【檜田城】ひのきだじょう
【別名】桧田城
【構造】丘城
【築城者】福島政則
【築城年代】不明
【指定史跡】-
【場所】群馬県高崎市北原町
地図
檜田城は勝山城の支城であり、勝山城主関口政次の二男福島政則の居城でした。
1543年(天文12年)武田氏によって東覚寺と共に焼払われたと伝わります。
1566年(永禄9年)に再び武田氏の箕輪城攻略により、箕輪城や勝山城と共に
落城し、檜田城は廃城となりました。
関越自動車道を目印に道路をくぐって目的地である
檜田城入口へとやって来ました。
浄水場
主郭を示す場所は現在前橋市の浄水場になっています。
主郭
中に入ることは出来ないので外から覗いてみましたが、
遺構らしいものは見当たらず、既に消滅しているようです。
道路沿いには看板が立っています。
ありがたいことに、城跡の看板です!
案内看板
平成11年に立てられた看板です。
看板がある割には、ここの城跡は検索してもあまり情報がありません。
ちなみに、福島政則という文字が真っ先に目に飛び込んできたのですが、
皆さんもご存知の福島正則とはまったく関係ありません
縄張図
縄張図もあるのでちゃんとここに城があったことは間違いない。
堀
現在は小川が流れていますが、どうやら水堀の名残のようです。
と、言ってもコンクリート製の小川です
関越自動車道の真下で八幡川と堀が合流しています。
八幡川を天然の要害として左岸に200m四方の主郭を築いています。
群馬県第一食糧の敷地内も主郭ですが…。
虎口
主郭に入る虎口があった辺りでしょうか。
現在は真直ぐに主郭を貫いていますが、かつては鍵の手に入る道になっていたようです。
再び、北側に戻って来ました。
ここから高井方面を見ると、道路左側に看板があるのが見えます。
「東覚寺跡」の看板です。
東覚寺跡
東覚寺は、山王廃寺(放光寺)のあとをうけて妙見寺などと共に
戦国時代まで栄えていた寺です。
武田氏の武将の田口左近将監長能が上州進出の際に寺の推鐘を持ち帰り
長野県佐久市臼田町の新海大明神へ1542年(天文12年)に寄進したとのこと。
そう言えば、佐久市にある
龍岡城(五稜郭)の近くにそのような神社があった気がします。
案内看板
東覚寺は、高井郷にあったのでこの看板の場所から300mほど西にありました。
戦国期によく聞く、寺から鐘を持ち去るという行為が
ここでもあったのかあ。
武田氏の係るところで何故か鐘を持ち去り、重いのに引きずってまで
別の場所へ運ぶ行為にはどんな意味があるのでしょうか…。
一度、二度の話でなく聞かれる行為なので何か理由がありそうですが
そのことについては調べたことがありません。
今度佐久市に行ったら田口上宮寺を訪れてみたいと思います。
(入口の鳥居で写真撮った覚えはあるのですが…どこへやら)
令和2年6月7日登城