むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

岡城(長野県)

2019年07月31日 | 百名城以外の城
岡城おかじょう
別名岡村城・古城・小県岡城
構造平城
築城者馬場信房
築城年代1561年(永禄4年)頃
指定史跡市指定史跡
場所上田市岡 地図

岡城の築城時期は不明で文献などから推測で永禄4年~7年の間に築城されたものと思われます。
村上義清の葛尾城を落してから、松代に海津城を築くまでの間の川中島進出の
重要な前線基地でもありました。
武田方の築城であることの特徴がよく見られ、東、西、北の三ヶ所の虎口には
三日月堀の伴う丸馬出がありました。
現在は宅地や水田と化され、岡城跡公園となっています。



案内看板

東の虎口付近に案内看板があります。
ここには土塁と堀が見られますが、東側にあった東の丸馬出は宅地となり
残念ながら、今は消滅しています。


駐車場

案内看板のある土塁の脇に2台分の駐車スペースがあります。
こちらに車を置いて散策しました。


縄張図

案内看板は2ヶ所設置されていて、その中に縄張図が描かれているので
それを基に散策しました。


空濠

まず、車を置いた東の虎口から見える北側の外堀が少し浅くなっていますが
横幅もあり、とても良く見えます。


標柱

外堀に沿うように高く盛られた土塁上に岡城跡の標柱が設置されています。



上に登ると公園らしくベンチや遊具があります。



更に一段高くなった場所があります。



一番高いこの場所には、あずまや、石碑、石祠があります。


岡村城の由来

岡城と呼ばれる前は岡村城と呼ばれていたのですが、
地名から名付けられたことが記されています。
この碑によると武田方馬場氏より以前築城されていたことが記されていますが
諸説あるので実際はいつ頃誰の築城なのかは解明されていません。



小高くなっているので全体的に周囲を見渡すことが出来ます。



堀に沿って北側の丸馬出に行ってみたいと思います。


北の丸馬出

住宅があるものの、なんとなく丸みのある土地であることがわかります。


主郭北の虎口
主郭への虎口にあたります。
その先の団地の中が主郭になりますが宅地になっていて遺構はほとんど何もありません。
うろうろできる状況にもないので、ここは通り過ぎるだけにしました。



主郭を囲む内堀と北西角の土塁に当たる位置で、石垣の一部が見えます。


内濠
この場所には案内看板と道祖神がある場所で、主郭を囲む西側の内堀が良く見える場所です。


主郭西の虎口

先ほどの場所から東側を見ると、西側の主郭虎口があり土塁の名残も確認出来ます。


西の丸馬出跡

この辺りに西の丸馬出があったとされていますが、現在は田んぼになっていて、
輪郭は残る…と本では読んだのですが、丸馬出はありませんでした。


濠と土塁
なんとな~く残る土塁と堀跡。


上田原合戦、川中島合戦と信玄が大きく係る重要な拠点です。
重臣である馬場美濃守が関与した城であることは間違いないようです。
三日月掘を用いた丸馬出が残っていたら…
現代であれば、かなり話題性のある城跡であったろうと想像します。

千曲川を挟み多くの城が築かれ歴史に残る戦いと、
沢山のドラマがこの辺りには溢れています。
本当はこんな簡単な紹介では済まない多くの物語があるのでいろいろ調べてると
なるほど~というエピソードがいっぱいなのです。
文章が下手くそなので、それはまた追々ということで。。。。


令和元年7月20日登城



甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館



[新装版]戦国武田の城
中田 正光
洋泉社

上田古戦場(長野県)

2019年07月29日 | 古戦場
上田古戦場うえだこせんじょう
合戦名上田原合戦
合戦者村上義清vs武田信玄
合戦年代1548年(天文17年)
指定史跡
場所上田市上田原 地図

諏訪、佐久地方を平定した武田晴信(信玄)は、北信濃への進出を企てこの地にやって来ました。
上田、小県地方に勢力を延ばしていた村上義晴がこれに応戦、1548年(天文17年)ついに
上田原合戦へと突入しました。
この合戦で武田方は板垣信方などの有力な武将を失い、晴信(信玄)自身も手傷を負い
撤退を余儀なくされ、数少ない晴信(信玄)の負け戦となりました。



