むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

西生浦城(韓国)

2020年06月30日 | 続百名城
西生浦城ソセンポウェソン
別名
構造山城(倭城)
築城者加藤清正
築城年代1593年(文禄2年)
指定史跡
場所711 Seosaeng-ri, Seosaeng-myeon, Ulju-gun, Ulsan, 韓国 地図



未登城の城








植栗城(群馬県)

2020年06月29日 | 百名城以外の城
植栗城うえくりじょう
別名
構造崖端城
築城者植栗氏
築城年代寛政年間
指定史跡
場所群馬県東吾妻町大字植栗1355  地図

植栗安芸守の伯母婿である柳沢直安が、後の岩櫃城主となる
斎藤氏に襲われ、植栗城へ逃れて来ました。
その後、岩櫃城主大野氏が植栗氏を討とうと斎藤氏に命じたところ
斎藤氏は反旗を翻し、大野氏を滅ぼして岩櫃城主となりました。
以後、植栗氏は斎藤氏に従うこととなりました。




植栗城に隣接して植栗安芸守の墓とされる場所があります。


植栗安芸守碑

石碑は1698年に建立されたものです。


大手道

この先に堰堤を兼ねていたという水路を渡る土橋があります。


虎口

水堀の役割をしていたと思われる水路があります。



奥の一段高くなっている畑が主郭です。
右の角が姫の宮跡と呼ばれる場所で、
一段低い水田となっている場所が二の郭です。


二の郭

主郭と二の郭の間には堀が巡っていたのですが
御覧の通り、南側の堀は消滅しています。



主郭には城跡を示す標柱と看板があります。


案内看板

縄張図もあるので、照らし合わせながら散策します。


主郭

主郭は畑、主郭より低い帯郭は堀より水が引きやすいため
田んぼになっています。
田んぼに水が張られると水堀のようにも見えて来ます。


お堀の田浦

主郭西側に残る幅の広い堀は「お堀の田浦」と呼ばれる場所です。
城郭大系では周囲は野面積みの石垣で被覆されているとあるのですが
現在は石垣は見られません。


虎口

搦手の虎口です。
野面積みの石垣があったということから、畑にするのに邪魔になった石が
無造作に集められて放置さたのか、元々虎口に積まれた石なのか…。


搦手道

ここを下るのが搦手道です。



植栗氏は斎藤氏に従った後、岩櫃方として真田勢と戦うことことなりましたが、
その後真田に下り長篠の合戦では真田に属し、負傷しています。

農耕地になっているせいか整備もされているので
少し離れた所からも標柱と看板が見えるのでみつけやすいです。


令和2年5月30日登城

今回の参考本




御門城(群馬県)

2020年06月24日 | 百名城以外の城
御門城みかどじょう
別名久留馬の砦・本郷の砦
構造丘城
築城者長尾氏
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所群馬県高崎市本郷町 地図

御門城は板鼻から国府へ通じる東山道が隣接する古くからの政治的中心の場所に
築かれた城で、長尾氏から長野氏の支配下にありました。
城主については、長尾新五郎景忠の名が残るように、現在も主郭には
景忠寺が建立されています。



景忠寺入口

景忠寺を中心に城域が広がります。


寺門

景忠寺のある場所が主郭になります。
遺構はほとんど残っていませんが、お寺の裏に堀切が残っています。


景忠寺

景忠寺に隣接して本郷保育園があるので、
境内には遊具もあり、おもしろい景色です。


鐘楼

鐘楼の脇には麒麟ではなく、キリンがいます!



主郭と二の郭の間の堀切は、道路になっています。


梵鐘供養塔

梵鐘供養塔という石碑がありますが、どういう意味があるものなのか…。


大手道

二の郭にある墓所の中を貫く道が大手道です。



墓地の中に背を向けられた銅像や石碑が見えて来ました!



表に回って見てみたのですが…誰でしょう???
城主さま?
ちょっと見ただけではわからないので謎の方のままにしておきます。



大手道を突き進んで行くと…獣道のような幅になってしまいました。
どうやらここが虎口のようですね。



虎口を反対から見てみました。


大手口

実はここの左手に腰郭があって、折れています。
ここで横矢を掛けている造りになっています。(画像無し)



