むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

太田城(和歌山県)

2021年09月23日 | 百名城以外の城
太田城おおたじょう
別名紀伊太田城
構造平城
築城者紀俊連
築城年代延徳年間
指定史跡
場所和歌山県和歌山市太田 地図

太田城は、岡山県の高松城・埼玉県の忍城と並ぶ「日本三大水攻め」の戦の地として知られています。
羽柴秀吉は、紀州の勢力を滅ぼすために制圧あたり、一揆勢にみせしめのため水攻めを決行。
太田城の周囲に5km以上もの堤を築き、宮井川の水を引き込みました。
城主の太田左近以下53名の処刑と引き換えに一揆に加わったとされる百姓の助命で和睦がされ、
水攻めの終結と同時に秀吉の弟である秀長によって和歌山城の築城が始まりました。



来迎寺

来迎寺は太田城の本丸跡と伝わる場所です。
秀吉による紀州攻めの際には、太田城に約5000人が立て籠もり、
攻防戦はおよそ1か月間続きました。
秀吉軍10万余の大群に囲まれ、当初は兵糧攻めにしようと考えていたのですが、
それでも強く抵抗されたために水攻めに切り替えたという。


案内看板

来迎寺の入り口ある看板を見ると、
大門・小山塚・堤跡が残っていることが記されています。
せっかくなので、この遺構を辿ってみたいと思います。



来迎寺から北東へ約50mへと書かれていたのでその方角へ廻ると、塀の切れ目があります。
そこを覗いてみると、小山塚がありました。
小山塚は、秀吉の水攻めにより降伏した際に籠城していた農民の助命との引き換えに
城主の太田左近以下53名の自害というのが条件で、自害しました。
晒し首となり、後に三か所に分けて埋葬されたといいます。
そのうちの一か所がこの小山塚です。


小山塚

小山塚は水攻めにあった犠牲者の慰霊碑なのかと思って手を合わせて来たのですが違いました。
農民の命との引き換えが、城主の首だけでは納まらなかったのですね。
秀吉は、それほど根来・雑賀衆に脅威を感じていたというとだったのでしょう。
秀吉に強く抵抗した地元の民はさぞかし辛い思いをしたと思います。
※現在石碑のあるこの場所は、昭和60年に区画整備のために移転したもので
かつて別の場所に建てられていたそうです。


大立寺山門

大立寺の山門は、太田城の大門を移築門であると伝わります。
とても立派な薬医門でっす。
屋根の上には鯱や、桃の厄除けの飾り瓦が載っています。
これだけ見ても重要な門であったことを察します。


案内看板

秀吉の水攻めの後、太田城の大門のみが、市内吹屋町の功徳寺に移されました。
そして、第二次世界大戦後に、現在の位置に移築されました。



水攻めの堤跡を探して、狭い路地に入って来ました。
こんなところに水攻めの堤の遺構が残っているのだろうか…。
それにしてもとにかく道が狭い!!


案内看板

建物の間から、緑が見えたので様子を見ようと踏み入れた場所に
案内看板を発見しました!


太田水攻め堤

奥の方に一段高くなった場所が見えます。
太田城からは約500m離れた場所にあります。
最も高い所は7mを超えています。


「日本三大水攻め」と呼ばれる城址制覇となりましたが、訪れてみると
今考えても、周囲に堤を築いて水を流し込むなんて想像は私にはとても難しく
昔の人は凄いことを思いつき、それをやってのけてしまうのがまた凄いなあと思います。
現代人は重機を使っても、たった6日で堤を作れと言われても難儀なことだと思います。
でも、自然の力を知っていればそれを利用するなんてことは昔の人は
普通の発想だったのかな…。


令和3年7月31日登城


今回の参考本



紀伊岡山城(和歌山県)

2021年09月17日 | 百名城以外の城
紀伊岡山城きいおかやまじょう
別名岡城
構造山城
築城者畠山高政
築城年代不明
指定史跡県指定史跡(時鐘堂)
場所和歌山県和歌山市吹上1丁目4−14 地図

岡山城は、現在の和歌山大学教育学部附属小・中学校の敷地内に築城したとされています。
和歌山城ある一帯は、かつて「岡山」と呼ばれていて、
1585年(天正13年)豊臣秀吉の紀州征伐の後に築かれた
和歌山城より古くからあった畠山高政が築いた城を岡山城と称しました。



鳥居

三年坂通りから奥山稲荷社へ登って来ると鳥居があります。
ここは岡山城の城域ではあるのですが、築城されたのは美術館や博物館、学校や幼稚園がある辺り
ではないかとされているので、高台になっているここは物見にしていたのかなとも思います。


奥山稲荷神社

紀州藩祖頼宣卿が駿河の国より国入りの際、
和歌山城の守り神としてこの地に御遷座申上げたと伝えられ、
広く大衆の生命の根源である衣・食・住はもとより、
家業繁栄の守り神として崇められています。(現地看板より)



稲荷社らしく、朱色の鳥居が沢山並んでいます。


時鐘堂

時鐘堂は、江戸時代中頃1712年(正徳2年)に徳川吉宗の命により作られた鐘楼は、
大正時代まで時報や非常時の鐘として使用されていました。



中はどうなっているのでしょう?
ちょっと覗いてみたい状況です。


案内看板

時鐘堂の梵鐘は、大阪夏の陣に豊臣方が使用した青銅製の大筒(大砲)を
徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたものを鋳物師に命じて
梵鐘に改鋳させたことが記されています。


身代わり地蔵尊

本来北向きの地蔵は少ないらしいのですが、こちらの身代わり地蔵尊は
和歌山城主に敬意を表して天守の方を向いていらっしゃるそうです。


奥山公園

和歌山県立近代美術館エントランス前の丘が奥山公園です。
このように丘になっているので岡山と呼ばれているようです。


和歌山県立博物館

お隣の近代美術館は、今回2回目の訪問となりますが、
博物館の方は今回初めて立ち寄りました。
入口にお土産ものが売っているのですが、そこにある本がとても魅力的です。
和歌山城の本はもちろん、周辺城郭の調査資料も売られています。


和歌山城

奥山稲荷社の鳥居付近から見た和歌山城です。


第45回全国高等学校総合文化祭(紀の国わかやま総文2021)に娘が参加していたので
和歌山城のお隣の岡山城へやって来ました。
こちらに娘の作品が展示されていたので、「お城に連れ来てくれてありがとう!」と娘に感謝。
和歌山城の隣に城跡があったとは、前回はまったく知らずに近代美術館を訪れていました。
こんな遠くの城跡に娘の作品が展示されたというが感慨深い思い出となりました。


令和3年7月31日登城





前田家の霊廟(群馬県)

2021年09月14日 | その他
名前前田家の霊廟
別名まえだけのれいびょう
構造墓所
年代1616年(元和2年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県富岡市上高尾 地図

1616年(元和2年)に加賀百万石前田利家五男利孝が七日市藩の藩主となり、
長学寺を菩提寺としました。
二代利意の代に寺領三十石が与えられ、手厚く保護しました。
長学寺の境内には二代・三代・五代・六代・十代の前田家藩主の霊廟があります。



駐車場

かつては大型の観光バスも立ち寄るといったことがあったようで
広い駐車場があるのですが現在は乗用車が数台停められる程度の
スペースだけ解放されています。(それでも十分ですが)



駐車場から中央の石段を登って山門を目指します。


梵鐘

山門を兼ねた梵鐘です。
見た目はちょっと日本のものとは違った感じです。


大銀杏

鎌倉時代、曽我兄弟の死を悲しんだ大磯の虎御前が、1193年(建久4年)に信州善光寺への途路、
高尾寺へ寄り兄弟の菩提を弔うため一堂を建てました。
その時、寺号を高尾寺から長学寺と改めたと伝わります。


本堂

長学寺は、835年(承和2年)貫前神社の宮司が適地を選定し、祝融山高尾寺として開山しました。
後に、加賀百万石の前田利家五男利孝が七日市藩主となり、この寺を菩提寺しました。



それでは、前田家の霊廟へ行ってみましょう。


案内看板

この先に前田家の霊廟があります。


虎銀杏

虎御前が自らの手で植えたとされるのが、この銀杏です。
樹齢600年以上の大木です。



ここを登ると前田家の墓所があります。
早速登ってみましょう!


石垣

石段を登っていると石垣が見えました。
お城の石垣ではないのですが、石垣がそこにあるだけでテンションが上がってしまいます。


前田家の墓所

前田家の墓所は東京駒込の吉祥寺と、ここ長学寺に墓所がわかれています。
墓所には二十二基の墓碑がり、上段中央には、二代利意、三代利廣、五代利英、六代利理
十代利和の五人の藩主の墓碑が建てられています。




県道10号(前橋安中富岡線)を通るたびに長学寺の案内看板が気になっていました。
いつでも行けると思っている場所ほどなかなか行かないもので、コロナ禍でなかったら
ここへの訪問はまだまだずっと先だったかもしれません。
ようやく訪問出来ました。


令和3年5月23日訪問





北条城(新潟県)

2021年09月09日 | 百名城以外の城
北条城きたじょうじょう
別名
構造山城
築城者毛利時元
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所新潟県柏崎市大字北条 地図

北条氏は大江広元を祖とする毛利氏一族で、越後毛利氏は越後北条氏、安田氏とに分かれています。
北条城は越後毛利氏の城の中では最大で、代々越後北条氏の当主が城主となっています。
戦国期、北条高広が城主の時に上杉謙信に仕えていましたが武田方と内通して謀反を企てましたが
安田氏がいち早く謙信に伝え、降伏しています。
御館の乱の際には上杉景虎に味方し、上杉景勝軍に破れ北条城もまた落城した。

 

北条城址入口

北条城には専称寺と普廣寺の二つのお寺から延びる登城口があります。
まずは大手門のある専称寺へ。


専称寺

正面に見える門が、現存の移築門です。


大手門

北条城の大手門を移築したと云われる山門です。
この門は別名「豆ノ木御門」とも呼ばれています。


本堂

専称寺は1331年に北条時宗により建立された、北条毛利氏の歴代の菩提寺です。
北条城は、「御館の乱」で城主を失い上杉景勝方に城を明け渡す際、
専称寺住職が仲立ちをしたと伝わります。


登山道

ここから北条城へ登る道があります。
しかしながら、今回も車で林道へ回ることにします😅


案内看板

柏崎市指定文化財の数々があることを記しています。
上杉景虎愛用の硯などもあるようです。


北条古城址登口

今度は搦手門のある普廣寺へ行ってみることにしました。
ところで、専称寺から普廣寺までの間に五つものお寺があります。
この距離でこれだけのお寺があるのも凄くありませんか?


搦手門

さて、普廣寺の山門のところまでやって来ました。
こちらの門が北条城の搦手門と伝わる現存移築門です。



HPを拝見すると、こちらの住職さんは私よりも若くて、
現代に合った工夫をされているお寺さんのようです。
元々こちらにいらした住職さんではないようなので、どこまでこの辺りの歴史を
ご存知かわかりませんが、何か面白い話が聞けたかもしれません。


本条林道

尊称寺から登って来ると、林道に出ます。
この林道を更に北へ進むと普廣寺からの登城路とも交差します。
どちらも林道が登城路を突っ切る形に通っています。


北条城遊歩道(尊称寺口)

こちらが、林道を挟んで北条城内へ進む道です。
この先に二の郭、更に先に主郭があります。
北条城は柏崎では最大級の山城と云われるだけに一日時間をかけて回りたいので
今回は入口まで確認して、また涼しい時期にじっくりと見てみようと思います。


蓮珠塞跡

林道を挟んで尊称寺へ下る道です。
ここを下って行くと、物見台もあります。


案内看板

北条城遊歩道(尊称寺口)を過ぎたところに案内看板が設置されています。
ここで位置を確認して、もう一つの登城口の様子を確認して来ようと思います。


北条城遊歩道(普廣寺口)

先ほどの尊称寺口のように林道が横断している搦手道を発見!
こちらも遊歩道になっているので歩きやすそうです。



ちょっと登って様子をみてると、まっすぐ道が続いています。
このまま道は主郭の方まで続いているようです。



普廣寺方面へ下る道の方も覗いてみました。
「急坂注意!」の看板があります。
越後北条氏と言えば、北条高広の名が知られていますが
上杉謙信に仕えていたのに2回も裏切るとんでもない人物です。(※個人の印象です)
1度目は寛大に許され、上杉家の奉行をして信頼を得ることで、
上野国の厩橋城の城主を任ぜられました。
その後、小田原城の北条氏康に通じてまたもや上杉氏を裏切ることになるのですが
なんとか上杉景勝と和解することが出来たので、再び厩橋城主に返り咲きました。
以後は上杉氏にずっと仕えたというものの、越後の北条城への復帰は叶いませんでした。



ところで、北条(ほうじょう)ではなく北条(きたじょう)と読むのは何故かという疑問が残りました。
それは北条高広氏がややこしくしてしまったからなの?
鎌倉北条氏に遠慮したためという説と、鎌倉より北にあるからという説、
喜多条高広と名乗ってたこともあることから、そもそも「きたじょう」と呼んでいたのか。
いつかまたこのモヤモヤした疑問も含めて、北条古城をリベンジしたいと思います。


令和3年7月18日登城


今回の参考本



安田城(新潟県)

2021年09月03日 | 百名城以外の城
安田城安田城
別名
構造山城
築城者安田憲朝
築城年代室町時代
指定史跡
場所新潟県柏崎市大字安田字南谷 地図

安田城は、大江系毛利氏の流れを受け継ぐ安田憲朝が築いた山城です。
経光の四男時親は、中国地方を領した安芸国系毛利氏の祖となっています。
越後国佐橋荘を拠点とした越後毛利氏は、越後北条氏と安田氏に分かれ、
安田氏は長尾家や上杉謙信らに従い、御館の乱では上杉景勝の味方をするなど
功績を認められ、上杉家の忠臣となり活躍しました。
後に景勝が会津に移封となると、ともに会津へ移り住み、
ここ、越後の安田城は廃城となりました。



入口

安田城址入口の石柱があります。
この入口付近を「御屋敷」と呼び、現在の道路とは別に民家の裏側の二の郭と北郭の間に
桝形へ向かって伸びる大手道(王坂)があります。
しかし、今回は三の郭(墓地)側から桝形の上に出るルートで登ります。


公園入口

公園入口にやって来ました。
写真には写ってませんが、左手が桝形と呼ばれる場所です。
とりあえず主郭目指して登って行きます。


二の郭

登り始めてすぐに二の郭があります。
細長い郭で、奥の方にはトイレがあるようです。
が、ここも覗く程度で更に上を目指します。



この坂がとっても日当たりが良くて、暑さで一気に体力を奪われてしまいました。
地面にコンクリートが敷かれているので照り返しでめちゃ暑い。


実城

それでも何とか頂上へ到着しました。
実際はあまり大変な距離ではないです。
涼しければ、むしろ気軽に登れる城跡です。


城址碑

四阿もあり、立派な城址碑もあります。


顕章碑

碑文は築城から廃城までの流れと、城址が荒れてしまうのを惜しみ地元の城之組の人々をはじめ
今でも続く米沢に移り住んだ子孫の方々や上杉家16代当主と協力して建立したことが記されています。 


主郭

日本海が見えるのを期待したのですが、やはりこの時期は無理ですね。



ここから東へ約2kmのところに北条氏の北条城があります。
安田家は北条家の分家になるのですが、安田城主の安田景元は
北条高広が武田信玄に内通し、上杉謙信に背いたことをいち早く上杉謙信に伝えています。 
この後、北条城を攻める際、上条城琵琶島城へ援兵を送り北条城を降伏させ
この時の安田氏が謙信の軍を誘導し、戦功をあげています。
本当は、ここから周辺が見えたらいいのに、この時期はやはりムリです。残念。。。



主郭の南側へは大堀切へと下る階段があり、その先には南郭があるのですが、
今回は南側へは下らずに、二の郭の方へ下って(戻る)行きます。


桝形

ここから二の郭へ下ることが出来ます。
二の郭から主郭へは、ここを桝形にすることで防御していたと思われます。



ここを下ると二の郭へ。


二の郭

二の郭まで下って来ました。
トイレや鉄棒などありますが、こちらの公園も遊具で遊んでいる感じはないですね。


桝形(王坂)

竹林の中に見える土塁や堀。
本来この中を通って三の郭や二の郭へと登る、大手口だったようです。



現在はこの竹林を通ることなく、整備された舗装路を通って
公園や墓地へと足を運んでいることでしょう。


大手道

堀切だと思っていたら、御屋敷から登って来る登城路でした。


三の郭

三の郭は墓地になっています。






道の右手が桝形と呼ばれる城の入り口で、北郭になります。
この写真では人が一人も見えてないですが、土塁の向こう側には地元の方が整備をしています。
土塁が土塁の役目をしている光景なのです。


北郭の中を整備をされている方が数名いて、休憩をされていたようですが、
こちらがどこから攻めようかと算段をしているところを
車より一段高い郭から見られていたようです(/ω\)
確かに、今道路になっている場所は堀切だった場所でもあるので
北郭の小さな平地(郭)は、数人溜まれる場所であり、戦国時代であれば
私は上から狙い撃ちされていたことでしょう。
さすが大手口で侵入者を防ぐための郭だけある。なかなかの造りでした。


令和3年7月18日登城


今回の参考本