むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

松井田城(群馬県)

2018年03月30日 | 百名城以外の城
松井田城まついだじょう
別名諏訪城・小屋城・霞ヶ城・堅田城
構造山城
築城者安中忠政
築城年代1560年(永禄元年)
指定史跡市指定史跡
場所安中市松井田町高梨子 地図



松井田宿から近く、碓氷道、東山道、中山道が通る交通の重要地点でした。
碓氷峠に備えた城でもあり、尾根を城郭化して造られており枝尾根にも別城を繋げて造るという
別城一郭の複合城郭です。


二度目の登城にあたり、現地説明会に参加してきました。
今回は大手道からではなく国道18号沿いの登城口から登城しました。


松井田城入口

こちらは大手道からの登城口になります。
道の反対側はゴルフ場なのでゴルフ場が見えてきたら注意して入口を曲がって下さい。


入口にある案内図

とにかく広い城跡で、ほとんど手つかずの状態の山城なので
見応えがあります。
一時は道路の開発で遺構が壊されてしまいそうになったのですが地権者との話し合いが
進まなかったため、幸にも遺構が残されたかたちとなったそうです。


駐車場

松井田城入口から車で登れるのはここまです。
ここで車を置いて徒歩で本丸を目指します。


登山道入り口

看板に立て掛けてある棒は杖に使えるようです。


堀切

登り始めて最初の看板です。
右手に堀切りが見られます。


細道

あまり整備されていない山道を、ひたすら遺構を目指して登ります。
ところどころ倒木があったり、落ち葉で滑りやすく危険個所もあります。
藪になっているのでクモの巣やら、虫、蛇、獣の出没も想定されますのでこれからの時期はしっかり準備をして入山することをお勧めします。
※現在は保存会、有志の方々が草刈等管理をされています。


別れ道

右へ行くと本丸方面、左手に行くと水の手を経て安中曲輪方面に行くことが出来ます。
ちなみにぐるっと一周して、またこの地に戻って来ることが出来るので
どちら周りで行くかは自由です。


横堀

次に見えて来たのはこの看板。
ちなみに今回、保存会の手入れによって城址内の看板の誤字も訂正をしたそうです。


別れ道

この先右手に連続竪堀があるのですが道は倒木に阻まれており無理をすれば通れるのですが、ここは断念。
※現在は倒木は処理され通過できるようになっています。現地説明会ではここを通って連続竪堀を
見学に行っています。



武者溜

この先に連続竪堀があります。
小振りな武者溜に見えたのですが一段上にも武者を配置出来るような仕組みもある場所です。
堀切もあって連続竪堀から守りを強化している場所と言えるでしょう。


連続竪堀
松井田城の特徴でもあ6本の竪堀が畝状に掘られています。
写真ではとても表現しずらいので現地で直接見ると凄いです。



竪堀が幾重にもなって切られている様子が見える場所です。
堀と堀の間隔が狭いので連続している様子がよく見えます。ちょっと感動。


扇子門跡(大手門跡)

石垣らしい石垣が見られるのはここ。
かつては木戸があったと思われますがこれだけの石組で想像するにはどんな形????
いろいろな形の門を妄想してしまいます^^;


本丸(本城)

大道寺曲輪とも呼ばれ、大道寺駿河守政繁の時に大改修した松井田城の本丸です。


虚空蔵堂

ここはかつて櫓台があった場所で、現在は虚空蔵堂が祀られています。
この虚空蔵堂があることでこの山が虚空蔵堂山と呼ばれる由来となりました。



本丸も草刈がされ、全様が見えてます。
青木や草は刈られていますが杉木は伐採した後の処分に手間がかかるということで
今回は草刈のみで木の伐採はお預けとなったそうです。


櫓台(矢倉台)

本丸広場の先に櫓台があり、ここからの眺めは良かったものと思われる。


本丸から少し戻って二の丸を見に行きました。


馬出

このような山の中に馬出しとは…いかに。
馬がここまで登って来れたのだろうかと疑問に思ってしまうのですが無くも無い話なので
当時の足の短い日本の馬ならここまで登って来れたのだろうということで。


土居(土塁)

土を盛り上げて造ってあります。
この先は谷になっていてここを登って来るのは厳しいのではないでしょうか。
高梨子側を見渡せる場所でもあり、こちら側に向って土塁が盛られ押さえとなっています。


二の丸

本丸の守りを固める役割をしていました。
本丸と二の丸の間には大堀切があって、馬出を経て二の丸に入るかたちに
なっていることからも本丸と二の丸は一城別郭の見方も出来そうです。



ここも木々がなければ眺めは抜群だったことでしょう。
しかし、下はバイパスが!!転がり落ちたらヤバいところです。



この先天神山トンネルの上の連続竪堀への道があるにはあるが、急斜面を下ることになるので
危険なので今回はこの連続竪堀を見に行くことは断念しました。
それでもマニアのために?ロープを張って下さったそうです。
運動能力に自信のある方、ど~しても連続竪堀を観たい方、気をつけていってらっしゃいませ!


枡形

土居をめぐらせて造った小さい曲輪です。私には藪で解りずらいです。


竪堀

空堀をよじ登って来る敵を上から石などを落して防いだそうです。


S形空堀

侵入した敵兵を前後左右から攻撃できる仕組み。
このような造りは高崎市の山名城にも見られ、誰が付けたのかS形と表現していますが
本来の呼び名ではない呼び名の看板が付いています。
※このあたりも草刈をしていただき、見やすくなっていました。


水の手(水曲輪・井戸曲輪)

ダム状に石や土を盛って水を貯めて水を得た場所。
大石を組んで堰き止めた跡が残っています。(小池があった説もあり)
渇水期でも水が絶えることが無いそうです。





このまま道を下って行くと最初の別れ道に合流。岐路へ。


安中曲輪

安中忠政が築城し、武田氏と戦ったのが安中曲輪。
安中曲輪の一帯が市指定の史跡となって松井田城跡の碑が建っています。


松井田古城碑

この古城碑、良く見ると大道寺駿河守政繁居城記念碑と記してあります。
大道寺曲輪の本丸に建ててくれれば良かったのに、なぜ安中氏の安中曲輪に建ててしまったのだろう…。
この碑には松井田古城とも記されているのであまりしっくり来ないけどここで勘弁。



さて、帰り道です。


腰曲輪

安中曲輪の腰曲輪です。


登城口

国道18号沿いの登城口です。
以前は倒木があって通れなかった道を、現地説明会に合わせて保存会の方々が整備して
今回は大手道ではなくこちらから登り降りしました。


補陀寺館

北条方の大道寺駿河守政繁を入れ、この地に居館を置き、碓氷峠の徳川勢に備えました。
この時松井田城は大きく改修され、それまで城の中心としていた安中曲輪から
西側の本城部分を増築し、補陀寺からの登城道も備えられました。
補陀寺については別の機会にまとめたいと思います。


とにかく広い山城で、どこから説明しようかホント迷いました。
安中曲輪、大道寺曲輪と城址二つ分が合体してるような要塞でこれだけの規模を
ざっくり紹介と言っても難しいです。
また、昨年より保存会の方々が整備を再始動されて今回現地説明会に参加させていただきました。
昨年11月には保存会が主催の斎藤慎一氏を招いての講演会にも参加し、地元内外からも
多くの人から注目を浴びている城跡であることを認識しました。
今後の整備にも夢が膨らみ、期待される城址です。


平成28年3月27日登城
平成30年3月18日再登城



歴史家の城歩き
中井 均,齋藤 慎一
高志書院







志賀城(愛知県)

2018年03月28日 | 百名城以外の城
志賀城しがじょう
別名
構造平城
築城者平手政秀
築城年代不明
指定史跡
場所名古屋市北区平手町2 地図



織田信秀の家老で、信長の傅役であった平手政秀の居城。
平手氏は付家老で信長の幼少期の教育係を務めていたのですが日頃から
行状が悪く、信長の将来を悲観してこの地で自害してしました。


案内看板

志賀公園とその周辺の案内看板です。


日本庭園

平手氏は織田信秀の重臣として主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であったことなどから、
やはり屋敷には庭園もあったのかなと想像したいところですがこの庭園は後世に創られたもので
遺構とは関係なさそうです。



池泉回遊式の純日本庭園として昭和5年に公園として整備されました。
あづまや(浮見亭)では宴などにも使用されていましたが後に取り壊されてしまいました。
現在のあづまやは平成6年に以前と同じ場所に建てられたもので、憩いの場となっています。


平手政秀邸址

この、彰徳碑は尾張藩有志により建立されました。
織田信長が平手政秀の長男・五郎右衛門の馬を欲しがり、武士であった五郎右衛門は
信長に献上することを断ったそうです。
そのために父であった政秀が居た堪れなくなり、自害したという説があります。
平手氏自害後信長は現在名古屋市中区栄三丁目にある「政秀寺」を建立し、菩提を弔いました。


案内看板

志賀公園の由来が書かれた看板。


案内看板

平手政秀邸跡について書かれた看板。


ラジオ塔

ラジオ塔は昭和5年以降にラジオ放送を市民が自由に聞けるようにと
日本各地に設置されました。
塔の上部に受信機やスピーカーが設置されていて市民が放送を聞いていました。
市内には9ヶ所設置されましたが、現在残っているラジオ塔はここを含めて全部で3ヶ所です。


公園



名古屋城へ行く前に寄ってみました。
公園の専用駐車場は無く、グラウンド利用者専用の駐車場しかみつからず
運転手を残して公園脇に停車、急いで公園を走りまわって来ました。
遺構は無いとのことだったので庭園を見て、石碑と案内看板を探して終了。
散歩というよりマラソンでした^^;



平成30年3月11日登城



現代語訳 信長公記 (新人物文庫)
中川 太古
中経出版

獅子ヶ谷城(神奈川県)

2018年03月26日 | 百名城以外の城
獅子ヶ谷城ししがやじょう
別名御薗城・獅子ヶ谷殿山
構造平山城
築城者小田切氏
築城年代1597年(慶長2年)
指定史跡
場所横浜市鶴見区獅子ケ谷3-10 地図

獅子ケ谷は熊野神社の直轄地で、獅子舞を司った地域であるころから「獅子ケ谷」と名づけられたと言います。
その獅子ヶ谷の地に小田切氏が築いたと伝わる獅子ヶ谷城があります。
小田切氏は信濃国佐久郡小田切村の土豪で、武田信玄の家臣でしたが、
長篠の戦いで小田切光季が戦死し、武田氏滅亡後に光季の子光猶が徳川家康に仕えたとされています。


獅子ヶ谷横溝屋敷

横溝家は16世紀末の慶長年間から獅子ヶ谷村の名主をつとめてきた家です。
そして、この屋敷の裏山が目的地の獅子ヶ谷城です。


駐車場

通路に見えるこの場所は5台ほど駐車出来る駐車場のスペースとされています。
木製の看板が出ていますが駐車場の文字が不鮮明なため通り過ぎてしまいます。
イベントなど混み合ってる場合は徒歩5分の「トレッサ横浜」の駐車場が利用可能です。



もう、すっかり春の装いです。


登城口

午前9:30~午後4:30の間であれば、ここから登城することが出来ます。



登城道は整備されていてとても歩きやすくなっています。


獅子ヶ谷市民の森

登り始めて間もなく、頂上に到着。
頂上広場が主郭になります。



主郭はわりと広く、隅の方には小学生が作物を作っていると思われる小さな畑もあります。
隣接する「ペガサスマンション大倉山」の屋上を見下すと、マンション屋上へ通じる道もあります。



一見、広い一面があるように見えたのですが、見る方向を変えてみたら
平地に段差が付いていました。
大きな段差ではないので公園として改良された際のものなのか遺構なのか
見分けはつきません。



登って来た横溝屋敷とは反対側にも登城道があるようです。
こちらは地図で見ると「師岡南谷戸第二公園」の方に続いているようです。



一段下がったフェンスの外側には帯郭と、主郭から下を覗き込んだ竹藪の中は堀らしきものが見えます。
写真は撮ってはみたものの、うまく写っていなかったので掲載は断念。




横溝屋敷が開いていない場合は「ガレージHASE」(この写真の奥)の先に登城口があるのでこちらから
登城することが出来ます。
また、先程主郭から見た道で「師岡南谷戸第二公園」側からも登城できるようです。


また元の道に戻って横溝屋敷へ。
せっかくなので見学して行こうと思います。


管理棟

横溝屋敷は慶長年間まで居住していた武田方の小田切氏が武田氏滅亡後、
徳川氏に仕え江戸に移住した際に屋敷の一部を名主の横溝氏に譲りました。


穀蔵

1841年(天保12年)に造られた穀蔵です。
中には農家で使う道具や農機具などが展示されています。
養蚕、脱穀、食品加工と貯蔵についての資料が展示されています。


主屋

普請帳によると、1896年(明治29年)頃建てられたようです。


蚕小屋

主屋と同時期に建てられた建物です。


広間

雛まつりは過ぎましたが、広間から仏間と座敷まで雛人形が飾られていました。
今はコンパクトな雛飾りが多くなって来て、この規模の雛飾りは家庭では
あまり見なくなってきているのではないでしょうか。
すごく古いというものではないのですが7段飾りがいっぱい飾られています。