再び主郭と二の郭の間の堀切道路に戻って来ました。
この下の腰郭の様子も見てみましょう。


第二駐車場

二の郭(墓地)の北側に一段下がった本郷保育園の第二駐車場があります。



ここは特に郭名もありませんが、少し大きめの腰郭が
二の郭の北側に配されています。


第三駐車場

西側に回り込んで、お寺の裏側にある本郷保育園の第三駐車場へやって来ました。
ここからは御門城では一番大きい堀切が配されていた遺構が見られます。


堀跡

駐車場から境内への階段を降りると、そこが堀切です。
無断で侵入するわけには行かないので、駐車場から見るだけとします。



南側から見る堀切はこんな感じです。
残っていたいう土塁もこれにて消滅…なんとも残念なことです。


主郭は、お寺だけであれば誰でも訪れることができたのでしょうが、
保育園があるためにセキュリティーがされていて気軽に入ることは出来ません。
外から見るにしてもやはり不審者のように見えてしまいそうなので
覗くのにも注意が必要ですね。
それでも城の名残は見つけることは出来るので雰囲気は伝わります。
それにしても、墓地にいらしたあの銅像の方はいったい誰なのでしょう。
そのうち分かったら報告を書き足しておくとしますね。


令和2年6月7日登城


今回の参考本





稲荷城(群馬県)

2020年06月22日 | 百名城以外の城
稲荷城いなりじょう
別名須郷沢城
構造丘城
築城者大野新三郎
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県東吾妻町大字原町2755  地図

四万川と須郷沢川との間の舌状台地の先端部に位置する稲荷城は、
岩櫃城の大野氏が岩櫃城築城以前に居城していた城と伝わります。



稲荷神社

稲荷城の呼び名の由来となった稲荷神社。
主郭までのルート上に駐車場は無く、道幅も狭いので駐車スペースをみつけるに苦労しました。
神社付近に車を停めて、神社より西に歩いて民家の脇を登ることになります。


拝殿

まずは神社でお参りをしてから、少し離れた場所から登城します。
本来はこの稲荷神社を経て大手道とされていました。



稲荷神社から西へ150mほど進んだところで道上へ登り上げます。
民家へ入ってしまうのではないかとドキドキしましたが、道は民家脇を通り
城跡へと繋がっていました。


三の郭

がっつりと、堀が見えるのでひとり興奮して突入です!


堀切

草も生え、虫も寄って来る季節になってしまいましたが
まだまだはっきり堀が畝っているのがわかります。
これは冬場に来たかったなあ。


二の郭

平場になっていますが、足元はすでに草が生えて
虫も寄って来る季節となってしまいました。



二の郭にはお墓があります。
ここまでは地元の方が出入りしているのか、歩いた跡が残っています。


堀切

二の郭と主郭とを区切る堀切を渡るといよいよ主郭です。
こちらも良好な堀切です。


西の虎口

堀切からも高さがあり、こちら側からは主郭の中が見えない状態です。


主郭

土塁に囲まれた主郭登場です!
これも見事です!(草がなければ)


土塁

土塁も良好に残されています。


南の虎口

主郭の虎口は南と西の二ヶ所に開いています。


堀切

南の虎口から出ると、主郭を囲むように堀切が巡っています。


堀切(東)

堀切は北側以外を切って、その外側を郭が巡る形になっています。
今はもう草が生い茂っているので北側への進入は断念します。


堀切(南)

こちらは堀切が浅くなっていて通り道のようになっています。
民家側に近いので時の流れに従って埋もれて来たのでしょうね。


四の郭

こちらは使われなくなった畑?の跡のようです。
かつてはここまで畑と化していたのかもしれません。



小道が付いているのでこのまま集落へと続いています。
本来の大手道は先ほどの堀切を伝いここからもう少し西に行った民家の敷地内を
経ることになるので、現在はこちらの小道を利用するのが良いと思われます。


思いのほかしっかりと堀と土塁が残っていたので良かったです。
欲を言えば、やはり草や虫の心配のない冬場に北側の方も
じっくり散策したかったなと思います。


令和2年5月30日登城


今回の参考本







檜田城(群馬県)

2020年06月16日 | 百名城以外の城
檜田城ひのきだじょう
別名桧田城
構造丘城
築城者福島政則
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県高崎市北原町 地図

檜田城は勝山城の支城であり、勝山城主関口政次の二男福島政則の居城でした。
1543年(天文12年)武田氏によって東覚寺と共に焼払われたと伝わります。
1566年(永禄9年)に再び武田氏の箕輪城攻略により、箕輪城や勝山城と共に
落城し、檜田城は廃城となりました。




関越自動車道を目印に道路をくぐって目的地である
檜田城入口へとやって来ました。


浄水場

主郭を示す場所は現在前橋市の浄水場になっています。


主郭

中に入ることは出来ないので外から覗いてみましたが、
遺構らしいものは見当たらず、既に消滅しているようです。



道路沿いには看板が立っています。
ありがたいことに、城跡の看板です!


案内看板

平成11年に立てられた看板です。
看板がある割には、ここの城跡は検索してもあまり情報がありません。
ちなみに、福島政則という文字が真っ先に目に飛び込んできたのですが、
皆さんもご存知の福島正則とはまったく関係ありません


縄張図

縄張図もあるのでちゃんとここに城があったことは間違いない。




現在は小川が流れていますが、どうやら水堀の名残のようです。
と、言ってもコンクリート製の小川です



関越自動車道の真下で八幡川と堀が合流しています。
八幡川を天然の要害として左岸に200m四方の主郭を築いています。



群馬県第一食糧の敷地内も主郭ですが…。


虎口

主郭に入る虎口があった辺りでしょうか。
現在は真直ぐに主郭を貫いていますが、かつては鍵の手に入る道になっていたようです。



再び、北側に戻って来ました。
ここから高井方面を見ると、道路左側に看板があるのが見えます。
「東覚寺跡」の看板です。


東覚寺跡

東覚寺は、山王廃寺(放光寺)のあとをうけて妙見寺などと共に
戦国時代まで栄えていた寺です。
武田氏の武将の田口左近将監長能が上州進出の際に寺の推鐘を持ち帰り
長野県佐久市臼田町の新海大明神へ1542年(天文12年)に寄進したとのこと。
そう言えば、佐久市にある龍岡城(五稜郭)の近くにそのような神社があった気がします。


案内看板

東覚寺は、高井郷にあったのでこの看板の場所から300mほど西にありました。



戦国期によく聞く、寺から鐘を持ち去るという行為が
ここでもあったのかあ。
武田氏の係るところで何故か鐘を持ち去り、重いのに引きずってまで
別の場所へ運ぶ行為にはどんな意味があるのでしょうか…。
一度、二度の話でなく聞かれる行為なので何か理由がありそうですが
そのことについては調べたことがありません。
今度佐久市に行ったら田口上宮寺を訪れてみたいと思います。
(入口の鳥居で写真撮った覚えはあるのですが…どこへやら)


令和2年6月7日登城






村山城(群馬県)

2020年06月14日 | 百名城以外の城
村山城むらやまじょう
別名
構造平城
築城者村山佐渡守
築城年代天文年間
指定史跡
場所群馬県前橋市元総社町2丁目12−18 地図

大友城とほど近いぎんなん公園とそよかぜ公園の中程に位置する場所に
村山城があったと伝わります。
現在、遺構は消滅し、かつての手掛かりであった「村山の二本杉」も枯れ果て
城址であったことは現地を訪れても、残念ながらまったく感じられるものはありません。



縄張図

群馬県古城塁祉の研究(山崎一著)に縄張図があるのですが、
これと現代の地図で見ても想像が難しいほど、辺りは街と化しています。


ぎんなん公園

よく城址が公園化していることがあるのですが、
こちらはあくまでも目安に過ぎず、ここが城址なわけではありません。
※ここから南が本丸です。



こんもりと土盛がありますが…期待するものではありません。



肝心な城域はこの住宅地や会社などの建物で埋め尽くされています。


そよかぜ公園

そよかぜ公園側にもやって来てみました。
このそよかぜ公園より上野国府内となります。



ベンチにある「焼肉太閤」の文字にちょっと心がざわついたくらいで
これといって何もない


外堀跡

この先、本丸に位置しますが…遺構はまったく残っていません。
そしてこの道がかつての本丸西側の堀で、そよかぜ公園から西側は上野国府と推定されています。
群馬大学が上野国府の発掘調査をすると、村山城の本丸の堀に当たったということです。
この場所が村山城と上野国府の境目となります。


現地に行ってみても何も無いので目安にするのは二つの公園だったのですが、
ぎんなん公園より東にある墓地の位置と、
そよかぜ公園より南西にある昌楽寺と巣烏地区との位置関係と
上野国府の調査資料とを見比べると
東西はこのふたつの公園までで、ぎんなん公園の南西角の交差点が
本丸虎口付近に当たり、南は業務スーパー付近までなのかなあと思います。

ともかく、この辺りは城址が密集していて城域の隣が別の城域というような
状態です。
しかも都市化しているので城域がとにかくわかりずらい。
古地図を見ても目標物の移動や地形や川も改変されているので
私ごときには何もないところでの城域の特定は、とても難しかったです。


令和2年6月7日登城


今回の参考本




三戸城(青森県)

2020年06月11日 | 百名城以外の城
三戸城さんのへじょう
別名留ヶ崎城・御古城
構造山城
築城者南部晴政
築城年代1558年〜1570年(永禄年間)
指定史跡
場所青森県三戸郡三戸町梅内字城ノ下 地図
城郭検定出題あり



未登城の城




並榎城(群馬県)

2020年06月11日 | 百名城以外の城
並榎城なみえじょう
別名上並榎の砦
構造平城
築城者並榎氏
築城年代1550年頃(天文年間)
指定史跡
場所群馬県高崎市上並榎町872 地図

並榎城は、和田の騎馬衆並榎将監・同庄九郎の城と伝わります。
東は佐賀野川、南は烏川を利用した河岸段丘上に築かれていて、
現在は主郭、二の郭は農耕地となり、その他城域は宅地化しています。
また、並榎氏は武蔵の国、児玉発祥の阿佐美氏であるとも伝わります。



上並榎運動公園

駐車場は上並榎庭球城の駐車場か、並榎テニスコート駐車場があります。
並榎テニスコート駐車場側から行ってみることにしました。
ちなみにこちらは河川敷の入口にゲートがあって、
利用時間が決められているのでご注意下さい。


堀切

主郭と二の郭との間の堀切です。
この道の延長上が追手道となっています。



河川敷側から北を向いて、左手の段上が主郭、右手が二の郭になります。
ここまで車で進入出来ますが、ここで行き止まりになるうえに、
引き返すのが大変なので乗り入れはお勧め出来ません。


主郭

ご覧の通り、畑になっています。
北からは平に来られて、川に囲まれているとはいえ
ちょっと防御がいまいちな気がします



二の郭の下から見ています。
主郭に比べると少し削り取られて畑と化しているように見えます。



土肌を見ても新しいようなので、かつてはもっと南側に張り出して
いたのではないかと思われます。



主郭を下から見ています。
私有地の看板があります。
どうやら、城域は私有地のようですね。


堀切

主郭西側の堀切はだいぶ浅くなっていますが、
堀切になっていたことが確認出来ます。
冬場であればもっとはっきり見えるのでしょうが
その様子は松の木二本が目印になります。


佐賀野川

すっかり公園と化しています。
二羽のカモをしばらく眺めていました。


烏川へ

南に流れる烏川へと流れ込んでいます。


帰りに公園駐車場北側に見える堤防のような土盛を見て、「土塁だあ!」なんて
冗談言って笑ったのですが、帰宅して山崎氏の縄張図を見てそこがかつて土塁があった
場所であることに気付き、愕然…。
見た目には、最近整備された堤防にしか見えなかったので
まさかそこに本当に土塁が築かれていたとは、冗談すぎて写真に納めて来ませんでした。
たぶん、もともとあった土塁を公園として堤防のように土を盛って整えたのでしょう。
今度行った時には紹介出来るようにちゃんと撮影して来よう…^^;


令和2年6月7日登城


今回の参考本




柏原城(三重県)

2020年06月10日 | 百名城以外の城
柏原城かしわばらじょう
別名滝野十郎城・滝野城
構造丘城
築城者滝野貞清
築城年代1558年~1570年(永禄年間)
指定史跡
場所三重県名張市 地図
城郭検定出題あり



未登城の城








清水山城(長崎県)

2020年06月10日 | 百名城以外の城
清水山城しみずやまじょう
別名
構造山城
築城者宗義智
築城年代1591年(天正19年)
指定史跡国指定史跡
場所長崎県対馬市厳原町西里 地図
城郭検定出題あり



未登城の城




大友城(群馬県)

2020年06月08日 | 百名城以外の城
おおともじょう
別名
構造平城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県前橋市大友町2丁目16−12 地図

長尾景俊の城館と伝わります。
長見寺を含め、現在日の出公園となる辺りまで城館としていました。
周囲を囲むように堀と土居が廻り、四角形の単郭であったことが分かっていますが
この城に関してのその他の詳細はあまり明らかになっていません。




長見寺を目標にやって来ました。


長見寺

長見寺へやって来たのですが、境内に入るのはちょっと躊躇われる雰囲気の
門構えだったので、敷地には入らずに外から眺めるだけに留めました。


主郭

日本城郭大系のその他の城郭一覧の395番に掲載されているのですが、
近年まで土居があったと書いてあります。
周囲を見渡すと…


土塁

長見寺の入口で振り返ってみるとかわいらしい土盛があるじゃありませんか。
何処から見ても、私には土塁の名残にしか見えない。(病気です



北から見ても、土塁です。



ここでも敷地に入ることなく、近くで見ても土塁です。


日の出公園

水堀と土居の二重構造の四角い館だったとのことで、
北は長見寺から、南は日の出公園の辺りまで城域になっていたようです。


詳細もわからず、既に改変が進み遺構は残っていないものと思われ、
期待はせずに駐車場と化した場所を訪れるつもりで行ってみました。
やはり面影すらわからない。
蒼海城址のように町の周囲に点在する城址を示す石柱がないものかと
周辺を散策してみたのですがみつからず…。
史跡としての手掛かりは得られませんでした。
それでも、土塁らしき名残と長見寺境内にある大木がここの歴史を
見守って来たのかなと思ってみたりもしました。


令和2年6月7日登城


今回の参考本




金原城(群馬県)

2020年06月04日 | 百名城以外の城
金原城かなばらじょう
別名白狐城
構造丘城
築城者金原左衛門尉
築城年代室町時代初期
指定史跡
場所群馬県吾妻郡東吾妻町大字五町田 地図

東吾妻町には、岩櫃城をはじめ多くの城跡が残っています。
吾妻地域は、吾妻氏からはじまり、岩櫃城をはじめ各地に城が築かれました。
築城時期は中世に集中しており、存続期間は不明ですが斎藤氏に属した金原城も
そのうちのひとつと考えられます。



入口

県道35号線(渋川吾妻線)を岩櫃方面へ向って車で走っている途中、
この入口が見えて、「今、城址の標柱見えたんですけど!!」とUターン。
東吾妻町役場 東支所の駐車場へ入ってしばし、検索。
しかし、手持ちの資料には載っていない…
でも、城址とあらば行ってみなくちゃね



入口らしいこの場所から見上げると、道はあれどもはや草ぼーぼー
ここを登るか思案して、まずは周囲を散策することにしました。


道しるべ

近くには「道しるべ」の石柱がありました。
右 江戸道
左 大戸道 とあります。
古くからある道しるべかと思いきや、よくみると平成9年3月再建と
書いてあります。



忠霊塔のある広場まで車で進入出来る道をみつけました。
とりあえず、草むらの中を歩かずに城内にやって来ることが出来ました。


二の郭

先人たちのブログ等を拝見すると、以前はゲートボール場になっていたようですが
現在はただの広場になっています。
ここまでの進入路は狭いですが、軽自動車なら入って来ることが可能です。
ちなみに今回、普通車で突入しました。
小枝で傷付くのへーきな方は進入可です。


忠霊塔

東村の戦没者の忠霊塔があります。
城址碑かと期待すれど、城跡にお約束の忠霊塔でした^^;



ここから更に上に登る道があります。
この先は畑が広がる平場で、主郭が上の畑か忠霊塔のある広場かわかりません。
誰か決めて下さいw


虎口

虎口と呼んでいいものか疑問ですが、この先に腰郭と、先ほどの県道沿いの入口へ繋がる
登城路へと続いています。


トイレ

ゲートボール場であった頃の名残ですかね。
トイレもありました。


腰郭

小ぶりながら平場となっているので郭と思われます。
奥に標柱が見えますが、文字は消えて定かではない。



階段があり、一段下がると腰郭?



ここにも標柱があるのですが、
文字は消えて何が記されていたのかは分からず…。



下る道はあれど…草が行く手を阻む。
でも、行けるとこまで行ってみよう。



二つ目の階段を下ったところで、草むらを進むのを断念して戻ることにしました。



通りすがりに見えた城址標柱に誘われてやって来ました。
「城郭大系」にも「群馬の古城」や「境目の山城と館」にも載っていない城址で
案内看板も無く、どんな城址かわからないまま訪問しました。
家に帰って調べても、やはりよくわからないままの訪問記になってしまいました。


令和2年5月30日登城






倭城(日本国外)

2020年06月03日 | 百名城以外の城
🏯蔚山城 城郭検定  
🏯西生浦城 城郭検定 
🏯林浪浦城  
🏯機張城   
🏯東莱城  
🏯釜山浦城 
🏯亀浦城   
🏯梁山城 
🏯金海竹島城 
🏯安骨浦城  
🏯熊川城   
🏯明洞城    
🏯加徳城   
🏯馬山城   
🏯永登浦城 
🏯松真浦城  
🏯長門浦城  
🏯見乃梁城  
🏯固城城   
🏯泗川城   
🏯南海城   
🏯順天城 

倭城 0/22