むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

洲本城(兵庫県)

2019年05月30日 | 続百名城
洲本城すもとじょう
別名三熊城
構造山城
築城者安宅治興
築城年代1526年(大永6年)
指定史跡国指定史跡
場所洲本市小路谷 地図
スタンプ設置場所洲本市立淡路文化資料館
御城印洲本市立淡路文化史料館
城郭検定出題あり

洲本城は、豊臣秀吉の命によって脇坂安治の淡路支配の拠点となった城跡です。
三熊山の山頂に築いた「上の城」と山麓に居館を置いた「下の城」とで構成されています。
下の城では御殿が設けられ、藩の政治を執り行う場でもありました。
東と西の斜面には登り石垣配し、上の城、下の城両方のを一体化して
防御している様子が特徴的です。



大手口

登ってきてまずここで「おお~!」と思わせる石垣の大手門跡に圧倒されます。


馬屋曲輪

ここまでは車で登って来ることが出来ます。
ここが満車の場合は大手口下にも駐車場があり、麓にも駐車場があります。



ここから先は徒歩になります。
山城ながらここまで車で来られるのはありがたい。
では、いざ!


南の丸隅櫓跡(継ぎ足し石垣)

目の前に威圧的に飛び込んで来る高石垣です。
櫓台を継ぎ足したことで石垣も迫力を増しています!
石垣に継ぎ足しの切れ目があるのですが
なんとな~くお分かりいただけますでしょうか^^;
苔や草で覆われて分かりずらいのですが、2度の普請があったことを確認出来る場所です。


中務母義の郭

本丸下にある、脇坂安治の母の住まいがあったとされる郭です。


本丸大手
本丸を目前とした大石段。
ここを登ると本丸虎口が待ち構えています。


本丸虎口

枡形になった虎口で、門の礎石も残されています。


本丸

本丸に到着しました。
ちょっと日本風ではない?ような模擬天守がお出迎えです。


芝右衛門大明神
かつて三熊山のてっぺんには愛嬌者の狸が住んでいました。
満月の夜には陽気に腹鼓を打ち、時には人間に化けて木の葉のお金で買い物したり
いたずらもしましたが、夜道に迷った旅人を助けたり人々に愛される狸でした。
浪速の芝居を毎日観に行っていると、お金箱に木の葉が入っていたことで
狐か狸の仕業に違いないと思った芝居小屋の主人が犬を三匹連れて来きました。
「今日も面白かった。淡路に帰って皆の衆に話してあげよう」とつぶやきながら
何も知らずに芝居小屋を出てきた狸は、犬に発見され噛殺されてしまったそうな。
村人たちは悲しみ、そんな愛嬌者の狸を偲びここに芝右衛門大明神を祀るようになりました。

この辺りでよく狸の置物を見かけたのはこのような伝説があったからなんですね。
家の庭先に大きな狸の置物を置いているのを何軒か見かけて、ここは信楽?とさえ思って
とても気になっていましたがここに来てガッテンです。






小天守跡

小天守は台所櫓であったと考えられ、天守と渡櫓で結ばれていました。


模擬天守
昭和天皇の即位を記念して建てられた模擬天守です。
模擬天守としては日本最古と言われています。



天気が悪く、靄がかかっています。
晴天であればさぞかし綺麗な海が望めたのでしょうね。残念無念。
しかし、目の前の石垣の角に穴が!!


本丸北虎口

本丸天守台から見下ろした本丸北側の虎口です。


本丸搦手虎口

北側からの敵の侵入を防ぐために設けられた虎口で、
正面には鏡石があり、侵入者を威圧しています。


搦手口

脇坂氏在城初期の頃はこちら側が大手口だったと考えられ、
しっかりした造りになっていることにも納得がいきます。



北側から見上げた天守台と模擬天守。



このまま下って西登り石垣を見に行きたいと思います。


西登り石垣
かなりあちこち崩れてしまっていて直線に延びている様子はうかがえませんでした。
しかし、ここから上を見上げると山肌に転々と石垣が
小刻みに見えるのでそれを見て由としました。



このようなしっかりとした石垣が見えたりもしています。



道より上の方に石垣の一部が見てとれるのですが
山肌をよじ登ると崩れたり、遺構を破壊しかねない状況なので
せっかくここまで来ておきながら、ちゃんとした画像が撮れないのは残念ですが
道を外れてまで見に行くことは今後のことも考えて遠慮しておきました。


三熊山の岩石

岩の中に小石が混ざっているのが見えます。
まず登城し始めて石垣の石に小石混ざりの石が使われていたのがすごく気になっていたのですが
これで地場で伐り出した石で石垣が積まれていることがわかります。


本丸台南面の石垣

西登り石垣から引き返して南の丸まで戻って来ました。
南側の高石垣も見事です。


南の丸
南の丸は後に拡張され、南側の守りを強化しています。



中務母義の郭下から東の丸へ。
中務母義の郭側の石垣が大きく崩れてしまっています。


八王子社

洲本城の鎮守の神様で、安宅氏が築城の際に祀ったものと伝わります。


東の丸

東の丸(二段の郭)です。
この先、東二の門で区切られてその先は武者溜郭になります。


東二の門

本丸と水の手を守る重要な虎口で、ここには門も設置されていました。



この高石垣は文禄・慶長期のものですが、
この上の石垣は仙石秀久によって造られた、洲本城では最も古い石垣があります。


武者溜
かなり広い武者溜になります。
しかも眺めの良い位置にあります。



今は周囲に木があって一部の方向しか見渡すことが出来ないですが
この木が無かったら…と妄想するとかなりの範囲が見渡せることが想像出来ます。



木の途切れたところから見ると、素晴らしい眺めです。
ここでも晴れていたら絶景かなと悔しい気持ちでいっぱいになりました。
ここで、海から迫り来る海軍を見張っていたのではないでしょうか。


東一の門

直接山麓の居館へ登り降り出来る通路になっています。



武者溜のこの眺めなら逸早く敵の侵入を発見し、
ここから一気に下の城まで駆け降りて出陣出来たことでしょう。


日月池
谷地の湧水を石垣を築いて池にしています。
近くには井戸もあり、水は枯れることがありません。


日月の井戸

日月池のすぐ近くの南側にある井戸。
井戸の底の岩盤に日月の彫刻があると伝わります。



井戸の中を覗き込むと、水がすぐそこに見えています。
深さがどのくらいあるのかはわかりませんが、これならば水の心配は無さそうですね。


淡路文化史料館
下の城には現在「淡路文化史料館」がある場所に徳島藩の役所とされた東民政所がありました。



入口には芝右衛門狸の置物があります。
このようにこの城下では沢山の狸の置物を見かけます。


スタンプ設置場所

淡路文化史料館のロビーに続日本100名城のスタンプが設置されています。
こちらでは洲本城のクリアファイルと資料を買いました。


東民政所跡

淡路文化史料館には堀、石垣が残っていて写真の右奥には櫓台も見えています。


こんな立派な石垣がこれほど沢山見られるとは思ってなかったので
登城早々から雨だというのにハイテンションで行って来られました。
GW中だというのにこの天気の悪さからか、他に観光客も少数で
ほぼ貸し切り状態だったのは不幸中の幸いでした。
やはり一番残念だったのはこれだけの眺めの良い立地なので晴れていれば新潟県の村上城並みに
居心地の良い城跡であったのだろうなと想像すると、あ~悔しい。


令和元年5月1日登城



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続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



高松城(香川県)

2019年05月27日 |  百名城
高松城たかまつじょう
別名玉藻城
構造平城
築城者生駒親正
築城年代1588年(天正16年)
指定史跡国指定史跡
場所高松市玉藻町2-1 地図
スタンプ設置場所高松城東入口・高松城西入口・玉藻公園管理事務所
城郭検定出題あり

高松城は天正16年に生駒親正が築城した、海水を堀に引き込み船蔵を配した水際城です。
生駒氏は丸亀城城から高松城へ移り、後に御家騒動のため出羽の国へ転封となり
伊予西条藩主一柳氏が城を預かることになり、そのご徳川国光の兄で松平頼重が入封し
明治まで松平氏が続きました。
天守は明治になって壊され、艮櫓、月見櫓、水手御門・渡櫓が現存しています。



駐車場

東入口に無料駐車場が完備されています。
車で来られた方は西入口ではなく、東入口が便利です。


旭橋
三の丸御殿造営に合わせて桜の馬場に設けられた
太鼓門枡形に入るための大手口になります。
旭橋は、かつて木の橋でしたが大正元年に石橋に改造されました。
旭門の石垣は、城内では最も新しい石垣で切込接になっています。


艮櫓

この艮櫓は東の丸にある艮櫓跡から太鼓櫓跡(現在地)に移築されたもので
石落しや鉄砲狭間を備えた造りになっています。


中堀
海水なので海の魚が見られるそうですが、この日は発見することは
出来ませんでした。


東入口

旭門を入ると入城受付があります。
日本100名城スタンプはこちらと、西入口と玉藻公園管理事務所にあります。
200円を支払って入城です。


太鼓御門跡・太鼓櫓跡

隅櫓は二重櫓が多いのですが、高松城の隅櫓は三重で5基もありました。
三重櫓を天守に見立てるところもあるくらいなので
西国の外様大名に対しての押さえの城であったと考えられます。


旧東の丸艮櫓

城内からの艮櫓です。
外側から見た時と比べて、こちら側の石落しはひとつ少ないです。


太鼓御門跡

ここは桝形になっていて、奥の方には石をくり抜いたところに
埋門があります。(写真右奥にちょっとだけ見える)


桜の馬場

L字形をした曲輪です。
かつては屋敷が置かれていましたが、三の丸御殿の造営により
屋敷の跡地に馬場が置かれました。


桜御門跡

三の丸の正門(櫓門)であった桜御門は1945年の高松空襲によって
焼失してしまいました。
焼失跡の残る痛々しい面も見える石垣です。


鞘橋

本丸と二の丸を繋ぐ橋で、生駒氏の時代は普通の木橋でしたが
松平氏になると屋根が付けられ廊下橋へと変更されました。


天守台
2007年より天守台を解体修理をして2012年に完成し、翌年より一般公開されています。
発掘調査により、穴蔵構造であったことが判明し復元されました。


披雲閣庭園

大正時代の披雲閣建築に伴い、東京の庭師大胡勘蔵によって披雲閣の庭園も作庭されました。
近代になってから旧城主によって、城の中に江戸時代の庭園を一部残しつつ作られた庭園としては
希少な事例であるということから、平成25年に国の名勝に指定されました。


水門

二の丸と三の丸の間に、海水を内堀に取り入れるための水門があります。
なんと、ここでは鯉の餌やりではなく「鯛の餌やり」の体験が出来ます!
餌を求めて真鯛と黒鯛が集まってくるそうです。
「鯛願城就」といことで楽しみにしていたのですが…残念ながら実現ならず


鉄門

二の丸と三の丸の間の門で、鉄板が貼られた門であったことから
鉄門と呼ばれていました。
よ~く見ると、鏡石に鉄板の錆が縦にのこっているのが確認出来ます。


二の丸跡
この先に本丸へと繋ぐ廊下橋が復元されています。
一番の目的であった廊下橋と天守台へは散策に行けなかったので
天守再建が叶ったらリベンジに来たいと思います。


西入口
西入口から出てきたところです。



かつてこの辺りは海に面していました。
現在も潮の満ち引きで堀の水量が変化します。


武櫓跡

この石垣、石も積み方も途中で変わっているのが
とても気になりました。


月見櫓・水手御門・渡櫓
藩主は水手御門から小舟に乗って沖の御座船に乗り移ったそうです。
防御のために水手御門の左右の櫓には石落しが備えられています。


月見櫓
当時は瀬戸内海に面し、船が到着するのを監視していた三重櫓です。
月見櫓というと優雅にお月見する櫓を思い浮かべてしまいますが、
ここでの意味はお着見(船)という意味で着見櫓とも呼ばれています。


艮櫓跡
香川県民ホールの敷地内に本当の艮櫓跡があります。
東の丸米蔵曲輪を守る海に面した櫓がありました。
ここにあった櫓は現在太鼓櫓跡に移築されています。



東の丸から見た内堀と旭橋です。


感想は…西入口(受付)にて悲しい出来事に遭遇したため今は感想を述べるに至りません。
天守と桜御門が再建されることをお祈り致します。


令和元年5月1日登城



日本100名城に行こう 公式スタンプ帳つき
日本城郭協会
学研プラス

岡豊城(高知県)

2019年05月25日 | 続百名城
岡豊城おこうじょう
別名
構造山城
築城者長宗我部氏
築城年代鎌倉時代
指定史跡国指定史跡
場所南国市岡豊町八幡 地図
スタンプ設置場所豊岡城詰の櫓内・高知県立歴史民俗資料館二階総合案内
城郭検定出題あり

岡豊城は長宗我部元親の生まれた城で、ここから初陣を果たし土佐統一を成した場所です。
幼少時代は「姫若子」と呼ばれ、とてもおとなしい性格でした。
長宗我部の祖は信州より土佐へ移った秦能俊とも云われ、土佐の国宗部郷の地頭になり
築城したとされますが、その時期は定かではありません。
そして現遺構をとどめるまでになったのは、戦国期の元親の父国親の頃と考えられています。


駐車場
歴史民俗資料館の駐車場を利用しました。


長宗我部元親飛翔之像

階段を登って二階の踊り場に出ると長宗我部元親飛翔之像があります。
この銅像はSNSアイコンなどで目にしたことがあるので「これだあ!」と
初めて見たはずなのに親しみのある銅像です。
かっこいいですね


高知県立歴史民俗資料館
まずはこちらで続100名城のスタンプを…と思って入ったのですが
そのまま見学することに。



というのも、この日はなんと開館記念日「れきみんの日」ということで入場無料のイベントが催されていました。
3階にある展示室からスタートして2階長宗可我部展示室、1階企画展示室まで
館内にちりばめられたクイズを解いて記念バッジをいただきました
おかげで、汲まなく見学出来ました。


スタンプ設置場所

総合案内の受付カウンターで声を掛けてスタンプを押しました。



館中での撮影は禁止になっているので、撮影可の場所だけ(受付で確認)の撮影をさせて頂きました。


長宗我部軍本

二階にある長宗我部展示室では本陣コーナーのみ個人利用の写真撮影はOKです。




豊岡城跡はここからすぐ。
スタンプだけでなく、ぜひ城跡へも足を延ばしてみて下さいね。


岡豊城跡全体案内板

右回り、左回り、どちらからも散策できますが私は時計回りで散策したいと思います。



まずは一番近い二ノ段へ。


二ノ段
二ノ段に着きました。
わりと広く、眺めも良さそうですよ


土塁

低いですが郭を囲む土塁があります。


眺望

資料館まで車で登って、そこから少し登っただけなのでそれほど登った感は無いのに
これだけの眺望です。




堀切に架けられた橋からは、堀切と井戸跡が見られます。


堀切

豊岡城には全体で7本の堀切があります。
そのうちの1本で、詰(主郭)と二ノ段を切る堀切です。


井戸跡

二ノ段と詰下段の間にある井戸は堀切の下に位置します。
北と南は石積みがされていて、深さは…現在土砂で埋まっているので当時の深さは
知り得ることは出来ません。


詰下段礎石建物跡 

詰(主郭)の東側、一段低くなった場所にある郭です。
二ノ段から詰への出入り口を守るために造られた郭で建物跡もみつかっています。
機能については明らかになっていないのですが、狼煙台とも考えられています。


詰(主郭)

岡豊山山頂にあたる場所で、主郭にあたるのが「詰」です。
礎石建物の跡がみつかっており、天守の前身ともみられる大きな建物があったとされています。


城跡碑

詰にある城跡碑。


土塁

詰(主郭)を囲む土塁はしっかりと残っています。


城八幡
城を守るべく、詰(主郭)の北方にある社です。


三ノ段

石積みと礎石建物跡の間には溝がきられており、南側が低くなっていることから
排水路が設けられていたものと考えられています。


搦手

四ノ段虎口へ。


四ノ段虎口

四ノ段虎口にも石積みが見られます。
ここには内搦手の柵門があり、搦手側の防衛の役割を果たしていたものと考えられています。


大手

ここから南から東へ四ノ段を回り込み三ノ段へ登り、主郭へ抜ける大手道になっています。 


岡豊城跡碑

四ノ段から展望広場へ下る途中にある城跡碑です。
詰(主郭)にあったものよりはるかに大きいです。


展望広場

ここは展望広場…なのですが、残念なことに木々が邪魔して視界が悪いです。


大手

四ノ段から詰(主郭)に戻ります。
ここは内大手とされ、主郭へ至る重要な場所として柵門があったと考えられています。



井戸の下の道を下って来ました。
何気なく見上げてみたら石積みが見えました。



再び高知県立歴史民俗資料館へ戻って来ました。
GW中のイベントをやっていたので、せっかくなのでそちらも覗いてみました。


公開実演

礎石の上に柱を立てます。
柱を石の丸みにあわせてあるのがわかります。



土佐の大工さんによるカンナの掛け方を体験させていただきました。
ムラなく薄く削るのって難しいんですよ。
自分で削ったカンナ屑をいただいてきたのですが木の香りがものすごく良くて
車の中に良い香りが漂い、良い消臭剤となりました。


長宗我部氏のルーツが信州にあったという説にはびっくりでした。
この件に関してはとても興味深い説なので、もう少し調べてみたいなあと思います。



令和元年5月3日登城



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続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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安田城(新潟県)

2019年05月22日 | 百名城以外の城
安田城やすだじょう
別名安田館・安田陣屋
構造平城
築城者安田氏(大見氏)
築城年代鎌倉時代
指定史跡県指定史跡
場所阿賀野市保田4807-1 地図

安田城は大見安田氏の居城で安田氏が上杉氏に従って会津に移ると
村上藩の重臣吉竹右近が在番しました。
その後、村上氏改易により堀直竒の支配となりましたが
一国一城令により廃城となりました。


虎口
こちらが表と見える道ですがここが大手なのかは定かではありません。


駐車場
正面の建物は図書館で、右側の建物が体育館です。
こちらの駐車場を借りて公園内を散策です。


水堀

城跡らしいというか公園らしいというか、まずは水堀が出迎えてくれます。


本丸

右側の高まりが櫓台になります。


櫓台

堀以外、この櫓台がなんとなく遺構かな?と感じる場所です。



櫓台からの眺め…と言ってもあまり高さが無いのでここからの眺めはこんな感じです。^^;



この奥には遊具があって親子が楽しそうに遊んでいたので邪魔をしないよう遠巻きに歩き、
撮影は遠慮しました。


交通公園

手前は誰も遊んでいなかったのですが、まるで自動車教習所のような公園になっています。
しかし、ここに遊んでいる子供達にはまったく興味は無い様子…。
城跡にはちょっと似合わない風景ですね。



本丸と二の丸の間には水堀が巡っています。
堀の部分はそのまま今も残されていて公園として引き立てています。


佐藤彌吉碑

野球場と堀の間を水路(東)へ向かって奥に進んで行くと、この石碑があります。
水路沿いの道の上から見えたので城址碑か!と期待して見に行ったのですが違いました。


公園入口(水路側)

虎口としてみたものの縄張り図を見るとここには橋もなく、
これは水路と公園を造った時に造られた出入口のようです。
左上の道路に出ると、隣に二の丸を分断した水路がありその奥にも城域が続いています。


城ノ内野球場

この辺りは二の丸であったと思われますが遺構はまったく残っていません。


野球場や体育館、水路などで遺構が改変されてしまっていまが、
グーグルマップで全体を見ると城域と城跡の形が分かるのが救いです。
縄張り図と照らし合わせて想像できる範囲なので水堀や櫓台に思いを馳せて散歩するのも良いものです。
そして、花が多いので目に飛び込んでくる緑や花の色が鮮やかで結構癒されました。


令和元年5月12日登城



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日本城郭大系〈第7巻〉新潟・富山・石川 (1980年)
平井 聖
新人物往来社

虚空蔵山城(長野県)

2019年05月21日 | 百名城以外の城
虚空蔵山城こくうぞうざんじょう
別名御殿城
構造山城
築城者村上義清
築城年代1542年(天文11年)
指定史跡
場所上田市上塩尻虚空蔵山 地図

虚空蔵菩薩を祀ったことからこの名の付いた山や城跡は数知れず。
険しい山頂にある城跡は神聖なる場所と納得させられる高さであろう。
その眺めは村上氏の連珠砦・上田・塩田平・坂城をも一望出来ることもあり
軍事的に重要な場所であったと推定されます。


なんじゃもんじゃの木

「イヌサクラ」は北海道以南の山野に自生する。
この地方にめずらしい種類の大木なので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれています。


林道分岐

太郎山林道と勝負平林道の分岐にやってきました。
まずは太郎山林道を進んでみましたが虚空蔵山城へ取り付く場所がみつからなかったので
引き返して勝負平林道へ。


勝負平林道

途中、すれ違いは出来ません。
荒れている個所もあるのでタイヤの心配がされる路面状況です。


駐車スペース

数台停めておけるスペースがあります。



駐車スペースのある場所に付けられた階段。



登ってみると縦走路があります。


現在地案内図
このように案内図もあり、道も整備されているので歩きやすそうです。


物見城
ここから物見城まで10分ほどで行けるようです。


勝負平(菖蒲平)方面

勝負平(菖蒲平)方面へ登ってみました。
尾根伝いに道が続いています。


爪跡
縦走路沿いの木には熊の爪跡
この日は雪が舞う寒さではありましたが、桜も咲く季節とあって
熊も目覚めていることでしょう。
これはビビりスイッチ入りました。そそくさと退散!!



急いで下ります!


虚空蔵山方面

虚空蔵山城へ行くにはこちらへ。



今回は虚空蔵山への入口を見て帰りました。
もう少し早い時期に来れば良かったと後悔したものの、次ぎの日には
ツイッタ―のフォロワーの皆様が行かれていたのを見て、自分のビビりが
恨めしく思った次第です。
難所でもあるので体制を整えてまた挑んでみたいと思います。



平成31年3月31日登城



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五十公野城(新潟城)

2019年05月20日 | 百名城以外の城
五十公野城いじみのじょう
別名
構造丘城
築城者五十公野氏
築城年代不明
指定史跡
場所新発田市五十公野 地図

五十公野氏は新発田氏の支族で、御館の乱では上杉景勝を勝利に導く働きをしたにもかかわらず
恩賞が薄く、理不尽な論功行賞に怒り景勝に敵対しました。
織田信長と結び新発田氏と共に景勝と争うことになり景勝軍の藤田信吉に取り囲まれ滅亡しました。


登城口

ここから登って行きます。
前回はここで引き返してしまったので、リベンジです!



昨年は時間の都合で登城口までの紹介しか出来ませんでしたが、
忙しいながらも本丸まで攻めに行って来ました!



別れ道にさしかかりました。
こちらは正面(左側)の道です。
道が広く整備されているのでこちらが正解か?
でも、奥の方は草木が生い茂っているようにも見えます。どっちにしようかな…。



こちらが右側へ行く道です。
さて、どちらへ進もうか…道は細いがこっちの方が本丸に近い気がします!
私はこっち!
主人は真直ぐと二手に分かれて進んでみることに。



前回は真夏だったので草木が生い茂り虫も多かったので登城する
気力もなかったのですが、今回は今のうちならと虫を振り払いながら進んで行きました。



頂点?と思いきや、そこから道は下っています。
そして、ここで主人と合流しました。
どうやら道は繋がっているようですが、主人の進んだ道はあまり人が通った気配は
無かったそうです。(蜘蛛の巣の様子や足跡から)


堀切

下りきったところに堀切がありました。
浅いものではありますが堀切った感じははっきり見てとれました。
草木でとてもわかりずらいのですが先ほどの堀切と、ここは二重堀切になっている場所です。
手前と奥に堀切が二つあるのがわかるかな?



二重堀の二つ目の堀切に居ます。
ここからまた登りになります。



平場に出ましたが、小道になっているところ以外は草で平なのがよくわかりません。
L字になった東の主郭部分で居住区になっていたものと思われます。


主郭虎口

切った木が置いてある右側は堀切になっています。
その先は土塁があり西の主郭になっています。


主郭

主郭に出ました。
平場になっていて周囲には主郭を囲むように低い土塁が巡っているのが確認出来ます。


城址碑

昭和57年に設置された城址碑。


城址碑裏

城址碑の裏には説明文の他に発起人や協賛が刻まれています。


虎口
ここを虎口と言っていいのかわかりませんが、ここからスベリ台のような角度で
道が下っています。



写真だとわかりずらいのですがかなりな角度の急勾配です。
こちらから登れば主郭には近いのですが、この急な坂を登るとなると
かなり体力が奪われそうです。
こっちから攻めなくて良かった^_^;



中学校の裏に着地しました。
かつて尾根上に広い郭と堀切に区切られた郭が120mほど延びていたそうですが
この中学校の建設にともない削平されて失われたそうです。



そしてこの辺りには屋敷があったと思われます。



一周して来ました。


かつてはもっと大きい規模の城郭だったのでしょうが、近年になって中学校の建設や林道整備のために
かなり削り取られたようです。
昨年夏に訪れた時も一見山城は時間を要すると判断して先を急いだものですが
こんなにこじんまりしてると思ってませんでした。
攻城団での所要時間を見てもあまり時間を要していないのでそんなに簡単に登れてしまうのか?
と思ったのですが、確かに主郭までの所要時間は短く、
道も悪くないので初級コースです。(夏場は藪)
春秋に行くのであればもう少し遺構が見やすいのかなと思います。


平成30年7月21日登城
令和元年5月12日登城


甲信越の名城を歩く 新潟編
福原 圭一,水澤 幸一
吉川弘文館

勝瑞城(徳島県)

2019年05月17日 | 続百名城
勝瑞城しょうずいじょう
別名阿波屋形・下屋形・勝瑞屋形
構造平城
築城者小笠原長清
築城年代鎌倉時代
指定史跡国指定史跡
場所板野郡藍住町勝瑞字東勝地29―2 地図
スタンプ設置場所勝瑞発掘現場事務所 武田石油(土日のみ)
城郭検定出題あり

室町時代に阿波守護となった細川氏は、当初秋月に守護所を置きましたが
勝瑞に移転し、阿波の政治・経済・文化の中心地として中央政権をこの地で発展させました。
天正期になると戦国の世になり、土塁や堀を持つ勝瑞城が築かれました。
土佐の長宗我部氏が攻め込んで来たことで城主の三好氏は勝瑞城館に籠城しましたが、
持ち堪えることが出来ず開城して讃岐に退いてしまいました。



駐車場

勝瑞城跡側にある駐車場を利用して散策をはじめました。
勝瑞城だけを見るのであればこちらが近いですが、ここを含め館跡も散策するようであれば
館跡の方が広いのでそちらの駐車場をお勧めします。



三好家の菩提寺である龍音山見性寺の境内が勝瑞城の城域になります。
また、境内には之長・元長・義賢・長治らの墓も並んでいます。



長宗我部氏が阿波侵攻をして来た際、十河存保は織田信長に救援を要請して
豊臣秀吉から勝瑞の守りを固めるよう指示がされ、その時に勝瑞城も
強化されたものと思われます。
奥に見える建物が見性寺です。



中富川の戦いで織田方である三好勢の十河軍と長宗我部軍とがぶつかり合い、
織田軍も長宗我部征伐へ向けて兵を起すことが決まっていたはずが、本能寺の変によって中止となりました。
この状況から本能寺の変は明智光秀と長宗我部元親の共謀説、長宗我部元親の黒幕説が
浮上しているのですが果たしてその真相はいかに?

そして、約23000の兵を率いた長宗我部軍と矢上城で対峙し、
5000の兵で対抗するも戦死者800余人を出し、勝瑞城へ逃げ帰り
この地で攻防戦となりました。


勝瑞義冢碑

三好氏の盛衰と戦没者の慰霊文を記した石碑で、
勝瑞城と運命を共にした将士の霊を慰めて、往時をしのぶもののようですが
裏に書いてある文字はすべて漢字で容易には読めません。



南側には南千間堀が巡っています。



剣道14号を渡り、ローソンのある通りを南に向かい
整備中の勝瑞館跡へと徒歩でやって来ました。


案内看板

これで見ると、館は広く庭園もあって平和そうに見えます。
後に造った戦うための城郭は、籠城するにはちょっと頼り無く思えてしまう
規模のものであるのが見えてしまいます。


駐車場

ここに駐車場もあります。
駐車場の南側が池泉庭園になります。



続100名城のスタンプがこの奥でやっている発掘現場の事務所にあるというので
行ってみたいと思います。


発掘状況
発掘状況を示した案内看板があります。


濠跡

発掘、復元された城館の濠跡です。


勝瑞館跡

正面奥が勝瑞館跡です。


枯山水庭園

建物の手前に枯山水庭園がありました。
城館跡からは香道具や茶道具などが出土しており、
三好氏が勝瑞の茶屋で堺の商人らと茶会を開いたことも記録に残されています。


勝瑞城発掘現場事務所

GW真っ只中とあってやはりここはお休みです。



勝瑞城発掘現場事務所は閉まっているので他に行くことにします。
とりあえず、わかりやすそうなガソリンスタンドを目指そうと思います。


武田石油

武田石油にやって来ました。
勝瑞城館のすぐお隣にもガソリンスタンドはありますが、そこにお邪魔したら違いました。
親切に武田石油を教えてくださり感謝です。(間違えてごめんなさい)

武田石油でスタンプを押すと、私が着ていた攻城団のTシャツに目が止まったようで
少しお話をしました。
「城がたり」の記念Tシャツ(丸岡城)を着ていたのですが
写真撮らせて下さいとうれしい申し出がありました。
フェイスブックに掲載したいとのことでしたが、Tシャツに自信はあっても
自分の容姿に自信が無い^^;ので、非常に申し訳ないのですが遠慮させていただきました。
本当にごめんなさい。
次回訪問にはぜひ載せてもらえるよう自分磨きして来ます!その時は宜しくお願い致します。
というわけで、続100名城のスタンプ管理されている武田石油さんの
フェイスブックもぜひ御覧になってみてください。



家族を車に残して、スタンプを押す時間だけもらっての訪問だったので
小雨の中、傘もささずにスタンプ帳とカメラだけ持ってひたすら走りまわりました。
ここまで来てスタンプだけじゃ悔しいので、立ち止まることなくとにかく流れるように
写真を撮れるだけ撮りながら駆け抜けて来ました。
復元はまだまだこれからという感じなのでこれからの発展を期待するところです。


令和元年5月1日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

矢沢城(長野県)

2019年05月15日 | 百名城以外の城
矢沢城やざわじょう
別名
構造山城
築城者矢沢薩摩守綱頼
築城年代天文中期
指定史跡
場所上田市殿城 地図

真田幸隆の弟である綱頼が矢沢家を継ぎ、居城としていたのが矢沢城です。
幸隆の子、真田昌幸の家臣としても活躍していました。
真田信繁(幸村)が越後の上杉景勝に仕えていた際は矢沢綱頼の子である三十郎頼定が
信繁の供として越後春日山へと出向いています。
徳川軍との上田合戦の際には三十郎頼定が矢沢城を守り徳川軍勢を退けたと伝わります。
後に真田信之に従い松代へ移り、廃城となりました。



駐車場
右の民家隣に4台分ほどの駐車場があります。
満車の場合は少し歩きますが矢沢陣屋の駐車場を利用できます。


案内看板
駐車場の道向かい、矢沢城址公園登り口付近に案内看板があります。


大日堂

建て替え中の大日堂。
このブログを公開する頃には完成してることでしょう。



登り道の途中から見える伊勢崎城(虚空蔵山城)。



ここから各郭が配されています。



左右に郭があります。




石で囲ったこの場所には池があったとされています。



西側は帯郭のように細長い郭が段状にいくつも配されています。


英霊塔

英霊塔のある郭です。



奥の郭には石碑とあずまやが見えます。


石碑とあずまや

あずまやと石碑(家臣である田中氏の碑)があります。


神社

主郭下にある神社はの云われは不明ですが、城内それも主郭に近い位置にあることから
矢沢城の守り神であることが想像出来ます。(詳細がわからないので想像です)



神社背後に石垣が見られます。
この石垣の上が主郭になります。


主郭

遊歩道のごとく道なりに神社から主郭へと登って来ましたが、
本来の大手道としては神社裏を通り、二の郭へ入り主郭に進むのが当時のルートだったらしい。


二の郭

主郭からゆるく北側へ一段下がったところに二の郭が続いています。


城山公園碑

これが全部読めると城の歴史も読み解くことができるのでしょうが
漢字しかないこの碑はいつ見ても文字の一部しか読めません。
それでもところどころ拾って読むとなんとな~くこの地の歴史が刻まれていることが
わかります。(内容まではわかりません)


堀切

二の郭から三の郭側を覗き込むと、かなりの高低差のある堀切で切られています。



二の郭の西側の一段下へ降りて来ました。


歌碑

二の郭の下段にある歌碑ですが…やはり説明板でもなければ誰の何の歌なのかわかりません(>_<)
公園によくある光景です。



二の郭下の帯郭を通り、三の郭方面へ。



堀の中に一部石垣があります。
ここに土橋または二の郭から三の郭への橋が架けられていたのではないかと思われます。


三の郭
三の郭には小さな祠が祀られています。


四の郭

ここから見る三の郭と四の郭の間の堀切は浅いものですが、二の郭と三の郭の間の堀切同様
西側は傾斜が緩いため、竪掘状に掘り下げてあります。


住まいは城下に置いていたそうで、矢沢城の眼下には未だに古い街の縄張りを
見ることが出来ます。
矢沢陣屋と一緒に散策するとでこの集落と城の関係性が見えて来ます。
周囲にも支城が目視出来る範囲に点在していて真田の郷の守りの要であったことも
見てとれます。


平成31年3月31日登城


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信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

岩下城(群馬県)

2019年05月13日 | 百名城以外の城
岩下城いわしたじょう
別名岩下要害
構造山城
築城者斎藤氏
築城年代不明
指定史跡
場所吾妻郡東吾妻町岩下 地図

地域振興センター(旧岩島中学校)の背後の山に斎藤氏が築城したという岩下城があります。
この地は吾妻氏が支配していましたが、子孫である斉藤憲次が主君である大野氏を討ち
岩櫃城を奪い、吾妻郡一帯の地侍を支配しました。
斎藤氏が岩櫃城へ移ると家臣である富沢但馬守基光に岩下城を与え、
以後岩下城は富沢氏が納めることとなります。



林道

地域振興センター(旧岩島中学校)の脇にある林道を進むと
いくつかの取り付く場所があるのですが、直登せず付近に道がないか探してみました。
この写真の奥に白い軽自動車の後ろに山道を発見。



先ほどの写真の分かれ道の標柱から一つ目のカーブ(ミラーあり)の場所に
山に入る道があります。



ちゃんと道になっているのでここから進んでみることにしました。



ブルーのリボンが見えます。
やはり先人がここから登っていることがわかります。


水溜り
途中、突然獣の水場のようなところが現れました。
イノシシ?鹿?水飲み場として利用されているようで足跡が沢山あります。



先ほどの水溜りから先に進むと、はっきりした道は途切れます。
周囲を見渡して獣道のような小さな道を見つけて更に上を目指します。
斜面は急になり、足元も滑りやすくなっています。


堀切

すると、堀切に出ました。
早くも城域に到着したようです。



小さな郭から北の方を見ると、堀切と郭とで段々に構成されているのが
見えました。
全部で堀切は3つ、連続で切られています。



堀底から主郭方面へと行くための道がないか
目を凝らして道をさがすと、うっすらと付けられた道が見えて来ます。


八の郭

七の郭の東側、
帯郭のような八の郭に出ました。


七の郭
八の郭から七の郭へ登ってみました。
ここは広場になっています。
ここが主郭?と思ったのですが、写真で見た神社が無いので違うようです。


堀切

七の郭北の先端に来ると、先に登ってきた連続の堀切と小郭が
林道方面に向かって続いているのが見られます。


大堀切

七の郭から小規模の六の郭を抜けると大堀切に先の行く手を
阻まれます。
とても見事な堀切です。



大堀切の堀底から西側へ渡る道です。
この大堀切を境に東西に分けられるような造りで一城別郭の縄張りに
なっていることを実感します。


土塁

写真の小道は堀に沿った土塁です。
大堀切に沿って土塁があり、その土塁上を進み四の郭、五の郭へと
通じています。



ここを登りあげるといよいよ主郭です。


主郭

やっと神社の屋根が見えました。
こじんまりとした主郭の大堀切側には土塁が確認できます。


二の郭

主郭から一段下がった二の郭には、秋葉神社と三峯神社が祀られています。
火災、災害の鎮守ということで、かつて麓の集落が火災に遭い
火難除けに建てられたと聞いています。


虎口

二の郭にははっきりとした道が取り付いていて
神社への道として地元の方が利用しているのでしょうか。



二の郭の虎口から下ってみました。
石が大小ゴロゴロした斜面です。
更に下の方を覗き込んでみると、道が途切れているようです。
また、この道を下りきると民家の敷地内に出るというので降りるのを
やめて引き返しました。


九の郭
九の郭までは来た道を同じように戻って来ました。
この斜面、道はは無いのですがなだらかで下を覗き込むと
林道が見えたのでそのまま降りてみることにしました。


水溜り

北側でも見たのと同じように水溜りがありました。
湧水というようなものではないのですが、山の斜面から雨水が
滲み出ているようです。



林道に降りて振り返ったところです。
ここから真直ぐ直登すると一城別郭の東の郭へ最短距離で行くことが出来ます。
道は無いので山城歩きに慣れていない方にはわかりずらい道のりになるでしょう。



因みに、舗装路から未舗装路に変わってから50mほど登って来た地点です。



麓に降りて来ました。
ローソン 吾妻岩島店から岩下城を見ています。


この城跡、取り付く場所に難儀しているようなので様子を見に来てみました。
民家の敷地を拝借してして行くには、あまりおススメ出来ないので
別のルートがないだろうかと思い探してみました。
多くの先人は林道沿いで見当つけて城域に直登して攻め込んでいるようです。
なんとかビギナーでも行けそうなルートはないものだろうかと思ったのですが
私の紹介するルートでも、道がうっすらとしかわからない場所もあるので自信を持って
お勧め出来るとは言い難いところもあります。
そもそも城なのでそう簡単に攻め入れる構造では困るわけで、ウェルカムなはずはないのですが^^;


令和元年5月11日登城



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信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
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大田原城(栃木県)

2019年05月10日 | 百名城以外の城
大田原城おおたわらじょう
別名龍城・龍体城
構造平山城
築城者大田原資清
築城年代1545年(天文14年)
指定史跡市指定史跡
場所大田原市城山 地図

水口館から本拠地を移し大田原城を築き、廃藩置県に至るまで続きました。
1600年の関ヶ原の戦いの際は徳川家康が奥羽の情勢を重んじて城の改修を命じています。
徳川家光の代になると城中に常時玄米を貯蔵、奥州の鎮護に備えていました。
戊辰戦争では新政府軍の軍事拠点となり、旧幕府軍による攻撃を受けて三の丸が炎上しました。
明治になると城は兵部省に引き渡され取り壊されましたが、長野県出身の渡辺国武の所有となり
子である渡辺千冬により当時の大田原町に寄贈され、龍城公園として整備され現在に至ります。



駐車場
駐車場は馬場にあります。


三日月堀
三日月というよりはくの字になったわずかに残る水堀です。


坂下門
大手にある枡形に付けられた坂下門は守りの固い構造になっています。


枡形

枡形状の土塁が今も残っています。



この坂を登ると二の丸を経て本丸へ。
左手に進むと北曲輪へと回り込んでいます。


千石倉跡

二の丸への坂の中間、右手に千石倉跡があります。
ここは「城附御詰米蔵」とされ、徳川幕府の命により幕府の米を詰めさせ
軍事的な重要拠点とされていました。


二の丸跡

二の丸には長屋二棟と弾薬庫がありました。


硝煙跡

銃弾や火薬が保管されていた場所で、建物は土蔵造りでした。


台門跡
かつてはこの城唯一の石垣を用いた重層門がありました。
この門をくぐると本丸です。


本丸跡

本丸には諸役所、武器庫、納戸庫がありました。


本丸土塁

物見も兼ねた高い土塁は、外から中が見えないほどの高さがあります。


眺望

本丸土塁の上の眺めはよろし。



本丸の中の様子もよく見えます。
ただ…あのステージがなんともここには似合わない気がします^^;


裏門跡

本丸にあるもうひとつの虎口。
搦め手口のように見えます。



裏門の頭上に突き出た土塁の先端は物見のようであり、
更に門を上から覗き込める構造になった場所です。


北曲輪

北曲輪は複数の郭から成り、軍事訓練が行われた場所です。
ここを通り奥へ進むと搦め手門へと通じています。



下から本丸土塁を見上げると、高低差が凄いです。
遊具のあるこの場所は北側なのであまり人気が無いようで少しさみしい所ですが
静かなので、ここで買ってきたおにぎりをほおばってお昼休みをしました。



かつてはこの城唯一の庭園がありました。
歌碑があるこの辺りがなんとな~く庭園の名残りでしょうか…。


空堀跡

堀底に降りられるようになっています。



途中、蛇尾川へ降りる階段もあります。



空堀沿いを通って二の丸方面へ抜けられます。


桜が満開の真っただ中の訪問でした。
おにぎりだけでなくちゃんとお弁当持って来ればよかったなあなんて思ったりしましました。
この日はどの城跡に訪れても桜が綺麗な時期だったので
ゆっくりお花見したいところでしたが、花よりお城というわけで
結局いつものように急ぎ足での散策となりました。


平成31年4月13日登城



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日本城郭協会
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一宮城(徳島県)

2019年05月08日 | 続百名城
一宮城いちのみやじょう
別名阿波一宮城
構造山城
築城者小笠原長宗
築城年代1338年(暦応元年)
指定史跡県指定史跡
スタンプ設置場所一宮城跡登城口説明板横
場所徳島県徳島市一宮町西丁 地図

一宮城は阿波最大の山城で、小笠原長宗が築城しその後息子の一宮成宗が城主となります。
主君を変えながら城を守り、長宗我部元親の阿波平定の手助けをするも
戦いが終わると元親は一宮成祐を夷山城に呼び出し三好氏に通じたと理由付けて殺害。
元親は一宮氏を滅ぼして一宮城をまんまと手に入れてしまいました。
しかし、豊臣秀吉の四国平定によって元親は降伏、開城すると蜂須賀氏が入城し
その後蜂須賀氏が徳島城へ移ると徳島城の支城となり
一宮城は一国一城令により廃城となりました。


駐車場

蜂須賀家政が入国した時に「国が丸く治まるように」という願いをこめて奉納したと伝わる太鼓橋。
登城口の駐車場は太鼓橋の前に2台分ほどの駐車スペースがあります。
無人の有料駐車場とも言えます。
と言っても、駐車料金ではなく一宮神社の御初穂料として納めることになります。


御初穂料

今回はここでスタンプを押すだけの短時間駐車でしたので
心ばかりの御初穂料(100円)をボックスの中に納めました。


スタンプ保管箱

案内板の右側に続100名城のスタンプが保管されています。
このような状態で設置されているので早朝からの登城を兼ねて
スタンプを押すことが出来ます。



ボックスの中を開けると、こんな感じです。
スタンプを押す場所は無いので、雨の中ボックスの上を拭いて
その上でスタンプを押すことに。


案内板

左側にはパンフレットのボックスがあるのですが、GWのせいか中は残念ながらからっぽ。
この図を見ても時間の都合上郭のある場所までは行っている余裕がありませんでした


登山口

こんなふうにしっかり道のある山城なら、安心して行って来られそうなのですが、
あ~、もったいない…行けないのが悔しいです。


石橋

せっかくここまで来たのだし、神社が目の前にあるのだから
太鼓橋の隣の石橋を渡って一宮神社へお参りして行こう。


鳥居

狛犬の他に狛馬?があります。
このあたりは百鬼夜行の通り道で、
「夜行」さんとは長宗我部元親に謀殺された無念から
死後亡霊となって現れた一宮城主一宮成祐と伝わり、
首の切れた馬に乗って高根の悲願寺へ参っているのだとか。
このような伝説が伝わることから馬が祀られているのでしょうか…。


拝殿

旅の無事を祈ります。


大日寺

四国霊場十三番札所でもあるため、お遍路さんも居ました。


雨の中でもお遍路さんをあちこちで見ました。
本当に四国に来たなあと実感します。
数年前に2泊3日で四国の西側を巡り、今回も2泊3日の予定で
東側を巡っていますが100名城だけをチョイスして巡っても
すべての城の本丸まで行って来るには時間が足りません。
スタンプを重視するのか、城跡散策を重視するのか悩ましいところでしたが
二度と来ないつもりで巡ってるわけではないので、見られなかったところは
また来ればいいじゃん!と割り切って自分の気の向くままに巡ることにしました。
お城めぐりが仕事じゃないんだから、お気楽に。
楽しくなくちゃ意味がない!
型にはまらずマイペースで行きましょう!
それでいいんです。それがいいんです!


令和元年5月1日登城



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公益財団法人 日本城郭協会
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伊勢崎城(長野県)

2019年05月06日 | 百名城以外の城
伊勢崎城いせざきじょう
別名虚空蔵城・伊勢崎砦
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所上田市上野上野原 地図

伊勢崎城は矢沢城などと同様に戸石城の支城として使われていたと考えられています。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際、徳川秀忠軍が上田城を攻めた時に
真田昌幸は神川の水を堰き止め、虚空蔵山に兵を隠し、堰を切って徳川軍に
大打撃を与えたと伝わる場所です。


果樹園

南側のローマン橋の袂から登るルートがあるのですが
楽して車で反対側(北側)の果樹園からの登城です。



この舗装路の途中で南側の林の中を覗き込むと、宮坂武男氏の鳥瞰図には載っていない
石積みが見えます。
石垣も後世のもとされているので古いものかどうかわかりません。
果樹園を区切るものとして使用されていたのかもしれませんが、
ちょっとワクワクするような石がゴロゴロしているので覗いてみてください。


大手道

果樹園の道の終点の先に伊勢崎城への道が続きます。
主郭の虎口まで一直線に開いた道。
こんなに丸見えで良いのだろうか…^^;


虎口

石垣が見えて来ました。
主郭を囲む低い土塁を登るように虎口がつけられています。


石垣

主郭の一段下には石垣が築かれています。



一部だけですが石垣があります。



西面と南面の角に造られた石垣。


主郭

主郭に登ってみると、平場があり奥の方に石碑が見えます。
この辺りは「上田地球を楽しむ会」というところが樹木の成長量の測定をしているため
植物を刈り取らないでという案内がありました。


宇賀神社跡碑

石碑に近寄ってみると「宇賀神社跡碑」と刻まれています。
裏には昭和27年に建てられたことがわかります。


櫓台

ここが頂点で、櫓台らしき高まりになっています。
眺めは良さそうですが木々で見通しはあまり良くないのが残念です。



雷に打たれたであろう周囲より年配の木がありますが
古くからの木は無いようで神社が無くなって以降は大木になる前に伐っているのでしょうか。



東の虎口らしき場所です。
こちらはローマン橋の下の登山口に繋がっている道で
下の方には石垣が崩れたのかと思うような石がごろごろした場所も見られます。


段郭

南西は段々になった郭があります。
こちらは倒木もあるので木を伐採して整備しているようです。



そろそろ退散しようと思います。


ローマン橋の下

伊勢崎城の東側の麓にやって来ました。
格好良いデザインの橋の下に伊勢崎城の案内看板と登山道があります。


案内看板

城跡には何も案内看板は無かったのですが、こちらに伊勢崎城の説明板がありました。
城跡としての表示があってよかった(^^)


ローマン橋の音のミステリー

古代ローマの水道橋を想像させるデザインの橋です。
「上田にロマンを感じてくれるように」とローマン橋と名付けられました。
そしてここにはミステリーが!!



この石の上に立って耳をすましてみてください。
水が流れる音がきこえるそうです。
意識していないと自然の音や車の音でミステリーな感じはしませんでした
(私にはロマンを感じる感性はないのか?)


虚空蔵山登山口

こちらから登るのが面白そうですが、疲れるので楽に攻められる方を
選んでしまいました。
体力がある方はこちらからどうぞ!



近くには石切場のような所もありますが伐った跡はみつからず。
石は自前で採れそうそうですね。


カイコ山
矢沢城から見た伊勢崎城です。
遠目に見ると蚕に似ていることから、地元ではカイコ山と呼ばれているそうです。


虚空蔵と名の付く城がいくつもあるので虚空蔵目指して行ってみよう!
というので訪れた城跡です。
このテーマでいくつか巡ってみるつもりで出掛けたのですが、
ここが手っ取り早く登城できる場所でした。
虚空蔵と名が付くとだいたい登るの大変なんですよね。



平成31年3月31日登城


信濃の山城と館〈3〉上田・小県編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る
宮坂 武男
戎光祥出版

引田城(香川県)

2019年05月05日 | 続百名城
引田城ひけたじょう
別名
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所東かがわ市引田 地図
スタンプ設置場所引田公民館(定休日毎週火曜日)

引田城がいつからあるのかは不明で、文献が残るのは応仁年間に
寒川氏が領していたということが最初です。
豊臣秀吉の家臣である生駒親正が播磨国赤穂から入部、この頃に土の城であった引田城を
総石垣の城に改築し、その当時の石垣が良好に残されています。
瀬戸内海東部の海上交通の要の地として一国一城令まで使用されていました。



案内看板
続100名城スタンプ設置場所である讃州井筒屋敷へやって来ました。


三之蔵

物産店や体験施設、イベントや行事など伝統産業とふれあいながら
楽しめる屋敷や町並みに囲まれています。


母屋

江戸時代から酒と醤油醸造で繁栄した豪商屋敷を改修、住居の部分であった母屋は
見学が可能です。
入場は無料ですが母屋の見学は300円必要です。
母屋を入って右手に続100名城スタンプがあります。



ここに引田城のパンフレットが置いてあるのでいただきました。
ハイキングコースのマップもあるのでこちらで入手してから登城するのが良いでしょう。


続100名城スタンプ

この台がまた良いですね~。


笠屋邸

讃州井筒屋敷の向かいにある商屋で、現在はカフェになっています。
和三盆の型抜き体験が出来るそうで、お抹茶をいただくとよく付いてくるお菓子ですよね。
こちらの特産物だったんですね。
時間があったら作ってみたかったです


ここは引田城の城下町となる場所で続日本100名城のスタンプ設置場所ということで
やってきました。
本来お城は海に突き出た城山にあり、スタンプよりも城跡へ行きたいところですが時間が無いので
スタンプを押してパンフなどの資料をいただいくのみとなってしまいました。
城下町も良いけど、やっぱり山城だし、海近いし、行ってみたかったなあ。
いつかリベンジ!


令和元年5月1日登城


続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
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