むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

高田城(新潟県)

2018年04月30日 | 続百名城
高田城たかだじょう
別名高陽城・螺城・鮫ヶ城・関城
構造平城
築城者松平忠輝
築城年代1614年(慶長19年)
指定史跡県指定史跡
場所上越市本城町 地図
スタンプ設置場所高田公園内「小林古径邸受付管理棟」
御城印上越市立歴史博物館受付
城郭検定出題あり

1614年(慶長19年)に築城され、1870年(明治3年)に火災のため焼失しました。
上越市発足20周年記念事業として、平成5年に三重櫓が建設されました。
大坂冬の陣の直前で工事を急ぎ、わずか約4か月で竣工させたことや、石材が付近になく集める余裕がなかったことで
石垣の無い城であるのが高田城の特徴です。
徳川家康の六男松平忠輝の正室は伊達政宗の娘の五郎八姫です。
舅である伊達政宗が天下普請により高田城築城では総裁に就任しました。



案内看板

徳川家康の6男松平忠輝が越後の福島城に入り、その後高田城を築き福島城は廃城となります。
徳川家の葵御紋が入っている看板です。


高田城三重櫓管理棟

三重櫓の前には管理棟があります。
休憩をしたり、トイレもこちらにあります。



こちらの受付窓口で声を掛けると続・百名城のスタンプが借りられます。
スタンプは目につく場所には出ていないので必ず受付で声を掛けて下さい。
そして、三重櫓の入場券をここで買ってパンフレットもいらい、三重櫓へ。


土塁

石垣の代わりに高い土塁が造られています。


三重櫓

稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様で、
外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考にして建てられました。



外観は御殿風造りを基調とし、屋根は1層と3層が入母屋造りで、2層が寄棟形式で、
1層と3層に切妻屋根の出張りが付いています。


入口

いざ、入場です!
この日は高田城百万人観桜会で自衛隊のパレードが行われるということで外の方が賑やかで
三重櫓の方はとても空いていました。
おかげで高田城百万人観桜会の最中ながらゆっくり観て周れました。


下駄箱

靴を脱いで入城です。


展示室

展示室内での写真撮影はOKということです。
1、2階はこのように展示品が飾られています。


展望室

3階からは眺めを楽しみます。


上棟札

天井を見上げて探す上棟札。
ありました、平成4年9月と書いてあります。
翌年の平成5年に完成しています。


眺望





三重櫓の東側に付随して50mの塀も同時に再建されました。


本丸土塁

7年前には登ることが出来た土塁も、今はロープが張られここは立ち入り禁止になっています。
※この写真は7年前の写真です。


堀と噴水

公園と化した城址にある水堀には噴水が見られます。


西堀橋

西堀に架けられた赤い橋は「西堀橋」です。
戊辰戦争で困窮した藩の財政を立て直すためにレンコンを育て始めたのがはじまりで、
外堀にはハスが沢山植えられています。
ハスの花が咲く頃には東洋一と賞される美しい眺めだそうです。


二の丸土塁

明治なって高田城が廃城になると、陸軍第十三師団が入城し少しでも用地を広く使おうと土塁を壊し
堀は埋め立てられてしまいました。



現在、本丸以外の土塁はこれだけしか残っていません。



三重櫓の撮影ポイントとしてこちら側もお勧めです。
私の撮った写真は、水堀は奇麗ですが三重櫓が木に隠れてチラ見状態です(>_<)
もう少し右側から撮ると木にかからずに撮れますよ。


南堀

広い外堀です。
外堀は広い所で幅100メートル程にも及ぶそうです。
遠くの山の残雪がまた、良い仕事しています。
きれいな景色ですよね。


極楽橋

2002年に高田公園開園50周年記念として復元されました。


小林古径邸

小林古径記念美術館、東京都大田区南馬込にあった古民家「小林古径邸」も合わせて見学して来ました。
小林古径邸は、現存する吉田五十八の数寄屋建築の初期作品として日本建築史の上でも重要な建築物であり、
当時の文化人が好んだ数寄屋住宅例だそうです。
小林古径記念美術館では子供たちに絵を描く体験で楽しんで来ました。





二本公孫樹

このイチョウの木は「村上のイチョウ」といって高田藩当時の村上持監家の門前にあったといいます。



以前からもう一度行きたいと思っていたので、続・百名城になったことでまた訪れる機会が出来て念願叶ったりです。
しかし、この日はとても暑く、それでも何の予防もせず散策して歩いていたらかなり体温があがってしまっていたようです。
それ以上に、やはり7年ぶりだったので前回見ていなかった場所など散策したくて夢中でした。

攻城団の缶バッチをいっぱい付けていたので、缶バッチの収集をしているのかと思われ、管理棟で
「缶バッチあるよ!」と声を掛けて頂いたのですが、結局見て来ること無く帰って来てしまった。ごめんなさい。
「せっかく声を掛けてくれたんだから買ってくれば良かったのに」と旦那に叱られてしまいました。
今度行った時には必ず買いますね。


平成23年6月5日登城
平成30年4月21日再登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

鮫ヶ尾城(新潟県)

2018年04月27日 | 続百名城
鮫ヶ尾城さめがおじょう
別名宮内古城
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡国指定史跡
場所妙高市 地図
スタンプ設置場所斐太歴史の里総合案内所(4月中旬~11月中旬)
神の宮温泉かわら亭(12月~3月 9:00~21:30)
御城印斐太歴史の里総合案内所(4月初旬頃~11月末頃)・神の宮温泉 かわら亭フロント(11月末頃~3月末頃)

「御館の乱」決戦の地
上杉謙信没後、上杉家の家督の後継をめぐって、
謙信の養子である景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)との間で起こった越後のお家騒動が「御館の乱」です。
勝利したのは景勝。
そして負けた景虎は、ここ鮫ヶ尾城で自害し果てました。



駐車場

斐太神社横にある広めな駐車場。


通行止めのお知らせ

工事中の為、5月末まで北登城道が通行止めになっています。





古代住居

古代住居が復元されています。


案内看板



総合案内所

ここに続・百名城のスタンプがあります。
受付でパンフレットと鮫ヶ尾城跡の縄張り図をいただけます。
そして、受付にあるノ―トに署名して、いざ登城!



東登城道への近道。
総合案内所から常連の釣り客らしい男性の方が一緒にここまで案内して来て下さいました。
親切な人が多いのは、やはり越後の「義」ですかね。


宮内池

この先、池で釣りをしている人たちが居ます。
その脇に登城道があります。


標柱

標柱に従って登城道を進みます。
この辺りは池があるのと、湿気が多いので細かい虫が沢山飛んでいます。
虫よけがあると良いです。


東登城道合流地点

ここで東登城道と合流します。
本来、北登城道が通行止めでなければどこの登城道入口から入っても1周巡って来ることが出来ます。



ゆるい上り坂が続きます。


大堀切5

堀切がとても沢山あります。


堀切8

とにかく、堀切が沢山あります。


東一ノ丸

この場所は城の遺構の下から弥生時代の墳丘墓がみつかったそうです。
ということは、この山城は弥生時代の有力者の墓群だったところに
戦国時代の人々は城を築いたってことなんですね。



本丸が見えて来ました。
あと一息です!



