むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

お城・史跡めぐり(目次のページ)

2031年01月01日 | その他
【城郭空撮シリーズ07】 越前国 大野城
次回の動画配信は、【お城の授業シリーズ】です。ぜひ、みてくれると嬉しいのだ


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石田屋敷(滋賀県)

2023年02月24日 | その他
石田屋敷いしだやしき
別名石田三成屋敷跡
指定史跡
場所長浜市石田町 滋賀県長浜市石田町 地図

石田三成が生まれ育った屋敷跡地です。
その生家跡に建てられたのが石田会館で、こちらには石田三成の生立ちや足跡などの資料が展示されています。



石田治部少輔三成屋敷跡石碑

県道243号線と県道509号線がぶつかる交差点に石碑と看板があります。


石田会館

8年ほど前に一度訪れているのですが、写真の入ったデータを失くしてしまったため
再び訪れてみたのですが、この日は新型コロナウィルス感染拡大防止のため閉館していました。
調べて来なかったため、資料館が見学出来なかったので周辺を散策することにしました。


石田三成公 史跡案内図

近くに石田三成ゆかりの地がいろいろあります。
今回、山城に登る時間はないのですが、気になるところにちょっと寄ってみようと思います。


案内看板

掘端池の前にある案内看板です。
石田三成出生屋敷跡の説明や周辺のゆかりの地の説明が書かれています。


掘端池(治部池)

屋敷にあった堀の一部と伝わる池があります。


歌碑

昭和16年に五輪塔などが発掘された際に訪れた吉川英治が
詠んだ句が石碑に残されています。


顕彰歌碑

石田三成公の歌?
どんな曲なのか聴いていないのでなんとも言えないのですが
戦に負けたとは思えない、英雄石田三成って感じの歌詞ですね。
私も好きなので良いと思います!👍


関ケ原軍記を読む

東西一決関ケ原に戦う
鬢髪冠を衝き烈士憤る
成敗存亡 君問う勿れ
水藩の先哲 公論あり

脇に添えられている看板にはこのような訳があります。
西郷隆盛が「関ケ原軍記」を読んで評価した句のようです。



石田会館を出て八幡神社の方へやって来ました。


八幡神社(石田神社)

石田氏の氏神とされる神社です。



八幡神社の裏には石田三成公一族と家臣の供養塔があります。
こちらは近年になってから、八幡神社境内に埋められたという石田家の墓石などの塚から
掘り起こし、供養している場所ということで、見学にやって来ました。


歌碑

残紅葉 散り残る紅葉は
ことにいとおしき
秋の名残はこればかりぞと   

石田三成公の自筆の歌が刻まれています。


供養塔

かつては、八幡神社の境内(この地)に盛土がありました。
関ヶ原の合戦の後、徳川方の追及を逃れるために神社を隠れ蓑にして
密かに埋め隠したものと思われます。
そして、「それに触れると腹が痛くなる」という言い伝えがあり、発掘を避けて来ました。
時代も進み、昭和16年に盛土を発掘すると、
打ち壊された墓石や五輪塔の石が出土し、これが石田家の墓であることが確認されました。
現在はこうして石田三成公の供養塔と、一族、家臣の供養塔が祀られています。


歌碑

筑摩江や芦間に燈すかがり火と
ともに消えゆく我身なりけり

これは石田三成公辞世の歌です。


石棺蓋(唐戸橋ばし)

こちらは、古墳の石棺の蓋です。
朽木街道の小川を渡る唐戸橋の一部に使われていたものが、近年になってこの場所に運ばれたものです。
橋がいつしか不要となり、この地で保存されることになりました。


三成庵






最初に訪れた時は、石田会館にて説明を聞きながら展示室を案内していただきました。
この時は石田三成の足跡を見て、昔の人はよくこれだけの距離歩いたなあと驚いた記憶があります。
今回は石田会館が閉まっていたため、見学すること叶わず残念でした。
しかし、前回訪れていない周辺を散策出来たのでそれはそれで良い時間が過ごせました。


平成23年5月3日訪問
令和4年10月2日再訪問






世良田東照宮(群馬県)

2022年12月29日 | その他
世良田東照宮せらだとうしょうぐう
別名
構造神社
年代1644年(江戸時代)
指定史跡国指定史跡
場所群馬県太田市世良田町3119−1 地図

三代将軍徳川家光により、日光東照宮の元社殿や宝物などを移築したもので、
徳川氏発祥の地の東照宮として知られています。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の源義重が上野国新田荘を治めるようになり、新田義重と名乗りました。
義重の死後は義重の子である義季が、徳川郷・世良田郷・他4郷を受け継ぎ、
徳川義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりです。
その後、足利氏の討伐により世良田郷を追われた、九代目の親氏は諸国を流浪の末、
松平信重の娘を娶り、愛知県豊田市の松平郷に土着して松平親氏と名乗りました。
後に生まれた松平信康は、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を称していることを知り、
松平姓から徳川姓を名乗るようになり、徳川家康と名乗るようになりました。



駐車場

拝殿は、日光東照宮奥社拝殿として1615年~1623年(元和年間) に造営され、
1642年(寛永19年)に徳川氏発祥の地であるこの地へ移築されました。
その他にも日光東照宮奥社神廟前にあった門も移築されています。
総社藩主秋元越中守長朝の命により造られた、高さ4.95mの当時としては
日本一大きい鉄燈籠が奉納されています。


助平屋

およそ100年の歴史ある老舗の焼きまんじゅうということで、
世良田東照宮へ行ったらぜひこちらの焼きまんじゅうを!
群馬と言ったら「焼きまんじゅう」です。


焼きまんじゅう

焼きまんじゅうと言えば、定番のものと、あんこ入りのものは食べたことがあるのですが
こちらのお店には抹茶・ごま・きなこ・マヨネーズと、普段見かけない味もあって
どれにしようか迷いましたが、この日はマヨネーズ味を注文してみました。


この日、世良田東照宮に訪れた本当の目的は、助平屋さんに焼きまんじゅうを食べに行ったこと。
近くに東照宮があったので寄ってみたら、徳川発祥の地ということで驚いた記憶があります。
2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で、世良田東照宮に行ったことを思い出し、
写真を引っ張り出して来てみたのですが、もっと沢山撮影したはずがこれしか残っていなかったので
近いうちに、また行く事にことになりそうです^_^;

NHK前橋放送局では、開局90周年を記念して大河ドラマ「どうする家康」関連イベント「ミニ巡回展」「ぐんま巡り」を実施します。
このようなイベントも開催されるようなので、2023年になったら行ってみたいと思います。






前田家の霊廟(群馬県)

2021年09月14日 | その他
名前前田家の霊廟
別名まえだけのれいびょう
構造墓所
年代1616年(元和2年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県富岡市上高尾 地図

1616年(元和2年)に加賀百万石前田利家五男利孝が七日市藩の藩主となり、
長学寺を菩提寺としました。
二代利意の代に寺領三十石が与えられ、手厚く保護しました。
長学寺の境内には二代・三代・五代・六代・十代の前田家藩主の霊廟があります。



駐車場

かつては大型の観光バスも立ち寄るといったことがあったようで
広い駐車場があるのですが現在は乗用車が数台停められる程度の
スペースだけ解放されています。(それでも十分ですが)



駐車場から中央の石段を登って山門を目指します。


梵鐘

山門を兼ねた梵鐘です。
見た目はちょっと日本のものとは違った感じです。


大銀杏

鎌倉時代、曽我兄弟の死を悲しんだ大磯の虎御前が、1193年(建久4年)に信州善光寺への途路、
高尾寺へ寄り兄弟の菩提を弔うため一堂を建てました。
その時、寺号を高尾寺から長学寺と改めたと伝わります。


本堂

長学寺は、835年(承和2年)貫前神社の宮司が適地を選定し、祝融山高尾寺として開山しました。
後に、加賀百万石の前田利家五男利孝が七日市藩主となり、この寺を菩提寺しました。



それでは、前田家の霊廟へ行ってみましょう。


案内看板

この先に前田家の霊廟があります。


虎銀杏

虎御前が自らの手で植えたとされるのが、この銀杏です。
樹齢600年以上の大木です。



ここを登ると前田家の墓所があります。
早速登ってみましょう!


石垣

石段を登っていると石垣が見えました。
お城の石垣ではないのですが、石垣がそこにあるだけでテンションが上がってしまいます。


前田家の墓所

前田家の墓所は東京駒込の吉祥寺と、ここ長学寺に墓所がわかれています。
墓所には二十二基の墓碑がり、上段中央には、二代利意、三代利廣、五代利英、六代利理
十代利和の五人の藩主の墓碑が建てられています。




県道10号(前橋安中富岡線)を通るたびに長学寺の案内看板が気になっていました。
いつでも行けると思っている場所ほどなかなか行かないもので、コロナ禍でなかったら
ここへの訪問はまだまだずっと先だったかもしれません。
ようやく訪問出来ました。


令和3年5月23日訪問





高梨子代官所(群馬県)

2021年05月24日 | その他
高梨子代官所たかなしだいかんしょ
別名
構造代官所
築城者井伊直政
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡
場所】群馬県安中市松井田町高梨子 地図

松井田城の大手道にあったとされる安中藩の代官所は、
井伊直政が12万石をもって箕輪に入り代官所をこの地に置かれました。
代官所としての遺構は井戸跡だけで、現在は宅地となり代官所であった範囲も
はっきりとしたことはわかっていません。



井戸跡

唯一の遺構である代官井戸と称される井戸が集落の中にあります。
代官井戸を中心に、小板橋守氏宅を正門と推定し、
代官所があったものと考えられていますが、はっきりとした範囲はわかっていません。



井戸は現在は使用されていませんが、今も水が湛えられています。



かつては、「百人町」や「与力町」「横町」といった
呼びで城下町が形成され、松井田城の大手道が通る総郭となっていました。
小田原の役の後、徳川家康が関東へ転封となると井伊直政が箕輪へ12万石で入り、
安中藩を立藩、代官所が置かれることとなりました。


城下町があった高梨子側が松井田城の表玄関、大手となります。
今はちょっと寂しい感じがしますが、城下町があった当時は賑わっていたことでしょう。
辺りを見てもどこが代官所だったのかはわからないし、資料も残っていないので
その縄張は明らかではないのですが、井戸が残っているということで
見に来てみました。


令和3年5月23日訪問


今回の参考本




七里の渡し(三重県)

2021年03月26日 | その他
七里の渡ししちりのわたし
別名熱田の渡し・宮の渡し・間遠の渡し
構造海上路
年代1616年(元和2年)
指定史跡県指定史跡
場所 地図

東海道の熱田・宮の渡しから海上七里を3~4時間船に乗り、桑名の渡しに到着し、
このことから「七里の渡」と呼ばれ、東海道の42番目の宿場町として大賑わっていました。
ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。



東海道

ここは東海道五十三次で知られる桑名宿の渡船場です。
伊勢国の東の玄関口として位置付けられています。


防波堤

ここから外は揖斐川で船着き場にもなっています。


蟠龍櫓

蟠龍櫓の2階展望室が無料開放されており、桑名城のことや蟠龍櫓、水門の管理など、知ることが出来ます。
そこに居る係員さんが、尾張との境ある揖斐川・長良川・木曽川の「木曽三川」とここから見える山々の話や、
桑名は関西弁ですが、川の向こうの名古屋は名古屋弁で言葉の文化が大きく異なっているという
話をしてくださいました。
そして、屋根の上には蟠龍瓦(七里の渡し廻船の航海安全の守護神)が載っているので見つけてみて下さい。


水門

ここから見える揖斐川の水門の管理もここでされているとのことです。
川の水量の調整や管理をされているそうです。
ちなみにこの櫓は、観光用の建物ではなく国土交通省水門統合管理所(1階)なのです。


本多忠勝像

隣接する九華公園には、桑名城と桑名城下町を建設した本多忠勝の銅像があります。



水堀を使って場内にも通じていました。
当時の石垣も残っています。




令和2年7月25日訪問



明治天皇高山御小休所(岐阜県)

2021年02月12日 | その他
明治天皇高山御小休所めいじてんのうたかやまごこやすみどころ
別名深萱英次宅
構造御小休所
年代18880年(明治13年)
指定史跡
場所土岐市土岐津町高山 地図

行在所、御小休所などは、全国に377ヶ所ありましたが、国指定史跡に指定されたものの
「史跡の指定が新憲法の精神にそわない」と認められ、
1948年(昭和23年)6月29日に国指定史跡を解除されました。
指定解除後、建物は解体され、記念碑が残されています。



看板

この場所は、昭和11年11月2日から昭和23年6月29日の間、
明治天皇高山小休所として国の史跡に指定されていたところです。
明治天皇は、明治13年、中仙道を通り京都までの巡幸の際、
同年6月29日午後2時半頃、御小休所と定められた
ここ深萱英次宅に到着され、天皇は建物奥の庭に面した12畳の間に、
皇族・太政大臣・供奉員らは隣接した4室に入り小休されました。



明治天皇が陶器造りの実演をご覧になり、休憩されました。
この時、近郊から集まった住民たちが
街道をゆく約3千人もの従者の行列を圧倒されながら見送ったとされています。


令和2年6月27日訪問




信綱寺(長野県)

2021年01月18日 | その他
信綱寺しんこうじ
別名大柏寺・打越寺
構造寺院
年代1594年(文禄3年)
指定史跡市指定史跡
場所長野県上田市真田町長横尾8100 地図

信綱寺は、室町時代に横尾氏の菩提寺として「好雪斉大柏寺」として建立されました。
横尾氏は上田原合戦で滅亡すると、真田信綱公が寺を打越に移し、
大光智照禅師を迎え「大柏山打越寺」と名付けられました。
その後、真田昌幸の兄・信綱の位牌所として「大柏山信綱寺」と改められました。


信綱寺

内小屋城(打越城)内にある信綱寺へやって来ました。
そもそも、内小屋城を散策するつもりで訪れたのですが、
こちらの立派な山門に吸い寄せられるようにお寺訪問とすり替わりました^_^;


案内看板

周囲に駐車場やトイレもあるので安心です。
NHK大河ドラマ「真田丸」で観光客で賑わった時期を避けての、今頃の訪問となりました。



真田信綱の墓所のことが書かれています。


山門

とにかく立派な山門です。
古いものではないですが、この存在感は足を止めて見入ってしまいます。



石段を登って本堂へ。


墓前の桜

石段を登りきった右手に、桜の木があります。
長篠の合戦で討死した信綱の首級を、家臣の白川勘解由兄弟が陣羽織に包み
この地に運ばれ、桜の樹の下に埋葬されました。
現在は、寺の移築に伴い、別の場所に墓所があります。



境内は、内小屋城の館であったともされています。
古城は本堂から見て正面の山尾根に築城されていました。


本堂

信綱の首級を包んだ血染めの陣羽織と、着用の鎧胴が墓前の桜の位置から
出土され、大切に保管されています。
ちなみに、一緒に運ばれたという愛刀「青江の太刀」は真田宝物館所蔵となっています。


鐘楼

後から分かったことですが、この奥から裏山に廻ると
信綱らの墓所へ行けるらしい…。



さて、真田信綱夫妻の墓所があるということで墓地の方へ行ってみたいと思います。
※墓所はこちらではありません。



裏山の墓地を捜索したのですが、それらしき墓地が見つかりません。



ここをよじ登ってみても、信綱の墓所はみつかりませんでした。
アシスタント(旦那)がいないとこのようなことになってしまいます(^^;
鳥居が見えたところで捜索を断念して戻ることに。



古城緑地広場

さて、信綱寺と内小屋古城の間の窪地に古城緑地広場なる公園があります。
(この地図を先に見ていれば、墓所の位置がわかったかも~)


歴史の丘

真田三代の歴史が表現されたモニュメント。
手前から奥に向かって時間を遡る形になっています。


案内看板

歴史の丘の説明版です。


花押

こちらは真田幸村の花押です。
現代で言うハンコ又はサインのようなものです。
このようなものが点々と置かれているので、見て回るのも良いですね。


まったくの下調べ無しにふらっと寄ったので、古城や黒門も見ていませんでした。
次回内小屋城(古城)と、墓所のリベンジしたいと思います。
それにしても、暑かった…


令和2年10月31日訪問


今回の参考本




吉岡神社の石灯篭(群馬県)

2020年11月16日 | その他
吉岡神社の石灯篭よしおかじんじゃのいしとうろう
別名
構造石灯篭
年代1833年(天保4年)
指定史跡町指定重要文化財
場所群馬県東吾妻町本宿656 地図

昭和47年3月1日に町の重要文化財に指定された、吉岡神社の石灯籠と太鼓橋。
その石灯籠は、信州高遠の石工によって1833年(天保4年)に造られたものと伝わります。
鳥居の前の石で造られた太鼓橋は江戸時代に造られたものと伝わります。




国道406号線を走っていると、重要文化財の看板が目にとまります。
ここからは見えませんが、奥には朱色の鳥居があります。


看板

この看板は道路からも見えるので、通過する際に気になっていました。
最近、車を走らせていると看板が気になってしまいます^^;


石灯篭

さて、こちらがお目当ての信州高遠の石工によって造られたという石灯籠です。



あまり古さは感じられないデザインの石灯籠です。
誰の作かまではわかりません。
そこまで調べるには時間がかかりそうなので、今はそこまでは掘り下げません。



こうして高遠の石工作を検索していると、意外に群馬県に多くあることがわかりました。
どうやら高遠の石工は出稼ぎにあちこち行っていたようです。


太鼓橋

こちらの方が古さを感じます。
また破損や風化がみられます。
石灯籠とは使われている石が違うのでしょうか。



太鼓橋の両脇にある、石の彫刻です。
神社に向かって左側は虎が彫り込まれています。



右は…?
竜の手?足?らしきものが見て取れるのですが風化しているのか、よくわかりません。



太鼓橋の袂に彫り込まれた装飾です。
右側は牡丹の花でしょうか。



左は…?
獅子かなあ。


ちょうど1年前に須賀尾宿に寄った際、記事を書くときに吉岡神社の石灯籠が
信州高遠の石工作ということを知り、見に行きたいと思っていました。
本日、通りすがりに見ることが出来ました。
小学生の頃に高遠の石工について調べることがありました。
現在もそのような学習がされているかは、高遠の地を離れてしまっているのでわかりませんが
高遠の石工と聞いて群馬でも見られるとは思ってなかったことなのでちょっとうれしいです。
また、吉岡神社だけでなく群馬県にはまだ他にもあるようなので
また故郷に思いを馳せて探しに来たいと思います。
 

令和2年11月14日 訪問






長野業盛の墓(群馬県)

2020年10月27日 | その他
長野業盛の墓ながのなりもりのはか
別名
構造墓地
年代1561年(永禄4年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県高崎市井出町 地図

長野氏は、戦国時代に箕輪城を拠点として西上野の諸将を束ねるような勢力でした。
国峰城倉賀野城和田城ら箕輪城周辺の城が武田軍に攻め落とされると、
難攻不落であった箕輪城も、ついには落城してしまいます。
若年の城主業盛は、奮戦の末自害し長野氏は滅びてしまいました。




井野川のほとりにある長野業盛の墓地があります。
駐車場付きの立派な墓地です。


案内看板

駐車場に掲げられた案内看板です。


業盛墓苑

業盛を哀れんだ僧が、この地に葬ったと伝わります。



父の業政が1561年(永禄4年)に没すると、
業盛は、兄の吉業が河越城の戦いで討死したため、17歳の若さで家督を継いでいます。



長野業盛の一子、「亀寿丸」は落城直前に家臣に連れられて城を脱出し、
和田山の極楽院で匿われたと伝わります。
現在も残る長野氏の子孫は、生き残った亀寿丸の子孫と云われています。


浜川の砦の散策ついでに足をのばしてやって来ました。
久しぶりに天気が良く、そろそろ山城へ攻めに行きたいなあと思いつつも
がっつり城めぐりという時間が取れず、用事と用事の隙間の時間を使って近場を徘徊してました。
とても静かな場所ながら、整備されていて良い場所です。


令和2年10月24日訪問

お薦め本

秋元氏墓地(群馬県)

2020年09月22日 | その他
秋元氏墓地あきもとしぼち
別名
構造墓地
年代1590年(天正18年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県前橋市総社町植野150  地図

総社城初代城主秋元長朝の墓所が元景寺にあります。
長朝の父景朝は、関東管領上杉憲政に仕え、1587年(天正15年)に
ここ勝山の地を与えられました。
しかし、景朝は間もなく病で没してしまいました。
そのため長朝は父景朝を供養するために元景寺を創建しました。



元景寺

元景寺は総社城主、秋元長朝公が父君景朝の菩提供養のために開かれた寺です。
実はこの写真、屋根ばかり移っていますが、門の地べたに地元の方が数人
座って楽しくおしゃべりをされていたので、写さないようにと思ったら
中途半端な画格になってしまいました^^;



参道脇の細い道を奥へと入って行くと駐車場に到着します。
奥には墓地への道と、入口には標柱が見えます。


宝篋印塔

墓地へ。
真直ぐ正面突き当たりにあるのは秋元景朝の墓所です。
正面には宝篋印塔、向って左手が景朝の墓があり、
右手には正室の墓もあります。


秋元景朝

1587年11月12日景朝没。
この時景朝は63歳でした。


正室(春)の墓

景朝の正室、春(妙耕院)のお墓です。
春は、関東管領上杉憲政の養女で春を迎えたことにより地位を確立しました。


側室(戌)の墓

隣には長朝の側室の戌の墓があります。
なぜ側室?とまず疑問に思う。
総社城二代目城主泰朝の母ということらしいのですが…。
家紋に注目してほしい。
なぜか、織田家と浅井家の家紋が付いています。

疑問に思って調べてみると、敷島公園にある「お艶が岩」と関係がありました。
なんと、大坂夏の陣で豊臣秀吉の側室であった淀君が秋元長朝の陣に
助けを求めて来て、かくまったという内容の伝説が書かれた碑があるのです。
それによると長朝は、淀君を篭に乗せ木曽路を通り総社へと戻ったという。
「大橋の局」と名を変えて長朝の側室として暮らしていたようですが、
結局、この岩の上から利根の激流に身を投げてしまったという言伝えがあるようです。



境内にある看板の由来の部分にも淀君のことに触れられた文があります。



また、山門両側の古い梅の木は大阪夏の陣で淀君が長朝に助けを求めて
総社に向かう途中の信濃路で折り取った1本の紅梅が増えたと伝わります。


こっそり逃げて来たから公にもならずにいたのか、
まったくの作り話と思っているのか、こんなビッグ二ユースが話題にならないのは
なんとも不思議ですよね。
もし、本当ならばもっと有名になっていてもおかしくない話なのですが。
では大坂城で自害したのは秀頼だけだったの?
と疑問も沢山残りますが、群馬県には甘楽町に織田信長の次男織田信雄の小幡陣屋もあるので
まったく縁もゆかりも無い場所というわけでもない。
こんな興味深い話があるのに、何か証拠は出てこないのかなあ。
古文書とか出てきたら面白そうなのですが。


令和2年6月21日訪問



密岩神社(群馬県)

2020年09月07日 | その他
密岩神社みついわじんじゃ
別名密岩神社里宮・奥宮
構造神社
年代不明(600年前)
指定史跡
場所群馬県東吾妻町大字郷原1126 地図

奥宮といわれる古くからの神社は、登山道の中腹にあり
崖の岩の中に造られた社で、誰がどうやって造ったのかわかりません。
現在はそこへ行くことも出来ない危険な場所にあります。
秘境の社・密岩神社奥宮を離れた場所からお参りするしかなく、
この地に里宮が設けられ、遷宮が行なわれたました。



密岩神社駐車場

車はこちらの駐車場へ置いて、徒歩で神社まで行きます。


岩櫃山周辺ガイドマップ

駐車場にはガイドマップの看板があります。
というのも、ここから密岩神社はもちろんのこと、潜龍院跡も徒歩で行けるのです。
またハイキングを目的としてなら、さまざまな見所も確認出来ます。



真直ぐ進むと潜龍院跡へ。
左折すると密岩神社へ。
左の建物にはパンフレットも設置されています。



岩櫃山を眺めながら密岩神社まで徒歩でもう少し。


密岩神社

これは岩肌がよく見える冬場の光景です。
ここから見る岩櫃山が迫力満点!
大河ドラマ「真田丸」放映中は観光地としてとても賑わっていました。


案内看板

密岩神社のいわれと御利益は…
とてもせつない物語が書かれているのですが、これが岩穴に祀られた由縁で
御利益は、五穀豊穣・家内安全・安産子育です。
特に安産子育は、真綿を赤い布でくるみ乳首に似せたほおずきを奉納すると
お乳の出が良くなるそうです。



以前訪れた時には気が付かなかったのですが
遊具があったんですね。


御城印・御朱印

岩櫃山平沢登山口観光案内所で購入した、近頃ブームの御城印と御朱印です。
岩櫃城・密岩神社・金剛院の3枚セット500円で販売しています。
東吾妻町観光協会でも販売しています。


今回は、一眼レフカメラで岩櫃山が撮りたくて訪れたのですが
これが功を成して、9月3日発売の「全国 御城印 大図鑑」(攻城団著書)の岩櫃城のページに
写真が載りました!

それがこちらの本になります。
中はお見せ出来ないので、書店で見かけたらぜひ、手に取って見てみて下さい。
掲載数も多く、御城印の知りたかった情報が網羅されています。
ぜひ、ぜひこの本を持って御城印収集を充実させてください!


平成28年2月28日訪問
令和2年5月30日訪問

高山社(群馬県)

2020年05月19日 | その他
高山社たかやましゃ
別名養蚕改良高山社
構造養蚕用家屋
創始者高山長五郎
年代1884年(明治17年)
指定史跡国指定史跡
場所藤岡市高山237 地図

高山社は、高山長五郎が養蚕技術普及のために先祖伝来の屋敷を壊し
通風と温度管理を大切に工夫した「清温育」の養蚕法を確立し理想的な構造の蚕室へと変え、
その飼育方法を日本全国から、中国や朝鮮半島にまで 広めた養蚕の教育機関です。
絹産業遺産群として富岡市の富岡製糸場とともに世界遺産に登録されています。



住居兼蚕室

長屋門の奥に住居兼蚕室がありますが、現在観覧中止なので
中の様子を見ることが出来ません。
1891年(明治24年)に田島弥平から学び、建てられました。
「越屋根」は、煙抜きのための小さな屋根をのせた屋根のことで、養蚕が盛んな地方では
今でも古民家には多く見られる構造です。
そのほか、換気のための大きな掃き出し窓はもちろん、欄間や蚕棚の下の通気口のほか、
天井や、囲炉裏、火鉢置き場などで温度調節をしたり、床面に通気口などが造られています。


石碑

高山社正面にある高山社跡の石碑です。
路線バスの転回所にもなっています。
案内看板やパンフレットもここに置いてあります。
パンフレットを後でもらって帰ろう!と思っていたらうっかり忘れて来てしまいました


観覧中止について

今のところ5月31日まで観覧中止のようです。


長屋門

江戸時代に建てられたもので、養蚕道具や農具の保管に利用されていました。



これは積み直したところかな?
石のひとつひとつにナンバーが貼られています。


駐車場

川の向こう側は、高山社情報館の駐車場です。
高山社情報館や竹林の中を歩く遊歩道もありますが、こちらも現在は5月31日まで休止してます。


子王山城の帰りに立ち寄りました。
高山社ならいつでも行けるなんて思っていたらなかなか行かず、
通りすがりに寄ってみたら休館中^^;
開館したら今度はちゃんと見学したいと思いますので続編書きます。
ちなみに、富岡製糸場は富岡陣屋なのでこちらもちゃんと行き直ししなくては。
といつも思っていてなかなか行かない…。ダメですね

令和2年5月17日登城



岩室観音堂(埼玉県)

2020年05月15日 | その他
岩室観音堂いわむろかんのんどう
別名
構造寺院外仏堂
年代810年ー824年(弘治年間)
指定史跡
場所比企郡吉見町北吉見459 地図

岩を削って穴を堀り、観音像を祀ったことから岩室観音堂と呼ばれています。
松山城主が代々信仰し、護持していましたが1590年(天正18年)
豊臣秀吉の関東平定のため石田三成が松山城を落城させた際兵火に遭い
当時のお堂は焼失してしまいました。
現在のお堂は、江戸時代に再建されたもので懸け造りになっています。



お堂

観音堂の一階の奥には岩室観音堂の胎内くぐりがあり、ハート型になっています。
ここで胎内くぐりをすると、 子宝・安産・子育ての願いが叶うといわれています。
二階に上がると、正面にご本尊様が奉られています。
一枚一枚に般若心経の276文字の一文字づつが書かれた折り紙が置いてあり、
その折り紙で折り鶴を折って奉納し願いごとを祈願すると、
その願いごとが叶うと言われています。


案内看板

ここは龍性院の境外仏堂で、龍性院は観音堂から車で2~3分、
徒歩なら約10分程のところにあります。
岩室観音堂の御朱印も龍性院へ行くといただけるようですよ。


岩室観音

代々松山城主が信仰し、守って来ました。
また、ここにある観音様は八十八体あって、四国八十八ヶ所の寺の本尊を模していて
ここに居ながら四国八十八ヶ所をお遍路したことになるという。
なんと便利な場所なんでしょう!という所です。


案内看板

松山城の麓にある岩室観音堂は、国指定史跡の吉見百穴とも近くにあり、
吉見百穴は岩穴にある古墳時代の横穴墓群です。
太平洋戦争中の地下軍需工場跡があったりと、松山城をぐるりと一周していると
寄り道したくなる場所が隣接しています。
松山城と一緒に、岩場の地形を利用した神秘的な場所を訪れるのも良いものです。


平成29年1月7日訪問






元八重垣神社(島根県)

2020年05月13日 | その他
元八重垣神社もとやえがきじんじゃ
別名八頭
構造神社
年代1661年(寛文元年)
指定史跡
場所仁多郡奥出雲町佐白 地図

高天原を追放されたスサノオノミコトは、出雲の国の鳥髪(今の船通山)にやってきました。
そこで、一人の娘を囲んで泣いている老父と老婆を発見しました。
泣いている理由を尋ねると、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)がやってきては、
毎年娘たちを一人ずつ食べて行ったとのことです。
そして今年もまたヤマタノオロチがやってくる時期が来たので、
八人いた最後の娘である奇稲田姫をも食い殺されてしまうかと思うと悲しくて、
涙が止まらないとのことでした。
ヤマタノオロチは、一つの胴体に八つの頭、八つの尾を持ち、巨大で、恐ろしい風貌をしています。
スサノオノミコトは、
「あなたたちの娘・奇稲田姫を嫁にくれるなら、ヤマタノオロチを退治してやろう。」と言うと
娘の命が助かるならと思い、老父と老婆は頷きました。
まずは奇稲田姫の身を守るために、彼女を爪櫛の姿に変え、髪に挿しました。
垣根を作り、その垣根に八つの門を作り、門ごとに八つの棚を置き、その棚ごとに酒を置いておくと、
そこにヤマタノオロチがすさまじい地響きを立てながらやって来ました。
そして、八つの門にそれぞれの頭を入れて、ガブガブと酒を飲み始めました。
すると、酔っ払ったヤマタノオロチはイビキをかきながら眠り始めました。
スサノオは刀を振りかざしてヤマタノオロチに切りかかり、体を切り刻み始めました。
刀がオヤマタのオロチの尻尾に差しかかると、何かが刃先に当たりました。
中を裂いてみると、剣が出てきました。
その剣とは、天叢雲剣です。
不思議に思ったスサノオノミコトは、姉にこの剣を献上したと伝えられています。



参道入口

八重垣神社の参道入口です。
この先には八重垣神社跡と長者屋敷跡があります。
長者屋敷は奇稲田姫の両親のテナヅチ、アシナヅチの住居跡と伝えられ、
現在八重垣神社は、伊賀武神社へ移築されています。
スサノオノミコトは、ヤマタノオロチを無事退治し、この出雲の地が気に入り、
ここに奇稲田姫と住むための宮殿を造ることにしました。
そして、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
スサノオノミコトが詠んだ歌が、日本で初めて詠まれた和歌として神話に残されています。


元結掛けの松

スサノオノミコトの妻となった奇稲田姫が長髪を束ねるために松の枝に
髪を掛けたと言われる松がありました。
江戸時代には一里松とされていましたが、
1959年の伊勢湾台風で倒木してしまったため、
現在は切株が残り、代替わりした松が植えられています。


案内看板

八岐大蛇を退治した後に二人は結婚してご夫婦としてこの地にご鎮座したとして
縁結びのパワースポットととして訪れる人が多いようです。
また、スサノオノミコトと奇稲田姫の間には多くの子どもが誕生し、
そのうちのひとりが、因幡の白兎でも有名な大国主命と言われています。
神社の奥の森にある池は、稲田姫命が隠れている際に飲料水とし、
姿を写して鏡として使ったことから鏡の池といわれています。


月山富田城へと向う途中、「何か看板あったんですけど?」と車を止めてもらうと
元八重垣神社跡でした。
ヤマタノオロチの話は耳にしたことがあるのですが、ここの話だったんですね。
出雲の話とは思っていたものの、偶然ながらの伝説の場所に来られたの何かの縁。
我が家の娘たちも健やかに育つことを祈るばかりです。
因みにこの後、こちらも偶然に、鳥取の「因幡の白兎」の場所も
通りすがりに同じノリで立ち寄りました^^;


平成30年1月5日訪問