むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

久松松平家の家伝の松山タルト

2021年06月30日 | グルメ

長崎探題職を兼務していた定行が1647年(正保4年)にポルトガル船が運んできた南蛮菓子を食し、その味にいたく感動したため、製法を松山に持ち帰ったといわれています。
その南蛮菓子はカステラの中にジャムが入ったロールケーキのようなもので、現在のあんこが入ったタルトは定行が独自に考案したものだそうです。

その後、このタルトは久松松平家の家伝とされ、明治以降、松山の菓子司に技術が伝わり、愛媛の銘菓となりました。
中のあんこも柚子餡だけでなく、栗入りや伊予柑風味の商品もあり、メーカーとしては一六本舗、六時屋、ハタダなどが有名です。
(とくに一六本舗の「一六タルト」は県外でも知られるほど有名ですね)



小島氏館(埼玉県)

2021年06月28日 | 陣屋・館
小島氏館おじましやかた
別名
構造
築城者小島氏
築城年代平安時代~鎌倉時代
指定史跡
場所埼玉県本庄市小島5丁目4−12 地図

武蔵武士と言われる武蔵七党のひとつ丹党に、小島郷を本拠地とした小島氏の祖で
小島重光の居館であったのではないかと推定されています。
現在土塁と空堀が北・南・西に残っています。
東側は利根川の崖地になっているため、初めから土塁がなかったと考えられています。


長松寺

長松寺を目指してやって来ました。


案内看板

少しばかりですが、この中に小島氏の居館あったことが記されています。



長松寺を囲むように断片的に残る土塁から
このお寺が館の中心であったと思われます。


石碑

何やら絵が描かれた石碑ですが、文字が読み取れなくて
どのような意味を持つ石碑か分かりません。
う~ん、気になる。


鐘楼

正面に回り込んでみると、破風の金の装飾が映えて綺麗です。


本堂

唐鈴山薬師院と称し、弘法大師空海を宗祖とする真言宗のお寺で
開山は祐海法印と伝わり、江戸時代初期の創建と思われます。



本堂の両脇にある大きな瓶に蓮があります。
そろそろ時期だよなあと思いながら近づいてみました。


めだか

すると、中にはめだかが泳いでいます。
この光景を見ているだけで、暑いながらも涼しげに感じます。


蓮の蕾

蓮の蕾…まだちょっと早かったようです。
来週あたりなら咲いているかな。


土塁(南西)

お寺の西側と北側に土塁が残っているようなので裏の方へ行ってみると
確かに土塁があります。


土塁(西)

西側は道路からも見えていたように、襟のような土塁が残っています。



今は竹林になっている北側にも、西の土塁が続いていたと考えられていますが
土塁は残っておらず平坦になっています。


土塁(北)

本堂の真裏には少し土塁が残っています。


堀(北)

土塁と空堀がセットで巡っていたので、残っている場所には土塁と堀と両方が残っています。


参道

竹林を抜けて、西の道路側に出て来ました。
歩道なのかと思いきや、目の前には朱色の鳥居が見えます。
ここって、確かお寺だったよね?


唐鈴神社

振り返ってみると、神社がありました‼
この道は歩道ではなく、唐鈴神社の参道でした。


堀(西)

参道からは空堀も良く見えます。



ここには虎口でもあったのでしょうか?
土塁と土塁の区切りがあるように見えます。


土塁(南西)

外側から見た南西の土塁です。


鳥居

ここから銀杏並木が続く唐鈴神社の参道だったんですね。
この神社には面白い伝説があり、群馬県の玉村町と深い関係があります。
862年(貞観観4年)群馬県玉村町の火雷神社の神官が祈祷を行っていると魔物が現れ
神鏡を奪おうとしたので那波八郎廣純が刀をとり、その首を切り落としました。
魔物の折れた角を投げた場所は「角渕」、切った手を捨てた場所が「上之手」という地名になって玉村町には残っています。
また、魔物の首を祭ったのがここ唐鈴神社との言い伝えがあるそうです。


この日は、娘の用事で近くまで送迎することになったので
用事が終わるまで近くの城館巡りをして時間を潰すことに。
宅地になっていれば遺構はほとんど失われていたことでしょう。
神社仏閣になっていれば多少遺構が残るもので、断片的ではありますが残っていて良かった。


令和3年6月27日登城


今回の参考書


P176参照

岩染城(群馬県)

2021年06月21日 | 百名城以外の城
岩染城いわぞめじょう
別名城山
構造山城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所群馬県富岡市岩染 地図

岩染城は、藤田氏の藤田城を守るための砦として築かれた城とも、小幡氏の国峰城の支城とも考えられ、
実際のところはどちらの説も確証のあるものはみつかっておらず、推論でしかありません。
しかし砦であった遺構は今も見事に残っていて、この地に城が築かれていたことは間違いありません。



入口

以前入口の確認にここまで来ました。
駐車スペースも何とか確保しましたが、路面は見た目と違い
赤土と舗装の境目が滑るので注意が必要です。



軽自動車であれば通れそうですが、途中倒木があるので車での通過は断念。
しかしながら、いつもHPを拝見させて頂いている余湖氏のアドバイスもいただき、
今回は、このルートから楽ちんに行くことが出来ました



このまま本線を進むと下岩染の集落へと抜けられるはずです。
少し先まで様子を見に行ったのですが、下りになる辺りから少し道が荒れていました。
とりあえず目的の城址へ行くには、ここで左手の登城路へと進みます。



登城路を登り始めて間も無く、平場が見えて来ます。


二の郭

平場に出て、まっすぐ目の前には主郭が見えます。
構造はかなり単純な造りと思われます。(この時点では)


マムシグサ

すごく特徴的な植物だなあと思い、調べてみるとマムシグサと呼ばれる
毒性のある植物でした。
茎の柄がマムシに似ていることからマムシグサと呼ばれているそうです。



主郭の方をよく見ると、石積みが見えます。


石積

石積に吸い寄せられ、二の郭、三の郭はさておき、
さっさと主郭虎口の石積へとまっしぐらにやって来ました。
この辺りでは、塩ノ入城でも石積を見ましたが、同じ位の時代のものでしょうか。


虎口

主郭虎口からは東側の下に二の郭が囲むように伸びているのが見下ろせます。


主郭

小ぶりかと思いきや、想像よりも広い。
この木が無かったら、すごくいい雰囲気の城跡なのになあ。
伐り倒したい…。


土塁

わずかしか残ってませんが、南側に土塁が残っています。
大手道が南側に開いているので防御と攻撃のための土塁が巡っていたと思われます。



主郭にもマムシグサ。
紫色がもっと黒ずんだものが多いのですが、ここのはわりと綺麗です。


三の郭

西側にある主郭下に帯郭のように見えるのが三の郭です。


四の郭

北側の主郭下には四の郭があり、その更に北には堀切と五の郭と続きます。


二の郭

南から入り、東から北にかけて二の郭がコの字を描いている囲んでいます。
その北側の先端部分は少し広くなっています。


竹の子

主郭に生える竹の子を見つけました。
二の郭の竹林からの延長で増え続けている様子。


虎口

よく見ると、先ほどの石積の延長でコーナー部分も石積になっていました。



この先に堀切があるはずなので行ってみたいと思います。



軽く藪化していますが、まだ行けるレベルです。


堀切

見えました‼
堀切です。
堀の先に尾根が郭状になっているようですが、ここから見ても緑しか見えません。
もうだいぶ草木が生い茂って来たので、ざっくりでしたが今回はここまでで帰還します。