山にはまだ雪が残っています。
涼しそうに見えて、とても暑い







あずまや

ここではそよ風が吹き、景色も良く1時間近く滞在しました。
あずまやの清掃が行き届いて屋外の建物なのに安心して利用させていただきました。
後に麓の住人のおばちゃんから総合案内の受付の女性が雪が降ってもかんじき履いて登城していると伺いました。
ブログで様子をお知らせしているそうです。
とにかく熱心にこの斐太の史跡を守っていらっしゃると話していました。


城址碑

城址碑の前にはお墓のようにお供物を供える石台のようなものがあり、お酒が供えられています。
城址碑というより慰霊碑のようです^^;


眺望

天気が良かったので眺めは最高!
霞が無ければ海まで見えるそうですが眼下には新幹線が見えてすばらしい景色が望めます。


米蔵

本丸北側には米蔵の曲輪があります。
この先、米蔵より北側は藪になっています。


カタクリの花

本丸と米蔵の間の堀切にはまだカタクリの花が咲いていました。
時期が過ぎてしまい、ほとんど枯れている中に見つけたカタクリの花。
見られてよかった(^^)


腰曲輪

北登城道へは行けないので、本丸下の腰曲輪を抜けて二ノ丸方面に向かいます。
そのまま大手口のある南登城道へ抜けてみようと思います。


二ノ丸

二ノ丸では発掘により建物跡や陶磁器などが発見されています。


大堀切1



三ノ丸

三ノ丸では発掘で炭化した「おにぎり」が出土しています。
ということで目を凝らして足元を炭化した米粒が落ちてないか探し始めました。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・みつかるわけもなく、断念。


井戸

井戸にはこんなにたっぷり水があります。
かなり山頂に近い場所なのに今もこんなに水が湛えられています。


虎口跡

当時は櫓門があったと推測されているそうです。



横矢掛けに適した腰曲輪のような曲輪が幾重にも折れ曲がった道に沿って築かれています。
写真ではわかりずらいのですが、これを上から、横から、と見ながら歩いていると武者振いします。
ここから何人くらいでこう狙って…なんて妄想しながら道を下りました(^^ゞ


登城口

南登城口に出ました。
こちら側から登る方が傾斜がキツイかな。



南登城道入口付近は、上を見上げるとわかるのですが高速道路があって工事車両が往来していそうな道です。

この先で近道をしようとして畑に迷い込んでしまいましたが、そこに居たおばちゃんがとても親切な方で
こんな迷惑な迷子のよそ者を歓迎して下さいました。
道案内をして下さり、しばしおしゃべりもして地元愛を感じる女性が多い土地柄に感じました。


東登城道

麓の住宅地を歩き、駐車場へ戻りたいと思います。
その途中に東登城道入口があります。
ここを登って行くと最初の宮内池側から登って来た道と合流します。



更に歩くと斐太神社の鳥居前に到着します。
車ではこの先の案内看板のところで左折すると駐車場へ辿り着きます。


斐太神社

徒歩なので境内を通って斐太神社へ寄り道です。
上杉謙信公の時代、鮫ヶ尾城築城の際この郷の守り神と定められ、長野県県境から上越市南部にかけて分布する
216社の総社として現在に続いています。

そしてお参りして駐車場に戻って鮫ヶ尾城の城さんぽは終了です。


山城なのに女性の多いこと!
普段山城で女性に会うことは珍しいのに、ここは圧倒的に女性に会う確立高いです。
どうやら景虎の悲劇をモチーフにした小説『炎のミラージュ』の影響により、多くのミラージュファンが鮫ヶ尾城跡を訪れているとの
話を総合案内所で伺いました。
ということで、先程も女性の方々が城址へ登って行かれましたよと伺い、登って行くと上からも下からも女性が!!
話声も賑やかで普段登るひっそりとした、出会ってもカモシカ?という山城とはまったく違った雰囲気のする山城です。
山城…キツイ???
普段より緩い登りにたまにキツイ登りといった山ですが、何故か登るのを断念しようかと思うほどの辛さ。
体重増えすぎた?とか運動不足過ぎるのか?とか思いながら、
「ここまで来たのに諦めるわけにはいかない」と
休み休みちょっとづつ進んでやっと本丸に到着。
本丸のあずまやではそよ風もあり、眺めも良かったので何とか体力復活。
しかし、こんなにキツイ山かなぁ????

ところが帰宅途中から頭痛もしだし、とうとうダウン。
どうやら鮫ヶ尾城の前に一人で行った高田城で熱中症になったようです。
まだ4月、周囲の山には雪が残り見た目には涼しい気がしていたのですが、
この日はとても暑く、服装と気温が合っていませんでした。
完全に油断していました。この時期、思わぬ熱中症に皆さんもお気をつけあれ。



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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三春城(福島県)

2018年04月25日 | 続百名城
三春城みはるじょう
別名舞鶴城
構造平山城
築城者田村氏
築城年代1504年
指定史跡町指定史跡
場所田村郡三春町大町 地図
スタンプ設置場所本丸(ボックス設置)
三春町歴史民俗資料館

田村氏居城の三春城は豊臣秀吉による奥州仕置で秋田氏の居城となり、明治維新まで続きました。
1785年(天明5年)の大火で城はほぼ全焼し、その後本丸には代々の将軍から頂いた朱印状を納めるための
三階櫓以外は再建されませんでした。
田村氏の一人娘の愛姫は伊達政宗の正室としてこの三春城から嫁いでいます。



城郭想定図

麓から城坂を登り番所の置かれていたあたりにこの看板があります。


二之門跡

ここまで車で城坂を来ましたが、大手道は三春小学校側を通るルートで大手門跡から、ここ二之門跡に出て来ます。
ここに駐車場があるのでここから歩いて三之門跡を通り、表門跡から本丸へ行くことが出来ます。



搦手門手前にもうひとつ駐車場があるのでそちらへ行ってみたいと思います。
それにはここをくの字に曲がります。(普通車以上は切り返しが必要です)


駐車場

本丸からは一番近い駐車場です。
切り返しが必要な道だからなのか、車は一台もありませんでした。
広いんですけどねえ。



駐車場からこの階段を登ると途中で搦手道に合流、裏門跡から本丸へ。


矢倉跡

矢倉跡まで登ってきました。
根元が腐ってしまったのか標柱が倒れています。


城址碑と案内看板

ここが搦手からの本丸への入口となります。
裏門があった場所でもあります。


二之丸跡(秋田氏時代)

田村氏時代はここが二之丸で、秋田氏時代では本丸(下段)とされました。


スタンプ設置箱

続・百名城のスタンプが入っているボックスです。
時間制限が無いので助かります。



中にはパンフレットも置いてあります。
ありがたや~。


あずまや

雨も日差しもこのあずまやで凌げます。
猪苗代では雨に降られたのですが、三春に着いた頃には幸いにも雨が降っていなかったので
あずまやの御厄介にはならずに済みました。


大門跡

下の二之門から登ると、三之門を抜け表門であるこの場所へ辿り着きます。
ここには表門の礎石が残ります。


大手道

歩きやすく整備もされていて、桜も満開で時間があれば下から順番に登って来たかった。
そしてまた搦め手からの登城となりました…意としてなかったんだがなあ。。。


三階櫓跡

天守に相当する三階櫓が築かれていました。
ここには代々の将軍から頂いた朱印状を納められていました。


眺望

三階櫓があった場所からの眺めです。
電線がちょっと邪魔なのですが、三春の町が見渡せます。
眼下には屋敷の跡地にある三春小学校が見えます。


長屋跡

長屋あったということで置かれている石でしょうか。


大広間跡

桜が満開で花見に調度良い場所でした。
日差しが無いので人もまばらで賑やかさはないものの、見ごろでラッキー


奥跡

本丸(上段)は石垣で一段高く造られていました。


秋田家祖先尊霊碑

天守台のような石垣の上には秋田家祖先尊霊の石碑が置かれています。


明治戊辰役三春藩烈士之碑

大山巳三郎・大関兵庫・不破関蔵・渡辺喜右衛門の慰霊碑です。
この藩士4名は列藩同盟に出向し、三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退したことが露見し殺害された四人です。


石垣

本丸(上段)の石垣は蒲生時代と伝わるもので裏門から左側を見上げると確認できます。
更に奥の方へ行くと角にも石垣が残っているようですがそこまで行かずに、本丸から見下して探してみたのですが
上からでは見ることはできませんでした。不精してはダメですね^^;
ちなみに、このあたりにあった石垣は明治7年に土地や建物、敷石や石垣の石まで売却されたそうです。


搦手門跡

搦手門跡を見て駐車場へ戻りました。
ざっくり急ぎ足で二之丸、本丸を散策してこの日は帰路につきました。



予定外に欲を出して猪苗代から三春まで足を延し、時間が無いので「スタンプだけね」と言われていたのに
ちゃっかり本丸まで行って来てしまいました。
かなり急ぎ足で巡ったので城主の生活の場は散策出来なかったので今度訪れた時は
麓の歴史民俗博物館といっしょに下から攻め上げたいと思います。


平成30年4月7日登城




 おぼえておこう!



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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鶴峰城(福島県)

2018年04月23日 | 百名城以外の城
鶴峰城つるみねじょう
別名弦峯城
構造丘城
築城者猪苗代氏
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡県指定史跡
場所耶麻郡猪苗代町鶴峰西 地図

鶴峰城は猪苗代氏代々の隠居城と伝わりますが、猪苗代城の分郭と考えられています。
猪苗代城と並立していて、猪苗代城は大きく改修されたのですが、鶴峰城は改修されることなく
手つかずの状態で戦国末期のままの遺構を見ることが出来ます。



亀ヶ城公園

ここに大きくないですが駐車スペースがあります。
猪苗代総合体育館の駐車場から大手口を登るかここから散策するか…私は搦手側からにしました。
どこ行っても何故か搦め手側から攻城してしまいます。
意識はしてないんですけどね。


散策路

ここは大手道でも搦手道でもなく、城の北側で散策路の入口になります。


北腰郭

緑のロープに沿って進むと北の帯郭に出ます。


記念植樹の碑

何の碑だ!と期待して見に行ったら…記念植樹と書いてありました。


土橋

記念植樹の碑の先には堀切があり、土橋があります。
ここで本丸と北郭を切っています。


本丸

物見櫓から本丸を眺めています。



散策路は土塁の上を通り更に南郭へと続いています。



足元はなにやら公園風に手が加えられているのですが、ふかふかしていてちょっと歩きずらいです。


堀切

本丸と南郭を切っています。



この堀切の奥が南郭になります。
南郭の先は大きく切って猪苗代城になります。


南郭

ここまで来るとなんとか持ち堪えていた曇り空もぽつぽつと雨が降り出して来ました。
南郭からは猪苗代城を見上げることが出来るので木が伐採されています。



猪苗代城から見た鶴峰城の南郭側です。


本丸南西虎口

本丸南側の食い違いの虎口。
上から見下すとその形状がわかりやすいです。
丸南西虎口の看板も虎口ではなく、一段上の本丸に立てられています。


腰郭



大手口石積虎口

崩れていますが虎口の両側に石積があります。



L字に積まれた石垣。


大手口

こちらが大手道になります。
入って来た北側は搦手になりますが現代の入口です。


本丸まで行ったあたりで雨が降って来ました。
大急ぎで大手側に行き、虎口の石積みを見に行きました。
その頃にはかなり降って来て、寒いし濡れるしでゆっくり散策出来ず。
さすが、磐梯山の麓、良く見るとまだ雪が軒下で溶けきっていないところもありました。

身体が冷えたので道の駅猪苗代の「猪屋」で塩ラーメンを食べて温まりました。
なんと、このラーメンどんぶりは使い捨てです。デザインもしっかりしているので持ってみないと
陶器でないことがわからないです。


この後、三春まで行って三春城攻めがあるのでここで人間も車も燃料補給して、攻城はつづく。


平成30年4月7日登城




猪苗代城(福島県)

2018年04月20日 | 百名城以外の城
猪苗代城いなわしろじょう
別名亀ヶ城
構造平山城
築城者佐原経連
築城年代1191年(建久2年)
指定史跡県指定史跡
場所耶麻郡猪苗代町 地図


猪苗代城を築城した佐原経連の祖父は、一ノ谷の戦いの「鵯越の逆落し」で真っ先に駆け下りた武勇で知られ
源頼朝の奥州藤原氏攻めで武功をあげ、陸奥国会津を与えられました。
この頃、城の完成とともに佐原氏から猪苗代氏に改名しています。
戦国時代猪苗代氏は蘆名氏、伊達氏と従属していたのですが豊臣秀吉が奥州仕置を行い
猪苗代城を去ることとなりました。
その後、猪苗代城は会津若松城の支城として戊辰戦争で城を焼き払うまで存続した重要な城でした。


枡形門跡

蒲生時代のものと思われる枡形門跡です。
ここにはかつて多門櫓が築かれていました。
ちなみに駐車場はここにあります。


大手口多門櫓台の石垣

城内で最も古い石垣です。



自然石を使用した野面積みで、割石も使われており、割った石を横に積み鏡石も見られます。


鐘楼

現代になってから胴丸内に移築された鐘楼。
元々ここにあったのではなく近くの別の場所から移築されています。


三本杉井戸跡

猪苗代城には井戸が二つあったようで、ここは三本杉井戸跡として復元されています。


大手口の石垣

大手口側は石垣が多く使われています。
上には大手櫓門の石垣も見えます。



本丸あたりまで来ると江戸時代後半の石垣になってきます。
四角く加工された石が見られ、角もしっかり角ばっているのがわかります。


二ノ郭跡



野口英世像

みなさんご存知「野口英世」です。
猪苗代町は野口英世博士の生誕の地です。
この像はアメリカから寄贈さたものだそうです。


井戸門跡

南西虎口には井戸門と呼ばれる門がありました。
下には井戸跡にはわずかな石が残っています。


井戸跡

中央の窪みにわずかな石が見える場所が井戸跡ですが…わかります?


黒門跡



本丸

ここには御殿のほか、塩蔵や茶室、茶寮など城主の生活の場となっていました。
また、籠城戦に備えられた中枢部でもありました。


雁木

土塁に囲まれた一部に雁木が残っています。
番小屋のあったあたりに位置するのかな。


四脚門跡

この日は前日天候が荒れていたらしく、松の枝が折れていました。
向羽黒山城でも倒木があったので風が強かったのでしょう。


南帯郭

搦め手側になります。
現在、全体的に整備中のようで、木の伐採をしているようです。


旧山内家住宅

下に見える古い建物は旧山内家住宅です。
会津藩制時代の村役人層の農家住宅です。
そう言えば、私の子供の頃は母の実家も萱葺き屋根で囲炉裏があって、今にしてみれば
凄い価値のある古民家だったかも。
そう考えると、この辺りの土地や山もあるので猪苗代城に関わる旧家なのかも?
調べてみるとおもしろいかも。


堀切

すごい堀切です!
しかし、なぜこちら側にこんなに深い堀切?


西帯郭







案内看板

元々あった鐘楼は猪苗代小学校入口あたりにありました。
その、民家側に案内看板と石碑があります。

鐘楼跡碑

すぐ隣に見える鶴峰城へ行こうとして発見しました。
そしてこの後、鶴峰城へ。


私の母親の生れ故郷にやってきました。
会津と言えば鶴ヶ城。
私が鶴ヶ城の話をすると必ず亀ヶ城の話をし出し、亀の石と高遠から保科氏について
会津に来た人々の話をよく聞かされました。
しかし、私の記憶の中には亀ヶ城には亀の形の石があって高遠の人のお墓があるという
亀ヶ城と土津神社が合体してしまった記憶違いがあり、ずっと城内を「亀の石とお墓」を
探し回っていました。
もちろん、みつかりませんでした。
後日、母親に「亀の石居なかったけど?」と聞いてみると「学校の方じゃないよ、土津神社だよ」と…。

未だに亀ヶ城は自分の家の城だとか、野口英世は親戚だとか、もちろん冗談ですが
そんなことばかり言って故郷の会津を愛して已まない母親です^^;


土津神社…また今度会津行ったら線香持って行ってみます。



平成30年4月7日登城



会津藩 (シリーズ藩物語)
野口 信一
現代書館

龍岡城(長野県)

2018年04月18日 | 続百名城
龍岡城たつおかじょう
別名五稜郭
構造平城
築城者松平乗謨
築城年代1867年(慶応3年)
指定史跡国指定史跡
場所佐久市田口 地図
スタンプ設置場所五稜郭であいの館
城郭検定出題あり

1867年(慶応3年)、龍岡藩主・松平乗謨によって築城されたました。
しかしこの当時堀、石垣、は未完成で建物も瓦を準備しつつも板葺きのままでした。
崩壊寸前の幕閣に松平乗謨に築城に関わる暇も費用も無く明治6年の廃城を迎えることになりました。
しかし、五稜郭は星型稜堡の洋式築城で日本には函館の五稜郭とここ、龍岡城五稜郭の二つしかない
貴重な洋式城郭史跡です。





五稜郭であいの館

一番近い駐車場はここにあります。
お隣や周辺にも駐車場があります。
休憩、おみやげ、資料展示、続・百名城のスタンプがここにあります。


スタンプ設置場所

駐車場と反対側の入口から入るとすぐにスタンプがあります。
スタンプラリーが始まって数日、スタンプは既にいっしょに置いてある黒のスタンプ台で
青いインクが黒で汚れてしまっていました。
最初に押した私のスタンプは黒く縁の線が写ってしまったので、売店でティッシュをもらって
とりあえず汚れを拭き取り旦那のスタンプ帳は黒い枠は写らずに押せました。
百名城のスタンプもこのようなことはよくあったので、他のスタンプも置いているところは
早くも残念なことになってる心配があります。


展示物

小規模ですがパネルや瓦、模型、資料などが展示されています。


お花見茶会

この日は、五稜郭保存会主催の年に一度の「お花見茶会」を催していました。
平成30年の「お花見茶会」は本当は4月22日開催予定だったそうですが
桜の見頃が早まったため、お花見に合わせて前倒しになったそうです。


お茶とお菓子

なんと、お茶とお菓子が無料でいたただけるとはラッキーです。
これが結構なお手前で、とても美味しいお茶でした。


銅像

大手橋の袂に松平乗謨(大給恒)の銅像があります。
1877年(明治10年)に佐野常民らと現在の日本赤十字社の前身である「博愛社」を設立した人です。
2年前訪れた時には無かったのですがいつの間にか建てられていたんですね。


大手橋

これは二年前に撮影したもので、まだ雪が残ってます。


堀と石垣

五稜郭の一番難工事は石垣で、伊那高遠藩が洋式築城石工を養成し、
棟梁二人が石工六十人とともに来て、三年をかけて建設しています。


タカトオコヒガンザクラ

門外不出と言われる高遠小彼岸桜が高遠町から寄贈されています。
近寄ってよ~く見ると、なるほど我が家の高遠小彼岸桜と同じようです。



特徴はエドヒガンとマメザクラの交雑種と考えられ花は小振りで濃いピンク、つぼみ時は瓢箪形をしています。



堀の内側の石垣は切込はぎで、外側はの石垣は東南から南へ回るに従い粗末になり、打込みはぎから野面積みへと変わっている。
石垣をよじ登る敵の侵入を防ぐ武者返しが設けられている。


田口招魂社

大手橋を渡って五稜郭内に入った右側に田口招魂社があります。
いつものようにここでもお参りして、城内を散策します。


お台所

明治4年、廃藩とともに建物は入札払い下げとなったが、御殿の一部のお台所だけは学校としての使用が許可されたために唯一の貴重な遺構として残されました。



現在もここは学校の敷地になっていて建物内部の見学は事前に予約が必要です。



校舎裏の大手門と対角側にやってきました。
ここの先端だけは何故か尖っていません。


穴門跡

以前訪れた時はカメラを持って校舎側まで来るのがためらわれたのですが
続・百名城に選定されたこともあり、以前より賑わっていて多くの人が
こちら側まで散策に来られていたので、今回は気軽に見に来ることが出来ました。



水門のようになっていたようで、水の流れを堰き止めるための溝も切られているのが見られます。
泡のように見える白いものは桜の花びらです。
奇麗と言っていいのか汚いと言っていいのか微妙なところです^^;






南側の角です。
きっちり角が出ています。


通用門跡

橋がだいぶ痛んでいて、現在は渡ることが出来ません。
ここにあった通用門は今も健在でぴんころ地蔵で有名な佐久市内の薬師寺の山門として残されています。








北の枡形虎口跡

龍岡城のから少し離れた北の入り口に枡形の石垣が見られます。
こちらにも城跡碑と案内板があります。



しっかりした枡形の石垣があり、かなり良い状態で残っているのでぜひ見て下さい。


五稜郭公園

駐車場とトイレがあります。
ここからも近いのでここからの散策もお勧めです。



五稜郭公園側から見ながら五稜郭龍岡城を後に。。。。



調べていて後からわかったことですが、この後行った伴野城跡のお隣り、
参道にぴんころ地蔵のある成田山薬師寺に龍岡城の東通用門があり、時宗寺本堂には
大広間が移築されているそうです。
もっとよく調べて行くんだった。
すぐ近くに居ながら見逃して来てしまいました。
でもまた田口城とセットで見逃して来たところを見て来たいと思います。
桜が咲いてお抹茶いただいて、良い日に行けて良かったです(^^)



平成28年3月13日登城
平成30年4月14日再登城


御当地グルメ・おみやげ


五稜郭であいの館にて購入。
手作りせんべいやクッキーが販売されています。

五稜郭であいの館には龍岡城に関する資料を展示されているほか、ボランティアガイドさんが案内をしてくれます。
駐車場、トイレもこちらにあります。




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス


向羽黒山城(福島県)

2018年04月16日 | 続百名城
向羽黒山城むかいはぐろやまじょう
別名岩崎城・巌館城
構造山城
築城者蘆名盛氏
築城年代1568年(永禄11年)
指定史跡国指定史跡
場所大沼郡会津美里町 地図
スタンプ設置場所向羽黒山城跡整備資料室前(終日利用可能)
城郭検定出題あり

