むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

沼須城(群馬県)

2021年01月29日 | 百名城以外の城
沼須城ぬますじょう
別名片品の要害
構造丘城
築城者藤田信吉
築城年代1581年(天正9年)
指定史跡
場所群馬県沼田市上沼須町152 地図

1581年(天正9年)6月、真田昌幸は沼田へ戻った際、家臣の藤田信吉に片品郷の内沼須の城を与えました。
藤田氏は倉内に在城し、沼須にあった金剛院とい寺を宇礼野に移し、森下城、阿曾城のつなぎの城として築き、
妻子を沼須の城に置きました。
翌天正十年、北条方の夜襲をうけて阿曾の城をのがれた金子美濃守は、この城にたどりついたと伝わります。



公民館

金剛院跡と思われるお堂の北側にある公民館。
金剛院跡を中心に沼須城があったと思われますが、現在は宅地と化し、
その遺構はほとんど残っていません。
お堂と公民館の間の道がかつての堀だったのかもしれません。


居館跡

住宅地となって家が立ち並んでいる場所が
かつて金剛院のあったとされる場所で、ここに居館があったと思われます。



段々になっていたり、石垣があったりしたようですが
現在の凸凹はかつての遺構とは改変されたもので当時の姿は見られません。



藤田氏は、天正9年に沼須の城を与えられるも天正10年6月には
越後へ落ちているので、ここでの城主としての期間は約1年ほどしかありません。
しかも、ここに居していたのは妻子であって、城主不在の城であったために
あまり大きな改修は行われていなかったものと思われます。


堀跡が残る…とあったのですがもう残ってないのかな…。
しばし、探してみたのですが宅地周辺の道は新たに改修されていて
堀と示されていた場所はすっかり平な道になっていました。


令和3年1月16日登城


今回の参考本



前山城(長野県)

2021年01月25日 | 百名城以外の城
前山城まえやまじょう
別名伴野城
構造山城
築城者伴野光利
築城年代1583年(天正11年)
指定史跡市指定史跡
場所長野県佐久市前山 地図

前山城は、伴野城とも呼ばれ野沢館とは別に伴野氏の本城としていました。
伴野長朝から10代の子孫、伴野佐渡守光利が前山城を相続したとされています。
天文17年に武田信玄により攻略され武田氏に下ると、
武田軍の佐久平定の前線基地として重要な役割を果たしていました。


前山消防団詰所

旧前山小学校の前山消防団詰所に駐車して、大手から登ることにしました。
この辺りは元禄時代には、幕府の代官屋敷があった場所でもあります。



周辺は城下町の雰囲気を今に残す佇まいです。
この通りに登城口と案内看板があります。


登り口

看板のある民家の間を通って行くルートが大手道です。


案内看板

文字がだいぶ薄くなってしまっており、これは読めるうちに文字起こししておかねば!
「前山城跡は、蓼科山の一支脈の突端に位置し、本丸、二ノ丸、三ノ丸がほぼ一線につらなっている。
北方は断崖の下を中沢川が流れ、東、南の二方は急傾斜で曲輪を設け、さらに屋根筋は堀切によって防禦線を構成している。
鎌倉、室町の両時代を通じて、佐久郡西部に威をふるった伴野氏は、伴野庄の地頭として当初は野沢館に據ったが、
室町中期にいたって、詰めのとして前山城を構築し、後には本據をこの城に移した。
天正一〇年(一五八二)前山城に芦田信蕃に攻められ、城将伴野信守は討死し、兵火に焼かれて落城した。
城跡はいまもほぼ旧態を完全にとどめているうえ、焼米その他の遺物が所どころから出土する。」

と書かれています。


大手道

この先から山を登ることになります。



突き当たると山道があります。
このまま迷うことなく九十九折れの小道を登って行きます。



わりと斜面がきついので息切れがしはじめます。



東と南の斜面にはいくつもの郭が階段状に並んでいます。



笹のトンネル、幻想的と言えば聞こえが良いですが…ただの藪です^_^;


