むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

神保植松城(群馬県)

2020年02月24日 | 百名城以外の城
神保植松城じんぼうえまつじょう
別名
構造断崖城
築城者神保氏
築城年代15世紀以降
指定史跡
場所高崎市吉井町神保 地図

神保植松城は小領主である神保氏の居城で、上杉謙信の関東進出の際には
渋川の白井城城主長尾氏の旗下の武士集団白井衆の一員として謙信のもとに
参陣していました。
しかし、その後武田信玄が上野に侵攻をはじめると白井長尾氏から離れ、
武田氏に従うようになりました。
武田信玄により、箕輪城が落城すると西群馬に所領を賜っています。
現在城跡は中央に上信越自動車道が走り、残念ながら主要部分は分断されていますが
周囲には古墳が残り、城の遺構も堀や土塁などが現存しています。



遠景

南から見ていますが、この丘の上の先に神保植松城跡があります。


南の堀切

まずは、城跡から少し離れた南側の堀切です。



自然の地形を利用して構築された堀切です。
このまま上に登り上げると古墳に出ますが…


石垣

石垣で行き止まっているようなので、引き返します。


大堀切

また道路に戻り北に向い、
高速道路の真下を抜けた先で左折して「株式会社 フォーティーン ヘッドオフィス 」という
会社の脇道を高速道路の側道に向かって登って行きます。
この会社は北側の大堀切の中にあります。


石垣と土塁

会社の駐車場の奥にその名残が見え、土塁や石垣が見えます。


四ノ郭

大堀切から道なりに高速道路の側道めがけて登って来ると、畑が見えて来ました。
ここが四ノ郭になります。



畑の入口となっている場所が、かつて堀と土塁で区切られていたようで
その名残として石積みが残っています。
ここを境に北側(右)が四ノ郭で、上信越道側(左)が二ノ郭になります。


旧道

先ほどの畑の脇に旧道があり、この下段に現在の舗装路(高速道路の側道)があります。
二ノ郭が見たいので、あえて旧道を歩きます。


二ノ郭

結局、二ノ郭は藪と化していて進入断念。



ガードレールの向こうが上信越道になり、ここはかつての内堀で
その先の鉄塔があるところまで主郭になります。
ここで二ノ郭側を見ると…ぽっかり穴が開いています。


虎口

二ノ郭の薮の中に開いた穴のような場所は???
中を覗き込むと、やはり薮で奥まで入って行くことは出来ません。
しかし、足元にはかつて看板だったであろうものがあるのですが、何が記されていたかは不明。
位置からすると、大手道だった場所のようです。
西の堀切(木橋)を渡り、三ノ郭、二ノ郭へと入って行ったとされています。



道下、北西には先ほどの会社がある大堀切が上から覗けます。


植松橋

上信越道を渡る橋です。
ここを渡り、三の郭から主郭へ。


内堀と主郭

この高速道路を挟んで両側に古墳(円墳)がいくつもあったことで
その古墳を避けたら主郭だったということでしょうか。



上信越道の12.6キロポストのところが神保植松城主郭です。
ここを通過する際は、城跡の中を走っているんだなあと思いを馳せてみて下さい。


主郭

主郭には目印となる鉄塔があります。
主郭部分の多くが高速道路に取られてしまいましたが、唯一残された主郭部分です。
主郭は二部屋のようになっていたようで、合わせると大きな郭だったというのが
残ったこの一部だけでも見て取れます。





三ノ郭・土塁

主郭の西と南を囲むように配された土塁です。
このように土塁など遺構はちゃんと良好に残っています。


外堀

外堀も良好に残っているので、この中を進んで遺構を辿ります。


石垣

外堀の両側には補強した石垣がチラホラト見えます。
この城の特徴とも言える石垣で、ここだけでなく下の方の堀切でも
見られる光景で、堀を数段の石垣で補強しているようです。


土塁と石垣

堀の両側に石垣が見られるのですが、石は大きくなく、丸みのあるもので
群馬県内で見られる古墳の内部で見られる石によく似ています。
周囲にこれだけの古墳があるということは、同じ石か、古墳からの石を拝借しているかして
積んでいるのかもしれません。(自論)



外堀と土塁がよく見える場所です。
畑と化していますが、地形はそのままになっています。



この先に、最初に見た堀切があります。


古墳(円墳)

外堀から外側には、このようにいくつかの円墳が見えます。
ということで、時代を超えて古代の古墳と戦国期の城跡がいっぺんに
見られるという二度おいしい立地となっています(^^)v