葦名盛氏が築城し、伊達政宗と蒲生氏郷がそれぞれ重要な要衝として改修を加えています。
その後、上杉景勝・直江兼続が最後の砦とした東北最大級の天然の要害です。


遠望

本郷大橋から見た白鳳三山の左が岩崎山、右が羽黒山です。
夜明け前の到着でまだ辺りは薄暗いです。


入口

城下町を想像させる街並みの中に向羽黒山の入口が見えて来ます。
ここは会津本郷焼の産地で陶器や赤瓦の原料が採掘され、会津本郷陶磁器会館の前にこの場所があります。


向羽黒山城跡整備資料室前

先程の入口から坂を登った正面に向羽黒山城跡整備資料室に出ます。
ここには続・百名城のスタンプが設置されています。


スタンプ

続・百名城のスタンプがここに設置されています。
24時間押印可能なので助かります。


全体図・解説板

この全体図を見ただけでも広いことがわかります。


羽黒山神社

向羽黒山城は広いと聞いていたので先を急いでお参りはしてこなかったのですが
この奥には羽黒山神社と出世稲荷神社があるそうです。
う~ん、これは出世のチャンスを逃したか!


三の丸跡

三の丸の入口です。
管理棟脇を入るとなだらかな台地が見渡せます。



三の丸は主に馬の訓練場として造られました。
西北の見通しも良く望楼や指揮陣屋なども建ち並び見張場としての
機能をしていました。
また、兵力の養成広場としても使用されていました。


堀切

二の曲輪と三の曲輪を分ける城内最大の堀切です。


土塁

駐車場にあるトイレの脇に土塁があります。
城内には沢山の土塁が存在しますが、とてもわかりやすい土塁です。
ここでは堀切も一緒に見ることが出来ます。


御茶屋場曲輪

御茶屋場曲輪は蘆名盛氏が茶の湯をやっていた場所と伝わります。


眺望

雨上がりで正面に見えるはずの磐梯山は雲に隠れています。


みかえり坂

みかえり坂の入口です。
坂がきつそうなのでここは下から見上げるだけで…^^;


弁天曲輪

古来相伝ふ向って右の祠は、越の国(新潟方面)から阿賀川を遡って水郷会津に移住し南青木組花坂村から、宗像宮司が神護景雲元年(七六七)神託により此地に遷し祭ったと云ふ。
この宗像の神は、海津見系(あまつみ)の女神弁財天である。
猶、ここから南に向って旧本丸の中腹に奇岩怪石数ある中に大昔ここに天人が住み、磨臼に使ったと云ふ中空に聳ゆる磨臼岩がある。
又、左に万延元年(一八六〇)九月岩崎山弁天宮・西隣の地に御水神社を遷し祭った。
文久元年(一八六一)四月十九日郡奉行神宮・其の他十八ヶ村、岩崎堰関係代表者多数が参集して水神祭大式典が行なわれたと伝ふ。
と案内看板には記されています。


岩崎山弁天神社

岩盤の上に石垣、その上に祠があります。


二の曲輪虎口

二の曲輪の下に駐車場とトイレがあり、トイレの両側に二の曲輪への道があります。
左が腰曲輪、正面は二の曲輪の虎口です。


二の曲輪

広場になっていてあずまやもあります。
そして、眺めも良い!





眺望

カメラをズームして、大好きな「鶴ヶ城」が見えました!


みかえり坂

御茶屋場曲輪向いの入口から登って二の曲輪のこの地点に出て来ます。
かなり急な階段を登ることになります。
上から覗いてみると直角に近い角度なのがわかります。


三日町口虎口

この先には石積石垣枡形の虎口があります。


横堀

堀底にある石垣?がとても気になるのですが何でしょう?
この辺りの堀と土塁はとにかく凄い。



この辺りは見事なほどに竪堀、横堀が入り組んで複雑な地形を形成しています。
掘って盛り上げた高低差がはっきり残っているのであっちも!こっちも!そっちも!
という具合に目に飛び込んで来る場所なのでハイテンションになります。



いよいよ、本丸へ。
二の丸の駐車場から続いて少し下ると一の曲輪の入口があります。
引き続き車は二の丸下のトイレ横の駐車場置いたまま登城します。


一の曲輪入口

「熊出没中」の黄色い貼り紙があります。
怖いので、群馬県の岩櫃城のスタンプ設置場所でもある東吾妻観光協会のガチャで買った
「真田紐の熊鈴」をめいっぱい鳴らしながら登りました^^;


竪堀

これはすごい!
本当に滑り台のような竪堀です。
山城へ行けばいくつもの竪堀を目にして来ましたが、私が見て来た中では
この竪堀が一番スゴイのではなかろうか…。口を開けて見入ってしまいました。
たぶん、上で転がり落ちたら止まることなく下まで転がり落ちると思います!
※写真ではゆるく見えますがとても急な斜面です。


腰曲輪

登っている途中にはいくつもの曲輪が見えます。



てっぺんが見えて来ました。
しかし、手前で堀が待ち受け、上から狙い撃ちされそうです。


一の曲輪

一段下の虎口を進み、頂上に到着。
標柱もあります。
下から見上げて旦那に「ここ登るのお~?」とブツブツ言われながらも
登り上げれば途中の遺構に感激し、結局この日もてっぺんとったぞー!と気分爽快



南側の幾重にも連なる堀切も見事です。



ここは発掘調査中の現場と思われます。
説明がないので何の跡が検出されたのかわかりません。パンフレットにあった礎石かな?

ここから下を見下しただけでも広くて散策しきれてないのが
わかりますが、でも今回はこの辺でお暇致します。


早朝から散歩をされている方が3組と、車で様子を見に来た方など
人気のある林道でした。
一の曲輪の登城道には倒木があったりしたのですが、整備中のようだったので
発見も早く、倒木の撤去もすぐしてもらえることでしょう。
遺構がしっかり残った良い城跡でした。


続・百名城のスタンプスタートの地をここに選んだ理由は、もちろん以前から訪れてみたかった
というのもあるのですが、決めてになったのが終日スタンプOK!ということでした。
夜中に出発して夜明けとともに登城できるという朝さんぽにピッタリな城址ということで
続・百名城は会津からのスタートとなりました。
ちなみに百名城は生れ故郷の高遠城からだったので会津からというのも
保科正之公が結ぶ縁だったのかな。。。
この後、祖父母の眠る猪苗代方面まで城めぐりはつづく…。



平成30年4月7日登城




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

花園城(埼玉県)

2018年04月11日 | 百名城以外の城
花園城はなぞのじょう
別名
構造山城
築城者藤田政行
築城年代平安時代末期
指定史跡
場所大里郡寄居町末野 地図

花園城は武蔵国藤田郷を本拠に鎌倉時代から存在した一族である藤田氏の城でした。
藤田氏の娘婿に北条氏康の三男、氏邦を迎え鉢形城の支城となりました。
天正18年、豊臣秀吉の進撃に伴い、鉢形城とともに落城、廃城となりました。
岩盤を掘り抜いた大規模な堀切と南斜面にある複数の竪堀がすばらしい。


諏訪神社

いくつかあると言われる登城口ですが、この神社裏から登るのがいちばん判りやすいルートになります。
とはいえ、遊歩道のような歩きやすい道ではないことは覚悟しておくべきです。
まずは神社で道中の無事をお願いして、いざ、出発です!


