にこじんまりしていますが眺望は抜群の場所なので物見櫓を造るには最適な場所だったのでしょう。



ここから本郭の下までゴツゴツとした横道が続きます。
ここで転ぶと超痛いと思われますので凸凹に引っかからないように注意して歩きましょう。



ゴツゴツした道を抜けると、また普通の山道になります。
すると、正面に主郭がある山が迫って来ます。



主郭のある山は少し傾斜がきつくなります。


堀切の案内看板

堀切を渡るために橋が架かっています。
橋の上からは竪堀が見えます。


堀切

風化とともに浅くなってしまっていますが目視では、
はっきりと竪堀が下に延びているのが確認出来ます。



ここを登り上げると…あとひといきで主郭です。


主郭虎口

見えました!主郭です



縄張図を見ると、この大きな石の先にも延びる尾根道があるはずなのですが危険なのか
行くことは出来そうにありません。
どうなってるのか興味もありますが、踏み外して落ちたら…怖そう。


矢竹

戦いのためには数多くの矢が必要だったため、戦国時代には
このように城内に節間の長い竹を植えて戦闘に備えていました。
今はだいぶ丈が短い竹が生えています。


井戸

この井戸は湧水ではなく、石と石の間に粘土を詰めて雨水を溜める溜井戸です。
落ち葉で判りにくいですが地面が少し窪んでいます。


案内看板

丸子合戦(丸子表の戦い)の内容が記された看板です。
実戦に使われた城跡として伝えています。


丸子城跡本郭縄張図

主郭だけでもこれだけの規模の要塞であったことがわかります。
幾つもの段郭と、竪堀や堀切を匠に組み合わせて造られています。


丸子三左衛門城跡碑

これ、後ろ向きです^^;
登って来た方向向いてなかったんです。
もちろん廻り込んで確認はしたのですが、正面から写真を撮るのを忘れてしまいました。



良い天気、良い眺めなのでここでしばし休憩。
冷えた身体を日向ぼっこで温めました。


眺望

真ん中の小さな山を挟んで左の谷が長和町で右側が武石です。
ここに来る前に長和町の長窪城から来たので、ここから眺めていたら、
私がここに向って来るのが見えたんだろうなあ。



東の方を見ています。
帰りは目の前の谷を立科経由で佐久へと抜けて行こうと思います。
それにしても山々がきれいです。



主郭から見下すと下に段郭と案内看板が見えます。
後で行ってみることにしましょう。



南側の尾根にも郭や堀切が見られますが今回はそちらには降りずに
引き返すことにします。



主郭南側から引き返して来ました。
では、最後に段郭をみてから帰ろうと思います。


段郭

いわゆる腰郭や帯郭なのですが、そのような郭が段状になって形成されています。



段郭はまだまだ下に続きます。
そして腰越口まで道は続いていますが、ここで引き返して帰ることにします。



鳥居のあるところまで下って来ました。
あとは駐車場に戻るのみ。


2年前に152号線沿いのコンビニに寄った時、ふと山の上に櫓があるのが見えて
調べてみたら「丸子城」であることを知り、それ以来ずっと訪ねてみたかった城址です。
しかし、登るのに結構キツイとかガレ場で危険みたいなことを口コミで見たので
体力のある時に挑戦しようと思っていたら2年も経っていました。
確かに少々角度がキツイ所がありますが、公園化している場所なので思っていたより
ハードではありませんでした。
石がゴツゴツ露出した道も画像のような路面ですので、言葉よりこんなところですよと
画像で伝える方が判りやすいのかなと思いました。
案ずるより…な独り登城となりました。


平成30年12月15日登城



[新装版]戦国武田の城
中田 正光
洋泉社

伊奈氏陣屋

2018年12月27日 | 陣屋・館
伊奈氏陣屋いなしじんや
別名伊奈城・伊奈氏屋敷・小室陣屋
構造陣屋
築城者伊奈忠次
築城年代1591年(天正19年)
指定史跡県指定史跡
場所北足立郡伊奈町小室217-5 地図

中世以来、後北条氏家臣で岩付城主太田氏の支配下にあり
名刹無量寺閼伽井坊の屋敷があった場所です。
伊奈氏は信州伊那の出身で、伊奈忠次の祖父忠基の時代には三河の小島城主として
勢力を伸ばしていました。
伊奈忠次の時代には徳川家康の関東入国に伴い武州小室・鴻巣領を与えられ、
1591年(天正19年)閼伽井坊を倉田明星院に移してこの地を陣屋としました。


案内看板

表門跡と二の丸跡の間の道路の二の丸側に設置されている案内看板です。


二の丸

もう太陽が隠れる寸前です。
どこまで写真に納められるかわかりませんがいざ出陣!
ここが本丸かと思うよな場所だったのですが、縄張図によると二の丸です。


城址碑と案内看板

二の丸に設置された城址碑と案内看板。


伊奈氏居館跡碑

残念ながら私には難しくて読めません


パンフレット

ここにはパンフレット(伊奈氏屋敷跡散策路マップ)も用意されています。ありがたや。



少し小高くなった場所も含め、二の丸跡はかなり広い。
しかし、この土盛は現代のもので土塁などの遺構ではないらしい。


土塁

軍事的な様子が見られる折れ曲った道と土塁。(こちらは本物の遺構です)
城下町で見られるような道の折れです。
このように、民家の敷地内に残る遺構があちこちで見られるので
勝手に敷地内に入らぬよう注意が必要です。



400年以上も変わらない道。
古地図と見比べると道の曲がり角など一致するので昔のままなんですね。



竹林に虎口があるので中を覗いてみると、拓けた場所に神社らしき建物が見えます。
しかし、鳥居が無いので神社ではないのかな?


陣屋跡

木々を切って整備されたばかりのように見えます。
トイレまで完備されています。


頭殿権現社

1458年(長禄2年)頃に太田道灌が頭殿社として勧請したといわれます。
後に、それを伊奈忠次が陣屋の守護神としました。
1616年(元和2年)以降になると徳川家康を祀るための権現社を勧請したといわれます。


案内看板

この地には「権現様の森の大蛇」、「丸山沼の大蛇」、「龍蒔絵書き」と呼ばれる
伝承があるそうです。
いずれにしてもここには大蛇が住んでいたようですね。



周囲を堀が囲んでいるのがわかります。



この辺りが本丸付近であることがわかりますが、実際のところ
本丸の境目は解明されていないようです。
それでも、これだけはっきりわかる堀が造られているところを見ると
とても重要な曲輪であることが感じられます。


蔵屋敷跡

この奥に堀と土塁があるので行ってみたいと思います。
行く手は既に暗いです。
ま、住宅地なので大丈夫!と自分に言い聞かせ、林の中へ。
ちなみに、この散策路入口にもパンフレットがありました。
ありがたいことです。



この時間、林の中に入ると真っ暗です。
暗がりの中に凄く良い土塁が見えて来ました。



堀底を歩き、高さのある土塁と木々で真っ暗です。
明るかったら凄いんだろうなあ。



平成29年より「忠次プロジェクト」の一環として散策路が整備され
地元住民をはじめ有志の方々で木や竹のチップを使い整備されたそうです。
おかげで暗闇の中でも小走りに歩くことが出来ました。


出口

出口が見えて来ました。
ここまで来ると明るく足元が見えて来ました。
それにしてもなかなか良い高さのある土塁でした。



とりあえず明るい所に出て来ました。
土塁のトンネルのようでした。ホッ。
次は裏門跡へ向かうことにしました。


堀跡

裏門跡より東側にある堀と土塁です。
暗くて良く見えませんがわりと立派そうに見えるので明るい時に見てみたい感じです。


裏門跡

補正をかけてなんとか明るい画像ですが、実際は電燈が点くような暗さです。
幸い隣の敷地が丸山駅なので明るい場所でもあります。
そして、新幹線も通過します。
きっと車窓から見えるのではないでしょうか。


案内看板

伊奈忠次PR映像配信中!というバーコードが貼られています。


伊奈忠次PR映像

このバーコードで郷土資料館や役場住民課モニターで視られるものが
その場で視られます。
お試しあれ。判りやすくてなかなか良いですよ。


障子堀跡

北条方の影響を受けて、発掘調査ではここから障子堀の遺構が発見されています。
現在は埋め戻されていて障子堀跡を目にすることは出来ません。



丸山駅から裏門跡まで隣接しているので看板を辿れば駅からすぐという距離です。






出張帰りに寄ったので既に日が暮れて補正かけても暗い画像のものもありますが御勘弁を。

さて、わたくし伊那市出身なもので伊奈というのが一字違いであまり気に食わなかったのですが
伊奈氏が伊那出身だったことを今更ながら知り、考えを改めさせていただきました。
親しみが湧いたので今度はもっと深堀して調べてみたくなりました。



平成30年12月19日訪問


城 2019年 カレンダー 壁掛け SB-3 (使用サイズ 594x420mm) 風景
写真工房カレンダー
写真工房

長窪城(長野県)

2018年12月25日 | 百名城以外の城
長窪城ながくぼじょう
別名深山城・霞尾城・霞の尾城深山城
構造山城
築城者大井氏または芦田氏
築城年代1400年(応永年間)
指定史跡町指定文化財
場所小県郡長和町古町 地図

佐久岩村田大井の庄、大井氏の親類衆が長くこの地を支配し長窪氏を名乗って治めていたが、
天文12年9月、甲斐の武田信玄に攻められ以後武田氏の北信濃の進出のための重要拠点となりました。
天正10年、武田氏が滅亡すると真田昌幸の領地となり配下の武士を上田城に集めたことなどにより
長窪城は廃城となった。



国道254号線からの入口

ここから約600m先に城の入口があります。



すれ違いの出来ない細い道なのでまさかの対向車に注意!(避けあう場所も無い)


身延山

長窪城搦め手入口右手前の林の中をよ~く見ると奥の方にあずまやが見えます。
物見に使っていた場所なのでしょうか。
ここを過ぎるとすぐに城址碑と案内看板が見えて来ます。


案内看板

駐車場は無いので車は道の端に寄せれば1~2台停められます。


長窪城祉の碑

城址入口に案内看板と長窪城址の碑があります。


搦手口

城址碑脇に延びる搦め手道。


搦手道

おいで、おいでと言わんばかりの真直ぐに延びる搦め手道。
しかし、その先は…


北の郭群

小ぶりな郭群と5条の堀切が待ち構えています。
そして早速目の前に堀切が。



まず一つ目の堀切です。



落ち葉がやや多いですが、歩きやすい道です。



二つ目の堀切です。



堀切は笹藪になってます。



三つ目の堀切堀切です。



四つ目の堀切と奥に五つ目の堀切が見えます。



五つ目の堀切です。



主郭が見えて来ました。


二の郭

主郭の手前に長窪城で最大の郭です。



主郭の北側に開けていて、眺めもよく下の館のあった場所から
北西隅にある竪堀を使って入城するルートもあるようです。


主郭

主郭にはあずまやがあり、眺めも良いです。
10メートル四方のこじんまりした主郭には、更に小ぶりな櫓台があります。


櫓台

こぶりながら、しっかり石垣も積まれた櫓台です。
ここから大内道や笠取峠などの監視や物見として機能していたものと推定出来ます。


礎石

真上から見るとちゃんと礎石があることも確認出来ます。
このことから櫓があったとされ、芦田氏の防御施設としての
役割を担っていたと考えられます。


眺望

長和の町が眼下に見えます。
真下には城館などが置かれ、城は物見を重点に防御施設としては
必要最小限の規模で築かれていました。


止山

きのこシーズンには立ち入り禁止となると聞いていたので冬を待っての登城となりました。


大手道

主郭南側の虎口です。
ここを下ると南の郭、馬屋跡、大手口へと大手道が続きます。


堀切と土橋

南の郭と主郭を仕切る堀切があります。
主郭から大手道を下って振り返ったところです。
土橋で往来が出来るようになっています。


南一の郭

主郭と南の郭の間の斜面にある帯郭のような郭です。
岩がゴツゴツ剥き出していてちょっと勇ましい感じの狭い郭です。




岩の上には石祠があります。
近くまで行きお賽銭を置いてお参りしました。


南二の郭

少し平場になっている郭です。
二の丸の次に広い郭だと思うのですが二の丸と同じくらいの広さに感じられます。


南三の郭

ほぼ尾根先になります。
木が無ければここかも一望できたことでしょう。



大手道はづづく…。
下に降りると馬屋跡と大手口に出るようですが、
往復するが躊躇われ、今回はここまでとします^^;


以前松本城へ行こうと254号線を走っていたら、入口の看板をみつけ城址碑のところまで
見に行きました。
その時は夏場で木々も生い茂り、藪蚊に襲われたのでそそくさと退散しました。
当時は山城の独り歩きはまだ怖いと思っていた初心者だったので、勇気が無く藪への突入は出来ませんでした。
冬になったら主人を連れて訪れようなんて思っているうちに2年が経ってしまいました。
結局仕事の都合で私独りの登城となったのですが、2年前とは違って
独りでもぜんぜん平気で歩きまわっていました。
進歩したもんだ。
と自分を褒めてやろうとおもったのですが、周囲は生活音も聞こえる人里で
山城と言っても高低差もさほどでもなく初心者向きの整備された城址でした。
とんだビビりでした^^;


平成28年7月2日登城
平成30年12月15日再登城


参考書
甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館

お城EXPO2018

2018年12月23日 | イベント・行事
今年もお城EXPO2018初日に行って来ました!


今年で3回目となり、だいぶ来慣れました。
そして今年も福山雅治のライブといっしょです^^;



朝6時前に家を出て9時45分頃到着すると、既に行列が出来ていました。
しかし、今年は天気はいまいちですがとても暖かく並んでいても寒さは気になりませんでした。



今年は外にキッチンカ―も出ています。



開場前に、並んでいる我々に武将やゆるキャラがお出迎え。



入場まもなくまずは1Fお城の本屋さんへ行き、毎年1冊お城EXPOで宮坂武男氏の縄張り図を
買うことにしてるので1冊キープしてから3Fの観光情報ゾーンへ。
もちろん、目指すは明石城!



本来現地へ行かないと入手出来ない攻城団グッズをゲット出来ました!
これぞ、お城EXPOだからこその利点です(^_-)



今年は買えました崎陽軒のお弁当。
毎年お昼ご飯をどうするのかで困っていたので今年は早めに買いました。
そして早速早弁していると、厳選プログラムの時間5分前に気が付き慌てて撤収して
1Fのメインホールへダッシュ!!



その後は攻城団団員さんたちを探しながら練り歩き、暦食パネル脇に団員さんたちが
集まり出し多くの方に会うことが出来ました。


最後にアンケートを書いて来る甲斐があって、来るたびに食事やトイレの渋滞が
緩和されていて3回目にしてこれだけの改善がみられるとは
運営の努力が素晴らしいと思いました。
但し、厳選プログラムのチケット確認のおねえさんの認識不足には教育の改善ありです。
ワンデイのチケットなのに入れてもらえずチケット売り場で確認して来て下さいと門前払いに
あったのには驚きました。
私の方がチケット買い間違えたのかと思うほどの主張されたもので…。
初日だから仕方ないかとも思ったのですがわからなかったら、近くのスタッフに聞いてほしかったなあ。
結果、別のスタッフに確認して入れてもらいました。

23、24日とまだまだ続きますのでこれからお出掛けになる方、
楽しんで来て下さいね。



平成30年12月22日

苗木城(岐阜県)

2018年12月21日 | 続百名城
苗木城なえぎじょう
別名霞ヶ城・赤壁城・高森城
構造山城
築城者遠山一雲入道昌利
築城年代1526年
指定史跡国指定史跡
場所中津川市苗木 地図
スタンプ設置場所中津川市苗木遠山史料館(午前9時30分から午後5時まで※入館は午後4時30分まで)
御城印遠山史料館
城郭検定出題あり

天然の水堀である木曽川と岩盤が剥き出しの立地に構えた苗木城は竪固な山城です。
建物も岩の上に懸け造りで構築し、独特な築城をしています。
良質な自然石を活かし多くの石垣を築き、そのままの巨石をも石垣として利用しています。


苗木城への道

この日は夜明け間近の国道19号線を走っていると、だんだん明るくなるにつれ靄がかかり
霧で見通しが悪くなってきました。
もしや雲海が見えるかも!なんてちょっと期待して案内看板通りに苗木城を目指しました。


大手門跡

苗木城の正門です。


四十八曲り入口

ここから四十八曲りを通って竹門の手前で右に曲がり北門から城内へと至ります。
しかし今回は更に先に進み、苗木遠山資料館へ側の竹門跡手前の駐車場まで車で行っちゃいます


駐車場

AM7:00前なのに、既に車が数台停まっています。
これは直ぐに満車になってしまいそうな予感…。
早く来て良かった



駐車場からすぐのところに竹門があります。
もう、このあたりからワクワクが止まりません。


竹門跡

早々に石垣がお出迎えです。


足軽長屋跡

なんと、ここから主郭が見えるのでカメラポイントになっています。
日出と共に写そうとカメラをセットしている人たちが居ました。
この曲輪の奥には城主の祈祷所でもあった龍王院跡が残っています。


パンフレットボックス

ありがたいことに、ここにパンフレットの入ったボックスがあります。
ここでパンフレットを入手して散策ルートを決めて進みます。



石垣が至る所に使用されていて、その積み方も一貫しておらず、様々な積み方が見られます。



左の道へ進むと大矢倉跡へ。
右の道へ進むと二の丸方面へ向かいます。


大門下

正面は石垣が法螺貝のように巻いているように見え、左側もこの写真では見えないのですが
堀のように深くなっていたり、石垣の壁があったりで迫力あります。


二の丸跡

この建物跡は遠山家の住居があった場所で、
懸け造りの建物には家臣が集まる部屋もありました。
ここではまだそれほど高い位置ではないですが、それでも眺めの良い屋敷であった
ことは間違いないでしょう。


台所門跡

ここから下の二の丸は領主の居住区とあって生活感のある名前の付いた門ですね。
ここからはクネクネと門を突破しながら天守目指します。


御朱印蔵

石垣の上に御朱印蔵が建っていました。
御朱印蔵は、領地目録や将軍家の朱印状などを納めておく宝物庫です。
出入りや管理は厳重で、必要に応じて梯子を掛けるようになっており普段は
御朱印蔵に登ることが出来ないようになっていました。
石垣もノミを使って加工した整合積みになっていて、足を掛ける隙間もありません。


綿蔵門跡

本丸への道を遮断するように建てられた門で、夕方4時以降は閉められてしまいます。
この門の二階には年貢として納められた真綿が納められていたことから「綿蔵門」と呼ばれています。


坂下門跡

坂の下に造られたことから坂下門と呼ばれています。
苗木城改修の際、徳川家譜代の久世家で三代領主友貞の奥方の実家である
久世家が力添えしたことから別名「久世門」とも呼ばれていました。


菱櫓門跡

天守にたどり着くまでにはいくつもの門が待ち構えています。



早く展望台にたどり着きたいと思いつつ、振り返るとこの景色。
途中で足が止まってしまいます。


野面石乱層積み

大きさの違う自然石を積み上げた石積み方法としては比較的初期の積み方です。
天守台が真上に見えて来ました。あともう一息です。


玄関口門跡

この門の先は天守へ続く道で、土廊下の建物とその先には小屋がありました。
通常は鍵が掛けられおり、鍵は目付役が管理していました。


玄関跡

玄関は天守より一段下にあり、多くの玉石が敷かれていました。
千畳敷きがあったとされ、千畳敷通って回り込んで天守台に入りました。
千畳敷と聞くと広いスペースがあるというイメージがあるのですが辺りを見回しても
そのようなスペースが無いと思ったら、懸け造りになっていたのですね。



眼下には三の丸が見えます。
大矢倉の石垣全体が上から見下せて石垣の造りの見事さ、美しさで感動です。



本来は懸け造りの千畳敷きを通り廻り込んで天守に辿り着くのですが
現在はこのような階段が取り付けられ最短で天守展望台まで行けるようになっています。


天守展望台

二つの巨石にまたがる形で三層の苗木城天守が建てられていました。
この展望台は天守3階部分を復元したもので、巨石の柱穴に合わせて柱が組まれています。


柱穴

このような柱穴は天守だけでなくあちこちの岩にあり、
そこには建物があったことを物語っています。


雲海

この日は最高に美しいものを見せて頂きました!


日の出

雲海とともに日の出です。
少し寒いので温かい飲み物でも持参して登ればよかったなあと後悔。
ずっと眺めていたいけど、日が昇れば今度は雲海は消えて行きます。


展望台からの眺望

ここからの眺望は最高です。
この眺めを独り占めしただけで天下を取った気分になっちゃいます^^;


懸け造りと石垣

この大岩と石垣と懸け造りのコラボが見られる面白い部分です。
「ここまでするかあ」と感心します。


馬洗岩跡

かつて敵に水の手を切られた祭、この巨石の上に馬を乗せ
米で馬を洗って水が豊富にあるかのようにアピールし、敵を欺いたことから
この巨石は「馬洗岩」と呼ばれるようになりました。
しかし、よくこんな巨石に馬を乗せられたなあ。
そっちの方が驚くよ



この岩と岩の奥に懸け造りの千畳敷があったと思われます。
ちょっと覗いてみると、岩には柱穴があるので建物があったことがわかります。



馬洗岩の南東下にある小さな曲輪。
ここには石碑(歌碑?)があります。
たて掛けてある板には石碑に刻まれている文字が写してあります。



馬洗岩と天守の石垣の間を抜けて二の丸方面へ向かいます。
大きな岩と石垣の間の道の雰囲気が圧迫感を感じつつも良い雰囲気です。


笠置矢倉跡

正面に笠置山が見えることから「笠置矢倉」と名付けられています。
常時何も置かれていなかったそうです。


謎の宝箱

謎の宝箱発見!
何が入っているのか、ちょっと開けたくなりません?
入っていたのは…
うふふ…ナイショです
※何かのイベントで使った忘れ物でしょうか。

武器蔵跡

別名「八間蔵」とも呼ばれた土蔵です。
遠山家が所持していた鉄砲や弓などの武器を納めていた蔵です。


具足蔵跡

武器蔵に並んで隣にあるのは具足蔵です。
具足や旗が収納されていたことから、別名「旗蔵」とも呼ばれていました。


野面石乱層積み石垣

大きさの違う自然石を積み上げたもので苔も生えて
苗木城では比較的古い石垣のようです。


千石井戸跡

天守石垣の下にある井戸です。
千人の用を達するということから「千石井戸」と名付けられました。
ここから東側に廻り込んで懸け造りの建物「渋紙蔵」「山方蔵」「郡方蔵」と建ち並んでいました。



井戸の中を覗いてみると…今でも水が湧き出ています。
小ぶりながらしっかり水を湛えています。


本丸石垣

的場跡から見た本丸石垣も見事です!


的場跡(本丸)

苗木城の中には的場が二か所あります。
また、苗木藩の的場跡は城外にもあり、弓や火縄銃の訓練が
日頃いっぱいされていたんだなあ。(それだけ物騒だったのか)


仕切門跡

二の丸と本丸を仕切るための門です。
この門は屋根付きの建物で、右側には物置として使われた小屋も付いていました。


帯郭

この段々を使って敵の侵入を防いでいたのでしょうか。
きれいな石積みと思ってしまう平和ボケしている私は、この石積みと巨石のコラボが
すごく素敵な場所だなあと気に入りました。


木曽物見跡

木曽川に面した崖の上には物見のための二階建ての矢倉が建っていました。
中津川の城下の町を見渡せるようになっており、木曽川を往来する船の様子も
ここから監視していました。


木曽川

日が昇り雲海が晴れて、木曽川がよく見えるようになるとこのように真下に木曽川が見えます。


須磨明石

名前が付いている大きな岩ですが、いわれはわかりません。



この辺りの巨石には崩れないように小石が挟んであるのを目にします。
こんな大きな岩をこんな小さな石で支え切れるの?と疑問に思ったりもしますが
これも先人の知恵なのでしょうか。
でも、大地震が来たら…どうなることやら…。





八大龍王大神

遠山家の守り神で、明治時代にこの地に祀られるようになりました。
また、水神様としても崇拝されているということで清水が湧くこの地に祀られているのですね。



凄い岩~と上を見上げると…あ、ハチの巣!!
こちらもデカイ


清水門跡

大岩の下から今でも湧き出ている清水。
こらが清水門の由来ですね。


不明門跡

普段は閉められており、忍びの門であると伝わります。
ここからの道は途切れていて外に繋がる道は確認されていないという妙な門です。
私もちょっと先を覗いてみたのですが下に続く道があるのかないのか???


的場跡(二の丸)

こちらの的場は領主居間の一段下に配されていて、
弓だけでなく剣、槍、鉄砲の稽古も行なわれていました。
奥のこんもりした土盛が的とされていて、石垣以外の場所には土塀で囲っていました。


大門跡

そして二の丸を過ぎて三の丸へ。
ここは二の丸と三の丸を仕切るための苗木城で一番大きな門があったとされる場所です。
平時は扉が閉まっていて、脇にある潜戸を利用していました。


城址碑

本来竹門から風吹門を通り大門を通って天守を目指すので、大門の前に城址碑が設置されています。
私は最初ここを通らずに天守まで行ってしまったのでここに城址碑があったことに
お昼頃になって、気が付きました^^;
そして、ここに着いた頃には大勢の観光客が押し寄せて来ていました。
海外からのお客様もかなりいて、ここが山城とは思えないほどの賑わいでした。


牢屋跡

苗木城の唯一の牢屋で、日の当らない大きな岩の上に造られていて
建物も狭いものでした。
明治初期の苗木藩の政争の際には多くの上層武士たちがここに収監され処断されています。


埋門跡

駈門跡の脇、牢屋跡へと抜けられる小さな門に見えます。


駈門跡
左の石垣は材木蔵跡です。
駈門跡とされている所も見取図を見ると駈ノ間とされています。
復元模型を見てみると門と言うよりは建物の中に入って行くような感じです。


四十八曲り

この先の竹門をから下って行くと最初に見た大手門跡にある四十八曲りの入口に出るはずです。
下と上と入口だけ覗いてみたのですが途中の道がどのようになっているのか
時間が許すのであればぜひ通ってみたい道です。


竹門跡

竹門は何故か苗木城には二ヶ所あります。
竹で出来た門であったことから竹門と呼ばれ、この門には門番がいませんでした。


大矢倉門跡

御鳩小屋とも呼ばれていた三階建ての矢倉です。
外観は二階建てのように見え、石垣に囲まれた穴蔵部分は物置とし、
二階、三階には矢狭間が設けられ防御の機能も果たしていました。
お昼近い時間になって来ると、他人が写らない様に写真撮影をするのが難しくなってきました。


北門跡

風吹門から見て北側にあったことから北門と呼ばれています。
ここから北へ行くと現在は苗木さくら公園となっている
かつての家臣屋敷群に通じています。




雨水を溜めた貯水池で、馬の飲み水に使用されていました。


風吹門跡

城下から三の丸に入る重要な門で、大手門の役割をしていました。
門の南側には門番所が併設されており、昼夜を問わず通行の監視を行っていました。
門の二階は「飼葉蔵」となっていました。


これにて苗木城をあとに、次は「苗木遠山資料館」へ行ってみたいと思います。


苗木遠山資料館

こちらには移築保存されている風吹門が展示されているということで
現物を見にやって来ました。


スタンプ設置場所

日本続100名城のスタンプはこちら。
スタンプも苗木遠山資料館へやって来た目的のひとつです。


パンフレット

攻城団のパンフレットもあります。
こちらも忘れずにゲット!


風吹門

大泉寺に移築保存されていた風吹門です。
大泉寺は、江戸時代中頃までは宿場の中心地にあったのですが火災により
現在の地に移り再建しました。
再建には苗木城の古材が使用され、風吹門を譲り受けました。


苗木城復元模型

この模型は幕末頃に描かれた絵図を基に制作されたものです。
巨岩と石垣と建物の複雑な組み合わせの全体の様子が観察出来る
立体的な資料です。



大名墓地・家臣団墓地

苗木遠山資料館から更に下って苗木公園入口付近に大名の墓地があります。
つまり、苗木城に登城する前にこの墓地を通過することになります。


苗木遠山廟所

ここは江戸時代の大名遠山家と家臣の墓地です。
苗木藩は一万石の小藩だったため、国替えもなく明治維新を迎えました。
そのため墓地もそのまま変わることなくこの地にあります。


苗木藩士安田太左衛門殉死の跡

苗木城主五代遠山友由の側近として仕えた安田太左衛門は、
29歳の若さで殉死した友由の墓前であるこの地の巨岩の上で殉死しました。



安田太左衛門は、遠山友由のことを思いながらこの岩の上で
忠誠心と責任感の強さゆえに禁じられていた殉死をしたそうです。


苗木道(飛騨街道)

対岸からの苗木城を見よう!と中津商業高校のあるあたりにやって来ました。
ここには苗木道と云われる飛騨街道が通っています。
苗木道は中山道から分岐した脇街道で、現在は道路や住宅で分断されています。
かつては飛騨方面へ行くには設楽の森付近で木曽川を船で渡らなければなりませんでした。
その様子を苗木城の木曽物見から見ていたのかもしれません。


ここまで長らくお付き合いいただきありがとうございました。
とにかく感動的な城址でした。
雲海にも恵まれ初登城としてはこんなすばらしい歓迎にあっては虜にならずにいられません。
雲海が晴れた後も景色は最高!城域も見るところがいっぱいで何度でも通いたくなるようでした。
そして、伝えきれない見所がいっぱいあるのでぜひぜひ皆さんも、早朝から足を運んでみてください。

平成30年11月11日登城
平成30年12月2日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

笠取峠の松並木

2018年12月17日 | その他
笠取峠の松並木かさとりとうげのまつなみき
街道名中山道
場所北佐久郡立科町芦田 北佐久郡立科町芦田3797−2 地図

笠取峠の松並木は、1602年(慶長7年)に幕府が中仙道の整備の一環として
一里塚の設置とともに小諸藩に赤松数百本が下付され植樹され笠取峠の名所となりました。
1716年(享保元年)には中仙道から中山道へと街道名が改められました。


中山道

この道は江戸時代の街道のひとつ、中山道です。


案内看板

街道沿いに設置された案内看板。


松並木公園

こちらには松並木や街道が散策出来る駐車場が設けられています。
案内看板や石碑、トイレやあずまやがあります。


従是東小諸領の碑

この石碑は、小諸藩が領分境の東西に建てたうちの現在地より西に1.7kmにあったものを復刻し
この地に立てられています。
当時はこの石碑を境に西が幕府領であったとされています。


案内看板

駐車場に掲げられた案内看板。



右の建物がトイレ、奥にはあずまや、石碑や案内看板がありちょっとひとやすみするのに
調度いい感じです。


笠取峠の茶屋

芦田宿と長窪宿の間に笠取峠があり、煙たなびく浅間山が一望できる場所に
「小松屋」と称する茶屋がありました。


石碑

徳川時代末に描かれた峠の茶屋の絵図を表した石碑があります。


和宮東下の行列

仁考天皇の皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐため、中山道を通って江戸へ下りました。
京都から江戸へは大行列で、警備のための諸藩士や馬士等数万人があたり、
信州一円総出となり、その負担は大きいものでした。


あずまや

この日も松並木周辺を整備する地元の方々により
きれに清掃されていました。



水場でしょうか?
用途はわかりませんが見た感じは庭石のような存在ですかね。


並木道

現在総本数68本の樹齢が150~300年以上経た赤松が残っています。
昔はこんな良い道ではなかったのでしょうが風情があります。


歌碑

教育者、鉱物学者の保科百助の狂歌のようですが…私には読むことが出来ません^^;





道祖神

笠を持った旅人らしい、かわいらしい道祖神がありました。


この峠はよく通り、休憩場所としても利用する場所です。
以前にも一度紹介しようかと思って散策したことがあるのですが、そのままお蔵入りになっていました。
長窪から丸子へと出掛けた帰りに寄り道して新たに写真を撮り直しました。
ちょっと寄って休憩するには風情のある良い場所です。


平成30年12月15日訪問


中山道69次を歩く 究極の歩き方120(改訂版)
岸本 豊(中山道69次資料館長)
信濃毎日新聞社

小牧山城(愛知県)

2018年12月15日 | 続百名城
小牧山城こまきやまじょう
別名― 
構造山城
築城者織田信長
築城年代1563年(永禄6年)  
指定史跡国指定史跡
場所小牧市堀の内 地図
スタンプ設置場所小牧市歴史館
城郭検定出題あり

小牧山城は、1563年(永禄6年)織田信長によって小牧山に築城されました。
信長は美濃攻略のため清洲から移り、小牧山南麓に城下町を形成し4年後には稲葉山城を攻略。
岐阜と改称し小牧山から居城を移すしたことで、小牧山城は廃城となり小牧城下町は衰退していきました。
その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康は、小牧山城跡を改修し、陣城を築きましたが
戦の収束に伴い再び廃城となりました。


大手道

小牧市役所を横断する大手道を記された線。
役所の内外にこのラインを見ることが出来ます。


小牧市役所

小牧市役所内にも大手道のラインが引かれています。
平日職員に声を掛けると見せて頂けます。
こちらの職員さんはもとより、守衛さんまでも小牧城の歴史に詳しい。
さすが地元をあげて小牧山に力を入れているのが伝わります。


大手曲輪

以前訪れた時よりあちこち整備された様子が伺えます。
そしてまだまだ整備は続いています。


大手道

信長の最後に築いた安土城の大手道を想像させる、真直ぐ延びる大手道。


横堀と土塁

奇麗に整備された堀と土塁。
以前はここに市役所がありました。
市役所建設の際に、破壊されたものを市役所の移設に伴い再び整備して造り直しました。


尾張徳川家九代藩主徳川宗睦源明公墓碑

尾張藩中興の祖と言われた尾張徳川家第九代藩主徳川宗睦源明の墓碑を、
徳川家の菩提寺である建中寺(名古屋市東区)から小牧山に移設したものです。


曲輪

堀と土塁を上から見下すのに調度いい平場の曲輪です。


曲輪

ここを抜けて桜の馬場を見に行きたいと思います。


案内看板

桜の馬場前にある案内看板。
桜の馬場を過ぎて、再び大手道を進み小牧市歴史館の方へ向かいたいと思います!


桜の馬場

桜の馬場は公園に整備された際、「遊園地」とされ、遊具やトイレが設置されています。
現在は春のお花見シーズンには特例で火器の使用が許可されている場所で
桜を見ながら大変賑わう場所となっているようです。


小牧山稲荷神社

小牧には多くの狐の伝説がのこっており、その中でもここ小牧山のに住んでいたという「吉五郎伝説」が
寛永年間に創られ吉五郎親分とその仲間たちをめぐる物語が傑作だととか。


鳥居

吉五郎伝説によると、 徳川の世の小牧山は人の入れぬ山となり鬱蒼と茂る原生林の森と化しました。
狐狸の棲家となり、小牧山の狐と正眼寺の狸が化け比べをしたそうです。
天気雨の日は狐の嫁入りだとか、芝居見物に狐が現われたとか噂が広がりました。
その小牧山に住む狐の『伝説・老狐小牧山吉五郎』を小説風にまとめたものが、吉五郎伝説として残されています。
そして伝説の狐吉五郎が、この神社に祀られているそうです。



道は真直ぐ続いていますが、ここから大手道は右に折れて
屈曲した道を抜けて主郭を目指します。


虎口

虎口の、かつて土橋であったところから見ています。
以前訪れた時は、この辺りは木がうっそうとしていて暗くてじめっとした
イメージでしたが随分さっぱりしています。
とても見通しが良くなったのですが、この辺りが例の伐採して植樹したという問題になった場所ですね^^;

ちなみに城域内にはちゃんとこんな看板もたっているのですがね。


石垣

主郭下の石垣が見えて来ました。
ここもよく見えるようになってます。



随分すっきりしています。
転落石がごろごろと浮き彫りになってます。
しかも、小さな石ではなく大きいものが多いです。


転落石

主郭では、石垣から転落した石があちこちに見えます。
織田信長が小牧山城を築城した当時のまま残る石垣と、石垣から転落した石と区別できるように
プレートで表示されています。





主郭虎口

小牧市歴史館は、名古屋市在住の実業家である平松茂氏が
私財を投じて建設して小牧市に寄贈した模擬天守です。


入館案内

JAFの会員証を提示すると入館料金がお得になります。(団体料金で入れます)


小牧城(小牧市歴史館)

小牧城の外観は、京都にある西本願寺の「飛雲閣」がモデルとなって造られています。



以前訪れた時は、この場所に木製のテーブルとベンチがあり、休憩してお茶を飲んでまったりした
覚えがあります。
こちらも少し様子が変わったように思えます。


眺望

目の前の木が伐採されて名古屋方面の眺望だけでなく、真下の様子も見えるようになっていました。


御野立聖蹟

昭和天皇が昭和2年の陸軍特別大演習の視察に訪れた祭、休息されたのを記念して建立されました。


裏込石の仮置き場

発掘調査で出た裏込石が積まれています。
以前訪れた時は無造作に置いてあったのがきれいに積んであります。


主郭地区(曲輪003)

天守のある曲輪から少し下がった場所にある曲輪です。
ここには明治時代一時期県立公園になった祭、「創垂館」が建設され迎賓館として使用されていました。
土塁は削られ、残土は曲輪内に敷均され堀もこれにより当初より浅いものとなりました。


虎口

信長の時代にあった大手道からの虎口です。
天正期の小牧・長久手の戦いの際には土橋が封鎖されました。


西側曲輪地区

ここから搦手口方面に向かって幾つもの曲輪が段をなして形成しています。
しかし、時間がないのでこのまま搦手口へ向かわず、ここで大手道へ繋がる道へ折れます。


さくらの園

さくらの園と空堀の間の道を下って行きます。
こちらもわりと多めの曲輪です。



この道を抜けると真直ぐな大手道に出ることが出来ます。
時間が無いのでこの道を走って下山しました。



小牧市役所へと続く大手道の線を眺めて今回の城さんぽは終了です。


攻城団の団員総会前に続100名城のスタンプをゲットしに寄りました。
集合時間までにあまり時間がないので駆け足で登って行き、前回も入っていない小牧市歴史館に
入ろうとしたのですが、間に合いそうになかったので今回も断念。
名古屋城集合時間にピッタリに到着だったので小牧市歴史館に寄っていたら完全にアウトでした。
今回も城さんぽならぬ城ランニングになってしまいました^^;


平成27年5月5日登城
平成30年12月2日再登城



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公益財団法人 日本城郭協会
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飯田城(長野県)

2018年12月11日 | 百名城以外の城
飯田城いいだじょう
別名長姫城・三本杉城・六本杉城
構造平山城
築城者坂西氏
築城年代13世紀初期
指定史跡
場所飯田市追手町 地図
城郭検定出題あり

飯田城は、室町時代に飯田を治めていた豪族である坂西氏が山伏の修行場であったところに城を築きました。
戦国期には武田、織田、徳川、豊臣と侵攻、支配が繰り返され改修されました。
関ヶ原の戦い後は小笠原氏、脇坂氏を経て、堀氏が明治維新まで在城し、明治政府により
本丸の一部の石垣や櫓台、水の手御門の石垣、井戸跡、桜丸御門(赤門)を残し破却されました。



長姫神社

長姫神社があるこの地が飯田城本丸にあたる場所です。
かつては本丸御殿を中心に七軒の建家群で構成されていました。
大杉が生い茂り陰気で建物が大き過ぎ、城下町からも遠く堀氏中期以降公行事以外は
桜丸が使われていたと云われます。


浄水

この手水は隣接する飯田温泉「天空の城 三宣亭」本館からの寄贈で、
天空からの絶景を眺めながら浸かる天然温泉は、まさにお殿様・お姫様気分を満喫できます。
そして、ここから出ている水は、なんと温泉の手水なのです。


拝殿

堀家の御三霊を祀っています。


観耕亭碑

本丸内にある観耕亭碑は、1859年(安政6年)に建てられたもので、
飯田城主堀親義候は、文武の業に励み折を見ては城外に出て山水を賞することを楽としていた名君です。
しかし、外出すると働いている農民の邪魔になるので、城中に小亭を造り
そこより農民が農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだという内容が書かれた
賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべき「観耕亭記」が書かれた碑なのです。


二の丸大通り跡

長姫神社隣の二の丸にある美術博物館へやってきました。
ここは二の丸の大通りを再現しています。(若干位置はずれています)
かつては道の両脇に白壁の土壁が続き、各所に飯田藩重臣の屋敷の門がありました。
道幅は約5mで、北側に用水路(御用水)が作られていました。


二の丸水路跡

発掘調査で明らかになった御用水以外の用水路です。
いくつかみつかったうちのひとつです。


石組竪穴跡

壁側に河原石を積み、底に小石を敷いた正方形の竪穴で片側だけに中断があります。
江戸時代、屋敷の庭にあって洗い場として使用されていたようです。


井戸

発掘調査により、二の丸内には5つの井戸がみつかっています。
内側に石積みを築いたものです。
深さは判明していないものの、かなり深かったのではないかと考えられています。


小松の碑

この碑は、この地に屋敷を構えていた城代家老安富主計季記が小松の由来を記したものです。
季記は江戸に出府している文化11年の正月に、藩主の奥方から和歌一首と小松を賜り、
小松を江戸屋敷で仮植えし、飯田に帰る藩士に持ち帰らせ自宅に植えた松です。
ちなみにこの小松は5代目だそうです。


空堀跡

橋の下には本丸と二の丸を区切る空堀の跡があります。
飯田城の堀(水堀も)は明治以降ほとんどが埋められてしまい、現在はこの美術博物館と大手町小学校で
痕跡が見られるだけとなりました。


長姫のエドヒガン(安富桜)

この桜の木は飯田城藩主堀氏の家老安富氏の邸址近くにあったため
俗に「安富桜」と呼ばれています。



美術博物館をぐるっと一周して帰って来ました。
このように二の丸跡に建てられた美術博物館の周囲には遺構や再現されたものが
沢山見られるようになっています。


赤門

桜丸へやって来ました。
ここには桜丸御門、通称「赤門」があります。
1754年(宝暦4年)に造られた現存する門で、飯田の役所等で正門として使われて来ました。
そして飯田城で現在も建築当時と同じ位置にあるのは赤門だけです。


案内看板

城下町・旧跡散策マップです。
これを見ながら散策、水の手門の石垣を見に行ってみようと思います!



内側から見た赤門。
「赤門文庫」と掲げられた場所は書庫でもあるの?と思ったのですが「番所」でした。
門に番所が付いているとは


飯田城桜丸のイスノキ

この木は南の暖かい地方に自生する木で、北限を越えたこの地に生息するには
飯田城主ばかりでなく、地域の人々によっても大切に育てられた木なのです。
硬くて重い材は床・柱・机・櫛・そろばんの玉などに多用され
近世の大名庭園や御所などにうえられている木でもあります。


桜丸御殿址のヒガンザクラ

桜丸は飯田城本丸御殿の別棟として桜丸御殿があった場所です。
脇坂氏時代の庭園には多くの桜が植樹され、桜丸と呼ばれるようになりました。
この桜の木は1本のように見えて、江戸彼岸桜と枝垂れ桜が合体して1本になっているそうです。
確かに、左の枝は枝垂れていますが右の大木の方は普通の枝ぶりですね。
桜が咲いている時に見たら判りやすかったのかも。


水の手御門

二の丸と出丸の間にある水の手坂の途中に水の手御門がありました。
慶長6年小笠原氏が入城した際に拡張してこの門は搦手門として使われていました。
それ以前の京極氏入城の頃には大手門として使われていました。
現在は石垣のみが残されています。


遠景



旧飯田城の八間門

この櫓門は飯田城二の丸入口にあった門で、二の門とも呼ばれていました。
二階建て三間一戸の櫓門で、脇坂氏時代の絵図にも八間門の名で記されています。
1871年(明治4年)に木下家に払い下げられ移築されました。



一階の部分は文禄年間の築造と推定されています。
飯田城にあった時は一階の両側に石垣があり、枡形を形成していました。
柱を一度取り替え、扉口の幅を広げた痕跡が残っています。


石落し

二階の部分は江戸時代前期の建築と推定され、扉口より前面に張り出し、
厚板がはめられ石落しが設けられています。


飾り瓦

切妻造りで飾り瓦が載っています。
懸魚もあったようですが今は付いていません。


この日の目的地であった飯田城にやって来ました。
何十年ぶりに訪れたのだろう…。
運転免許を取って間もない頃は買い物や仕事で訪れたりしてたんですけど
記憶の中の飯田の街中とは違っていました。
苗木城から寄り道しながらの到着、日没近い時間だったので焦ってましたが
とにかく目的の赤門がやっと見られ念願叶いました。
いつでも行けると思っているところほどなかなか行かなかったりするんですよね^^;


平成30年11月11日登城


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス

第2回団員総会

2018年12月08日 | イベント・行事
第2回団員総会

第二回目となる攻城団団員総会に参加して来ました。
昨年は都合がつかず、記念すべき第1回に参加出来ず残念でした。
そして第2回も最初9月に開催予定だったのがラリーと重なり断念したのですが
団長さんの怪我のおかげ?で日程が変わり、参加出来るようになりました。


本丸御殿

まずは午前11時よりガイドツアー開始です!
今回は名古屋城のガイドさんの案内です。
しかし、参加人数も多くガイドさんの声は小さく…ほとんど何も聞こえませんでした(>_<)
攻城団のガイドツアーを経験していると、人数制限であったり、声が届くように機材を使うなど
考えられているんだなあとあらためて思うところがありました。


鷺之廊下

対面所から上洛殿への通路です。
彩色の彫刻欄間と、透かし彫りの花狭間格子欄間が見事です。
ここから先は3月に訪問した際に公開になっていなかった場所になります。
ちなみに、ここより前は以前紹介しているので省略させていただきます。以前のものが観たい方はこちら


上洛殿(三之間)

三之間の襖絵は狩野探幽作の「雪中梅竹鳥図」。
雪中梅竹鳥図の本物の襖絵は、空襲の祭に取り外されて避難したため焼失を免れることが出来ました。
しかし、現在ここにあるのは今回新たに復元模写されたものです。
本物との違いは梅の木に雉が描かれていることです。
本物にはしっぽしか描かれていません。(過去に雉の部分を切り取られているためだそうです)


欄間

絢爛豪華な彫刻欄間には圧巻です。


上洛殿(二之間)

「黒漆塗蒔絵付格天井」は一枚一枚に絵が描かれています。


上洛殿(一之間)

しかし、欄間が凄すぎる!
彫刻がだんだん飛び出して立体化して来ています。


上洛殿(上段之間)

最高級の部屋で手振れ?なのか金ピカ過ぎてピントが合わないのか
なかなか上手に撮れず四苦八苦しました。(それでもコレ^^;)


天井

「黒漆塗二重折上げ蒔絵付格天井」にも一枚一枚絵が描かれています。


動物、花鳥、人物、山水と入口から奥に行くに従って格式が高くなります。
迫力のある金ピカで豪華そうな虎の襖絵より、一見シンプルで豪華そうに見えない水墨画の方が
格式が高いんですね。
とは言え、やはり上洛殿の豪華さにはこれぞ名古屋!という感じがします。


金具

釘隠しも様々なデザインと豪華さが目を引きます。



釘隠しなのだが豪華な装飾品にしか見えず、釘が隠れているとは思えない飾り付けです。



天井にもまぶしいくらいの漆黒と金の装飾がされています。


梅之間

梅之間は、将軍をもてなす役割に任じられた尾張上級家臣の控えの間として
使われた部屋です。
これでも十分豪華な気がします。


黒木書院と湯殿書院の観覧は申し込みが必要だったんですね。
残念ながらこの日は観覧叶わず。


午前中は本丸御殿を堪能し、午後からは本来の目的の攻城団団員総会へ。



城にゃんこ

総会の集合時間までの間、内苑売店で軽く昼食を取っていると
現れた城にゃんこ。
どこの城でも見掛ける猫は毛艶も良く、野良猫のようではないのが多いです。
城に居れば美味しいものにありつけるかな。


そして時間になったのでお土産やさんの脇にある通路から本丸御殿の孔雀之間へ入れてもらいました。


孔雀之間

なんとここは本丸御殿の中にあります!
普段観光で来ても観覧できない場所になるので、これだけでも総会に参加した価値ありです


長い畳

この部屋には障壁画に孔雀が描かれていたことが由来ですが、
障壁画は失われていて、具体的な絵の構図等は不明です。
そして部屋の西側には3畳分の床があるのですが、ここにある畳は接ぎ目の無い1枚もので
かなり高価なものだそうです。
登ったり、座ったり、荷物を置いたりするのはNGです。


クイズ

グループ毎に挑んだ名古屋城クイズは城郭検定なみに難しかった。
実際城郭検定の準1級の問題に類似したものがあり、そこを間違えた私は…お恥ずかしい限りです。
頭に入っていないのか、抜けてしまうのか、来年こそは1級受かるのか…益々自信がなくなりました。


団員さんたちとの交流に夢中で総会中の写真を一枚も撮っていなかったことに
靴を履いてから気が付き、慌てて戻って写真を撮ったのが上の二枚の部屋の写真だけでした。^^;
ので、団員総会の模様は攻城団ホームページの攻城団ブログで見ることが出来ますので
見たい方はそちらをご覧くださいませ。


チケット

団員総会終了後、一旦城外に出て夜のイベントのためにチケット売り場へ。
夕方5時にはすでに行列が出来てました。
1時間並んで30分でチケットを買うことができ、6時に入城出来ました。



城内三ヶ所で投影しているプロジェクションマッピングを楽しみにやって来ました。
ひとつひとつはとても短い時間ですが、スタート時間直後はとにかく人だらけです。



一ヶ所目は、表二之門を入って正面の石垣に投影されています。


本丸御殿・車寄

二ヶ所目は、この玄関の奥が「虎之間」とあって、投影されているのは「竹林豹虎図」がモデルの虎です。
ここでは皆さん写真が撮りたく、前へ前へと押されて将棋倒しになるのではないかと心配でした。
この人垣から抜け出ることもままならず、人と人の間に挟まって身動きがとれませんでした。
結果、動けないので何回も見てしまいました^^;
人ごみにも慣れていないので正直、怖かったです



三ヶ所目は広かったので押し合いになることはなく落ち着いて見ることが出来ました。
その他にも二の丸エリアにて武将隊や忍者隊のショ―も行なわれていました。
チケットのお値段とはちょっと合わないかなと思いつつ今後の天守再建のために投資したと思って
今後を期待して、名古屋城を後にしました。



山ちゃん

夕飯はここ。
名古屋に来るとやっぱり手羽先が食べたくなります。
今まで何軒か食べてみたけど、やっぱり山ちゃんが安定の味かな。
この日も美味しくいただきました。
ちなみに名古屋城の中でも山ちゃんの手羽先が売っていたので、
そこでも食べたのですが食べ足りずにお店に来てしまいました^^;
おいしゅうございました


楽しい団員総会でした。
次回もぜひ参加したいと思います。


平成30年12月2日開催



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鈴岡城(長野県)

2018年12月04日 | 百名城以外の城
鈴岡城すずおかじょう
別名
構造平山城
築城者小笠原宗政
築城年代室町時代初期
指定史跡県指定史跡
場所飯田市駄科1729 地図

隣接する松尾城の支城として位置する鈴岡城。
信濃守護職を歴任した小笠原氏の城で松尾城・鈴岡城・松本城(深志城)と
小笠原一族の領地でしたが、分家した三家のうち隣り合っている松尾との内紛が
激しかったとされています。
武田氏の侵攻により落城、国境に接する下伊那では武田派と織田派に割れて
度々紛争が起こり、やがて衰退していきました。




第一駐車場からもこれだけの規模の堀切と土塁がお出迎えです。
公園到着とともに「おお~」と声が漏れてしまうような状況です。


鈴岡城址公園案内図

第一駐車場にある案内看板。
ここから更に進み、第四駐車場へ。


第四駐車場(矢場)

二の郭内にある第四駐車場に車を停めて散策開始。
ここにはトイレも完備されています。


矢場

多目的広場とされている矢場。
そして、この矢場はヤバい^^;


切岸

こんな切岸になっているから…



郭の周りは誰が見てもわかりやすい大きな規模の堀で囲まれています。


二の郭

広く平らな郭の奥に見える土塁が城址の名残のように見えます。
しかし、公園化しているのでどこまで遺構が残っているのかは定かではありません。


堀切(主郭と二の郭の間)

左が主郭、右側が二の郭、見事な堀切です。



この堀の奥は見ての通り切れた場所から下に落ちています。


主郭

周囲は堀や土塁に囲まれ、
ここにはかつて重要な建物があったと考えられています。


鈴岡公園碑

主郭にある鈴岡公園碑です。
ちなみに、この碑の書は府中小笠原家の後裔である唐津藩の伯爵小笠原長生氏の筆だそうです。
主郭は二段になっていてこの公園碑がある方が若干高くなっています。


ひょうたん池

うっかり踏み入ってしまいそうなひょうたん池は、池と言うほどの水は入っていません。
この池はかつて水の手として使われていたものなのか、公園化して造られたものなのかわかりません。
ただ、公園として造るとすればもう少し誰が見ても池と判るような人工的な造りであっても
良い気がしますが真相はいかに。


主郭からの眺望

眼下には小笠原家や家臣の屋敷があったとみられ、地名に土佐屋敷という場所が残されていたり
発掘調査によりお堂や建物跡などがみつかっています。
天竜川を挟んだ対岸には数多くの城址が見えます。
鈴岡と松尾の小笠原氏同士の争いに、それぞれ加担していたと思われす。
この図を見ると本当に城が多いのが伺い知れます。
それだけ戦の絶えない地であったことが想像出来ます。


堀切

主郭と出郭を隔て、二の郭を隔てる内堀と合流して
竪堀となり、毛賀沢川へと落ち込んでいます。
当時は更に深い堀であったと考えられています。


出郭

主郭の北側に位置する郭で、尾根の先端を堀切により切り離した郭で
三角形をしています。
ここにどんな建物があったかは解明されていません。



この道を更に進んで行くと松尾城に繋がっています。


展望台からの眺め

出郭から見た景色です。
左側が松尾城になります。
この距離にして睨み合っていたとなると、ほんと毎日が物騒で仕方ない状態だったでしょうね。


外郭(的場)

主郭、二の郭を抜けて第三駐車場へやってきました。
この郭は、二の郭より低く、主郭より高い位置にあることが特徴です。



土橋から見た堀は、少し浅めですが横に広いです。
当時はもっと深かったのかもしれません。


外郭(荒小屋)

目の前には堀と堀の間を通る土橋があり、現在の立位置が虎口となります。
右側にあるのが荒小屋と呼ばれる外郭があります。



外郭と二の郭を隔てる堀です。



堀と郭を隔てる様は、かなり大きな規模で浅くなったとはいえ
武田氏や北条氏を想像させる堀の規模は公園化してきれいに整備されている中でも
上から、底からと圧巻です。
合わせて松尾城も見たかったのですが時間切れで見に行くことは出来ませんでした。
次回は松尾城にも訪れて、鈴岡城を狙ってみたいものです。
しかし、この距離での睨み合いは居心地悪かっただろうなあ。


平成30年11月11日登城


参考書
長野の山城ベスト50を歩く
河西 克造,中井 均,三島 正之
サンライズ出版