むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

尾附城(群馬県)

2021年04月17日 | 百名城以外の城
尾附城おづくじょう
別名諏訪山
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県神流町尾附 地図

尾附城は、諏訪山の尾根上に東西の間を大堀切で区切られた
一城二郭とも言える並郭式の山城です。
城歴は不明で多くのことは語られていないが、
武田氏の支配下に入った土屋山城守高久の城であったと推定されます。



遠景

比高差はあまりないように思えるこの小高い山が諏訪山と呼ばれる山で、
ここに尾附城が築かれています。


駐車場

尾附生活改善センター横に駐車スペースがあります。
と、言っても勝手に停めるのも気が引けるのでご近所の方に断りを入れて駐車しました。
集落の方々も気さくな方ばかりで、話しかけるといろいろお話をして下さいました。



ドコモのアンテナ設備と民家の間にある小道を入ります。
ここは主郭に祭られている諏訪神社の参道でもあります。



毎年9月に主郭で御祭りをしていたそうですが、昨年はコロナ禍ということもあり
中止なったそうで、道も険しいものになってしまったので
気を付けてねとおっしゃられていたので、気を引き締めていざ登城です!



鳥居は無いですが、ここが入口と控えめな石灯篭がお出迎えです。



さて、登り始めてすぐに石段が見えたのですが…崩れかけているうえに角度は壁に近い。
上を見上げると、う~ん、
これを登るのかあ…。
途中でよろけたら下まで止まりそうにないないなあ。



右上を見上げると堀切も見えます。
呼んでるよなあ。
さて、がんばるか。



写真だとあまりきつそうに見えないですけど…


二の郭

腰郭のように細く巡る二の郭。
ちょっとでも平らな部分があるとホッとします。



少し東の方へ進んでみましたが、その先道が細く滑りやすくなっていたので
大堀切まで行かずに帰って来ました。



まだまだ石段は続きます。
ここで転んだら下まで止まりません。



ここで毎年お祭りが行われていたとは、この集落の人々はすごい脚力だなあ。
ほんとか???
と疑いたくなるくらい大変な石段です。


主郭

ようやく諏訪山頂上に到着です。
距離はとても短いのに、なんてハードな道のりなんだ。
なにはともあれ、無事到着できたので神様にご挨拶をせねば。


主郭虎口

ちなみに、ここを這うように登って来た虎口です。
ここから帰るのは…怖いので、もっと緩く降りられそうなところを探してみます。


主郭(東側)

そして尾根は東へと伸びて、大堀切の向こうには別郭が続きます。
足元には鹿の糞があちこちに落ちています。
地元の方がこの山には鹿が多く住んでいると伺いました。
今の尾附城の城主さまはどうやら鹿のようです🦌



ここから、三の郭、四の郭にある構造物が見えるのがとても気になります。
いつもなら、もちろん行っているところですが、しばし眺めて1段下まで進んでみる。
やっぱり滑ります。


大堀切

先ほど登ってくる途中の段郭を東方面へ廻り込むと、
この大堀切の中に出られ、その先の三の郭へと行けるのです。



再び主郭へ戻って、今度は西尾根を散策してみましょう。



西側にも尾根伝いに郭が続きます。



それにしても東西南北どこも傾斜がきつく、滑ります。
どこから下ろうか、ほんと迷います。


眺望

なんだかきれいな集落でしょ(^-^)
ちょっとお気に入りの一枚です。



二の郭を西側に回り込むと、少し開けた郭になっています。


西堀切

この堀切が先ほど下で見上げた時に見えた堀切です。



この先は堀切られ、更に細尾根が続いています。


二の郭

この先で参道の石段の中腹へと出ることになります。



下を見たら怖いですよ。
これを下るのかあ…。



なんとか無事に帰って来られました。
この後、登る前にお話しした方に無事行って帰って来れたことを報告して
お礼を述べて帰路へ。


実は一昨年、ネコステ山岳ラリー2019(自動車競技)のオフィシャルで訪れた際、ついでに入口の下見に来ていました。
そして、今回リベンジにやって来ました。
地元の方の話によると、結構尾附城を見に来られる人がいるとのことでマニアの間ではわりと知られた城址です。
幸い、藪にはなっていないのでなかなか見応えのある城なので、詳細不明ながら土の城を堪能できます。
どの方向から登っても、傾斜がキツく、滑りやすいので心して攻めるように!
(お祭りの時は子供もここを登るそうです。子供の方が身軽だから案外簡単に登っちゃうのかな😅)


令和3年4月10日登城


今回の参考本



赤見城(栃木県)

2021年04月09日 | 百名城以外の城
赤見城あかみじょう
別名町屋城
構造平城
築城者足利俊綱
築城年代1178年(治承2年)
指定史跡市指定史跡
場所佐野市赤見町3572 地図

平安時代末1178年、足利俊綱が築城したとされています。
源平合戦の頃俊綱の子・忠綱の城として、室町時代には古河公方方の城として歴史の舞台となりました。
戦国時代後期には佐野氏の唐沢山城の支城として備えの役割を担い、1614年佐野家改易とともに廃城となりました。
保育園敷地内のため立入禁止区域あり。保育園開園中の写真撮影はご遠慮ください。


城址碑(裏)

最初、隣接する保育園の駐車場へ車を停めようと思ったのですが無断駐車になってしまうと思い
別の場所へ移動。
そして、城址碑から保育園駐車場の方を見たら、「無断駐車お断り」の看板が置いてあるのを見て
休園だから良いだろうという身勝手な判断で駐車せずに、別の場所に置いて正解でした。
城址碑の裏に回ってみると、そこには説明文も刻まれていました。


土塁

保育園の敷地とあってハードル高いぞと覚悟して来たのですが、城址碑もあって
土塁にも登れるとのこと。
いざ、土塁へ!



こんな立派な土塁が残っています。
よくある保育園の鉄柵だけでなく園児を守る、最強の土塁です!
なんて素晴らしい!!



高さもあって、外からは丁度いい目隠しになっています。



とは言え、上に登れば中も外も良く見えてしまいます。
今日は園児がいなくて良かった。



堀も残っているし、土塁も二重で見事です。



折れもきれいな土塁ですよね。
本来は土塁が続いていたはずなのですが、保育園の建物があって途切れています。



かつては水が張り巡らされていた堀です。
土塁も二重、水堀も二重になっていたので、ここの他に外側にも水堀が張り巡らされていました。



土塁の上を堪能して、再び城址碑のところまで戻って来ました。



松代城の埋門を思い出させるようなトンネル?が開いています。
これは明らかに現代になって造られたものですね。
しかし、この辺りにも虎口があったのでトンネル状ではなかったはずです。
もちろんこの土橋も存在していなかったものです。



桜も咲き、散歩日和の陽気だったためか、意外に土塁に散歩に来られる方が多く、
近所の子供たちも外で遊ぶ風景が見られたので、あまり時間をかけて散策という雰囲気ではなかったので
名残惜しくも、そこそこに退散しました。


土塁も堀もがっつり残っていて見応え十分でした。
園児がいる時に訪れると、ちょっとカメラを持って土塁に登るということは躊躇われるので
やはりここは園児のいない休園の日を選んだ方が良さそうですね。
以前丸岡城で行われた攻城団の団員総会で話題になり、ずっと訪れてみたいと思っていたので
なるほど納得のメリハリぶりだったなと満足しました。


令和3年3月27日登城





五味与三兵衛貞氏の墓(愛知県)

2021年04月02日 | 墓所
五味与三兵衛貞氏ごみよそべえさだうじ
没場所設楽原古戦場
死因討死
命日1575年(天正3年)5月21日
指定史跡
場所愛知県新城市須長杉ノ入 地図

五味与三兵衛貞氏は鳶ヶ巣山の中山砦で連合軍の奇襲に敗れたと言われ、
塚は遠く離れた、ここ設楽原の最前線近くの高台にあります。
五味氏は越後の浪人と言われ、鳶ヶ巣山砦の守備隊長の一人でした。




武田勝頼の本陣からほど近い場所に五味与三兵衛貞氏の墓所があります。


入口

この階段の奥に五味与三兵衛貞氏の墓があるので行ってみましょう。


案内看板

道路からも見える場所に看板が設置されています。



看板の隅にあるQRコードに注目!
このQRコードを読み取ると、設楽原をまもる会の「設楽原古戦場いろはかるた」が案内されます。
これを見ながら戦地や墓を巡るのも良いですね。
というか、こんなにも見るとこあるんですね。
参考になりました。



階段を登ると、更に道は奥へと続いています。



この時期なので、まだ藪にはなっていませんが
入口から約50mほど入ったところです。



墓が見えて来ました。




五味氏は越後の浪人で、武田方の守備隊長として鳶ヶ巣山の中山砦に布陣しました。
しかし、5月21日早朝に酒井忠次らの奇襲攻撃に遭い討死しました。






令和3年3月21日訪問