登城口

神社に向って右手から裏にに廻るように行くと、花園城の木の看板があります。
文字は薄れて読みずらいですが花園城と読むことができます。



木にピンク(または赤)のリボンが付いているので
それを目印に登って行くと花園城を巡って来ることが出来ます。
とてもありがたい道しるべです。


竪堀7

歩き始めて数分で遺構が見えて来ます。
自分が歩いているのは竪堀6の中で、隣にも竪堀7が並行してあり、やがて竪堀6と7は
上で繋がります。


石垣

竪堀で「おお~」なんて喜んでいると、竪堀の反対側では石垣が!!
序盤から良い感じの遺構が見えて来ます。
腰郭3の下段で、まるで部屋のように石垣で囲ったような空間です。
実際は腰郭を支えるための石垣なのでしょうが枡形にも見えます。


腰郭2虎口?

腰郭2の入口付近の石垣。
門があったかのように両脇が石垣で間を通過出来る場所があります。
竪堀6ではなくロープを使って急な道を登り上げて来るとこの虎口の前に素直に
進んで来ることが出来るので本来のルート上にある腰郭の出入口のように思えます。


堀切3

この先堀上右側が三の郭、左側が二の郭になります。
二の郭には急な斜面を登ります。


堀切4

本郭と二の郭を切り込んだ堀切です。
岩盤を切っていてとても幻想的な場所です。
写真では表現しきれてないのがとても残念で、この場所を下から見上げると
見事過ぎて感動です。


二の郭入口

ここも石垣があります。
点々と造られている石垣の石は山内で削り出したものを利用していると
思われます。


二の郭

二の郭は平坦で東側には土塁も見えます…が、ここからは見渡すことが
出来ないので少し藪の中に入らないとです^^;


堀切4

本郭側に渡って二の郭を見下しています。
岩盤を切った堀切と石垣がとても良く見えます。
それにしても見事な堀切です。これは現地で見てみないと表現しきれないです。


本郭

本郭側は東南は二段になってる場所があります。
私は堀切4から急斜面を登ったのですが、本来は一段下がった緩やかな方から
入って来るのだと思われます。


城址碑

本郭には花園城跡碑があります。


城址碑裏

城址碑の裏に廻ってみると、説明文が刻まれていました。


堀切5

本郭の上から下を見ると、またすばらしい堀切が見えるではないか!
ということで下に降りてみました。
こちらも見事な堀切です。
しかも岩盤を切っているのでこちらも凄い!見応えあります。


腰郭1

こちらは郭があるのはわかりますが笹が生い茂っていて入って行く気には
なりませんでした。


堀切5(南側)

本郭の西側の堀切5の続きで西から南に直角に曲がっています。
曲がった先は横堀に落ちるような造りになっています。


横堀と土塁

本郭南側の真下に横堀があります。
土橋のような土塁の上を歩いていると、下から来る敵をここから狙い討ちかな?
な~んて想像をしてみたり…ワクワク、ゾクゾクします。
この城の本郭周辺はとにかくおもしろい!



そして横堀の場所から上(本郭)を見上げてみると、石垣が確認出来ます。
上の方は石垣で地盤の強化を図っていたのですね。


本郭をぐるっと1周したところで「もぐもぐタイム」。
ここで岩盤を切り込んだ堀切、横堀と石垣と休憩しながら目に入る光景は
なかなかのもので、陽気がぽかぽかのわりに虫も居なくてつい長居をしてしまいました。

さて、来た道を帰りましょう。。。

遠望

正面の山が花園城です。


こんなに見応えがある城跡とはまったくもって思っていませんでした。
花園にはなじみがあるのに、まったくスル―だったし、以前の私ではこんな山中を散策して
歩くなんてことは考えられなかったので今回は驚きと感動のしどうしでした。
もともと方向音痴なので山中を歩いたらすぐ迷子になりかねない。
ところが、山城を歩くようになってからというもの体力もついてきたし、歩き方も学習できて
きた気がします。
とはいえ、山では絶対に油断しないようにとは胆に命じています。

それにしても、あまり手が入っていないからこその遺構なので歩きずらいのは仕方ないが
それ以上の感動を迎えてくれる城跡で、写真やブログでは伝えきれないのが残念です。

いや~めちゃくちゃ感動的な山城でした。大満足です。
「絶対行った方がいい!」と背中を押してくれた方々に感謝です。ありがとう!

平成30年3月31日登城


参考本
関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

神指城(福島県)

2018年04月09日 | 百名城以外の城
神指城こうざしじょう
別名
構造平城
築城者上杉景勝
築城年代1600年(慶長5年)
指定史跡
場所会津若松市神指町本丸 地図
城郭検定出題あり

豊臣秀吉によって越後から会津に国替となった上杉景勝は
秀吉没後は五大老体制となり政権運営にあたりました。
その後、新たな居城として神指城築城を直江兼続に命じて整備に取り掛かると
徳川家康はこれを景勝の謀反の準備と見なし、弁明に応じない景勝に対し
会津征伐に出る。
この後石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いとなりました。
そして、神指城の築城は中断されました。
負けた西軍側だった景勝は徳川家康により今度は会津から米沢に国替を命じられ、
神指城の築城は再開されることはなく未完成のまま終わってしまいました。



本丸跡

本丸跡にある、グランドであった場所にある案内看板。
グラウンドは工事中で中に入ることは出来ません。


縄張図

この後国替になった米沢の米沢城に似てますよね。


遠望

真ん中の林部分が本丸で周囲の平地が二の丸です。(西口側)
鶴ヶ城の約2倍の巨大城郭が計画されていたという。
周囲に点々と残るこんもりした林部分は二の丸土塁の隅部分になります。
平坦な場所なので林が見えたら行ってみると土塁を見ることが出来ます。


天守閣予定地

ここには天守台跡のようです。
私有地のため、この先本丸に入ることが出来ません。(立ち入り禁止看板あり)


内堀跡

沢山の看板が見えたため、南側の道から本丸内の案内看板のある所まで
近付いてみました。
内堀と土塁の様子がはっきりと見られます。


石垣

ここには穴太積みの石垣あったようですが、鶴ヶ城築城の為に
運ばれてしまったようです。
神指城の南側にあった石垣は鶴ヶ城の西出丸、北側は東出丸、大手門の石は太鼓門で見られるそうです。



ボックスの中に資料が入っていたようですが中は空っぽでした。
沢山の手作り看板があります。


完成予想絵図

神指城を守る会が作ったと思われる看板があちこちにあります。
完成予想図もCGで作ってみたようです。



南から攻めて来るとみた徳川勢に備えて内濠や高石垣が作られていたようです。



この先は本丸がまだ続きますが、私有地に出てしまいそうなのでここで引き返すことにしました。


国指定天然記念物である「高瀬の大木」がある二の丸北東隅の土塁へ行ってみましょう。


二の丸北東隅の土塁(鬼門)

平地に土盛がされている部分は神指城の土塁部分です。
見渡してみて、ここが一番土塁として判りやすい場所です。


案内看板

会津若松市観光課が立てた案内看板です。
NHKの大河ドラマ「天地人」の放映の際に立てられたもののようです。


説明看板

この巨石はここより南方三百米の本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだと
いわれる石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存しています。


あずまや

ここで休憩…という時間も無く天気も怪しいので駆け足で散策。


高瀬の大木

国指定天然記念物の「高瀬の大木(ケヤキ)」は神指城築城前からこの地に大木として存在していたと
伝わるものです。
慶長の頃で既に大木だったとは、ここに土塁を築く以前から土塁に適した土盛であったと
想像が出来ます。
ちなみに樹齢は600年といわれています。



以前は本丸付近は私有地でありながら見学可能な遊歩道もあったようですが現在は私有地につき
立ち入り禁止看板やグラウンドも工事中で立ち入り禁止の柵がされています。
とりあえず、立ち入り禁止の場所には踏み入ることのないように細心の注意を払いながら
滞在時間最短で写真だけ撮らせていただきました。
地権者のご理解を得て見学が成立することなのでマナーを守って散策しましょう。(私も)


平成30年4月7日登城




お城のすべて (学研雑学百科)
三浦 正幸
学研パブリッシング

花園御岳山城(埼玉県)

2018年04月06日 | 百名城以外の城
花園御岳城はなぞのみたけじょう
別名
構造山城
築城者藤田氏
築城年代
指定史跡
場所大里郡寄居町末野 地図



花園御岳城は花園城の背面を守るために藤田氏が築いた支城です。
花園城の背後にありながら花園城より高い場所に位置します。
空堀と土橋が良い状態で残っています。


少林寺

はじめて来る場合は、少林寺を目指して来るとわかりやすいです。
登城口もこちらからまず案内しようと思います。


駐車場

五百羅漢で有名な少林寺の駐車場とトイレをお借りして、五百羅漢と千体荒神板碑を見ながら
まずは羅漢山を目指します。



これはなんだろう?


本堂

少林寺の云われは下記の案内看板にあります。


案内看板

曹洞宗の寺である少林寺は、永正8年(1511年)、長泉寺開山大淍存奝大和尚が乞われて開山となりました。
開基は、北条氏康の家臣となった藤田右衛門太夫国村となっているが、康邦だろうともいわれており確かではありません。
本尊は釈迦牟尼仏です。
慶安年中(1648-1652年)寺領15石を与えられています。
二十四世大純万明大和尚の時、文政9年(1826年)春より四方浄財を募り、寺後山中に釈尊、十六羅漢、五百羅漢の石像並びに千体荒神石碑を天保3年(1832年)に安置し、信仰の道場として今日に続いています。
山頂に立てば、寄居市街地が一望できるとともに秩父連峰が目前に迫り、眼下に円良田湖が望めます。


修復記念碑

アカバナミツマタという木の花がとてもかわいらしくて一目ぼれしてしまいました。
小さな毬のようで記念碑を見に行ったはずが、この木の花に見入ってしまいました^^;


参道入口

少林寺本堂脇にハイキングコースの入口があります。
本堂で手を合わせ、いざ、出発です!!


羅漢石仏と千体荒神の石碑

五百羅漢は一体一体すべて違った表情で、喜怒哀楽を表現しています。
このような石仏が山頂まで沢山並んでいます。



五百以上あるのではないかと思うほど沢山の羅漢が並んでいるので
姿や表情を見ながら歩いていると、ただハイキングしているより
とても楽しいです。


虎口

ここが山頂入口です。
さて、ここまでに自分に似た羅漢はみつかったでしょうか?
探しながら登って来ると楽しいですよ。


山頂

山頂には釈尊をまつり、脇侍文殊、普賢の二菩薩並びに十六羅漢を配しています。
そして、千体荒神は戦時中に戦場の守護神として崇拝し、現在は選挙のときに参拝すると当選
間違いなしといわれるようになり、信仰を集めています。


釈尊

文亀年間(1500年頃)に、突然天地が振動、暗黒化し、人々の動きがとれないでいるとき、
山中より仏舎利が出現し、一大光明を放ち暗闇を破り人々の苦難を救ったといいます。
(現地案内看板より)


あずまや

山頂は平地があり、あずまやもあります。


花園御岳城へ

さて、ここからが本番です!
山頂虎口付近に戻り、円良田湖へ向う道に入り、本命の花園御岳城へと進みます。


登城口

しばらく進むと花園御岳城へ行く道と円良田湖へ行く道に分かれます。
この写真の右側には整備された下りの道が円良田湖へ続く道があります。
そちらには行かず、真直ぐ、整備されていない獣道(写真の道)を進みます。


二の郭

良く見ると道しるべの赤いリボンが木に付けられているので
それを目印に辿って行くと花園御岳城跡に出られます。
誰が付けたのか、とてもありがたいことです。
ちなみにほとんど整備の手が入っていない花園城の方は、このリボンが頼りの道中になります。


鳥居

獣道を抜けた先には鳥居が見えます。
この鳥居まで来ると鳥居を挟んで空堀があるのが確認出来ます。
鳥居の真下は空堀の間の土橋です。


空堀

鳥居に向って左側の空堀です。
右側にも空堀がしっかり残っています。


石段

この石段を登ると、いよいよ本郭です。
ちょっとかわらしい御狐さまが出迎えてくれます。


手水鉢

登りきった右側に神社だからでしょうか、石製の手水鉢らしきものがあります。
しかしこの神社には祠や社が見当たりません。


石碑群

本郭には沢山の石碑が建ち並んでいます。



とにかく、本郭内は石碑だらけ。



ここで一休み。
もぐもぐタイムは一口羊羹です。(もちろんゴミは持ち帰るのが鉄則)
歩いて痩せられるかと思いきや、「疲れた~」と言っては食べてしまうので
むしろ太るいっぽう^^;(困った現象です)


腰郭

本郭北側の腰郭。
武者が溜れるだけの幅がありそうです。


参道

この参道は老人養護施設「やまざくら」に近い民家の脇道に出ることになります。



御岳神社本来の参道を通って少林寺まで戻ろうと思います。
途中には倒木もありましたが、参道は整備された道なので入口さえわかれば
こちらの道の方か歩きやすいかも。



麓に近いところまで下って来ました。
このあたり、段々になった平らなスペースがあってとても気になります。


鳥居

参道入口に出て来ました。
この先は民家脇の道に出ます。



ここから参道へと向うのですが近くに駐車場はありません。


遠望

県道から見た御岳山です。
花園城より高いわりにはなだらかで、険しい山ではないので、それほどキツくはなかったです。



こんな山登りがおもしろいところは他にない。
おもしろいと言ったら神様に怒られそうですが。
五百羅漢を見ながら歩いていると疲れながらも坂を登る気力が湧いてきます。

普段城址が無ければ山に登るとういう趣味は無いし、車ならば山にも行くよと云う人なので
運動不足で山城は自分のペースでないと団体行動では迷惑かけてしまいます。
だから、オフ会などの参加は避けています。
きっとみんなで城跡談義しながら登ったら楽しいのでしょう。
が、すぐ息が上がってしまい、休み休み歩く私の歩みは遅い。
一日に何か所も山城を歩く人たちには足手まといになってしまいます。
なので、旦那に援護されながらゆっくり登るのが調度いいのです。


平成30年3月31日登城



今日は城の日!
続・百名城のスタンプラリーもスタートします。
夏場の山城は歩くのが困難になるので今年の夏は続・百名城のスタンプ集め中心になりそうです。



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
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金尾要害山城(埼玉県)

2018年04月04日 | 百名城以外の城
金尾要害山城かなおようがいさんじょう
別名金尾山城・要害山城
構造山城
築城者藤田重利
築城年代1532年(天文元年)頃
指定史跡
場所】大里郡寄居町金尾 地図



708年~715年(和銅年間)に銅を産し、元明天皇に献上した秩父の黒谷村の
和銅山より続く山の尾に位置することから「金尾」と地名が生まれました。
金尾要害山城は鉢形城西方の支城のひとつで、1532年(天文元年)藤田左衛門佐重利が築城。
1590年(天正18年)6月14日鉢形城落城とともに廃城となりました。


駐車場

「長瀞カントリークラブ」入口の東に駐車場があります。
ここに車を停めて道向いのつつじ山に登ります。



駐車場の道向かいに階段があります。
遊歩道になっているのでここを登り上げることになります。


石碑



遊歩道

この日は4月の中旬~5月初旬にかけて約5千株のつつじで山々が赤色に染まるという
「金尾山つつじ祭り」のために整備をされていました。
ちなみに、つつじ祭り期間中は入場料200円が必要なようです。



金尾山山頂目指して上に向う道を進みます。



つつじが咲く時期になると、この道も真っ赤で華やかになるのでしょうね。
今は満開になった1本の桜が出迎えてくれています。



ゆる~く登る道と近いけど傾斜のキツイ道とに分かれます。
私は傾斜のキツイ正面から立ち向かうことにしました。


愛宕神社

登りきった所に愛宕神社が見えて来ました。
愛宕神社は、1560年(永禄3年)以降に城の完成を機に城主が城の守り神として
祠堂を建立したのがはじまりと伝わります。
火伏の神阿久津智命導きの神猿田彦命の二柱をお祀りしているとのことです。


案内看板

愛宕神社の左側に案内看板が設置されています。


二の曲輪

毎年4月29日には火防と家内安全を祈願して祭典が執り行われます。



二の曲輪から一の曲輪へ。


展望台

一の曲輪に設置された展望台。
ここからの眺めは爽快です。
面積から見ても城址というよりは物見のような役割をしていたのではないでしょうか。



展望台には鉢形城の方向を示す看板もあります。


眺望(寄居側)

寄居町方面です。
ここからほぼ正面に鉢形城が見えます。
景色を眺めていると汽車の汽笛が聞こえて来ました。
そう言えば秩父鉄道と言えばSLじゃないか!!
鉄道ファンなわけではないですがせっかくなのでこの展望台から写真を
撮ってみようではないか


秩父鉄道

カメラでズームしてSLを追いかけてみました。
普通のデジカメでここまでズームできました
一眼レフなどの良いカメラだともっと良いショットが撮れるかもです。
上からのショットが撮れて、他の人が撮っていない角度からで良いのではないかと。
ちなみに線路沿いでカメラを構える撮り鉄さんたちもここから見えましたよ^^;


眺望(秩父側)

秩父方面です。
こちらは自然がいっぱいの景色です。
こちらが側を向いてベンチに座ると空気が美味しい気がします。



二の曲輪から一の曲輪へ登って来た道から反対側の道を下りました。


あずまや

おやつを持って登るんだったなあ。
ここに来る前の花園城と花園御岳城でおやつを食べつくして来てしまった^^;
おやつと言うよりお弁当の時間だったかな。
天気も良いし、景色も良いし、惜しい事をした。

三の曲輪

この先に段々となって曲輪が伸びています。
つつじを観るのではなく史跡を観るには道路のコンクリートの壁が切れた所の
小道を登って来るのが正解だったようです。
しかし、腰曲輪側の小道は整備されていないので冬場でないと歩きずらそうです。
写真のとおり、この時期で既に草が生い茂りはじめています。


案内看板にかいてあったような馬出や縦堀などは確認して来られなかったので
お城めぐりというよりは公園に散歩に来たような絵になりましたが
三の曲輪の先に何か遺構が残っていそうな感じがします。
来る時期を変えて、また冬になったら遺構を見に来ようかしら。


平成30年3月31日登城



関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

小口城(愛知県)

2018年04月02日 | 百名城以外の城
小口城おぐちじょう
別名箭筈城
構造平城
築城者織田広近
築城年代1459年(長禄3年)
指定史跡
場所丹羽郡大口町字小口 地図



1459年(長禄3年)、織田遠江守広近によって築城され、別名「箭筈城」とも呼ばれ
長い間、尾張北部の政治の中心的役割を担って来ました。
永禄年間にになると織田信清の家老で中島豊後守が城主となったが、織田信長によって攻略され廃城。
小牧・長久手の戦いに際し、豊臣秀吉の前線基地として再興。
政治的にも、軍事的にも重要な位置にあったと思われます。


駐車場

平成8年に城址公園として整備され、駐車場も完備されました。
公園横で近くて便利です。



城址碑がある方が城址入口になります。
他にも公園入口が西側にあります。
違和感ある塀…よ~く見て下さい。


城址碑

木橋の脇には立派な城址碑があります。
石碑は新しそうですが愛知県の県の字が古いです^^;


城門

大手門を模した城門。
名古屋城二の丸大手二の門をイメージしまして造られました。


戦役記念碑

西南役と日露役の従軍者の記念碑。
この記念碑の背後に土盛が見えます。
土塁という説もありますがそれを表記していないといことは
土塁ではないということか…。



春が来ました!
竹の生えている場所が土塁らしいですが公園と化していてどこまで
本物かは…わからない。
こちらも土塁との表記が無いので土塁を意図的に表現したものではなさそうな気がします。


展示棟

出土品の実物展示や小口城の歴史についての説明、周囲の城との関係など
模型や映像を使って学習できます。
こちらの展示棟と物見櫓は利用時間が9時~16時30分となっているので
まだ開いていませんでした。


井戸跡と建物礎石跡

発掘調査で、戦国時代の砦の跡とみられる礎石や内堀等が検出され、
実際に小口城が存在したということが立証されたことを表現しています。


野鍛冶炉跡

強い火力によって焼けた粘土や、鉄片・鉄滓などが出土し、
この場所で簡易的な鍛冶を行っていたと考えられます。
そして、鉄を加工するのに使われていたと思われる鍛冶炉跡をここに再現しています。



スロープを下り、物見櫓に近寄ってみました。


物見櫓

犬山城、岐阜城、清洲城などが見えるという物見櫓。
高さは17mあります。
塀には鉄砲狭間があります。



残念ながら物見櫓も9時にならないと開かないそうで登ることが出来ませんでした。


公園入口

小口城址公園の碑がある方が公園としての入口になります。
やはり違和感ある塀…。



城址北側には公園らしい遊具があります。


小口神社

道路を渡って小口神社も見てみることにしました。
ちなみに、目の前のこの道路は「織田街道」と呼ばれる街道のようです。


境内

元は妙徳寺西・宮之前地区にあったというが、大正5年に現在の地に移されました。
織田遠江守広近の菩提寺は妙徳寺で、今回は訪れてないのですが、
ここから約5分ほど歩いたところにあるそうです。


ひとつ気になったのが塀の鉄砲狭間なのですが、外から見ると中に向って
穴が小さくなっているのです。
中から外に向って銃口を向けるので内側が広口、外からは小さい穴が見えるのが普通。
「えっ!外から中を狙い撃ち???」と内側にまわって狭間を覗いてみると、
内側からも狙い撃ちできるいつも目にする形になっていました。
どうやら塀の中心が一番細い穴になっているようで、このような狭間は初めて見ました。
ちょっと変わった狭間でした。
訪れた際はぜひ、狭間を内外両方から覗いてみて下さい。


平成30年3月11日登城


愛知の山城ベスト50を歩く
愛知中世城郭研究会,中井 均
サンライズ出版