上田古戦場公園

この案内看板がある場所は上田古戦場公園の多目的グラウンド側入口にあります。
古戦場公園には駐車場があるので周辺散策にはここを利用すると良いです。



武田信玄が負け戦となった戦いが、上田では二度ありました。
1548年(天文17年)の上田原合戦と、
1550年(天文19年)の砥石城の戦い(砥石くずれ)です。


上田原合戦戦没将士菩堤寺入口

「上田原合戦の地」の碑があります。


荒砥城から岡城へと行く途中、上田道と川の駅に寄った時に上田原合戦場と知り
その場でちょっと調べて、せっかくなので寄り道してみました。
そもそも予定していなかったことで時間もあまりなかったので中途半端な内容となりました。
でも、上田を訪れた際に時間に余裕がある方はこちらも散策されてみても良いのかと
思います。
私も今後通りすがったらもう少し散策してみようかなと思います。


令和元年7月20日訪問


信濃上田城 (シリーズ・城郭研究の新展開5)
和根崎 剛
戎光祥出版

山方城(茨城県)

2019年07月27日 | 百名城以外の城
山方城やまがたじょう
別名御城・御城館
構造丘城
築城者山方能登守盛利
築城年代1408年(応永15年)頃
指定史跡
場所常陸大宮市山方313 地図

山方城は、佐竹氏の重臣の山方能登守の居城跡で、御城と呼ばれ
南郷街道に沿った水上交通上の中間地点として重要地点でもありました。
御城、中ノ城、外城の三つの郭からなり、南側には山方宿がありました。
平時は本城、中ノ城に住み、戦時は高館山頂の詰城に移り住んだものと思われます。



駐車場

無料駐車場完備です。
ここから少し歩くことになりますがありがたいことです。



この先に駐車する場所が無いので車はここに置いて歩くことになります。


嘆願橋

駐車場脇にある皆沢川にかかるこの橋は、かつて農民が御城の領主に願い事をする際
ここまでしか入ることが出来ず、ここで言上したことから「嘆願橋」と呼ばれるようになりました。


南郷街道

水戸を起点に南郷(現福島県塙町、棚倉町)に至る道です。
城域内を通っていることから案内看板が設置されています。
御城展望台へは看板に従って進みます。


御城展望台入り口

この先は車での侵入は出来ません。
管理棟の係員さんの車がこちらに停められています。
足の不自由、身体の不自由な方なら、駐車スペースではありませんが、
かろうじてここの前に乗用車が一台停めさせてもらえるかなと思われます。



入口から遊歩道に入ると趣のある石畳で、城跡というよりは
やはり公園の雰囲気で迎えられます。


空堀と土塁

入口から歩き始めて間もなく、空堀と土塁が見えて来ました。


矢篠(矢竹)

藪のようになってますが、このように矢竹の群生がみられます。
矢竹は稲科の竹で、真っ直ぐで節間が長く矢の材料として用いられ、
よく山城で見かけることがあります。
御城でも城内全域に 矢竹を植えて戦に備えていたものと思われます。
ちなみにここは本城と中ノ城の間の堀切です。



御城展望台は有料です。


御城展望台

御城展望台が見えて来ました。
この展望台は山方家の子孫の方、資料だけでなく建設費の一部を寄付されています。


管理棟

9月1日まで「学びのスタンプラリー」を開催しているので、これに参加すると
団体料金で入城することが出来ます。


天守入口
現在は東京にお住まいという山方家の子孫の方々から寄贈された
山方氏関係史料は御城展望台内の展示室で見ることができます。


腰庇

天守(展望台)と石垣の隙間を埋める腰庇は、丸岡城を思い出させる造りになっています。


1階

ここで靴を脱いでスリッパに履き替えて見学します。



山方氏の子孫の方から寄贈された山方氏関係史料や、
国道118号線バイパス建設工事に伴い昭和61年に発掘調査が行われ、
その際に出土した土器類が展示されています。


縄張図

御城と高館山の詰城の縄張りです。


2階

2階には展示物はありません。
そして、にこやかにほほ笑む「地蔵菩薩立像」がこの展望台から見守っています。



破風も再現されていて、天守らしい造りや飾りがチョイスされています。
もちろん屋根には鯱鉾も載っています


中ノ城
本城と中ノ城の間の堀は藪になっていて入って行けなかったので
展望台からの眺めで確認。
畑の部分が中ノ城、その奥の住宅地が外城になります。



こちらの窓からは市街地の様子が見えます。


学びのスタンプラリー

夏休み企画「学びのスタンプラリー」開催中!
スタンプラリーの台紙をもらって展望台を入ったところでスタンプを押します。
管理棟でもらったシールを貼るのですが…私にはセンスが無いなあと痛感(>_<)
後に続いて貼った人がどう思ったか…心配です
私が訪れたこの日から開催となり、意としたわけではなかったのですが一番乗りでした^^;



晴れていたら格好良く見えたんだろうなあ。
天守に青空は重要です!


梅林

本城北側は梅林になっています。



それではそろそろ御城展望台をあとにしたいと思います。


堀切

中ノ城と外城との間の堀です。



中ノ城と外城との間の堀を進んでみると、途中で舗装路は途切れて
軽トラ1台分の幅しかない道になっていました。


夏場は山城に行くのは厳しいと思い、建物がある城跡に行こうと検索して
こちらにやってきました。
でも実はここに来る前に、入口までのつもりで覗いた山城へ「あともう少し…」と言いながら
結局登って来てしまいました。
本来の目的地であった山方城へ来た時には、だ~れもいなくて貸し切り状態だったので、
城主気分でまったりできました。


令和元年7月13日登城



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小沢城(群馬県)

2019年07月24日 | 百名城以外の城
小沢城おざわじょう
別名沼田館・沼田城
構造崖端城
築城者沼田景朝
築城年代1405年(応永12年)
指定史跡市指定史跡
場所沼田市甲2038 地図

小沢城は三浦系・沼田景朝が荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城です。
沼田氏の幕岩城へ移るまでの4代114年間、居城にしていました。



入口
四釜川の崖端に築かれた城で、入口には「沼田平八郎景森の墓」の看板があり、
従うように道を登ると小沢城(法城院)に辿りつきます。


法城院

現在は法城院があるこの場所に案内看板が設置されています。



内郭の南側(崖側)は蒟蒻畑になっています。


平和観音尊像

この辺りに内郭と中郭との間の土塁と堀、虎口があったと思われますが
今は土塁はなんとなく名残が見え、堀は見当たりません。


土塁と虎口

内郭の土塁は東側に残されているものが比較的良好に残っています。
墓地のあずまやの右側に見える土塁がしっかり残っています。


沼田大明神

沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を此所に葬り沼田大明神として祀った神社です。
また法喜庵(法城院)を建て霊を弔いました。


沼田平八郎景森の墓

沼田景義は沼田城主12代顕泰の側室の子で沼田氏最期の主将です。
この墓は、金子一族の子孫である利根村大原金子重右衛門照泰らにより作られ、
1780年(安永7)年納められたものです。


土塁

外側の土塁いは良好に残っています。
内側にあった土塁も東側に残っている土塁と見比べてもおそらく同じ位の
高さがあったのでしょうが畑になってしまったのでしょう。


虎口

間知ブロックで補強されていますがはっきりとわかる北側外の虎口です。


空堀

虎口を出ると、そこには空堀があります。
堀と土塁で高さを増しています。



堀底が道になっていますが、堀であったことがよくわかります。



内側から見た北の虎口です。


中城

この面が広いので、がっつり畑になっています。



内郭と外郭の境界となる土塁は、このように何も残っていません。


井戸

昔からあった井戸を現代でも畑に利用しているのかと思って注目してみたのですが
帰宅して縄張り図を見てみたものの、井戸の記載はありませんでした。
位置としても井戸があっても良い場所だと思ったのですが…。


東の虎口
東の虎口から右に入って行けそうだったのでちょっと様子を見に行ってみました。


東南の虎口

わずかな土塁が残っていて、奥には草で覆われていますが下に続く階段がありました。
この道は古くからあるもので南の虎口へと繋がる道であったようです。


沼田平八郎景森の墓の看板があったものの城跡への案内看板がみつからなかったので
周辺をうろうろしてから法城院へ。
何も残っていないのかと思いきや、土塁も堀も残っていて特に北側の堀と土塁、虎口のセットが
良い感じであったので収穫あり!でした。
ぜひ、北側をご覧くださいませ


令和元年7月6日登城


戦国史 上州の150年戦争
簗瀬 大輔,久保田 順一
上毛新聞社 出版部


荒砥城(長野県)

2019年07月22日 | 百名城以外の城
荒砥城あらとじょう
別名新砥城
構造山城
築城者山田氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所千曲市上山田 地図

村上氏の支族である山田氏に築かれた山城です。
川中島合戦の頃には武田軍と上杉軍による争奪戦が繰り広げられました。
1582年(天正10年)武田氏滅亡後、上杉景勝の川中島統治時代には屋代秀正が上杉に従いますが、
その翌年には屋代秀正が徳川家康と通じて荒砥城に籠城、上杉諸将に責められ落城したと伝えられています。



戸倉上山田温泉
戸倉上山田温泉の背後の山に荒砥城が聳えます。
「戸」の上に櫓が見えるのがおわかりいただけるでしょうか。


県道聖高原千曲線

県道聖高原千曲線を進むと見えて来る荒砥城の看板。
看板に従って右折をすると駐車場と入口はもうすぐです。
また、聖高原方面は現在工事中で全面通行止めになっています。


駐車場(下)
先ほどの地点を右折してすぐに駐車場が見えて来ます。
この上にまだ駐車場があるので、上の駐車場が満車の際はこちらを利用します。


バス停

下の駐車場まではバスが来ているようです。
本数は少ないようですが、バスはここで転回して行きました。
ちなみにお客さんは一人乗っていて、ここで降りました。


駐車場(上)

ここが車で登れる終点で、駐車場になっています。
ここからは歩いて登ることになりますが、道は整備されているので歩きやすくなっています。


千曲市城山史跡公園案内図

遊歩道の入口には案内看板があります。


トイレ

遊歩道を歩いて一度くの字に折れて、間もなく石垣とトイレが見えて来ます。


城址碑
建物と城跡碑が見えて来ました。
下がトイレ、冠木門の手前にあるのが案内所です。
また、トイレの奥が四の郭になります。


案内所

こちらで入園料300円を払い、パンフレットをもらっていざ出発です。
ここからはトイレや飲み物も無いので夏場は熱中症にならないように
水分の対策をして行きましょう。
うちわの貸し出しも行ってましたよ(^^)


三の郭

道の途中にある三の郭。
と言っても知らなければまったく見過ごすような郭です。
もちろん、公園化にともない元の形は留めていないものと思われます。


城門

この門の上に登ることが出来ます。
石垣も復元なのですが平べったい石を積み上げたとても特徴的な石垣です。





井楼櫓

狼煙台としても機能していたであろう場所でもあり、その眺望は抜群です。
さらにこの井楼櫓に登って眺めた景色はすばらしいです。


眺望

眼下には戸倉・上山田は温泉地として栄え、街並みや干曲川が一望できます。


櫓から見た本郭

城主の館と兵舎が再現されています。


パノラマ

ここから見える景色の中には多くの山城が入り込んでいます。
三角で特徴的な山には、大河ドラマの「真田丸」でおなじみの寺島進さんが演じた
出浦昌相の名が知られ、注目されるようになった出浦城があります。
出浦城も冬になったら行ってみたいと思っているところです。


兵舎

兵舎を再現して展示室としています。


映像室

荒砥城が築かれた頃の様子や戸倉上山田温泉の観光案内のビデオを上映しています。
ここでめっちゃ蚊にさされたので、この時期は虫よけはお忘れなく!


展示室

山の城と麓の城の紹介や出土品の展示をしています。


冠木門

本郭と二の郭との区切りの門です。


城門

本郭への入口です。
撮影のセットのよう…実際撮影に使われているのでセットと言っても過言ではない^^;


館と兵舎

こちらは以前訪れた時の画像です。
時間外なので扉は閉まっていて中の様子は見られませんでした。




今回は開園している時間でのリベンジだったので中の様子もちゃんと見られました。



ここに偉そうに座って記念撮影しちゃいました


裏側
裏側は食糧庫にしていたであろうという想定で再現されている造りになっています。


兵舎内部

本郭の兵舎内部はNHKの大河ドラマの収録の様子が展示されています。



NHKの大河ドラマ「風林火山」や「江」にも使用されました。


展望台

とにかく多くの山城や砦がいっぱい見えるところなので
景色が良いというだけでなく山城好きにはヨダレものです。



雨上がりで靄がかかり幻想的な雰囲気の中での登城でした。
残念な天気だなあと思ったものの、少し晴れ間も見えて来てこれもまた良い雰囲気でした。



かくれんぼ?
後ろから丸見えです^^;
この写真も以前訪れた時のものですが、風景は今とほとんど変わらないのですが、
ここに写る我子は、もう高校生になっています。



さて、そろそろ帰りましょうか。





以前訪れた時は夕方で、かろうじて受付に係員さんが居たのですが残念ながら城址は戸締りをした後でした。
それでも親切にせっかく来てくれたのだからと城址には入れてくれました。
その後我々が帰るまで待っていてくれたので入口で引き返すこともなく外からだけですが
見学することが出来ました。
今回は入園料を支払って建物内も見学して参りました。
今回は小雨の中での登城となり、ここでは天気に恵まれないのだなあと…。
それでもこれだけの景色が楽しめる場所なのでを持って散歩に来るのも
ありかなと思います。
そしてここから背後にある本城や小城は冬に出直したいと思います。


平成24年9月22日登城
令和元年7月20日再登城


甲信越の名城を歩く 長野編
中澤 克昭,河西 克造
吉川弘文館

常陸太田城(茨城県)

2019年07月18日 | 百名城以外の城
常陸太田城ひたちおおたじょう
別名佐竹城・舞鶴城・青龍城
構造平山城
築城者藤原(小野崎)通延
築城年代 1109年(天仁2年)
指定史跡
場所常陸太田市中城町151 地図

常陸太田城は、小野崎通延が築城し馬坂城を居城としていた佐竹隆義が
小野崎氏を小野崎城へ追いこみ常陸太田城を入手、佐竹氏の本城としました。
佐竹氏は会津上杉討伐や関ヶ原合戦に参陣しないなど
徳川家康に反抗的態度が多かったために、秋田に国替えを命じられました。
秋田移封後は水戸藩の支庁が置かれ明治初期に廃城となりました。



西本郭

太田小学校へやって来ました。
学校はお休みで、職員室を訪ねてみたのですが先生方はいらっしゃいませんでした。
通報されないように体育館に居た保護者の方に声を掛けて、
事情(城跡を見に来たこと)を告げました。


舞鶴城址碑

西本郭の太田小学校の門を入ってすぐに城跡碑があります。


今上(昭和)陛下御駐蹕の碑

小学校裏の現存土塁とされる場所付近にある石碑は
1929年(昭和4年)に陸軍特別大演習が行われ、
その際に、天皇陛下が太田小学校にお立ち寄りになられたことを
記念して建てられたものです。


日下部父子の碑と益習館跡

水戸藩が庶民の教育機関として設けた郷校のひとつで
益習館の初代館守を務めた日下部連と、その子である伊佐治の功績を称えた碑です。



埋蔵文化財発掘調査

ここは日本たばこ産業が所有していた旧太田倉庫跡地です。
三の郭に位置する場所に来てみたら…発掘調査中でした。



住宅地にするための発掘調査のようです。



この後、9月以降は住宅地建設となっていくのでしょうか…。
そもそも工場があった場所なので今更ながら遺構がどうのという感じではないかもしれません。
しかし、ここに舞鶴城があったことを研究し、語り継いでいる方々に敬意を表したいと思います。



学校にある城址碑だけかなとあまり期待せずに行ってみたのですが、
広く城址の面影(土塁や堀)と地名など名残がのこり、発掘調査中であったりと
思いの外歴史を感じる場所じゃないか!と思いました。
三の郭から9月までに何が出て来るのか、新発見があることを期待します。


令和元年7月13日登城



改訂版 図説 茨城の城郭
茨城城郭研究会
国書刊行会

小野崎城(茨城県)

2019年07月18日 | 百名城以外の城
小野崎城おのさきじょう
別名
構造平山城
築城者小野崎通盛
築城年代1145年―1151年(久安年間)
指定史跡
場所常陸太田市瑞竜町小野崎 地図

小野崎通盛は、小野崎に館を構えていたことから小野崎新太夫と称しました。
佐竹昌義の家臣となり、その勢力は宿老・守護代へと発展していきました。
その後佐竹領の拡大に伴い、小野崎城から櫛形城へと所領替えとなり
小野崎城は廃城となりました。



城址碑

常陸太田市立瑞竜中学校にある城跡碑の撮影許可を取りに職員室を訪ねました。
撮影許可と他に遺構がないか尋ねてみたのですが、残念ながら遺構は残っていないとのこと。
東側の一段下(里川側)から遠景で見ると城(館)を置きそうな地形であることがわかります。
しかしそれ以外城跡であったことを偲ぶ材料がみつかりませんでした。
近くには白鷺神社が目につく。
ここには今宮館跡があるらしく、入口にはバイクの先客がいました。
佐竹永義の館があった場所とされますが、現在館跡には白鷺神社の境内になっています。


城址碑以外学校敷地内の撮影は遠慮致しました。
遠景を見てその立地条件から、かつての城跡を想像しながら後にしました。


令和元年7月13日登城


ドライブレコーダー 前後カメラ 2019最新版 32GB SDカード付き 永久保証付き 1080PフルHD 1800万画素 LEDライト付き 4インチ 170°広視野角 SONYセンサー/レンズ 常時録画 G-sensor( WDR)
Silintion
Silintion



日本城郭大系〈第4巻〉茨城・栃木・群馬 (1979年)
平井 聖
新人物往来社

総社城(群馬県)

2019年07月12日 | 百名城以外の城
総社城そうじゃじょう
別名植野城
構造平城
築城者秋元長朝
築城年代1601年(慶長6年)
指定史跡
場所前橋市総社町総社 地図

総社に封ぜられた秋元長朝は蒼海城を放棄し、この地に築城したのが総社城です。
秋元氏は天狗岩堰の揚水灌漑工事を行い、城下に水路を引き、城下町の整備も行いました。
秋元泰朝の時代になると甲州谷村に移封され、廃城となりました。



城川公園

現在、本丸と二の丸の一部は利根川に削り取られて失われています。
また、残った二の丸部分と三の丸も宅地化が進み遺構は残っていません。



この壁、和風にはみえないですが、塀に開いた穴が狭間に見えます。^^;


案内看板
城川公園に設置されている案内看板です。


堀跡

城川公園から振り返って道の東側を見ると堀の名残なのか?と想像するにも
ちょっと難しいような二の丸跡があります。
今も造成が続いていて、その面影はもはや想像をもしがたい状況です。


物見台

給人町屋敷側から見た物見台。
住宅化が進み、現在残る遺構としてはこの物見台くらいです。


遠見山古墳
城川公民館へやってきました。
遠見山古墳を利用した物見台です。
この日は何やらイベントがあるらしく、地元の方々が何かの準備をされていたので
駐車は出来そうになかったので、車から私だけ降ろしてもらってひとりで散策へ。
※行事等何もなければ城川公民館への一時的な駐車は可とされています。



すると、そのイベントに来た?のか近くにある「前橋市総社歴史資料館」の方が
私を見つけて話しかけて下さり、総社城と秋元氏と天狗岩用水の説明をして下さいました。
現地で詳しい話が聞けてラッキーでした。
また、「前橋市総社歴史資料館」へ行けば総社城や秋元氏に関しての資料が
あるとの話でした。


天狗岩用水路

早速教えていただいた天狗岩用水路を見に来てみました。
ここは熊谷稲荷の東側を流れる水路です。
秋元氏が総社の町を豊かにしたとして二代30年余りでしたが
転封後もなお領民に愛されました。


熊谷稲荷神社・天満宮

熊谷稲荷神社があります。
秋元氏が甲州へ転封になり、高崎城主安藤重長の領地となり陣屋を構えたのも
この付近になります。



陣屋を構え、高田弥兵太代官が支配するようになると重税で農民たちは困窮し
熊谷稲荷神社に参集し、加護を祈ったそうです。
この時、江戸に直訴に行った際に助けてくれたのが秋元氏であったことも
総社の民にとってどんなに救われたことか。



前橋市総社歴史資料館の方に偶然出会えてラッキーでした。
この辺りの地元の方々はとにかく秋元氏推しなのだそうで、秋元氏愛を力説されたので
もう少し秋元氏について調べてみたくなりました。
甲州へ転封の後に館林城へ転封になっているので、場所は違うけど群馬には帰って来られたのですね。
折を見て「前橋市総社歴史資料館」を訪れてみたいと思います。
秋元氏愛にあふれた総社城訪問でした。。。。


令和元年6月16日登城


日本城郭大系〈第4巻〉茨城・栃木・群馬 (1979年)
平井 聖
新人物往来社

明徳寺城(群馬県)

2019年07月10日 | 百名城以外の城
明徳寺城みょうとくじじょう
別名天神山砦・天神山城
構造丘城
築城者沼田氏
築城年代1390年―1394年(明徳年間)
指定史跡町指定史跡
場所利根郡みなかみ町後閑 地図

明徳寺城は、会津葦名氏の攻撃に備えて荘田城の沼田氏が築いた
天神山砦を改築して城を築きました。
戦国時代には北条氏と真田氏の争いに巻き込まれ、
後に小田原征伐へと発展し真田氏の領地になるが、後に廃城となりました。


みねの湯 つきよの館

「みねの湯 つきよの館」を目標にしてやって来ました。
すると矢印看板は「みねの湯 つきよの館」の方を指しているのでお邪魔させて
いただきました。


案内看板と標柱

案内看板のある「つきよの館」の駐車場から見た入口です。
左手に下る道があるのですが、草が生い茂っていて降りて行く気になれなかったのですが
その先には井戸があるようです。
また、右手には民家(つきよの館の方の家?)があるので撮影しなかったのですが
そちらは馬出(小郭)とされています。
こちらのお宅から出て来た方に駐車の許可をいただき、駐車場に車を置かせていただきました。


入口

入口と言っても、既に城郭内に立っているのですが
この位置からでも一目でわかる虎口が見えます。


空堀
虎口手前の空堀も立派そうですが竹藪になっています。


主郭虎口

土塁を切った虎口が待ち構えています。


主郭

高さのある土塁に囲まれた主郭は、3段に分かれた造りで
それぞれの郭の区切りは段差も低く、今ではそれほどはっきり
分かれているようには見えません。


土塁

東側の土塁は特に高く盛られています。
この高さ


中段

中段は現在桑畑になっていて、こちらはまだ畑として機能しているようです。



中段と上段の境界あたりには水溜りのような小さな池?がありました。
古いとは思えないのですが人工的に水が溜められているように思えるのですが…。




先ほどの池と並んで境界付近に石が並んでいます。
こちらの石は縄張図にも示されているので何らかの遺構であると思われます。
かつて明徳寺があったことからそれらに関した礎石などでしょうか…。


明徳寺跡

上段は明徳寺があった場所とされていますが、藪になっていて奥~の方に土塁が
見えるけど入って行けそうにありません。
ちなみに、虎口を入ってすぐの上段側にはお墓があります。
これもお寺であったことを示しているようです。



中段から下段へ続く道。
この先もちょっと覗いてみたのですが草むらになっていたので引き返して来ました。^^;


北西虎口

先が薄暗いのでどこまで進めるかな?と思いつつ、恐る恐る道をくだってみることに。



まだ進めるぞ!とカメラの1脚棒を武器に蜘蛛の巣と格闘しながら
下って行くと道下には腰郭が見えました。



なにやら建物が見えて来ました。
行ってみましょう!


水子地蔵尊

水子地蔵尊です。
お寺なのでこのような建物も残っています。
とりあえずご挨拶ということで手を合わせます。


腰郭
右の道のように見えるのが腰郭で、左の道が主郭から下って来た道です。



先ほどの腰郭を上から見ています。
藪でよくわからないのですが、肉眼では確認出来ます。



帰りがけに道路から見た井戸のある方向。
茂みの中に井戸があると思われます。


もう、草が生い茂ってしまっているので山城に行くのは
厳しいので平城、丘城狙いでやって来ました。
堀が良い堀なんですけど、竹がねえ~。残念。
でも、高い土塁とそれを切った虎口がとても印象的でした。


令和元年7月6日登城


TRAIL 一脚 DVC-0101M 5段 シルバー 651110
新東京物産
新東京物産

石倉城(群馬県)

2019年07月05日 | 百名城以外の城
石倉城いしくらじょう
別名崖端城
構造平城
築城者長尾憲景
築城年代1485年(文明17年)
指定史跡-
場所前橋市石倉町5丁目7−12 地図

石倉城は、蒼海城主の長尾忠房の嫡男長尾憲景が築きました。
関東の要衝であった石倉城は、上杉、武田、北条の奪い合いが続き
何度もの攻防戦が繰り返されてきました。
天正18年徳川勢の侵攻により、「もはやこれまで」と城に火を放ち城兵とともに
落城の運命を辿りました。


城址碑

石倉城二の丸公園内にある城跡碑です。


案内看板
城址碑の横に並ぶ案内看板は縄張図が記されています。
もう薄くなって見ずらいです。


石倉城之記

石倉城を後世に伝えるべく石倉史蹟愛好会が建てた「石倉城」を記した碑です。


二の丸公園

二の丸は公園と化しています。
厩橋城の前身とも伝わる石倉城は、利根川の氾濫を受けて多くを削り取られてしまい
再建をした頃には厩橋城と呼ばれるようになっていました。



この奥は河川敷になります。


厩橋城

石倉城の三の丸に築城されたという厩橋城はこの川の先に見える
県庁に位置する場所になります。



グラウンドの駐車場へ降りて来ました。
川岸側から二の丸を見上げています。
本丸は大部分が削り取られて無くなっています。


前橋県庁付近の利根川は現代になっても氾濫する場所で、
未だに危険な土地柄であることは変わりありません。
堀にするにしても、自分らがこの水害に遭ってしまっていては
敵は自然災害にあり!って感じです。^^;
にもかかわらず、また懲りずに前橋城をここに造ってしまうほど
この地に拘ったというのがなんだかよくわからない。
それでも、現在に至っても群馬県庁がここに存在するわけで、
車が水没しようともここが群馬県の中心であることはかわりない…。
大雨が降るたびに前橋県庁付近の川の氾濫が気になります。。。



令和元年6月16日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

村松城(新潟県)

2019年07月02日 | 百名城以外の城
村松城むらまつじょう
別名村松陣屋・松城
構造平城
築城者堀直吉
築城年代1644年(正保元年)
指定史跡
場所五泉市村松 地図

村松城址公園として整備されている村松城は、かつて堀直竒の二男直時が3万石を分けられ、
安田に陣屋を築いた後、直時の嫡男直吉がこの地に移転させ陣屋を築きました。
1850年(嘉永3年)に城主格に昇格したことで陣屋から
現在の城の形へと大改修しました。
戊辰戦争では新政府軍に火を掛けられ廃城となりました。



村松郷土資料館
村松郷土資料館の駐車場に車を置いて公園内を散策開始!




本丸と南曲輪の間の堀は駐車場から村松郷土資料館へ行く途中で見ることが出来ます。


手洗鉢
村松郷土資料館入口前にあるこの手洗鉢は、江戸時代に村松藩の藩主が将軍家菩提寺である
上野の寛永寺に寄進したものを平成11年に寛永寺の厚意により寄贈され移設したもので、
村松城の外堀に使用されていた大沢石を使用しています。


本丸
公園化している村松城は、縄張り内を道路が斜めに横断していて残念なことになってますが
形としては城跡の縄張りの様子は確認することが出来ます。


土塁
本丸の南側を見ると、本丸が土塁で囲まれていたことが分かります。
その土塁の向こうは先ほど見た本丸と南曲輪の間の堀です。



左手道路側の公園入口付近には、電車とあずまやがあります。


蒲原鉄道の車両

加茂駅から中蒲原郡村松町を経由して五泉駅までを結んでいた鉄道路線で、
大正11年に蒲原鉄道を設立、翌年村松から五泉間を開業し、
平成11年に全線廃止となりました。


枡形虎口

本丸内側から見た枡形虎口です。
見所はやっぱりこの枡形虎口でしょうか。


枡形
土塁上には塀があり、枡形の門を構えていました。
石垣造りではないのでちょっとわかりずらいと思うのですが
土塁はL字になっているのがはっきり分かります。


案内看板
城址公園の説明が記されている案内看板です。



この土塁の上に枡形門が築かれていました。


石碑

歌碑のようです。


搦手口

こちらが搦手口とされる外堀を渡る橋から枡形門までの内堀の様子です。



公園化した時の改修がどこまでなのか…遺構はどの程度残っているのか
見ただけではよくわかりません。



城跡というよりは、館の色が濃く館跡として見た方がしっくりくるかも。


内堀

北東に残る堀。
この堀は縄張図にも載っている堀なので遺構と呼べる場所です。



散策には行っていないのですが、正面奥の方は南曲輪が広がっています。


じょうせきばし

外堀の役割も兼ねている滝谷川を渡る橋。

村松藩は新潟を占領した新政府軍の追撃を恐れ、藩主を米沢に逃がすことにしました。
新政府軍が近くまで迫ると、城下に火を放って津川口から米沢に逃げたのです。
しかし、会津藩に合流した後、城下で戦闘中に捕らえられ、打ち首となりました。
村松藩は幕府側の大藩である会津藩と領地が接していることもあり激戦地だったのですね。
北越戊辰戦争も激しかったことが、こうして城さんぽをすることで学ぶこととなり
こんなにも多くの城跡が戦乱に巻き込まれていたことに驚くばかりです。

また、赤坂古戦場跡にも北越戊辰戦争の爪跡が残ります。


令和元年5月12日登城



維新の墓標 昔々 北越戊辰戦争で
渡辺れい
新潟日報事業社