虎口

主郭虎口です。


主郭

南北に細長い平地になっています。



西の集落へと続く道があります。


豊受大神宮

豊受大神宮は、衣食住、広く産業の守護神である豊受大御神をお祀りする神様です。


物見

主郭北側が一番高所で突出しています。
ここからは佐久平が一望できることから、物見であったと考えられています。


眺望

正面の山にある、内山城や、平賀城を見ることが出来ます。


米倉

主郭の南側は尾根上に段々と郭が並んでいます。
一段下がったこの場所は「米倉」と呼ばれる場所で、焼米などが出土されています。



米倉で振り返ったところです。


大堀切

米倉の先が大堀切です。
ここで主郭を含む主要部分と大きく切って防御しています。



この堀底は通路としても使われており、この堀から東側(化粧水)への道となっています。


二の郭

こちらも細長い郭です。
この二の郭は、主郭下の大堀切から、お墓のある現在では浅くなってしまっている
堀切までが独立した一郭とも考えられています。



浅い堀切と、二の郭への枡形虎口を構成された場所で、
墓地脇から水場のある城下の里へ通じる道があります。


堀切

墓地から更に尾根を進むと、更に二条の堀が待ち構えています。


武者溜

二条の堀の間には「武者溜」が置かれています。
南側からの侵入を防ぐ最前線となります。


土塁

武者溜の南側には土塁があり、武者を隠す役割もあったのでしょうか。


堀切

この堀切までが城域とされています。



城域の先は更に尾根伝いに搦手道が続きます。
ここまで来ると、軽自動車1台分ほどの道幅になります。


伴野城根踄道橋

まだ新しい歩道橋には伴野城の文字が刻まれています。



前山城へ行くための橋としか思えない橋があります。



橋の下は中部横断自動車道が通っています。
もう少しズレていたら、城址を削り取られてしまうところでした。
ギリギリセーフです。



ここまで車で入って来られそうなのですが、この先は残念ながら今のところ
倒木で通行止めとなっていました。



という訳で、橋を渡ってその先の様子を確認したところで
折り返しました。
帰りは、橋の袂から尾根を歩いて二の郭手前のお墓の所まで戻ることに。


化粧水

墓地のあったところから下って来ると、「化粧水」という水場に出ます。
大きな岩場の下から水が沸いています。


五輪塔

奥の方には中世の五輪塔も見えます。



化粧水から下は城下の暮らしの場となり、居屋敷跡や神社仏閣など配されています。


泉福寺跡

かつてこの地に泉福寺がありました。
ここにあった泉福寺は、明治時代に前山寺と一緒になっています。



ここを下ると一帯は城下の屋敷跡となります。
このあたりにはかつて竜岡屋敷があったとされ、町割りの名残も良く残しています。


伴野神社

若宮八幡社は、前山城の鬼門除けに祀られていましたが、
文化年間吉田家より諏訪社と若宮八幡社を合祀し、伴野神社と改称しました。
また、この鳥居の隣にも水場があります。


前山寺

お寺で参拝していると、こちらの住職に「御朱印ですか?」と声を掛けられ
前山城を見に来たことを話すと、社務所に案内していただきしばしお話をしました。
こちらの住職の話によると、現在は中断されていますが将来的には
前山城への道と駐車場を整備して上田の太郎山系のように周辺の城址を巡る遊歩道の建設を計画しているとのこと。
すぐにとはいきませんが、これは期待したいお話です。


水場

前山寺の庭にも水場があります。
こちらの水は、湧水ではなく水野甚十郎という者に水番をさせたという伝承も残る
上部の甚十窪から水を引いてきているとのことです。


西の登城口

もうひとつ、前山城への登り口を紹介しておきます。
こちらは前山城西の集落からの登城口です。
この先工事中で通行止めになっていたので、ガードマンさんに前山城の登り口を伺ったところ、
この橋を渡って山道を登ると行けると教えて下さいました。(ありがとうございます)
ここは傾斜がキツイということだったので、大手道から登ったのですが
この道は主郭へ続く道で、見上げると主郭が見える位置にあるので一番の近道のようです。