納戸

納戸から見える庭園。


階段

階段の奥に見える部屋が納戸です。
昭和の時代にはこのような昔ながらの和風家屋が残っていたので懐かしさを感じます。


二階(蚕室)

二階は農耕と農村生活についての資料を展示しています。
村絵図、獅子ヶ谷村地形模型、食と住の民族資料が展示されています。

江戸時代には水田を開墾し、明治になると横浜港から輸出する
お茶、生糸などの生産をしていました。


縁側

縁側があると、そこで座って一休みしたくなります。
日当たりも良く、とても落ち着く場所なんですよね。
その先には中門が見えます。
格式高いお客さまが訪れた時用の門で、直接座敷の方へ行けるように造られているそうです。


表門(長屋門)

祈祷札から1847年(弘化4年)に築かれた長屋門です。
横溝家から寄贈され修復工事を経て、
今は観光客や農村生活の体験にやってくる市民を出迎えています。

表門と道路の間には水田があり、横浜市民限定ですが稲作の体験が出来るようです。



年間を通していろいろなイベントが催されていて充実した施設のようです。
今回城址としての資料や史跡の案内は得られなかったので
獅子ヶ谷城の詳細はわかりませんでした。
しかし、昔の日本家屋も好きなので横溝屋敷があったことで充実した気分でした。



平成30年3月4日登城



横浜の戦国武士たち (有隣新書70)
下山 治久
有隣堂

名古屋城(愛知県)

2018年03月23日 |  百名城
名古屋城なごやじょう
別名金鯱城
構造平城
築城者徳川家康
築城年代1610年(慶長15年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所名古屋市中区本丸1-1 地図
スタンプ設置場所名古屋城天守閣
御城印名古屋城天守閣売店
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

戦災焼失後、1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートで復元された名古屋城。
江戸と大坂の中間に位置し、徳川家康の戦略的な拠点として築城されました。
「天下普請」による諸大名の築城で、家康は大坂城にいる豊臣秀吉の遺児秀頼への
防衛拠点として次々と城を築き、天下普請最終段階としての集大成として最高水準の
名城をここに完成させました。
そして…天守閣木造復元事業に伴う調査及び工事により、
名古屋城天守閣は平成30年5月7日から入場禁止(閉館)となります。




正門

明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されました。
第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年の天守再建と共に再建されました。


西南隅櫓(未申櫓)

東南隅櫓と同じ規模の二重三階櫓。
石落しの唐破風が特徴です。


表二之門

門扉は鉄板張りで、門の袖壁には小振りの丸い穴(鉄砲狭間)見えます。
📢1944年(昭和19年)5月14日の名古屋空襲で焼失を免れた現存の門で国の重要文化財に指定されています。


表一之門跡



本丸御殿

本丸御殿はこちら
名古屋城内には本丸御殿と二之丸御殿の二つの御殿が存在していました。
二之丸御殿は尾張藩主の御殿でしたが、明治初期に取り壊されています。


大天守・小天守

名古屋城は1930年(昭和5年)、城郭建築における第一号の国宝に指定されました。
しかし、1945年(昭和20年)の名古屋空襲によって本丸のほとんどを焼失してしまいました。
現在の天守は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートで再建されたものです。


小天守入口

鉄筋コンクリートらしい造りです。


橋台

大天守と小天守を結ぶ橋台。
渡櫓ではなく土塀で挟んだ形で屋根がありません。
大天守と小天守の両方の入口の頭上には石落しが付いています。


金の鯱鉾

鯱には水を呼ぶという伝説があり、火除けのため天守閣上に載せるようになったと言われています。
これ一体で自動車一台分ほどの重さがあるんですね。
金の鯱鉾のこわい話は以前墨俣城でも紹介したのですが、雄と雌が一対になっていて
雄は国内、雌は海外に貸し出し展示されていたことがあります。
盗まれたことも数回…。
その不在中に災難が起こるとの話が聞かれます。(ホント?ウソ?)
守り神がいないということは、災難に見舞われるということか…。
今回天守建替えとなれば当然鯱鉾を降ろすことになるので災いが起きないことを
祈るばかりです。くれぐれも工事中は安全を重視ということで。


黄金水井戸枠(模型)

井戸底は純金と伝えられていましたが、昭和34年の天守閣再建時の調査では
金ではなく小石が約1mの厚さで詰めこまれていたことが明らかになりました。
この井戸も天守焼失とともに失われているので、ここに展示されているのは
国宝当時の井戸型を模したものです。


天守閣展望台

ここにある売店で、数年に1度キティーちゃんの鯱鉾ボールペンをまとめ買いします。
金の鯱鉾が付いたキティの御当地ボールペンはなんとなく金運が良い気がして
仕事では名古屋城で買ったボールペンを使用するようにしています。
(※個人的に御利益があると思い込んでるだけで金運の根拠や言われはありません)


眺望(北側)

展望台からは犬山城・小牧城・岐阜城が見渡せます。
肉眼では限界があるので望遠鏡を使いました。
遮るものが無いので昔もかなり遠くの方まで見渡すことが出来たのでしょうね。
とはいえ、大坂城はちょっとムリかな^^;

展望台以下は展示室になっています。


鷺之廊下北側戸杉戸絵

天守閣1階の重要文化財コーナーに特別展示になっている梅之間の戸杉戸絵です。
戦時中疎開して襖絵や天井絵などが数点戦火を免れたものもあります。
小物ならともかく、こうした建具を持って逃げるってすごい!


御殿椿

本丸御殿にある銘木から接木された椿で、原木は空襲で灰をかぶった幹から
新芽がのびたもので、ど根性な椿です。


不明門(復元)

本丸北側と御深井丸を繋ぐ門なのに厳重に施錠されていた門なので
「あかずの御門」と呼ばれていました。
そして門の外側の塀には剣塀で侵入を防いでいます。


剣塀

軒桁に30cm程の槍の穂先を並べ、忍返しとして使われたものです。
天守閣と小天守閣とを連結する橋台の西面や、不明門北面の塀に見られます。


天守礎石

天守台にあった礎石を天守再建の際にこの地に移し、かつての敷説状況を再現しています。
とは言え、石と石の間隔が狭くこれだけ多くの柱があったの?と
素人ながらちょっと疑問に思ってしまいます。


石棺式石室

なぜかここに出雲地方の石棺式石室があります。
寄付されてここにあるようですが???
どういう経過を辿ってここにあるのか気になります。
転用石説と天守再建の際に提供された説と寄付されて行き場がなく…なんて話も
ありますがどれがホントなんでしょうね^^;


東一之門跡

戦災で焼失した東門枡形の櫓門があった場所です。
この門の脇に「清正石」があります。


清正石

加藤清正が運んだことで有名な巨石ですが、
実は、この石垣の施工大名は黒田長政だそうです。


旧二之丸東二之門

愛知県体育館建設にあたり解体された東鉄門を昭和47年、
この地に移築復元されました。


東南隅櫓(辰巳櫓)