さて、行きにも使ったこの道(城の西側の登城路)は堀切でした。
堀底を大手道とし、北(鞘戸)と南(下岩染)の集落へと行けるようになっています。



車を置いてきた場所まで戻って来ました。
主郭は樹木がいっぱいで眺望は望めませんでしたが、ここからでも十分に周囲の城が
睨みを利かせています。


西平城

北のちょっと東寄りにみえるのは西平城です。
標高はあちらの方が高いので、西平城からは岩染城がよく見える状態です。



そして、この方向には塩ノ入城大山城もあります。
しかしこれらの城の築城当時のことはあまりよくわかっていません。


今まで比高差もあまりないし、いつでも行けると思って後回しにしていた城でした。
遺構もあまり期待していなかったのですが、コロナで県外へ行くことも控えていたため
どこに行こうかなあ~と思って余湖氏のHPを見ながら入口の確認にだけ訪れました。
SNSに入口の投稿をすると、ご本人からHPに書いてある通りのことをアドバイスして下さったので
舞い上がって(調子に乗って)、意気込んで行って来ました。
行ってみたら、しっかり遺構が残っていたので整備して看板でも立てたら
すごく見栄えが良くなりそうなのになあと。
ただ、その場合説明文はどうなるのかと想像すると、あまりよく判っていないというところで
まとまらなくなるんだろうなあ。
造りとしては土塁・石積・堀切と分かりやすくコンパクトにまとめられた
土の城としては苦労なく行ける良い城でした。


令和3年5月23日登城


今回の参考本

東西対決!関ヶ原のうどん

2021年06月17日 | 歴史のつぶやき
国道21号線沿い関ヶ原にある麺処「やまびこ路」



左のうどんは、薄口昆布だしの関西風
右のうどんは、濃口鰹だしの関東風


東西のダシの分け目もここにあり!


どちらも甲乙つけがたかったのですが、個人的な感想としては憧れは関西風、食べてみれば馴染の関東風ということで関ヶ原の戦いのごとく惜しくも関東風に軍配ですかね。

でも家康より三成の方が好きなのでなんとも複雑な気分です^^;


場所:岐阜県関ケ原町大字野上1380−1 地図




補陀寺館(群馬県)

2021年06月15日 | 陣屋・館
補陀寺館ほだじやかた
別名
構造
築城者大道寺政繁
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡
場所群馬県安中市松井田町新堀1186 地図

松井田城の南西の麓にある補陀寺は、かつて東側にあった大手道を
南側に移し補陀寺のある位置に居館を構え、松井田城の大改修を行いました。
補陀寺から松井田城へと登る登城路を整備し、かつて城の中心とされていた安中曲輪から
西半分の本城部分を増築して石尊大権現のある禅谷津と呼ばれる谷中を通るルートを
松井田城後期の大手道としました。




補陀寺東側の入り口です。
ここを入って左側にお寺の駐車場があります。


境内

松井田城の最後の城主、大道寺政繁の菩提寺で、ここには大道寺政繁の墓所もあります。
小田原攻めでは、この松井田城で前田利家や上杉景勝、真田昌幸の北国勢35000の兵と戦うこととなり、
松井田城は、たった3000の城兵で約1カ月間持ちこたえましたが、降伏し、
政繁は切腹し、廃城となりました。


本堂

大道寺政繁の最後を過ごした居館があった場所がこの補陀寺になります。
本堂へ向かうと、にゃんこさまがお出迎えしてくれました。



こちらで、松井田城の御城印を二種類販売しています。


鐘楼

新緑がきれいな季節になりました。


山門

本来、こちらから参拝に来るべきかと…いつもながら搦手からの訪問となりました。
とりあえず表を見にいってみましょう。


参道



山門

やっぱり、表から参道を抜けて本堂で参拝。
それから周囲を散策…が理想ですよね。


この日は松井田城の御城印を入手すべくやって来たため、うっかり墓所へ行くのを忘れてしまいました。
松井田城は保存会の講演会や現地説明会などに参加させていただいたこともあり
補陀寺も訪れるべき場所のひとつとしていたのですが、いつでも行けると思っていると
どんどん後回しになってしまっていました。
コロナで遠くにも行けなくなったこの時期に、御城印をきっかけに、ようやく訪問することが出来ました。



令和3年5月23日訪問


今回の参考本


小弓城(千葉県)

2021年06月11日 | 百名城以外の城
小弓城おゆみじょう
別名南生実城・小弓御所
構造平山城
築城者原氏
築城年代不明
指定史跡不明
場所千葉県千葉市中央区南生実町 地図
城郭検定 出題あり


未登城の城






〈ポイント〉
📢下総国小弓城を本拠にしたため小弓公方と呼ばれた武将は足利義明。