おまけ

前山寺からに南西に進み、中部横断自動車道を潜った先に続く林道です。
こちらの林道が、前山寺の住職さんから教えて頂いた、後の遊歩道となり、近くまで車で行けるよう
建設を予定しているという道ですが、現在は先ほど城址側から行った通り倒木で通行不可のため
通行止めになっていました。
通行止めが解除になれば城下から斜面を登らずに楽ちんに尾根を進むことが出来るので
入口だけ紹介しておきます。
早く通行止めが解除になると良いですね。


令和2年11月21日登城


今回の参考本



石倉城(群馬県)

2021年01月21日 | 百名城以外の城
石倉城いしくらじょう
別名
構造崖端城
築城者上杉顕定
築城年代1478年(文明10年)
指定史跡町指定史跡
場所群馬県みなかみ町石倉1788 地図

石倉城は、藤岡市にある平井城にあった関東管領上杉氏が、
故郷の越後との中継地点として清水街道沿いに築いた城です。
利根川に面して両側を沢で区画し、東南段丘下には石倉館があり後に石倉三河の居館も構えられていました。


入口

関越自動車道水上インターからほど近く、国道291号線を走っていると
入口の看板が見えて来ます。



道下に城域が見えます。
この日は雪があって、車を乗り入れることが出来ず、民家の通行の妨げにならないよう
1台分のスペースに駐車しました。



雪の下がどうなっているのかわからないので、恐る恐る進んで、
とりあえず案内看板と標柱だけでも確認しようと雨の降る中、
慎重に突き進んでみました。



このさらに奥の方が主郭になります。
案内看板には単郭式とあるので、ここが二の郭と呼ぶのかどうかは定かではないのですが
これだけの平地は、いろいろと利用がしやすいものと思われます。
大勢溜まれますよ


案内看板

随分とシンプルな城址です。
案内看板には石倉館も描かれていて、そちらも興味津々です。



奥の方が沈んで見えるので、段差のある部分が堀切で、その先が主郭なのだと想像出来ます。


本日も娘の学校の送り迎えのついでに、車を流しながら決めての訪問となりました。
周囲に雪は無く、雪を見るならもっと新潟寄りか?と思いきや、
人が踏み入れない場所には、やはり雪が積もったままになっていました。
しかし、この日は途中で雨に降られ石倉城では雨がピークとなり主郭と居館跡は見送ることに。
藪にならないうちにもう一度訪れてみたいと思いつつ後にしました。


令和3年1月16日登城


今回の参考本




信綱寺(長野県)

2021年01月18日 | その他
信綱寺しんこうじ
別名大柏寺・打越寺
構造寺院
年代1594年(文禄3年)
指定史跡市指定史跡
場所長野県上田市真田町長横尾8100 地図

信綱寺は、室町時代に横尾氏の菩提寺として「好雪斉大柏寺」として建立されました。
横尾氏は上田原合戦で滅亡すると、真田信綱公が寺を打越に移し、
大光智照禅師を迎え「大柏山打越寺」と名付けられました。
その後、真田昌幸の兄・信綱の位牌所として「大柏山信綱寺」と改められました。


信綱寺

内小屋城(打越城)内にある信綱寺へやって来ました。
そもそも、内小屋城を散策するつもりで訪れたのですが、
こちらの立派な山門に吸い寄せられるようにお寺訪問とすり替わりました^_^;


