1561年(永禄4年)
第四次川中島の戦いで、上杉謙信は海津城の南西約2kmの位置にある妻女山に本陣を構えた。
上杉謙信鎗尻の泉
妻女山への道を案内看板通りに進み、高速道路脇を通過して間もなくすると石碑が見えてくる。
湧水
妻女山に伝わる民話
川中島の合戦の時妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折麓の会津比売神社や岩野村にあった聖観音菩薩像に赴いていた。
ある日のこと、帰途についた謙信は、あまりにのどが渇いたので、馬から降り家来の直江山城守に、「槍をかせ!」と命じ「妻女におわすよろずの神よ、我に清き水を与え給え!」と地に伏し一心に祈り、そしておもむろに立ち上がって空高く槍を構え、「えい!やっ!」と地面に槍の石突きで強く突いたところ、そこから勢いよくきれいな水が湧き出したのである。
という言い伝えのある湧水がありました。
さらに山道を進む。。。
右手に展望台と神社、トイレ、駐車場が見えて来る。
松代妻女山招魂社
戊辰戦争の際、松代真田藩の藩士として従軍し、戦死した御霊と日清、日露、満州、日中、そして太平洋戦争終結までの尊い命を祖国日本のために捧げた郷土の戦没者の御霊を祀る慰霊施設である。
平和を願い二度と悲惨な戦争を起こさぬよう、毎年9月の第2日曜日を「慰霊の日」と定め、追善供養を行っているそうです。
妻女山展望台
ここから川中島平は一望できて海津城の動きを伺い知ることができた。
ここで謙信は武田方の戦の準備を察して山を下り信玄の本陣を目指し、武田軍の別働隊が妻女山に夜襲をかけた時にはすでに上杉軍は八幡原に布陣していた。
武田信玄の軍師山本勘助の作戦「啄木鳥戦法」は失敗に終わった。
この展望台は、信州のサンセットポイント100選のいとつで夕日鑑賞をしたり、夜景が鑑賞できるスポットでもある。
平成28年7月10日 訪問
第四次川中島の戦いで、上杉謙信は海津城の南西約2kmの位置にある妻女山に本陣を構えた。
上杉謙信鎗尻の泉
妻女山への道を案内看板通りに進み、高速道路脇を通過して間もなくすると石碑が見えてくる。
湧水
妻女山に伝わる民話
川中島の合戦の時妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折麓の会津比売神社や岩野村にあった聖観音菩薩像に赴いていた。
ある日のこと、帰途についた謙信は、あまりにのどが渇いたので、馬から降り家来の直江山城守に、「槍をかせ!」と命じ「妻女におわすよろずの神よ、我に清き水を与え給え!」と地に伏し一心に祈り、そしておもむろに立ち上がって空高く槍を構え、「えい!やっ!」と地面に槍の石突きで強く突いたところ、そこから勢いよくきれいな水が湧き出したのである。
という言い伝えのある湧水がありました。
さらに山道を進む。。。
右手に展望台と神社、トイレ、駐車場が見えて来る。
松代妻女山招魂社
戊辰戦争の際、松代真田藩の藩士として従軍し、戦死した御霊と日清、日露、満州、日中、そして太平洋戦争終結までの尊い命を祖国日本のために捧げた郷土の戦没者の御霊を祀る慰霊施設である。
平和を願い二度と悲惨な戦争を起こさぬよう、毎年9月の第2日曜日を「慰霊の日」と定め、追善供養を行っているそうです。
妻女山展望台
ここから川中島平は一望できて海津城の動きを伺い知ることができた。
ここで謙信は武田方の戦の準備を察して山を下り信玄の本陣を目指し、武田軍の別働隊が妻女山に夜襲をかけた時にはすでに上杉軍は八幡原に布陣していた。
武田信玄の軍師山本勘助の作戦「啄木鳥戦法」は失敗に終わった。
この展望台は、信州のサンセットポイント100選のいとつで夕日鑑賞をしたり、夜景が鑑賞できるスポットでもある。
平成28年7月10日 訪問
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