こんな立派な円墳が隣り合わせに見られるちょっと得した気分になれる
城跡ですよ。



そして、古墳越しの一郷山城。
二度ではなく三度おいしい超お得スポットです\(^o^)/



近年の資料では、高野山に残された帳簿の中に富岡市一ノ宮境村に神保姓が残り
その神保氏がこちらの神保氏の末裔なのかとも…。
上信越道に消えてしまった城跡かと思っていたのですが現地に行ってみたらそうでもなく、
ちゃんとよく見ると結構遺構が残っていて古墳も見られて、楽しめました。


令和2年2月8日登城



天王山城(群馬県)

2020年02月19日 | 百名城以外の城
天王山城てんのうざんじょう
別名間仁田古城・間仁田の砦
構造丘城
築城者須藤安房守
築城年代永禄年間
指定史跡
場所安中市上間仁田字峰 地図

安中市にあるふるさと学習館の裏山にある天王山城。
板鼻にある鷹の巣城との中継場所としての烽火台との伝承もあります。
しかし、立地や古文書からは烽火台というよりは、安中・富岡間の往来を監視する
抑えの城であったのではなかろうかと考えられる城跡です。


ふるさと学習館

ふるさと学習館からの散策です。
こちらの駐車場をお借りして、まずは受付で聞き込みしてみました。
対応して下さった方の親切なこと。
この日は城跡に詳しいという方がお休みだったので、
代わりに、資料を探して下さいました。



発掘調査は行なわれていないので、詳しい資料は無いとのことです。
残念ながら新しい情報は得られなかったので、とりあえず現地に行ってみることにしました。
「結婚の森」方面にあるということでそちらに行ってみました。



遊歩道は綺麗に整備されています。
すると、先ほどのふるさと学習館の方が追いかけて来てくださり、
「資料は無いのですが、宮坂武男氏の「境目の山城と館」という本と、日本城郭大系という
本に載っています」と知らせてくれました。
実は、その本を見て来たことを正直に告げたのですが
私が去った後も調べていて下さったそうです。
わざわざ知らせに来て下さるとは、対応がすばらしく、とても感激しました。
本当に、ありがとうございました。



しかし、ふるさと学習館の管理地を一歩外れると薮です。
とても入って行けそうにありません。






東側から攻めてみようと、回り込んでみました。


石祠

何か祀られています。
ここまでは道が整備されてますが…。



こちらの道も詰んだ…。
石祠の先は道は見えなくなってます。
ここも諦めて、別のルートを探すことにします。



ふるさと学習館の北東(創作工房のある方面)へやって来ました。
こちらには、天王山城から離れているのですが畑の先に堀があったようです。
そのことは念頭に無い状態で遊歩道を歩いていたのですが
城域ではないはずなのに、なんだか城っぽい匂いがするなあと
シャッターを押していました。
すると、主郭から250mほど離れたこの場所も、
土居と堀を構築した形跡があるという。



西側にも道があり、こちらの先に大きな堀切があり、
そこから主郭へと続くき、二の郭、三の郭と通路状の腰郭があるようです。


この日はふるさと学習館から登るつもりでいたので、大きな車で来てしまい
今回はここまでで終了。
次回小型の車に変えて、出直すことにしました。
お楽しみはこれから!薮でなければ良いのですが…^^;

令和2年2月15日登城



蔵人城(群馬県)

2020年02月17日 | 百名城以外の城
蔵人城くらんどじょう
別名
構造山城
築城者島崎蔵人
築城年代不明
指定史跡
場所安中市小俣1037 地図

秋間七騎のひとりである、島崎蔵人の城であるという蔵人城は、
1563年(永禄6年)武田軍の先鋒那和無理之助に攻略されたという伝承があります。
ローズベイゴルフ場の設立により、城郭のほとんどが失われ、更に現在は
ゴルフ場の跡地に太陽光パネルが並ぶ発電所となり、かつてあった城址碑の存在も不明です。



ビッククリーンエネルギー群馬発電所

ゴルフ場により一部を残し、ほとんどの遺構が消滅したと記載されているものの、
城址碑と案内板があるとのことで様子を見に来たら…
ソーラーパネル畑に模様替え??。



行けるところはないかと登城口を探してみたのですが、南側からの入口は立ち入り禁止の看板。
監視カメラも付いていて進入は出来ません。
関係者がいれば聞き込みをしてみたいところでしたが、人影あらず…。
他へ行ってみよう。


蔵人橋

今度は北側から攻めてみようと思います。
秋間川に架かる、その名も「蔵人橋」です。
こちらが大手道があったとされる側になります。


ゴルフ場入口跡

かつてのローズベイゴルフ場の入口ですが、
こちらも封鎖されていて看板より奥には進むことは出来ません。
ゴルフ場であったころは、プレイするか、ゴルフ場に交渉することで
城址碑や案内看板を見ることが出来たようですが、どうやらそれすら叶わぬ状況に
なってしまったようです。
8番ホール付近にあったというあずまやは当然とりこわされたであろう。
その隣にあったとう城址碑と案内看板はどうなったのでしょう…。
その行方だけでも知りたかったのですが、こちらも結末は知ることは出来ませんでした。
もはや先人の記録が貴重なものとなってしまいました。残念…。無念。


宮坂武男氏の「境目の山城と館」に掲載されている城跡でもあるので
様子を見に行ってみたのですが、ゴルフ場から太陽光発電所に変わってしまい、
開発は更に進行形で、ここはもう見学すら叶わぬ消滅した城址として記載するしかあるまい。
せめて、ゴルフ場であった頃に行ってみたかったと後悔しても、時既に遅し…でした。


令和2年2月15日登城できず。



西平城(群馬県)

2020年02月13日 | 百名城以外の城
西平城にしだいらじょう
別名大島上城
構造山城
築城者不明
築城年代室町時代
指定史跡
場所富岡市野上西平 地図

小幡氏の関連城と思われる西平城は別名大島上城と呼ばれ、西平城に対して
小幡氏に仕える家臣の小間氏の城である大島下城が北の丘陵地に築かれていました。
野上盆地を藤田城の城域とし、その防塁として築いています。


入口

上信越自動車道に沿って走る側道脇に入口があります。


大手道

夏場は草が生い茂っていたのでここで断念しましたが、
季節を変えてリベンジです!



昨年の台風の影響でしょうか、道が崩落しています。



車で登って来られるほどの道なのですが、先ほどの崩落で車での
進入は出来なくなっています。



ここは、「大島の火祭り」というお盆の行事として毎年8月16日に
毎年その年にふさわしい一文字を決め火文字にする場所です。
この習わしは1200年続いているそうです。
毎年どんな文字が浮かび上がるのか楽しみです。(予想はしてみますが当たったことがない)
別名「百八灯」とも呼ばれています。
「百八灯」は他にも丹生東城でもお盆に灯されます。
斜面になってますが、本来の大手道はこの斜面を登るようになってます。
この斜面を登るとすぐに郭に出られます。



大島の火祭りのために近代に造られた道はこの先で行き止まりになっています。



道の終点から平場を求めて直登することにしました。



すぐに腰郭に出ました。
見上げると段々になっているのが見えます。



道らしい道が見えないので腰郭を渡り歩くように
横に歩きながら登ります。



見渡すと、ちゃんとした道らしい道というのは見当たらないのですが
獣道のようなうっすら道らしき場所を探りながら
小さな郭群を渡り歩き、頂上を目指します。


四の郭

何とか主郭下の郭までやって来ました。
見上げると小ぶりな郭が階段状にあるので
上へ上へと導かれて行っちゃいます。



斜めになった腰郭がいくつも見えます。
少し横に歩いて東側にある三の郭方面に回り込みます。


虎口

堀切った三の郭の虎口が見えて来ました!


堀切

この堀中を通って主郭へと入って行きます。


三の郭

小さな平場が出来ています。



三の郭から主郭下の堀切を見下ろしています。
正面の小道を登り上げると、いよいよ主郭です。


主郭

今まで見た郭の中では一番広い郭です。
南側には土塁が構築されているのがはっきり見て取れます。


土塁

良い感じの土塁です。
但し、この土塁側はあまり敵が登って来られそうになぜこちら側に?
という疑問もあったのですが、後からこの下の集落の人から集落側からも
登ったという話を聞いて納得しました。


堀切

主郭から西の方を見ると、尾根を切る堀切とその先の二の郭が見えます。


二の郭

西尾根は二段に分かれた二の郭があります。


御岳社

二の郭の西端には御岳社の石祠があります。


眺望

南側(野上)の景色です。



二の郭の西側の堀切の先は城域から外れるので、
西側はここまでで引き返そうと思います。



二の郭から主郭をみると、一段高い主郭と、手前に堀切があるのがわかります。



主郭の南下を覗くと、かつての道があり、西側の堀切へと廻り込んでいます。

巣穴?

主郭の北側にあった気になる穴。
へび城主さまにしては間口が広いし、いのしし武者の掘った穴でもなさそうなので、
勝手に私の好みでうさぎ城主さまの居館ということにしてしまいました



帰りは三の郭以下、東側にある4条の堀で区切られた段状の郭を見てから
最初の大手道へ戻りました。
ちなみに、こちらの堀とされているところは地盤が崩れやすい状態なので
ほとんど埋まっているのか、堀とは認識しずらい状態でした。


前回、入口まで確認して生い茂る草木に時期を変えて出直して来ました。
しかし、昨年の台風により道が崩落していたり、倒木や斜面が滑りやすくなっていることもあり
当時の道もなんとなく見える程度に地形も変わりつつあるのかなと思われます。
それでも主郭付近の遺構は良い感じに残っていて、眺めも良いので楽しめましたよ


平成30年10月21日
令和2年2月2日登城


今回の参考本

腰越城(埼玉県)

2020年02月03日 | 百名城以外の城
腰越城こしごえじょう
別名根小屋城
構造山城
築城者山田氏
築城年代1180年(治承4年)
指定史跡県指定史跡
場所比企郡小川町腰越木落 地図

腰越城は、松山城主上田氏の家老として仕えた
山田伊賀守直定の居城と伝わります。
竪掘りが多く、横への移動が困難な造りで本郭へ至る通路も
複雑なのが特徴で、安戸への入口を守る重要な城と考えられています。



駐車場

町総合福祉センター「パトリシアおがわ」の駐車場をお借りして
腰越城へはここから徒歩で行きます。


案内看板と模型

パトリシアおがわに案内看板と模型があると聞いていたので
施設の中へ探しに行ったのですが、パンフレットなどの資料もなく
諦めてとりあえず城へ行こう!と駐車場の方へ歩き始めたら…駐車場に案内看板がありました。
足元には模型?…これのことだったのか。



案内看板の方向へ。
駐車場は台風で出た瓦礫や使えなくなったものが集められています。



道路を渡ると看板があります。
民家の間の小道を山の方へ進みます。


登城口

榎戸という集落から登り始める入口には、一の木戸を想像させる
入口となっています。
でも、壊れちゃってますね。
これも、台風の影響でしょうか。



案内看板があるので、迷うことなく進めます。



道は遊歩道となっているので整備されています。



尾根に出ました!
ここまでがキツかったあ。
ここを左へ行けば腰越城。右は官ノ倉方面です。



次に見えて来たのが堀と腰越城配置図です。


腰越城配置図

ここで配置図をスマホで撮って、複雑な縄張もこれで攻略



竪掘が見えて来たところで通路は本郭方面へと
橋を渡って堀中を進んで行きます。



道は図のように、複雑に折れ曲がっています。



ここで、本郭へと書いてある、右に進んで行きます。


二の郭

平場に出ました。
二の郭に到着しました。
この辺りには岩や石積みがチラホラと目に付きます。


坂虎口

いよいよ、この坂を登りきると本郭です。
しかし、この坂を登っているうちに両側から攻撃されてしまうという
恐ろしい虎口になっています。


本郭



本郭跡碑

本郭跡碑のある西側には土塁が見られます。


城址碑と看板

本郭には石碑と看板が多くあります。
この案内看板はかなり文字が薄くなっています。





眺望

本郭から小川町が一望できます。



本郭を出て二の郭を西へ。



ぽっかり開いた堀のような部分は、囮虎口の行き止まり部分です。
ここで騙されて登って来た敵兵を上から攻撃


出枡形虎口

西側の抑えとなるのは、この出枡形虎口と囮虎口です。



二の郭と西の郭の堀切までやって来ました。
西側は竪堀となって下に堀を落しています。



堀中から西の郭へと登ります。


西の郭

並郭式の構造を持ち、先ほどの堀切で城は二つに分けられています。
そのことは「腰越村川欠見取図」に残されている絵図を見ると
はっきりと二つに分かれたものが描かれています。



祠があります。



更に奥へ進むとロープが見えて来ました。
物見にでもなってるのか?と思いロープに沿って登ってみました。



本来なら、この先にも遺構があったと思われますが
残念ながら近代になって、石灰岩採掘により消滅しています。
山ひとつなくなってるとか…。



堀切を下って来ると、その先にも下へ道が続いているようでしたが、
そちらは私有地へと続いているようでロープが張られ、立ち入り禁止状態になっています。



道なりに進むと、二の郭の下段へ回り込んで来ました。
石垣と囮虎口があります。
この囮虎口は、こっちだ!と思って登って行っても行き止まりなうえに
上から攻撃を受けるというもの。
先ほど上から見たように、行き止まりになった堀の中を狙うような形になっています。


石垣

ここははっきりと石が積み上げられているのが分かります。
崩れたり、埋もれたりしていて綺麗に残っているところは無いのですが
本郭の周辺や虎口など入り角などに石積みが存在していたものと考えられます。


竪掘

そしてまた、東側の竪掘側に周って来ました。


横堀

ここは竪堀と横堀がセットになっています。
そして先の方は横堀から竪掘へと可変して落し込んでいます。



この上に上がると、もと来た道に戻り1週したことになります。


山城を攻め始めた当時、腰越城は登るのが大変という認識だったため、
ずっと後回しにして来ました。
いくつも山城を攻めているうちに、自分に体力が着いたせいか
いざ、攻めてみたら想像とはまったく違い、整備された比較的初心者でも
ハイキング気分で登れる山城であったことに認識が変わりました。
確かに尾根に登りあげるところが体力消耗しますが、迷子になったり
遭難しそうな危険性はまったくありません。
私は今までどういう情報を目にして、間違った思い込みをして来たんだろう…と。
でも、やっと長年先送りして来た腰越城をやっと攻略出来ました。
めでたし!


令和元年12月8日登城



今回の参考本






八幡山城(滋賀県)

2020年02月01日 | 続百名城
八幡山城はちまんやまじょう
別名近江八幡城
構造山城
築城者羽柴秀次
築城年代1585年(天正13年)
指定史跡
場所近江八幡市宮内町19-9 地図
スタンプ設置場所本山村雲御所瑞龍寺門跡の御朱印所
御城印本山村雲御所瑞龍寺門跡の御朱印所
城郭検定出題あり

豊臣秀吉の後継者として関白にもなった秀吉の甥で養子となった
豊臣秀次の鶴翼山に築城したのが八幡山城です。
山の麓に琵琶湖から水を引き、堀を巡らせ運河としての役割を果たしていました。
本能寺の変の後、安土城が燃えて廃城になると
安土城下の町や寺社、住民など八幡山城下に移住させて
楽市楽座など織田信長にならい、城下町の商業振興を整備しました。
しかし、秀吉への謀反を企てたという疑いをかけられ自刃に追い込まれ
築城からわずか10年で廃城となりました。



ロープウェイ

下から歩けばいいのに、こんな乗り物目の前にして…歩くわけない!
というわけで、行ってきま~す!



景色いい~
15分おきに発車しています。
しかしながら、上からチラチラと見える遺構が気になってしまう…。


スタンプ設置場所

山頂のロープウェイ乗り場に設置されている続100名城のスタンプを
ゲットしました



ロープウェイを降りた先が二の丸です。
早速石垣が見え始めて、ワクワクが止まりません!


八幡山城址のご案内

所要時間が入った便利な看板。


おねがい地蔵堂

中に入ってお願いしました。
なにを?…ナイショです(^_-)



ここでどちらから周ろうか…と迷って右に進むことに。
石垣が見えたので吸い寄せられました^^;



山門が見えて来ました。


山門

立派な門構えです。
屋根には魔除けの飾瓦が載っていて、
京都の御所でもお馴染みの菊の形しています。


本丸虎口

山門を進むと、枡形になった本丸虎口になっています。


瑞龍寺(村雲御所)

豊臣秀次の母であり秀吉の姉である瑞龍院日秀尼公が、
秀吉に自害させられた秀次の菩提のために建立したお寺です。
最初は京都の村雲に創建されたものを、昭和36年にこの地に移されました。


御朱印・御城印所

この日はお正月限定の御城印があったので、もちろん買い!です。
そして、御所拝観有料ということでせっかくここまで来たのだからと
主人を外に待たせて、見学させてもらいました。


本堂

拝観料払っても、瑞龍寺(村雲御所)は見るべしです。
スルーしたらもったいないです。


拝喝の間

拝喝の間の襖絵も時代を感じるものです。



ここでスリッパを履いて、一旦外の廊下に出て本堂から御所へと向います。
私は面倒だったのでスリッパを履かずに外に出たら、足が冷たいだろうと
わざわざスリッパを持って来て下さいました。
お気使い頂き申し訳ありませんでした。ありがとうございました。



廊下の頭上の両側には、日蓮上人の生涯の出来事の絵と解説が並んでいます。


妙法の庭

防空監視所が置かれていました。
よく見ると、小石で「妙法」と形取られています。
かつてはこの石に法華経が書かれていたのですが、長年の風雨にさらされ
現在は読み取ることは出来ません。
廊下には写経石が用意されていて、現在も奉納することが出来るようになっています。


鬼瓦

本堂正面にあった鬼瓦です。


宮御殿・雲の間

京都時代は「貴賓の間」として使用されていました。
昭和52年6月6日 常陸宮両殿下御東山の折に雲の間は
御座所(天皇の居間)となり、小笠原流礼法および煎茶道による
茶菓の接待を受けられました。
貴賓の間の襖絵は、170年前に狩野派が金とプラチナで描いたものです。


宮御殿・楓の間

雲の間も楓の間も、絵柄はシンプルながら
金やプラチナといった豪華さが品格を際立たせています。


豊臣秀次公銅像原型

八幡公園と豊臣秀次公の銅像の原型になったものがこちらにあります。


仏間

書院式に造られた一番奥の部屋は仏間になっていました。
もともと、この部屋は茶室として造られた部屋です。



ここからの眺めも最高です!
京都にあった頃のここからの眺めはどうだったのでしょうか。
茶室と言えば庭ですかね。



とても明るいくて気持ちの良い部屋です。
仏様と語り会いたいとさえ思うような部屋です。
さすが元茶室…。
ここで行き止まりになるので、これにて引き返します。



廊下には写経石が用意されていて、現在も奉納することが出来るようになっています。
ここには椅子しか写ってませんが、隣に机もあって石も用意されていました。



村雲御所と瑞龍寺の境目の扉です。
扉には天皇を示す菊の御紋と寺紋である日蓮宗の紋が付いています。


北の丸

北に張り出している、北の丸へ到着しました。
道中北の丸の方を見ると、石垣造りになっているのが見えました。


ハート型モニュメント

全国の観光地の中からプロポーズにふさわしいスポットを選定している「恋人の聖地プロジェクト」
ということで、良いデートスポットです。


眺望

安土城、観音寺城のある山々も良く見えます。


水郷めぐり

北の丸から見える気になった場所は「水郷めぐり」と呼ばれる場所です。
秀次は、宮中の舟遊びに似せて近従と共に船めぐりをしたと伝わります。



西の丸へ向うと、途中に「大杉秀雲龍神」が祀られています。
そして、本丸下の石垣も目を引きます。


西の丸

西の丸も眺めが良いです!
この先、出丸もあるのですが、今回はそちらまでは行きませんでした。



西の丸を守る兵…ではなく、にゃんこたちです。
地元の方も集まってなじみのにゃんこの様子を見ています。
話を聞いていると、どうやらこの日は勢揃いしていたようです(*^_^*)



西の丸も眺めが良いので、あずまやでもあったらずっと眺めていたい感じ
ところで、このステージみたいな台はいったい何でしょう?


眺望

こちらからも琵琶湖が見えます。
そして、この方向の霞の向こうに京都があるのですね…。


展望館

二の丸へ戻って来ました。
ここでロープウェイ発車時間まで少し休憩。


近江八幡まちかど物語り

豊臣秀次の波乱万丈人生と、苦難をのりこえてきた町民の物語です。



恥ずかしながら、ベンチでツーショット写真を撮ってしまいました^^;
若ければ良かったのですが、中年のおっちゃんとおばちゃんのラブラブ写真など
誰も見たくない!ので写真はもちろん出しません


堀割

さて、麓にある八幡堀にやって来ました。
八幡の城下と琵琶湖を結ぶ運河です。


倉庫群

今も残る堀沿いの土蔵や倉庫群が日本の古き良き風景を醸し出しています。



石垣で造られた堀がたまらんです


やっと念願だった八幡山城へ来ることが出来ました!
ロープウェイも楽しみでした。
しかし、この日は朝から体調不良で行って来られるのか心配でしたが
やはり楽しみにしていただけに行ってしまえば、夢中にあちこち見ている
間は病も忘れてしまっているというか…^^;
主人が村雲御殿を見ておいでと言ってお金を払ってくれていたので
おかげで良いものを見せていただきました。
これは感謝です。ありがと!


令和2年1月4日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス