むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

小幡陣屋(群馬県)

2017年04月23日 | 陣屋・館
小幡陣屋おばたじんや
別名小幡城
構造陣屋
築城者織田信雄
築城年代1615年(元和元年)
指定史跡県指定史跡
場所甘楽郡甘楽町小幡 地図
城郭検定出題あり

小幡は1615年(元和元年)に織田氏の所領となり、以来152年の間治めてきました。
織田信長の次男織田信雄が7年の歳月と数万両を投じて築いた御殿跡と大名庭園があります。



武家屋敷

中小路には当時の屋敷や石垣などが残されている。


松平大奥

奥方と何人かの腰元が住んでいました。



ペリーが浦賀に来航した際、将軍が江戸城大奥の女官15人~16人を
この屋敷に疎開させたと伝わります。


喰い違い廓

戦の時の防衛のために造られた。
他にも、下級武士が上級武士に出会うのを避けるために隠れたと言われています。





番所

ここでパンフレットをもらい、見学するには入場料を支払います。


中門

かつては武士らの公式な出入口でした。


御殿跡

東側は公的空間、北側は台所、西側は生活空間といった構成で
部屋割りがされていました。


井戸(金明水)

こちらの井戸は御殿で使用する井戸で周囲には薪小屋と九間長屋がありました。


北裏門

北裏門の奥に見える建物は喫茶店で、土日限定で「信雄サンド」が人気です。
この日も「信雄サンド」を求めて訪れてみたのですが既に完売でした。残念…





井戸(銀明水)

こちらの井戸は長屋に暮らす使用人たちが使用していました。


餅つき

何の意味があるのかよくわからない像。
お侍さんが餅つきとはめずらしい像なので何か逸話でもあるのでしょうか。。。


拾九間長屋

藩邸の使用人たちが暮らしていた長屋です。
中は展示物や映像を流しています。


藩邸ジオラマ

藩邸の復元を望む声もあるのですが今のところ復元の予定はないそうで、
代わりにこの模型を造ったそうです。


大型スクリーン

大型スクリーンで城下町小幡の映像を上映しています。


庭門

藩邸と庭園を区切る門。
当時は藩主の許可がないと入ることができませんでした。


昆明池

江戸時代初期の地方武家の庭として価値が高いとして10年の歳月をかけて復元した。
奥の建物が「梅の茶屋」で藩主が休憩したり庭園の景色を楽しんでいました。
手前の建物が「腰掛茶屋」で全国でもめずらしい五角形の形をしています。





熊井戸氏の館跡

古くは小幡氏の屋敷があったのですが、国峰城が完成し、
小幡氏は国峰城に移り、小幡氏重鎮の熊井戸対馬守正満が屋敷を構えました。
江戸時代初期になると織田氏によって屋敷跡は陣屋、庭園に造営され名勝楽山園になりました。


熊井戸

覗き込むと今でも水が溜っています。


凌雲亭


玄関
接客を一人で行っているため時間に余裕がある方はこちらでゆっくり
されると苦みのないすっきりした味のお抹茶がいただけますよ。


お抹茶とお菓子

 一服400円(薄茶・干菓子付き) ※干菓子は季節で変わります
ちなみにこの日は老舗和菓子店のみそ餡のせんべいと落雁でした。


家紋入り茶碗
織田家の家紋入りの黒い茶碗が飾られていました。


南東庭園

江戸時代には昆明池のある庭園と泉水のある南東庭園と
西側に塀を造って区別されていました。


桜祭武者行列

毎年4月になると歌手や俳優などの有名人を招いて武者行列が行なわれています。



大手門礎石

陣屋の正面にあたるこの付近に大手門(表門)があったとされ、
四脚門という格式高い門があったとされています。
大手門の信号角にあるギャラリーお休み処「大手門」の隣にあります。


見取図






平成24年4月14日登城
平成29年4月16日再登城


 おぼえておこう!
1級】江戸時代初期の藩邸の庭園に2012年復元された中門だが、内部の庭園は池泉回遊式の借景庭園で「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられている。それはどれか。


よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス

館林城(群馬県)

2017年04月22日 | 百名城以外の城
館林城たてばやしじょう
別名尾曳城
構造平城
築城者赤井照光
築城年代江戸時代
指定史跡市指定史跡
場所館林市城町3 地図
城郭検定 出題あり


城沼を自然の要害とした平城で、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条が滅亡し北条の直轄だった
館林城は関東に入国した徳川家康の所領となり徳川四天王の一人「榊原康政」が城主として
入封した城でもあります。


三の丸

三の丸足軽番所跡付近にある館林城跡の標柱と説明看板。


土橋門(黒門)

藩士の通用門として使われていました。
明治維新後民間に払い下げとなり、旧藩士が買い戻しその後は取り壊しになったり、
強風で倒壊したりしたがそのたびに復元を繰り返し三回復元された経歴を持つ。


蔀土居

門の内側は桝形になってます。


井戸

このお城には、井戸が沢山あります。
この門の周囲だけでも三基みつかっているそうです。
その中の一基を復元しています。
さすが水が豊富にあるだけあります。


土橋門(表)

昭和58年に復元されたものですが、大正7年に復元したものとほぼ同じ格好で
復元されています。


土塁

土塁の上に城壁も復元しています。
この城壁は土橋門を復元した際に一緒に復元したものです。


千貫門跡

館林市役所の北側交差点にある千貫門跡の石碑。
立派そうな橋がかかった櫓門が描かれています。


本丸



本丸櫓台跡

ここにはかつて二重櫓があったと思われます。
石垣は積まれているが、比較的新しいもののようで古くからあったとは
思えない石垣があります。


本丸土塁

本丸櫓台まで続いている本丸土塁です。




鶴舞う形の群馬県の形を約1万分の1に造られた池。
明治時代に上毛モスリン株式会社によってつくられた池を
修復した池です。


溝状遺構(移設復元)

向井千秋記念こども科学館の裏手で本丸土塁との間に復元された水路の石組です。
向井千秋記念こども科学館を建設するにあたり、発掘調査がされ発見されました。
女性宇宙飛行士向井千秋さんの出身地ということで館林子ども科学館から
向井千秋記念こども科学館に名前が変更になっていました。



発掘された水路は復元場所(現在地)より約20mほど北西でみつかっています。



八幡宮

この八幡宮は江戸時代には武家の守り神や城の守護神として
館林城の八幡郭に俸られていました。


拝殿



画像はありませんが、八幡郭の対岸には稲荷郭もあります。
稲荷郭には足を運んでいないのですがおもしろい伝説があるので紹介しておきます。

城造り伝説
大袋城城主の赤井照光が、こどもたちに捕らえられた子狐を救いました。
その日の夜、子狐が助けられた礼を言って、館林が要害堅固の場所であると言って
大袋城から館林城(尾曳城)に移転するよう勧めて姿を消しました。
その年の七夕の夜、老狐が現れ尾を曳いて城郭の縄張りを先導して夜明けまでに終わらせました。
別れ際に「築城完成の暁は永く城の守護神に仕えよう。私は稲荷の神使新左衛門である。」
と言い終わると姿を消しました。
赤井照光はこれによって築城し、その名も尾曳城と称し、城に稲荷郭を造りました。
現存する初曳稲荷は尾の曳き初め、夜明稲荷は曳き終わりと伝えられています。


秋元別邸

館林城最後の藩主秋元氏の別邸(別荘)で明治時代に建てられました。


秋元別邸内部

縁側も板の間ではなく、畳敷きになっています。


秋元別邸の庭






秋元春朝投綱の像

この像は秋元春朝が池に向かって投網して魚を獲るところを表した像です。


館林城出土墓石群

館林城本丸や三の丸から出土した墓石を集め、墓城とした場所です。
館林城の土塁や石垣を修築するために使われていたようで、墓石の中には領主のものもあったようです。
このように城造りには信長の安土城だけでなくこのように墓石を石垣などに使われている
城がいくつもあります。


郷土資料館
こちらに行くと館林城のパンフレットがいただけます。
館林城のジオラマも展示されているのでぜひ立ち寄ってみてください。


レストラン城跡

館林文化会館にある「レストラン城跡」。
食事はして来なかったのですがお見せの名前がおもしろかったのでパチリ!
ちなみにメニューはお城にちなんだものなど特別なものは見当たらなかったです。


お花見シーズンを迎え出店も出ていてとても賑わっていました。
「館林さくらまつりとこいのぼりの里まつり」の最終日で駐車場も混み合っていましたが
何とか駐車出来たので城さんぽしたのですが、とても広い。
たくさんのこいのぼりが泳いでいましたが賑わっているそちらの公園には行かず
ひたすらお城の遺構を求めて歩きました。
あまりに広いのでどこから攻めようかと迷い、まずは郷土資料館へ行って
パンフレットをもらいジオラマを見て大体の位置関係を確認しました。
一度行ったくらいでは廻りきれず、見逃してきたことが沢山ありそうです。



平成29年4月9日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

佐野城(栃木県)

2017年04月21日 | 百名城以外の城
佐野城さのじょう
別名春日岡城・姥城
構造平山城
築城者佐野信吉
築城年代1602年(慶長7年)
指定史跡市指定史跡
場所佐野市若松町504 地図

南側から三の丸・二の丸・本丸・北出丸が直線的に配置された連郭式に配した城郭跡です。
唐沢山城の城主である佐野信吉が1602年(慶長7年)に幕府の山城廃止政策を受け、
唐沢山城からこの地に移り佐野城を築城しました。



JR佐野駅
駅から直通で城祉に出られます。
電車で来る人にとってはすごく便利でしょうね。


三の丸
鐘が下がっていそうな櫓がありますが鐘ではなくベンチが設置されています。


案内看板

三の丸から二の丸への入口付近に縄張り図や発掘時の案内がされています。


史跡佐野城祉の碑

ここまでは車の乗り入れが可能のようです。
数台の駐車スペースがあります。


万葉の里城山記念館

こちらには展示室もあり、休憩もできます。


常設展示室

城山の歴史や万葉の里としての佐野市を紹介しています。



発掘調査をした時の様子のパネルや出土品が展示されています。


二の丸


石畳跡

ここでは発掘調査により、石畳の通路と石垣が発見されています。
東斜面には井戸もみつかっており、ここへの通路として使われていたようです。


北の丸(鐘の丸)



テラス

隅櫓(見張台)があったと思われます。
岩盤をくりぬいて造られた柱穴や瓦などがみつかっています。
確かにこの公園では一番眺めの良い場所だと思います。


搦手

北の丸西側にある搦手があったとされるあたりの階段。


本丸

大きな石碑があります。



晴れていたらシートを敷いてお花見したくなるような芝生が広がってます。


堀切

本丸と二の丸の間の堀切。
かなり大きい堀切で橋が架かっています。


公園の池

あづまや付きの公園の池があります。
常に水が流れているからでしょうか、思ったよりきれいな水でした。


内堀跡

この道路の部分はかつて内堀だった場所です。
この内堀の丘陵部分には犬走りもあったようです。


駐車場

公園の専用駐車場が麓にあります。無料なのでこちらに駐車して登城しました。
午前8:30~17:00まで利用可です。


桜が満開の中、あいにくの雨。
残念と思ったのですが、花見客でごった返す状況ではなかったので
ゆっくり散策することが出来ました。

駅前の三の丸で探し物するかのように歩きまわる一人の女性が居ました。
私の行きたい方向にしばらく一緒に歩くような感じだったので歴女?と思ったのですが
どうやら、三の丸でクローバー探しをしていたようです。
城祉に来る人を見るとみんな城めぐりだと思っちゃいます^^;



平成29年4月9日登城




堀田佐野城(栃木県)

2017年04月20日 | 百名城以外の城
堀田佐野城ほったさのじょう
別名植野城
構造平城
築城者堀田正高
築城年代1614年(貞享元年)
指定史跡市指定史跡
場所佐野市植下町 地図


植野城は元々陣屋で、1829年(文政12年)に城主であった掘田正敦が寛政の改革での功績により
陣屋が城主格に格上げになったので、城主格とされました。
その後堀田家は明治2年の廃藩置県まで存続し、廃藩置県により佐野県知事となりました。
同年11月には栃木県が成立したことで県知事としての役割はわずか4ヶ月でした。
版籍奉還のため城は廃城となり、建物は大手門、裏門、中門が移築され残っているのみです。





佐野城城郭図

黒御影石で造られた縄張り図。
この辺りが御殿にあたり、本丸付近になります。


佐野城墟碑

墟碑の碑文は旧家老西村茂樹が書いたという。


駐車場

公園に設置された駐車場。3台分の駐車スペースがあります。




庭園を飾る公園の門。
現在本物の大手門は堀田家の菩提寺「東光寺」に移築されています。
そして中門、裏門は民家に移築されています。



整備されたばかりのきれいな公園です。





御泉水
実際の御泉水はもっと東側にあったようですが、
形状を保全・継承しているそうです。


東屋




武士長屋と庭園があったであろう場所です。


堀田稲荷神社

鬼門除けのために建てられたという神社があります。



ここは築城当時からあるものと思われ、土塁とともに残されています。



大手道はこの方向にあったと思われるのですが…よくわかりません。


黒御影石で出来た城郭図があるのですが、現在地が記してないので見てもよくわからない。
稲荷神社が当時から同じ位置であったとして考えてみて、本丸とされる民家横の城祉碑のある場所
をあてはめて城郭図を見ると益々位置関係がわからなくなる。
私の理解力が足りないのでしょうか…。



平成29年4月9日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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薬師堂(栃木県)

2017年04月19日 | その他
薬師堂やくしどう
別名新町薬師堂
構造仏堂
造営者
造営年代
指定史跡
場所佐野市犬伏新町 地図


「真田親子 犬伏の別れ」の地


大河ドラマ「真田丸」でも有名になった薬師堂。
今でもここを訪れる人が多くいます。
ここで真田親子は徳川か豊臣(石田)かどちらにつくのか苦渋の選択をしたのですね…。


薬師堂

この日はあいにくの雨でしたが先客がいました。
まだまだ「真田丸」人気は衰えていないのだなと感じます。



天井のように見える格子部分は表の扉です。
横に開いたり、スライドする扉ではなく上に釣り上げる式になっているようです。



中はそれほど広くないです。



無人のお札販売。





別れ橋があったと云われる場所
別れ橋があったという場所の案内看板があります。
この日はついでに薬師堂に寄ってみたので別れ橋までは行きませんでした。




靴を脱いで中に上がることができそうでしたが外から眺めるだけにしておきました。

そして、城めぐりには付きもののお賽銭。
お城を巡っていると神社仏閣に流れ的に立ち寄ることとなります。
賽銭箱があれば訪問させてもらった感謝を込めて賽銭投入!(日頃から5円玉は集めておくべし。)
あ、ちなみに真田ゆかりの場所は六文銭にちなんで5円玉は6枚用意して行きます。



平成29年4月9日訪問


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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椿田城(栃木県)

2017年04月18日 | 百名城以外の城
椿田城つばきだじょう
別名
構造平城
築城者福地出羽守寧久
築城年代1560年(永禄3年)
指定史跡市指定史跡
場所佐野市船津川町 地図


椿田城は唐沢山城の最南端の出城として構築されました。
川越城・忍城・館林城の三城の抑えとされ、佐野氏の改易とともに廃城となりました。


入口看板

入口の案内看板がありますが、駐車場が無いので住民の方々の邪魔にならないよう
注意が必要です。

入口

個人宅の入口に城祉の看板が掲げられています。



福地家入口前に標柱と石碑と案内看板があります。



城祉敷地内には今でも福地家の子孫の方が住まいとしています。
ご迷惑にならない配慮が必要です。




近年に造られたと思われますが、城祉の雰囲気を醸し出す立派な門があります。


門(内側)

背後に控柱を持つ特徴的なデザインの門です。


お屋敷

碑が見えたので門と碑を見にお庭まで。
お屋敷の玄関横には何か看板らしきものが掲げられていたのですが
確認に行く勇気もなくここまでで引き返しました。


椿田十一面観音福地堂
福地家代々守護神として伝わる十一面観音は黄金造りで、
御本尊を兜の前立てに納め数々の合戦に出たそうです。
すると矢や弾丸を受けても貫通することなく怪我も負わなかったそうです。
これは十一面観音の御加護のおかげと語り継がれています。


水堀

城の内堀であった水堀。
今でも周囲を囲むように水が流れていて用水路として利用されています。


土塁(才川堤防)

城の背後は内堀があり、土塁があり、外堀として才川で守られています。


個人宅ということであまり散策することはできず、城内には門を構えた屋敷なども
見受けられるのですがあまり踏み入れてはならないなと思い奥の方までは
行きませんでした。


平成29年4月9日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
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黒袴藤岡城(栃木県)

2017年04月17日 | 百名城以外の城
黒袴藤岡城くろばかまふじおかじょう
別名
構造平山城
築城者藤岡佐渡守秀行
築城年代1481年(文明13年)
指定史跡
場所佐野市黒袴町 地図


佐野氏の家臣であった藤岡佐渡守秀行によって築かれた城です。
関東管領山内上杉氏に仕えていた藤岡氏は上野(群馬県)の藤岡城よりこの地に移り
6代に渡りこの地を治めて来たのですが1546年に上野藤岡城へ戻りました。
その後佐野氏の家臣大貫政重が入城、1585年(天正13年)の北条軍との対峙により
兵火により城は炎上し、以後廃城となりました。

遠望

はっきりとした遺構が残っていないためこのあたりかなあというところで眺めてみました。
佐野サービスエリア付近から田んぼ(南側)に向かって舌状に突き出た場所が城郭らしいです。


田んぼ側から見る
目の前は田んぼが広がりますが、一段高くなった三角の地形が城跡のようです。




縄張りもよくわからないのですが、この上に居館があったのではないかと思われます。


畑への登り口

畑になっているだけで遺構は見られません。



畑の隣はすぐに住宅があります。
右の宅地側が本郭または居館となる部分にあたるようです。


あまり城向きな土地には見えないので城というよりは居館だったであろうと思います。
要害になる崖地もなく山の上というわけでもなく攻める側に立ってみると簡単に
攻め入ることができてしまうような立地で、戦う城の雰囲気はまったくと言っていいほど
感じられない土地でした。


群馬県藤岡市にある藤岡城(芦田城)から城主が移って来たこともあり
この城も「藤岡」という城名が付いているようです。


平成29年4月9日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

阿曽沼城(栃木県)

2017年04月16日 | 百名城以外の城
阿曽沼城あそぬまじょう
別名
構造平城
築城者阿曽沼四郎広綱
築城年代1182年(寿永元年)
指定史跡市指定史跡
場所佐野市浅沼町 地図

阿曽沼城は濠と土塁、防柵に囲まれた鎌倉時代の典型的な構造で造られた平城でした。
阿曽沼浅沼氏によって阿曽沼郷をはじめ、軍功により遠野、世能、飯田などの所領を賜り
統治していました。
唐沢山城とも関係の深い城で、城主の阿曽沼広綱は唐沢山城の城主有綱の子であるとも言われています。



浅沼八幡宮

この日は佐野市議会議員選挙が行なわれていて隣が投票場になっていたため、
境内には車がいっぱいでした。



浅沼八幡宮は築城時は城の一角に建てられたとされています。


阿曽沼城之跡碑

神社の脇には立派な石碑が建てられています。




八幡宮の裏手に残る濠と土塁。





おしどり塚歌碑

鎌倉時代に書かれた「沙石集」の歌を書いたものです。
昔、阿曽沼付近に住む猟師が雄のおしどりを狩り首を切り落として持ち帰ったところ、
夢枕に女が現れ「どうして夫を殺してしまったのか」と悲しんでいました。
翌日同じ場所で雌のおしどりを狩ると雌のおしどりは昨日の雄のおしどりの首を
しっかりと抱き抱えていたそうです。
おしどりの夫婦の愛情の深さを知った猟師は殺生を悔いて出家し、おしどりを弔ったという
伝説が残されています。
(※このような伝説は全国各地に残っているそうです。)

道路側の案内看板

道路側からも見える濠と案内看板。


阿曽沼城は浅沼八幡宮と町の公民館との敷地内に濠と土塁をわずかに残して周囲は
宅地化し現在は城郭跡はほとんど分からなくなっています。


平成29年4月9日登城



清水城(栃木県)

2017年04月14日 | 百名城以外の城
清水城しみずじょう
別名興聖寺城
構造平城
築城者佐野国綱
築城年代1228年(安貞2年)
指定史跡市指定史跡
場所佐野市吉水町739 地図


佐野氏が岩崎氏のために築いた城です。
岩崎氏はこの城で12代続いた後岩崎城に移ります。
その後佐野氏が入城するのですが、佐野氏改易により廃城となりました。


入口

佐野氏改易ともに廃城となって20年後、清水城跡に興聖寺が移ってきました。


十王堂山門


改修記念碑

この裏の土塁が外からも中からも見やすように改修されました。


山門裏側

門を入ると桝形になっています。
桝形?というよりは実際は本堂と門の位置がずれているのでここで
方向を変えるための壁なのかなと思いました。


駐車場

こちらに車を置かせてもらいました。


土塁

駐車場から見える土塁。



山門裏に空き地があります。いずれここも墓地になると思われます。


参道

門をくぐり桝形で曲がらせられた後は、まっすぐ本堂まで続く参道。
ここで犬に吠えられるのですが一定の場所まで進むと鳴き止みます。
参拝者とわかると吠えなくなるようしつけられているなかなか賢い番犬のようです。



手水鉢代わり?にも見えなくはない位置に置かれた石鉢。住職の趣味でしょうか…。


土塁
本丸の一番奥の土居。
ここに登ってみると土塁に囲まれている土塁の様子が良く分かります。


墓地

戦没者の墓石が統合されて慰霊塔があります。


本丸を囲う土塁はとても良好な状態で残されています。
城は本丸と北二の丸、南二の丸、三の丸とそれぞれ水堀で囲まれた本格的な縄張りが
されていたそうです。
城の周辺には侍屋敷もあり有力な家臣も住んでいたそうです。
現在水堀はみられませんが本丸跡が寺として残されているので遺構を見ることが出来ます。


平成29年4月9日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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鐙塚阿曽沼城(栃木県)

2017年04月12日 | 百名城以外の城
鐙塚阿曽沼城あぶつかあそぬまじょう
別名阿武塚城
構造平城
築城者阿曽沼弾正
築城年代1471年(文明3年)
指定史跡
場所佐野市鐙塚町 地図

阿曽沼城の支城とも言われる鐙塚町に築城された鐙塚阿曽沼城。
現在遺構はほとんど残っておらず堀、土塁も埋め立てられ名残程度に
確認することが出来ます。


会社の敷地内であったり畑や団地で細部を確認するにはちょっと難しいところです。






この竹藪の中に堀や土塁と思われる箇所が見られます。






正直、会社の敷地との段差なのか郭の区切りなのか確証が無いのでよくわかりません。





あぶつか公園

城祉から道を挟んで向かい側にある公園


星宮神社

あぶつか公園内にある星宮神社。


庚申塔



案内看板も無ければ城祉であるという公式な表記をされたものが何もないので
特定するのに苦労しました。
攻城団の情報や他の人のブログなどで位置を特定してみたものの、これと言って
はっきり遺構と判るものが発見しずらい状況で、今後訪れる人もきっと
同じ苦労するのではないでしょうか。
とりあえず「あぶつか公園」を目標に来て近くを散策してみるしかないようですね。
あまり人に知られていない場所はよ~く探すと新しい発見があるかもしれませんよ(^^;


平成29年4月9年登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

倉賀野城(群馬県)

2017年04月11日 | 百名城以外の城
倉賀野城くらがのじょう
別名雁城
構造平城
築城者秩父平三郎高俊
築城年代鎌倉時代初期
指定史跡
場所高崎市倉賀野町1461−1 地図

戦国時代、城主の倉賀野三河守行政が関東管領上杉憲政に仕えましたが河越夜戦で戦死。
その後は上杉方から、武田方、織田方、北条方、と次々に仕えましたが最後は豊臣秀吉の小田原攻めにより
北条方であった倉賀野城も豊臣方に降伏し廃城となりました。
河越夜戦の際、城主だった行政は戦死したが倉賀野城は「倉賀野十六騎」が行政の嫡男為広と
城を守ったという話が残されています。



本丸入口

他の郭は住宅街になっていて、本丸部分は公園になっています。



もはや城祉としての遺構はあまり残っていません。


雁児童公園入口

住宅の間に造られた公園の入口にはかつてここが倉賀野城であったとう案内看板が掲げられています。



遊んでいる子供や散歩している人はいなかったのですが、公園内はゴミや草が無く奇麗に手入れされています。


堀と土塁

本丸の周囲を囲む堀跡のなごりと思われます。
烏川が曲がった本丸真下のところにあります。





倉賀野城祉碑

城祉はほとんど宅地化していますがとても立派な城址碑があります。



公園の外側は断崖になっていて下は烏川が流れています。


烏川

川がカーブしている右側の岸にはかつては船着き場もあったそうです。


井戸八幡神社

二の丸にある神社。
かつて三の丸に一夜にして井戸水(冷水)が出現したという逸話があり、それを記した碑もあります。



倉賀野三河守が鶴岡八幡大神を歓請。社殿を再建する。
こじんまりしているが、なかなか手がこんだ作りで背後から見た目にも
美しい造りの社殿(本殿部分)だなあと引きつけられました。


駐車場

公園に駐車場が無いので神社の駐車場を拝借して城祉を散策しました。


周囲は住宅に囲まれており、公園部分に城祉の面影が残る場所があります。
烏川を利用した河岸段丘の要害を持つ城祉です。

立地としてはうなずける場所ですが、なにしろぎっちり住宅地なってしまっているので
遺構が名残程度にしかみられないのが残念でなりませんでした。
しかし、神社に祀られている井戸の話や倉賀野十六騎の話など興味をそそられる
話も残されているので調べてみるとおもしろい城祉であると思いました。


平成29年4月8日登城





多比良城(群馬県)

2017年04月10日 | 百名城以外の城
多比良城たいらじょう
別名新堀城
構造平山城
築城者多比良友定
築城年代1552年~1555年(天文年間)
指定史跡市指定史跡
場所高崎市吉井町多比良2282 地図


平井城を本城とし、一郷山城とともに別城一郭とされていた。
1563年(永禄6年)に武田信玄の侵攻に遭い、多比良氏は山内上杉氏の家宝を収蔵していたため
武田に奪われまいと家宝を焼き払い、子女を自害させ自分も切腹して城は廃城となりました。


本丸虎口
ここに案内看板と標柱があります。
ここを登ると本丸ですが、本丸も周囲の郭も畑になっています。


案内看板と標柱

城祉のことを示すものはここだけのようですが、こういったものが建てられているだけでも
ありがたいものです。


本丸

一辺約80mの本丸。



本丸は畑と化し、奥の竹藪は土合川と杉井戸川に挟まれた舌状大地として郭が続く。





幅20mもある堀はとても残念ながら現在は「ソーラー畑」になっています。
南郭は宅地になっています。


本丸から東郭を望む

奥の畑が東郭、その先は土合川で高低差が大きい。


東郭

やはりこちらも畑になっています。


麻場城などこの辺りの城には別城一郭式になっていることが多いのですが、城郭同士が隣り合わせ
なわけでもなく、離れているので一郭式というのがなかなか理解しずらいです。
多比良城においては一郷山城とは山の上に見えているとはいえ、かなり離れています。
一郭というよりは支城か出城にしか見えませんが、この辺り(吉井地区)の城では
当時こういった離れた城でも支配が一緒だとこんな位置付けをすることが通念と
なっていたのでしょうか。
この辺りの城造りの特徴とも言えるのではないのでしょうか。



平成29年4月8日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

続日本百名城

2017年04月07日 | 歴史のつぶやき
高田城



城の日に「続日本百名城」の発表がありました。

私はまだ百名城も巡りきってないのですが、もう次の百名城が選ばれたのですね。

予想道理というか、以外な所もあったりもするのですがまあまあ納得。


とりあえず、スタンプ帳付きのガイドブックが発売になるまで待ちましょう。


沼田城


石垣山城


高島城


浜松城


忍城

基肄城(福岡県)

2017年04月06日 | 続百名城
基肄城きいじょう
別名椽城・記夷城
構造朝鮮式山城
築城者大和朝廷
築城年代665年(天智4年)
指定史跡国指定特別史跡
場所三養基郡基山町小倉 地図
スタンプ設置場所基山町民会館(9:00~21:00)
城郭検定 出題あり




未登城の城







 おぼえておこう!



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

飯盛城(大阪府)

2017年04月06日 | 続百名城
飯盛城いいもりじょう
別名飯盛山城
構造山城
築城者木沢長政
築城年代1576年(天正4年) 
指定史跡
場所大東市 地図
スタンプ設置場所歴史民俗資料館
御城印歴史民俗資料館・キャンピィだいとう
城郭検定出題あり



未登城の城







続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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