案内看板

周囲に駐車場やトイレもあるので安心です。
NHK大河ドラマ「真田丸」で観光客で賑わった時期を避けての、今頃の訪問となりました。



真田信綱の墓所のことが書かれています。


山門

とにかく立派な山門です。
古いものではないですが、この存在感は足を止めて見入ってしまいます。



石段を登って本堂へ。


墓前の桜

石段を登りきった右手に、桜の木があります。
長篠の合戦で討死した信綱の首級を、家臣の白川勘解由兄弟が陣羽織に包み
この地に運ばれ、桜の樹の下に埋葬されました。
現在は、寺の移築に伴い、別の場所に墓所があります。



境内は、内小屋城の館であったともされています。
古城は本堂から見て正面の山尾根に築城されていました。


本堂

信綱の首級を包んだ血染めの陣羽織と、着用の鎧胴が墓前の桜の位置から
出土され、大切に保管されています。
ちなみに、一緒に運ばれたという愛刀「青江の太刀」は真田宝物館所蔵となっています。


鐘楼

後から分かったことですが、この奥から裏山に廻ると
信綱らの墓所へ行けるらしい…。



さて、真田信綱夫妻の墓所があるということで墓地の方へ行ってみたいと思います。
※墓所はこちらではありません。



裏山の墓地を捜索したのですが、それらしき墓地が見つかりません。



ここをよじ登ってみても、信綱の墓所はみつかりませんでした。
アシスタント(旦那)がいないとこのようなことになってしまいます(^^;
鳥居が見えたところで捜索を断念して戻ることに。



古城緑地広場

さて、信綱寺と内小屋古城の間の窪地に古城緑地広場なる公園があります。
(この地図を先に見ていれば、墓所の位置がわかったかも~)


歴史の丘

真田三代の歴史が表現されたモニュメント。
手前から奥に向かって時間を遡る形になっています。


案内看板

歴史の丘の説明版です。


花押

こちらは真田幸村の花押です。
現代で言うハンコ又はサインのようなものです。
このようなものが点々と置かれているので、見て回るのも良いですね。


まったくの下調べ無しにふらっと寄ったので、古城や黒門も見ていませんでした。
次回内小屋城(古城)と、墓所のリベンジしたいと思います。
それにしても、暑かった…


令和2年10月31日訪問


今回の参考本




和合城(長野県)

2021年01月15日 | 百名城以外の城
和合城わごうじょう
別名和子城・城山
構造山城
築城者村上義清
築城年代不明
指定史跡町指定史跡
場所長野県埴科郡坂城町南条 地図

和合城は、鼠宿の不寝見(ねずみ)番所の置かれた交通の要でもあり
岩端山の頂上に築かれています。
村上の連珠砦のひとつで、葛尾城防衛の支城とも考えられています。
和合城からは、坂城方面と上田方面が見通すことが出来るために
連絡の要所であったとも考えられます。


産業道路1号線

あの山のてっぺんが和合城です。
坂…キツそうだなあ。



この日はとても寒かったので、ベイシアで手袋を買って登山の準備を整えて
いざ出発!
(車を置かせて頂いたので、帰りはいなり寿司とおにぎりを買って駐車場で昼食としました。)


和合城跡登山口

ベイシアから間もなく墓地を目指して歩いて来ると、看板があるのですに入口が発見できました。


登山道案内図

山城サミットがあったので、看板等整備されています。
この図を見ながら登ることに。



墓地から間もなくして、鉄塔脇に立てられた看板があります。
この辺りから、あちらこちらに石積が見えます。


石垣

道の右にも左にも、低い石垣が見えます。
段々畑にでもなっていたのでしょうか。



道には石がゴロゴロしています。
この日は霜が降りていて、とても滑りやすい状態でした。


倒木

道には倒木もあるので、気を付けて潜って進みます。
(リュックを背負っていると、引っかかるので注意してね)



小さな沢まで登って来ました。
小川になっているわけではなく、ジメっとしている感じです。



ずっと日陰でとにかく空気が冷たくて、お日様が恋しくなってきたところで空が見えて来ました!
そろそろ尾根に出そうな予感。



尾根に出ました。\(^o^)/



虚空蔵山にも行ってみたいのですが、今回は和合城跡を目指します!



尾根道はとても歩きやすくなっています。



凸凹した景色が見えて来ました。


大堀切

目の前には郭らしきものが連なっているのが見えるのですが、
足元には大きな堀切が!!



真下を見ると、かなり深く掘り下げています。



堀切の中を渡り、急斜面を登って郭内へと進みます。


四の郭虎口

虎口には堀切側に土塁が付けられ、更なる防御としています。



懐で温めて来たおしるこで温まることに。
尾根に出るまでは、ずっと日陰で風も冷たく、足元は白く霜が解けない状態でした。


三の郭

四の郭から見えていた、案内看板のある郭にやってきました。
手前にも堀切があったのですが、かなり埋まっていて浅くなっていました。


案内看板

段々に見える郭との境目には堀切で区切られているのが分かります。
現地でもその様子は見て撮れますが、大堀切以外の堀はかなり風化して浅いものになっています。


腰郭

二の郭の南下に延びる小道を進むと鉄塔があります。
この小さな平場が腰郭です。
上田側を見張るのと、二の郭への道を防御する役割をしていたのでしょうか。


二の郭

二の郭にやって来ました。
敵が登って来られそうな、北と東向きに低い土塁で防御しています。


主郭虎口

石で階段を造り、主郭は石で固められているのが目に付きます。


主郭

主郭に到着しました!
ここは標高654.7mです。
正面には土塁も見えます。



主郭は二段になっていて、虎口がある東側が高くなっていて
西側は一段低く、四方を土塁で囲まれています。



主郭から、二の郭、三の郭、更に奥へ四の郭、大堀切と望むことが出来ます。


眺望

周囲は木を伐採してあるため、眺めは抜群です。
坂城側を見ていますが、本当に丸見えの状態です。


出浦城

三角に見える山は狼煙台の役割もしていたという出浦城が良く見ええます。
狼煙の伝達地点としてこちらと繋がっていたのでしょうね。


土塁

主郭の土塁の切れている場所があります。
この写真で見ると、右側には土塁がありますが、正面は土塁が切れています。
この土塁の切れ目の真下は…岩で出来た崖地で絶対に人は登って来られない場所です。



主郭で日向ぼっこして…と思ったら、日当たりは良いけど吹きっさらしで
風を避ける所がないので、そろそろ下ろうと思います。
このような状況から見て、主郭が凹んでいるのは単に防御のための土塁であったり、
一段下げていたりするのは風よけ対策でもあったのかなと思いました。



四の郭まで堀で区切られながらなだらかに凸凹と落として行きます。
そして、大堀切側を土塁で止めています。


大堀切

大堀切まで戻って来ました。
逆から見ても立派な堀切です!


分岐点

分岐点の看板があるところまで戻って来ました。
ここで、登って来た道とは反対に、下塩尻側へ下ってみたいと思います。



こちらの道は、落ち葉がいっぱい積もっています。


石積

道の両側には、住宅分譲地のように敷地を四角に区切られ、
石垣で段差を補強しているのが見えます。



西側は登山口付近で見られた石積でしたが、こちらは尾根の下まであります。
居住地だったのか、後の畑に利用していたものなのか謎ですが、沢山の石積が見られます。



下塩尻側の道はほとんど消えているという情報があったのですが、
そのようなことはまったくなく、しっかりした道があります。
但し、落ち葉が多く滑りやすいです。



かなり下って来ました。
ここで道は左に折れます。



道の右側に、岩の上に突き出た細い道?があります。
本当に細く両側が切り立っていて、落ちたら死んでしまいます。



下を覗くと…
どこまで落ちて行くのだろう…下が見えません。



ここで道は左に折れます。
ここはまるで門があったかのような場所です。



道を折れると、このように虎口状になっています。
下から見上げるとこんな感じです。



門のような岩場を過ぎればもうすぐ下塩尻登山口です。


下塩尻登山口

この登山口には、杖も置かれているので心配していた「道が消えてる」ということはなく
地元の方々がちゃんと整備されていることが分かりました。



登山口は国道から見える場所ですが、駐車場が無いので車は別の場所に置くことになります。
ちなみにここは民家の駐車場なので車を置くことは出来ないと思われます。



岩の突き出た場所を見てゾッとしました!
先程、道の途中で突き出た細道は、あの岩場でした。
昔は物見にしていたのでしょうかね。
お~こわっ💧



そして、国道18号線を歩いて坂城側へと戻ります。
途中、岩鼻を見上げると、「あの鉄塔のある場所が和合城かあ。」と。
さっきまであそこに居たんだと思うと、「凄い立地だなあ」と首が疲れるほど見上げてしまいます。
とても、この岩場側からは登れませんね。


山城サミット上田・坂城大会の配信を視てからの訪問となりました。
映像ではまだ緑の草木が生い茂る状況だったのですが、緑も無くなる時期で
とても良く城址の様子が見ることが出来ました。
整備をして頂いた結果見やすくなっていて、
山城サミット自体は縮小開催で残念なことにはなってしまいましたが
こうして個人的に訪れられるので、整備してくださったことに感謝しております。
城址より道中の方が長くなってしまいましたが、ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。


令和2年12月6日登城


今回の参考本



駒形城(長野県)

2021年01月11日 | 百名城以外の城
駒形城こまがたじょう
別名
構造平山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所長野県佐久市塚原上塚原 地図

駒形城は、耳取の大井氏の砦のひとつと考えられており、耳取城の大井政継が再建したと言われています。
城跡を利用して、後に神社仏閣が建てられることが多いのですが、こちらの駒形神社は
神社の方が先にあり、境内を砦化したと考えられています。
しかし、城暦につては多くのことはわかっていません。



参道

駒形神社の参道です。



駒形神社は牧場を守るために再建されており、望月の御牧のものとされています。
祭神は騎乗の男女二神像で、一間社流れ造りの柿葺きの本殿は
室町時代のもので国の重要文化財に指定されています。




橋の上から見た川は、自然の地形を利用した堀です。


案内看板

駒形神社についての説明文です。



道祖神の奥には、とても気になる防空壕のような穴が開いています。



階段を登ると境内に到着。





駒形神社

一見何の変哲もの無い建物に見えますが、
この建物の中に重要文化財に指定されている本殿が祀られています。
1486年(文明18年)に築かれたものとされ、
棟札から寛永11年、延宝4年、元禄12年、宝永元年、寛保2年、寛政4年、昭和43年に修理がされており、
宝暦8年、安永7年、寛政10年、文政8年、万延元年に屋根の葺き替えが行われています。


社務所

社務所内に祀られている道祖神と猿田彦大神。


堀切

境内と畑のあいだにある堀切があります。
堀切と言っても、現在は浅くなっていて境内への小道になっています。



堀切は小河川に向かって落ちています。


二の郭

もうひとつあったであろう郭と堀切は畑となって消えています。


塚原地区処理場

この台地一帯は、根井氏の牧場があったとされています。


堀跡(推定)

ここから川に向かってもう一条堀があったのではないかと推定されます。


神社仏閣のある場所ならば、サクッと行って来られるであろうと思い
思い付きで寄ってみました。
近くには中山道小田井宿が通っているため、陣屋などの立派な古民家などの建物も見られます。


令和3年1月3日登城


今回の参考本

宝生寺山砦(長野県)

2021年01月05日 | 
宝生寺山砦ほうしょうじやまとりで
別名
構造丘城
築城者伴野氏
築城年代不明
指定史跡
場所長野県佐久市下平宝生寺山 地図

宝生寺山砦は国道142号線、「道の駅ヘルシーテラス佐久南」から見える場所に位置します。
伴野長朝が築城した、前山城の北方の守備のために物見塚の砦とともに築かれた砦です。



駐車場

「道の駅ヘルシーテラス佐久南」の駐車場を借りて散策です。


入口

とりあえず、宝生寺方面へ向かってみることに。


看板

「岸野の唄」という看板の前に立つと、見えた!登山口。
ここから登ってみようと思います。



道は歩きやすく出来ています。



階段も造られているので、整備はともかく管理はされているようですね。



腰郭のような平場に出ました。
ここから更に登ると二の郭、主郭となります。


二の郭

枯草の隙間に、平場が見えて来ました。
どうやら二の郭に到着したようです。



沢山の石塔や石碑が見えます。


主郭

一段高くなっている場所が主郭…というよりは物見か櫓台のようです。
石塔は、お寺の住職のお墓と思われます。


眺望

二の郭から西側を見ると、山の上に櫓らしきものが見えます。
国道142号線を通るたびに気になって仕方なかったのですが、あそこが「虚空蔵山狼煙台」だったのですね。
こちらもいつか、そのうち行ってみようと思っているところです。


石祠

さて、宝生寺に向かって下って来ました。


宝生寺跡

宝生寺があったはずの場所を見下ろしています。
宮坂氏の「信濃の山城と館」では平成11年の時点では荒廃していながらも建物があったようですが
現在は建物は取り壊され、ご覧の通り藪と化しています。


鬼瓦

そんな中に、宝生寺のものであったであろう飾り瓦が落ちていました。


宝生寺入口

先程の看板があった登り口より南に歩いて行くと、宝生寺の入り口がありました。


階段

ここも、前山城へ向かう時などに数回通過しているのですが
石垣も階段も草に埋もれていて、ここに入り口があったことは全く気が付いていませんでした。



覗いてみたものの、この時期草が服に着いて来そうなので突入したくないです(^-^;



南側にある道祖神や石碑。



北側の主郭下へ回り込んでみると、まるで石垣のような大きな岩の上に築かれているようです。
自然にあったものなのか分かりませんが、積んだようにも見える岩です。


「道の駅ヘルシーテラス佐久南」へ寄るたびに、この山を眺めては先延ばしして来ました。
が、時間もかからず、体力も消耗することなく簡単に行く事が出来ちゃいました。
出直すほどの立地ではないので、休憩がてら寄ってみても良いと思います。
但し、土の城が好物でない方を伴っていくとがっかりされると思いますので
独りでサクッと行って来るのがいいのかも。

令和3年1月3日訪問


今回の参考本




さんぽめし

2021年01月01日 | グルメ
🌸立寄りグルメとお土産をご紹介🌸

北海道・東北地方

北海道  

青森県  

岩手県  

宮城県 
🍴白石うーめん 

秋田県  

山形県  

福島県  

関東甲信越

茨城県  

栃木県
🍴ラーメン  

群馬県  

埼玉県  

千葉県
🍴将軍珈琲  

東京都  

神奈川県 
🍴厚木とん漬け 

山梨県  

長野県  

新潟県  
🍴ラーメン


北陸・東海地方

富山県  

石川県  

福井県 
🍴へしこ

岐阜県  
🍴うどん
🍴手羽先

静岡県 
🍴ラーメン 
🍴ハンバーグ

愛知県  

三重県  


近畿地方

滋賀県  

京都府 
🍴ラーメン 

大阪府  

兵庫県  

奈良県 
🍴柿の葉すし 

和歌山県  
🍴ラーメン

中国・四国地方

鳥取県  

島根県  

岡山県 
🍴津山ホルモンうどん

広島県 
🍴ラーメン 

山口県  

徳島県  

香川県  

愛媛県 
🍴松山タルト
🍴鯛めし
🍴焼豚玉子飯

高知県  


九州・沖縄地方

福岡県  

佐賀県 
🍴松露饅頭 

長崎県  

熊本県  

大分県  

宮崎県
🍴破れ饅頭  

鹿児島県  

沖縄県