石落しが設けられている二重三階櫓。
ここにはかつては武具が納められていました。


東門






二之丸大手二之門(西鉄門)

現存の高麗門です。
残念ながら工事中でその姿は見えず。



水門

2つの水門は「閘門(こうもん)」と呼ばれる施設です。
車で信号待ちをしていたら先日ブラタモリで見た水門が見えたので慌ててパチリ!
これが「こうもん」を連呼していた水門なんですね^^;



子供のころからよく見た名古屋城。
昭和の名古屋城天守に登れるのもこれが最後と思い、この機会を逃したら
一生後悔する!と思いつつ、いつ行けるかとその機会を窺っていました。
たまたま別の用事がキャンセルになったこの瞬間に、
「今でしょ!」というタイミングで名古屋城に攻め入りました。
そしたら、名古屋城周辺はマラソン大会で道路が規制されていて周辺の散策は断念。
この後は名古屋ボストン美術館も閉館になるとのことで美術館にも行って来ました。

次に見る名古屋城は木造かあ。楽しみですね。
しかも竹中工務店とは、竹中半兵衛も何百年もの後に築城するとは
想像も出来なかったでしょうね。


平成24年6月24日登城
平成30年3月11日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス


尾張楽田城(愛知県)

2018年03月21日 | 百名城以外の城
尾張楽田城おわりがくでんじょう
別名
構造平城
築城者織田久長
築城年代1504年~1521年(永正年間)
指定史跡
場所犬山市楽田 地図
城郭検定出題あり

天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。
小牧・長久手の合戦時には、小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、
合戦終結の講和条件により取り壊しとなりました。
現在は楽田小学校の敷地となり、当時の面影を残すものはほとんどありません。



土塁

早朝に到着!…が、既に先客?と思いきやただの路駐でした。
正面からこれかあ…仕方あるまい。(地元には勝てまい)
この車を避けた画像は撮れないので写り込んでしまうがあしからず。
楽田城の城跡を示すものは小学校敷地内からこの地に移動されたようです。


案内看板

戦国時代末の儒学者小瀬甫庵の書いた「遺老物語」には、
高さ二間余の垣を築き、その上に五間七間の矢倉を作り、
中央に矢を立て並べた八畳敷の二階座敷を設けたとあります。
天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。
「殿守」とも呼ばれていたことから天守の起源という説もあります。
それだけに注目の城址ですが小学校建設のため遺構が失われたのは痛いところです。


史蹟城山碑

この辺りは「城山」という地名が付いています。


楽田城址碑

かつて城址碑は小学校の敷地内の土塁上にあったそうですが
現在は一般の人も見られる位置に移築されています。


城山移築記念碑

城址碑の移築の記念に立てられた記念碑。


遠望

小学校は一段高くなった場所にあります。
それにしてもちょっと低い気がします。
昔はもっとこんもりした丘山になっていたのでしょうか。
周囲が平坦なだけにここだけ少し高くなっているのでそれだけがせめてもの名残でしょうか…。



早朝に訪れ散策。
日の出前に到着したので写真が補正をかけても少々暗いのは御勘弁下さい。
ここも周囲は道が狭く普通車以上で周辺を巡るのは困難です。
さすが城下(城域)です。
地図から見ても小学校が城址だけでなく、北之門、裏之門といった地名が
あるだけに移築門や石碑が各地にあることが調べていて今判りました。
この日はは旦那が苦労して車をまわしてくれたのですが、
他に遺構らしきものはみつけることはできませんでした。
楽田小城や移築門など、今後の攻城団での団員からの情報を期待したいと思います。



平成30年3月11日登城



お城のすべて (学研雑学百科)
三浦 正幸
学研パブリッシング

名古屋城本丸御殿(愛知県)

2018年03月19日 | 御殿
名古屋城本丸御殿なごやじょうほんまるごてん
築城者徳川義直
築城年代1615年(元和元年)
指定史跡
場所名古屋市中区本丸1-1 地図


本丸御殿は、1615年(慶長20年)に尾張藩主の住居や政庁として建てられた
書院造の建物ですが、1945年(昭和20年)の戦火で名古屋城天守とともに焼失。
2009年(平成21年)から復元工事を開始し、平成30年6月に全体の公開予定です。


車寄

本丸御殿の玄関になります。
観覧はここからではなく、東側に別の入口があります。


入口

御殿では靴を脱いで、手荷物などはロッカーへ預けます。
リュックは背負わずに前に抱えるなど建物に当たらないよう注意して見学します。
カメラはフラッシュを切っていれば撮影はOkです。
このような注意事項や説明を受けてから中に入ることが出来ます。



順路の通りに進んで行きます。


大廊下

ここには名古屋城本丸御殿についてのパネルが展示されています。
廊下と言えど部屋が出来そうな空間です。


玄関(次之間)

玄関から入って正面になるのが次之間。
玄関の襖絵に描かれているのは竹林に虎と豹が遊ぶ「竹林豹虎図」です。
まずは勇猛な虎や豹の絵で来訪者を威嚇して来ます。



狩野派の一門によって描かれている豹と虎は、当時豹のことを
虎の雌だと思い込んで描いていたそうです。
豹の親子とそれを見守る虎は家族を描いたように見えるのですが
こうした狩野派の思い違い(ちょっと言い過ぎかな?)の絵は
二条城の二の丸御殿の襖絵にも描かれています。


玄関(一之間)

作者は不明ですが、一之間の襖絵については、
狩野派の狩野長信とする説があります。


表書院(三之間)

藩主と来客との公式な謁見に用いられた場所で、来客の家臣が控えた部屋とされ、
最も広く39畳あります。
三之間の襖絵は「麝香猫図」で、麝香猫は東南アジアの熱帯地方などに生息し、
当時の日本では高貴な生き物と考えられていました。
季節は夏を表現しています。


表書院(二之間)

表書院は、正規の謁見に用いられた広大な建物で、
江戸時代には大広間と呼ばれていました。
二之間の襖絵は「松楓禽鳥図」が描かれて、季節は秋・冬を表しています。


表書院(二之間)

「花鳥図」の部屋なのですが二之間の金箔だけで襖絵の描かれていない面があります。
これは気になるのですが、もともとこのようなデザインにしたかったのか、
なぜ絵が描かれなかったのか知りたいところです。


表書院(一之間)

一之間の襖絵は「桜花雉子図」で、季節は春を表現しています。



表書院入側廊下の天井は格天井になっていて、廊下までも品格のある造りです。


表書院(上段之間)

上段之間の襖絵は「松竹禽鳥図」が描かれています。


付書院

今では花瓶や生け花、掛け軸、置物などが飾られる床の間ですが、
かつては身分の高い人が座る場所でした。
その、床の間の横に出窓風に張り出しているのが付書院(出書院)です。
ここを机にして書物を読み書きしたようですが、窓のように書院の障子を開けて庭を眺めたり、
装飾性としての要素の方が強く、格式高い場所に用いられるようになりました。



付書院から中を覗いてみました。
天井は格式高い折上げ小組格天井で格式の高さを表現しています。








対面所納戸一之間

対面所は藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられた建物です。
納戸は尾張藩主が最後に身支度を整えられた部屋で
襖絵は「山水花鳥図」が描かれています。


対面所(次之間)

襖絵は「風俗図」が描かれており、
紀州浅野家から嫁いだ春姫の故郷和歌山の名所が描かれています。


対面所(上段之間)

上段之間は「風俗図」で、京都の名所が描かれています。



上段之間の天井は二重折上げ小組格天井で、格縁は黒漆塗りです。
天井板は金箔が押してあり、とても豪華で格式のある造りです。



下御膳所には寄付者の名前が掲示されています。


下御膳所

下御膳所は、宴席に使う料理を準備するためのに使われていた部屋です。
囲炉裏があり、調理ではなく料理を温めるために使われていたようです。
天井は囲炉裏の煙を逃がす構造になっています。


今回公開していたのはまだ対面所までで、更に奥の上洛殿や書院までは
公開されていませんでした。
上洛殿・黒木書院・御湯殿を含む全体公開になるのは名古屋城天守が閉館になった後の
6月になるようです。
今度は天守の復元工事に代わって本丸御殿が呼び物となることでしょう。
将軍が上洛の際の宿舎である上洛殿は本丸御殿で最も豪華に飾られた建物で、
釜屋付き風呂屋があったりとまだまだ見所が残っているので、今度は
完成した御殿と工事中の天守を見に行ってみたいなあと思います。


平成30年3月11日訪問



図録 本丸御殿の至宝 重要文化財名古屋城障壁画
名古屋城本丸御殿PRイベント実行委員会
名古屋城本丸御殿PRイベント実行委員会

寺尾城(神奈川県)

2018年03月16日 | 百名城以外の城
寺尾城てらおじょう
別名馬場城
構造平山城
築城者諏訪氏
築城年代1436年(永享8年)
指定史跡
場所横浜市鶴見区馬場3-13 地図
御城印徳雄山建功寺

寺尾城は、北条早雲が小田原城主になる以前からすでに諏訪氏が居城し、
領主諏訪三河守が五代にわたりこの地を統治して来ました。
1569年(永禄12年)武田信玄が小田原城を攻めた際、
北条方であった寺尾城は廃城になりました。


殿山公園

周囲は住宅地で、公園はあるものの車を停める場所は無いので
コインパーキングなどを探して駐車して散策することをお勧めします。



カメラを持って公園に入ると、遊んでいた子供や付き添いの大人はあっという間に
いなくなってしまいました。
撮影するには都合が良いのですが、不審者に見えたのでしょうか。。。。


寺尾城の遺構

寺尾城は戦国時代に、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守五代にわたる城址である。
永禄十二年(1569)十月、武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は没落したといわれている。
城址には、当時の空堀・土塁・曲輪など中世の城郭が残り貴重な遺跡となっている。
町名の馬場・諏訪坂などに城のようすがいまに伝えられている。  鶴見歴史の会


土塁

土塁らしき土の部分が見えます。


殿山公園入口

高台側からの入口です。


案内看板

寺尾城発掘調査について説明されています。
発掘された空堀から江戸時代に噴火した富士山の火山灰よりも下層であったことから、
18世紀初頭にはすでに空堀の大部分は埋もれていたことが明らかとなりました。



公園の上からも土塁を見ることが出来ます。


城址碑

この城址碑付近は諏訪三河守五代の館跡です。
やはりここも周囲は住宅で埋め尽くされ遺構が残るようなスペース無し!



それでも何か遺構はないものかと周辺を散策してみましたが…
さすがに城跡、住宅が密集しているのもありますが、車ではとても
入って行けそうにない道が至る所にあります。
歩きまわるには結構広い城域で高低差もあって疲れます。



馬場の赤門

寺尾城から少し離れた馬場1丁目に安政年間に建てられたという旧澤野家長屋門があります。



建築当時は萱葺屋根だったそうです。





沢野家の碑

この碑には澤野家の歴史が刻まれています。
群馬県の奥平家末裔の方が話していた戦時中、国からの土地の提供の要請(めしあげ?)が
ここでもなされていたんだなあと思いました。
その結果遺構は消えてしまったんだなと…。残念。



寺尾城址周辺はほとんどが住宅となっていて、
カメラを持ってうろつくとすぐに通報されてしまいそうな場所です。
土塁跡もマンションの敷地に入らないと見られないなど、ちょっと散策が難しいところです。
不審者が多いということも聞いていたのでちょっとは心構えはあったものの、
本当にいちゃもんつけるおじさんが公園付近に居たので攻城団での情報が
役に立ちました。警戒して訪れた方がいいかもです。
こちらもカメラ持って歩きまわっているので地元の方から見たら私らの方が
不審者に見えるかもしれませんが^^;
極力御迷惑にならないように散策するしかないです。



平成30年3月4日登城



関東の名城を歩く 南関東編: 埼玉・千葉・東京・神奈川
峰岸 純夫,齋藤 慎一
吉川弘文館

京都新城(京都府)

2018年03月14日 | 百名城以外の城
京都新城きょうとしんじょう
別名太閤御所・太閤御屋敷・太閤上京屋敷・三本木屋敷
構造平城
築城者豊臣秀吉
築城年代1597年(慶長2年)
指定史跡
場所京都市上京区京都御苑 地図


京都新城は、太閤豊臣秀吉が2代関白豊臣秀次の聚楽第を破却した後に、
皇室に仕える豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所内に構えられた城郭風の邸宅です。


寺町御門

どの門から入ろうかとは考えていなかったので、とりあえず辿り着いた寺町御門から入城です。


築地塀

長い築地塀内が仙洞御所になります。
この築地塀の角にはなにやらカメラ?センサー?みたいなものが。
どうやら落書き防止のセンサーで壁に近寄るとブザーが鳴る仕掛けになっているそうです。
知らずに近付くと…歩き疲れて座り込まなくて良かった。ホッ


桜町

紀貫之の邸宅で、桜が多く植えられていた庭園があったという桜町の屋敷が
このあたりにあったと考えられています。


仙洞御所

仙洞御所と大宮御所の地は、かつて聚楽第の後身として豊臣家の本邸である
京都新城が置かれていました。
豊臣秀吉没後は正室の高台院(北政所)が入り、居住していた場所でもあります。


菊の瓦

屋根の上には菊の瓦が載っています。
お城でよく見かけるのは桃が多いのですが天皇家とあって菊なのですね。


建春門

向唐破風の屋根を持つ四脚門が建春門です。
欄間や蟇股などの彫物が見事です。
会津藩等の天覧馬揃え(天覧の軍兵訓練)がこの門外で行われました。



平安宮内裏外郭の東正面に位置することから日之御門とも、
門のすぐ外に外記庁の建物があったことから「外記門」とも称されていました。


清水谷家の椋

このあたりが清水谷家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹齢は約300年で、著周藩士の来島又兵衛がこの木の付近で討ち死にしたと伝わります。


建礼門

京都御所の正門で天皇陛下のご通行のほか、外国元首などの国賓来訪のときに開かれます。


諸大夫の間

正式な用向きで参内した時の控えの所にあてられる建物で、襖の絵にちなんで
格の高い順に「虎の間」・「鶴の間」・「桜の間」と呼ばれる三室が東から並びます。


鶴の間

身分の上下で三つに分けられている控えの間で、真ん中の鶴の間は二番目の官位用として
使用されていました。
ちなみに、位の高い官位は虎の間、低い官位は桜の間になります。


新御車寄

1915年(大正4年)の大正天皇の即位礼に際して建てられたもので、
大正時代以降の天皇皇后両陛下の玄関です。


承明門

紫宸殿の南正面に位置する門で朱色(丹塗り)が鮮やかで目を引きます。
天皇行幸や上皇御即位後の出入りに使用される門です。


紫宸殿

即位式などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿で、入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築です。


清涼殿

入母屋桧皮葺の寝殿造りの建物で、平安時代に天皇のご生活の場であったときの様式を
復元して建てられています。


小御所

寝殿造りと書院造りの両方の様式が混合した建物で、
諸種の儀式が行われ将軍・大名など武家との対面にも使用されました。
「蔀戸」が外側に跳ね上げて吊り金物で固定する形で半分上がっている様子が
ふだん見ない光景だったので斬新に思えました。


御池庭

池を中心とした回遊式庭園です。


蹴鞠の庭

ここは、革製の毬を地面に落とすことなく蹴り続ける伝統的な球戯を行っていた場所です。
蹴鞠は勝敗を競うものではなく、いかに蹴りやすい毬を相手に渡すかという精神のもと
行なわれるもので、蹴鞠の催しを御学問所から天皇が御覧になったという記録があります。


御学問所

入母屋桧皮葺の書院造りの建物で、和歌の会など学芸に関する行事のほか
臣下との対面にも用いられました。


御常御殿

入母屋桧皮葺の書院造りで京都御所の中で最も大きな建物です。
天皇が日常のお住まいとして使用された御殿です。


御内庭

曲折した遣り水を流して、土橋や石橋を架けた趣向を凝らした庭で奥に茶室を構えています。


御常御殿剣璽の間

上段の間以下は奥における参賀など御対面の場として用いられました。
こちらも蔀戸が開いていました。


杉戸絵(牛に桜)



蛤御門

江戸時代末期、この辺りで長州藩と御所の護衛にあたっていた
会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行なわれた場所です。
江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が、はじめて開けられたため
「焼けて口開く蛤」に例えて蛤門と呼ばれるようになりました。



鳩など鳥がとまれないようになっています。
この門で注目すべきは弾痕なのに、こんなところに目が入っていしまいました^^;



とにかく広い!
めちゃめちゃ歩き疲れました。
以前は春と秋の2回が一般公開だった京都御所は現在予約も無く無料で年中一般公開しています。
この日は思ったより空いていてゆっくり観て廻ることが出来ました。
しかし、時間を忘れて見学していたため二条城へ戻る時間が!!
歩く体力が残されていなかったので蛤門前でタクシーを拾い二条城へ。
この日は1万5千歩以上歩きました。(運動不足にはキツイ!)



平成30年2月18日登城





那古野城(愛知県)

2018年03月12日 | 百名城以外の城
那古野城なごやじょう
別名
構造平城
築城者今川氏
築城年代1521-1528年(大永年間)
指定史跡
場所名古屋市中区二の丸1 地図
城郭検定出題あり

尾張国の東半分は1518年(永正15年)以降、駿河国の守護今川氏の支配下に置かれました。
そして、今川氏は最前線である現在のニ之丸辺りに那古野城を築きました。
尾張国勝幡城主織田信秀(織田信長の父)が、1532年(享禄5年)に奇策によって那古野城主今川氏豊を追放し、ここを居城としました。



城跡碑

名古屋城二の丸庭園に那古野城の石碑と案内看板があり、現在は遺構は残っていません。
ちなみにこの城跡碑、かつては文字があったのですが、
太平洋戦争の名古屋空襲で焼けしまったため、文字が消えてしまっています。


二の丸庭園

那古野城は1610年(慶長15年)に徳川家康による名古屋城築城とともに、
二の丸御殿の作庭により庭園となり遺構は消滅してしまいました。



駿河の今川氏親は、尾張進出の拠点としてこの地に柳ノ丸を築城しました。
室町幕府が没落し戦乱の世となると、尾張守護代であった織田家の信長の父である
織田信秀が柳ノ丸を奪い、その後「那古野城」と改名しました。
その後信長の父信秀は、信長に那古野城を譲って
新たに築いた古渡城へと移りました。
信長は幼少期からこの地で育ち、斎藤道三の娘である濃姫との
新婚生活も那古野城で送っていたと伝わります。



1555年(弘治元年)信長は、清須城を築くと本拠地をそちらに移しています。
その後那古野城は、信長の叔父である信光が入り、
信光が亡くなった後は重臣の林秀貞の居城となった後、
本能寺の変が起きた1582年(天正10年)に廃城となりました。


南池

1609年(慶長14年)、徳川家康が九男義直の居城として
かつて那古野城のあったこの地に名古屋城を築こうと決意しました。


ここにある二の丸東庭園は徳川時代の遺構を中心に整備されたもので
織田家の那古野城時代のものは何も残っていません。
それだけに、何度も訪れている名古屋城ですが、那古野城として散策に来たのは
今回が初めてでした。


平成30年3月11日登城


【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

下鎌田城(群馬県)

2018年03月12日 | 百名城以外の城
下鎌田城しもかまたじょう
別名下城
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所甘楽郡下仁田町馬山 地図


小幡氏に関連する砦と思われ、上信越自動車道の下仁田インターチェンジ建設により
その遺構は破壊されており、現在ははっきりしたことはわかりません。


二の郭

国道254号線から鎌田地区への入口には看板があり、
集落への道に入ると、高速道路をアンダーパスしてすぐに左手に登る道が
あるのでそこを登ると周囲を見渡せる高速道路の側道に出ます。



現在は畑になっている二の郭。
石垣も見えますが、おそらく畑のために積まれた後世に造られたものでしょう。


一の郭

高速道路を挟んで向こう岸に見える主郭。
インターチェンジの中州の部分に一の郭があります。


杣瀬城

下鎌田城からも見える、高速道路で分断された杣瀬城。
残念ながら、この近辺の城郭は平賀城、塩ノ入城も高速道路建設の為に破壊されています。


多くのことがわからないままに遺構は失われ、資料もや伝承もあまり残っていないので
詳しい事はわからない。
あまり重要視されることなく高速道路と化してしまったのでしょうね。


平成30年3月3日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

本能寺(京都府)

2018年03月09日 | その他
本能寺ほんのうじ
別名本応寺
宗派法華宗本門流
開祖日隆聖人
開山1415年(応永22年)
指定史跡
場所京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 地図


本能寺と言えば、1582年(天正10)6月2日織田信長が明智光秀の謀反により、
自害し果てた「本能寺の変」の舞台となった寺として有名ですが、
ここにある本能寺はその当時の場所から豊臣秀吉によって現在の地に移されました。


表門

本能寺の入口には表門と裏門があります。
寺町通に面しているのが表門で、山門の前には石碑や案内看板、日蓮聖人像が立っています。
そこで本能寺にある文字に注目してみましょう。
よ~く見ると「能」の字が右のヒヒの部分が去に置きかえられています。
これは五度も火災に遭遇したのでヒ(火)を嫌い去の字に替えているそうです。


案内看板

本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、
1433年から現在まで「本能寺」を使用しています。
油小路高辻と五条坊門の間の地に寺門を開き「本応寺」と号したのですが
六角大宮に建立した時から「本能寺」と改名しています。





自動販売機

本能寺オリジナルデザインの自動販売機。
この先奥には僧堂があります。






本堂

入母屋造本瓦葺で、総けやき材で室町時代の創立当時の面影を残して築かれています。
その後天明・元治の大火により焼失、現在の本堂は1928年(昭和3年)の再建です。


塔頭寺院

本堂の脇(右側)に7軒つらなっている塔頭寺院。
塔頭寺院とは本能寺に給仕する子院のことをいい、恵昇院(えしょういん)、蓮承院(れんじょういん)、定性院(じょうしょういん)、高俊院(こうしゅんいん)、本行院(ほんぎょういん)、源妙院(げんみょういん)、龍雲院(りょううんいん)の7軒から成っています。


蓮承院

坊名は日蓮聖人の蓮と日承聖人の承の字をもらったと伝わります。
山門には牡丹と鬼瓦が載っています。





拝殿



信長公廟

織田信長の三男信孝が本能寺の変から1か月後の7月3日に本能寺を墓所と決め、
建立したのがこの墓です。
この廟所には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められています。


火伏せのイチョウ

天明の大火で市中が猛火に襲われたとき、イチョウから水が噴き出し木の下に身を寄せていた
人たちを救ったという言い伝えが残されています。


本能寺御池門



訪れる一週間前に映画「本能寺ホテル」を観たばかりだったので、まだ余韻に浸っていたところでした。
二条城に来たならばぜひ本能寺も訪れておきたいと思いやって来ました。
「ホテル本能寺」が隣にあるということで見に行ってみたのですが、建て替え工事中でした。
しかし、ふと思ったのは中学生の修学旅行で泊ったのはホテル本能寺ではなかったのか?と
思い始め、その頃の写真を引っ張り出してきたものの宿泊先の写真は残っておらず
解らずじまい。
でも、久しぶりに引っ張り出した写真を見て当時を偲ぶ夜となりました。


平成30年2月18日訪問



本能寺ホテル
相沢友子,土屋健,古郡真也,片山怜子
メーカー情報なし

金比羅山砦(群馬県)

2018年03月07日 | 
金比羅山砦こんぴらやまとりで
別名物見山砦
構造物見
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市黒川 地図


金毘羅社を勧請したことで金毘羅山と呼ばれるようになりました。
そして物見山とも呼ばれていることから、この地は戦国期には物見や狼煙を上げる
伝達の重要地点であったと考えられます。



参道からでなく、ちょっとズルして山頂に近い道路側から登ってみました。


堀切

道路から山に入るとすぐに堀切が見られます。



かなりはっきり確認することができるのですがどのくらい前に
造られたものなのかわからない。



堀切は南側へ大きく周り込んでいます。



堀切を見たあと、獣道のような誰かが歩いたあとを辿って
頂上を目指します。



途中、参道と合流し、そこから登るとすぐに虎口かな?と思わせるカーブに出ると
金比羅社が見えて来ます。


金比羅社



案内看板

小幡羊太夫が官軍と戦ったことから物見山と名付けられたと言い伝えがあるようです。
江戸末期には金比羅様を祀ったことで金比羅山と呼ばれるようになりました。



この社を覗き込むと、更に小さな小窓が見えて、その小窓の奥に石祠が見えるようになっているのがすごい!
おもしろいカラクリで造られた社だなあと感心しました。
ただ単に空気を取り入れる為だけに付けられた小窓とは思えない造りです。


石祠

金比羅社の裏手に廻るとこのような石祠があります。
金比羅社の正面でお参りすると、自然にこの石祠にもお参りしたことになります。



社を背後から見るとわかるのですが、正面から社内を覗き込んだ時に
石祠が見える位置(低い)に小窓が造られているのが解ります。
普通に付ける窓の位置でないことが解ります。



社の背後に郭が広がります。
少し藪になってますがこの時期なら散策できる程度に歩けるので
広さを確認することが出来ます。



木々が生い茂っているので眺望は望めないので物見としては実感が
湧きませんが、この木々が無かったら見渡すことが出来ていたのでしょうね。


腰郭

東側の腰郭。
主郭を取り巻くように周囲に一段下がって腰郭が配されています。







道路に戻って来ました。
ここに小道があるのでいってみると…


一之宮貫前神社方面

物見山では見られなかった眺望が望むことが出来るので
中腹ではありますがここで物見の気分を体験することが出来ます。


黒川城方面

鉄塔が見える左側が黒川城になります。


道路のカーブが広くなっているのでそこに駐車することが出来ます。
通行の妨げにならない場所を選んで道路側から登って行くと近いです。

物見山と呼ばれていたことから戦国期は物見や砦として使われていたのでしょう。
この周辺には黒川城、宇田城、高田城など多くの城跡が存在します。
それらを見張るためだったり、伝達のポイントとしても適した場所だったのでしょう。



平成30年2月10日登城



信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

伏見城(京都府)

2018年03月05日 | 百名城以外の城
伏見城ふしみじょう
別名木幡山伏見城・伏見桃山城・桃山城・木幡山城
構造平山城
築城者豊臣秀吉
築城年代592年(文禄元年)
指定史跡
場所京都市伏見区桃山町古城山 地図
城郭検定出題あり

伏見城は豊臣秀吉の隠居所として指月ノ岡に築かれました。
しかし、慶長元年の大地震により倒壊、その後木幡山にあらたに築き直しました。
伏見城が完成した翌年には秀吉が没し、伏見城は徳川家康が預かることとなり
天守は全部で三度建てられました。


駐車場ゲート

有料駐車場で170台の駐車が出来ます。
この日も伏見桃山運動公園を利用するのは地元の学生や市民がほとんどで、
朝だったせいか、模擬天守を見に来た人は自分たち以外無く…さみしいものでした。


正門

開園した伏見桃山城キャッスルランドの閉園後2007年に跡地に整備されました。
閉園時には取壊し予定だった伏見城の模擬天守は、市民の運動によりシンボルとして残され、
週末夜にライトアップされたり、映画やドラマの撮影にも利用され、春には花見で賑わいます。


城跡碑

伏見桃山城の城址碑が門の脇に佇んでいます。



かつてはここで入場券を買ってキャッスルランドに入城していたのでしょう。
でも、ここから観覧車やジェットコースターなどが見えていたら…と想像したら
失言になりそうですが、今の状態で良かったと思ってしまいます。(スミマセン)


模擬天守

鉄筋コンクリート製の根拠の無い模擬天守。
でも、すっごい天守です。
見栄えはめちゃめちゃ良いです。


樹霊碑

2007年の公園整備の際にここへ移されたという歌碑。
桃山の美しい夕景と永遠に生き続ける樫の木に生きることへの賛歌、
平安への祈りがこめられているそうです。


枡形

一応、枡形になっています。


天守

懸魚が大きいです。
近くで見るとその大きさは誇大表現でしょ^^;って感じがします。
裏に廻ると石落しも再現されています。



耐震基準が満たさないため、現在は中に入ることが出来ません。
これだけ立派な建物なのにもったいない…。
資料館や歴史館のような施設に蘇って欲しいものです。



模擬天守東側に回って来ました。


記念碑?

なぜか倒れたままの石碑。
これは意図的に倒して置いてあるように見えます。



この公園はかつて御花畑山荘に位置します。



秀吉の天守はきらびやかであったとされ、家康の天守は5重天守の華麗な姿であったことを
想像させるインパクトのある模擬天守。
見た目はとても格好良い造りです。



正門(内側)

模擬天守に合わせたデザインで、統一感もあって豪華な雰囲気です。


福島児童公園

福島正則屋敷があったことから地名に残る。
松平筑前公園、羽柴長吉中公園、金森出雲児童公園といったように城下の屋敷跡地には
武将たちの名前がそのまま地名として残っています。
町の名前など注意してみてみるとおもしろいですよ。



4度目に建てられたのは遊園地の平和のシンボル。
伏見桃山城キャッスルランドになるとは秀吉も想像出来なかったことと思います。
それも廃城になってしまいましたが、地元の人たちはここに天下人の城があり、
伏見城の戦いから関ヶ原の戦いへと大きく歴史が動いた地として語り継ぐシンボルとしても、
この模擬天守を残す決意をした意味が伝わって来ます。



平成30年2月18日登城



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス


二条古城(京都府)

2018年03月02日 | 百名城以外の城
二条古城にじょうこじょう
別名二条新御所・二条殿・二条御新造・武家御城
構造平城
築城者織田信長
築城年代1576年(天正4年)
指定史跡
場所京都市中京区両替町通御池上ル 地図


二条殿(二条御所)は、龍池小学校の校舎建物跡で、
現在の「京都国際マンガミュージアム」のあたりに位置し、
建物前に「二條殿址碑」があります。
本能寺の変で織田信長の嫡男、信忠が最期を迎えた場所でもあります。


二條殿址

二条殿は、南北朝時代太政大臣を務め和歌連歌で著名な二条良基の邸宅でした。
邸内には龍躍池があり、その景観の美しさから皇族や織田信長が好みました。
信長はその邸宅を譲り受けて、京都所司代の村井貞勝に命じて改修させました。
信長が京に滞在中の宿所としていましたが、天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上しました。
皇太子に献上したため「二条新御所」とも呼ばれます。


二條殿址碑

1573年(天正10年)本能寺の変の際には
信長の長男信忠がこの地で自害し、二条殿は焼失しました。
信長公記によると、信長に合流しようと妙覚寺を出たところ村井貞勝親子三人が駆けつけ
本能寺が焼け落ちたことを知り、新御所(二条古城)へ入り立て籠もりました。
「退去なさいませ」と進言する者もいましたが、「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉」と
言って介錯を鎌田新介に命じて切腹し、果てました。

京都二条城付近には偉大なる織田信長の最後にまつわる史跡がちりばめられています。



二條殿址のある通りには「両替町通」と名付けられているように
二条古城付近には金座と銀座の跡地として石碑が立てられています。
そちらもいっしょに見てみましょう。


徳川時代金座遺址

「京都国際マンガミュージアム」にある徳川時代金座遺址の碑。
江戸時代、金座は江戸幕府の金貨を鋳造する所でした。
京都のほかには江戸、駿河、佐渡にも金座が存在しました。



京都金座は江戸金座と同時期に開設され、その後1695年(元禄8年)に
一時小判の鋳造を中断しますが、1698年(元禄11年)からは江戸の出張所として鋳造を再開した。
その後、1819年(文政2年)に、元文金の鋳造停止をもって廃止されました。


徳川時代銀座遺址

銀座は銀貨の鋳造に関し幕府の特許を得て事業の運営にあたっていた銀座人と銀貨の鋳造、
極印打ちおよび上納銀の包封を行っていた銀吹所から構成されていました。



銀座は京都の他に江戸、大坂、長崎にありました。
金座、銀座、銭座の三貨制度の機能は、現代の日本銀行の機能を
部分的に担っていたと考えられます。


ここにもありました、金座、銀座。
?年前に小田原城へ行った時に、銀座という地名を見て東京以外にもあったのかと思い
その意味を知りました。
しかし、掘り下げて調べたことは無かったので、今回も「お!ここにも」とあるぞと
注目してみました。



平成30年2月18日登城



二条城を極める
加藤 理文
サンライズ出版

柳本陣屋(奈良県)

2018年03月01日 | 陣屋・館
柳本陣屋 やなぎもとじんや
別名
構造陣屋
築城者織田尚長
築城年代1624年~1644年(寛永年間)
指定史跡
場所天理市柳本町1213 地図
城郭検定出題あり


未登城の城








よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス