むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

藤岡城(栃木県)

2019年03月29日 | 百名城以外の城
藤岡城ふじおかじょう
別名花岡館・中泉城
構造平城
築城者平将門
築城年代932年(承平2年)
指定史跡
場所栃木市藤岡町藤岡 地図

平将門が932年(承平2年)に後世関東7ヶ城の一つと言われた堅固な花岡館を築城します。
しかし940年(天慶3年)逆心という名のもとに討たれ、同時に廃城となりました。
佐野氏の出城とも館林赤井氏の家臣である茂呂氏の居城であったとも確認されつつあります。
三方が湿地に囲まれていることから、大手は東側にあったのではないかと推察されています。



三所神社の下段に駐車スペースがあります。
現在田んぼになっているこの辺りは城域を囲むように沼地になっていました。


土塁

沼地から一段上がった場所に築城されていました。



正面に見える一段高い場所が主郭です。
かつてこの下段が沼地であったことを想像させる光景です。


石碑

三所神社へ向かう道の脇に草に埋もれて何が書いてあるのかわからない石碑があります。



ここに来るまでの道はこのように車1台分の幅しかなくすれ違いも出来ません。
舗装もされていないので軽トラ向きの道です。



こちらも郭?
手持ちの資料が少なすぎて詳細が判りません。


三所神社
ここが主郭にあたる場所です。
藤岡城主一族の守護神として、初代藤岡城主藤岡伊勢守房行が、唐沢宿現宮から勧請し祀ったと伝う。


案内看板

藤岡町観光協会が立てた案内看板です。


三社神社と神明宮
本丸にある三社神社(左)と神明宮(右)です。
神明宮はもともと公民館にあったもので、一旦藤岡神社に移し、その後現在の地に移されました。



この角地にも虎口のような部分があるのですが詳細はわかりません。
後世に付けられた下段から登る近道なのかなあ?



この写真の奥の方で郭を手入れしている方が居ました。
枯れ草刈りをされていたようです。
お会いすることはなかったのですが、見学する側にとってはとても有難いことです。



切られた細竹を見ると私の背の高さほどあったのではなかろうかと思われる長さです。
もう少し早く来ていたら何も見えないような状況だったのでしょうか。


二の郭

二の郭方面を見ています。
青い屋根の建物付近に二の郭と三の郭の堀跡が残っているようですが
そちらから来て、真直ぐ主郭を目指して通過してまったので見逃してしまいました(>_<)


大手側から来るより、下段の沼地側から進入して来る方が無難のようです。
普通車以上は主郭下に車を置いて、堀切の散策をすることをお勧めします。
とにかく資料がなく、案内看板に書いてある以外のことは調べてもあまり多くのことを
得ることが出来ませんでした。
詳しい調査はまだ途中のようでこれから解明されていくといいなという段階のようです。



平成31年3月16日登城



【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
日本城郭協会
学研プラス

古河城(茨城県)

2019年03月27日 | 百名城以外の城
古河城こがじょう
別名古河御陣・古河御所
構造平城
築城者下河辺行平
築城年代平安時代末期
指定史跡-
場所古河市中央町 地図

古河城は、平安末期に築かれた渡良瀬川岸と沼地に囲まれた水城でした。
足利氏の拠点として発展し、近くには古河公方の居城もありました。
現在は本丸は渡良瀬川改修工事により失われ、市街地側に土塁や堀の一部、
建物等がわずかながらに残されています。


駐車場

まずは諏訪郭にある古河歴史博物館にやってきました。
こちらの駐車場をお借りして、博物館の見学と周囲の散策をしました。


古河歴史博物館

博物館の前にやって来ました。
この日は備前刀の展示をやっているとのことで、刀剣には詳しくないのですが
興味はあるので早速特別展示を見に行くことに。


古河城出城諏訪曲輪跡碑

博物館正面には「古河城出城諏訪曲輪跡碑」が立てらていました。



博物館内展示物の撮影は禁止になっています。
ロビーだけは撮影してもいいですよということだったので撮影はここまで。
備前光忠、しかと見させていただきました(^^)v


古河歴史博物館案内図

古河歴史博物館では城の様子がわかるジオラマや古河城に関しての資料も入手できるので
まずはここを訪れて城下で遺構探しをするのがおススメです。


堀跡

出城であった諏訪曲輪を囲う堀の復興、整備がされています。
堀底は…綺麗に公園のように造成されています。


東門

諏訪曲輪の東門にあたる場所には冠木門で表現されています。
ここにあるあずまやでちょっと一休み。


鷹見泉石記念館

歴史博物館の向かいには鷹見泉石記念館があります。
鷹見泉石は、古河藩家老で洋学にとても関心が高く
沢山の資料を集め、重要文化財に指定された資料など展示しています。
そして、武家屋敷は古河城の三階櫓を造った時の残り材を使って
建てられたと伝わります。
他にも二の丸御殿にあったと伝わる石灯籠もあります。


古河城乾門

この門は江戸時代の旧古河城内の二の丸御殿の入口にあった乾門です。
古河城取り壊しの際に檀家が払い下げを受けて寄進したもので、古河城の貴重な遺構です。
※形はかなり改変されています。



本丸跡のある渡良瀬川の河川敷にやってきました。



河川の堤防を登ると古河城本丸跡を示す石碑と案内看板が見えて来ました。


古河城本丸跡

明治43年に行われた渡良瀬川改修工事によって多くの曲輪が失われました。


案内看板

ここには明治3年に撮られた、三の丸から見た三階櫓と菱櫓の古写真を見ることが出来ます。
本当にこの地に城が存在したんだなあと思う反面、想像に至らない景色の
ギャップを感じてしまいます。



かつてはこのような縄張りがされていたのですが、周囲を見渡してみても
この縄張りの景色を今は見ること叶わずです。



古写真のような光景を想像するのは難しい景色が広がります。
しかし、転々と遺構が残っている場所があるので遺構を点と線で繋いで行くのも
おもしろいと思います。


渡良瀬遊水地ヨシ焼き

写真奥に見える煙は「渡良瀬遊水地ヨシ焼き」の日で、こちらに向かってくる途中
空は煙でもうもうとし、灰が降って来て何も知らなかったので何事かと驚きました。



目的地に近付くにつれ、大規模な火災が起きたのかと思ってネットニュースを検索してみたのですが
特に大火災の報道もありませんでした。
道行く人も驚いたふうもなく、散歩やジョギングをしています。
こんな大規模に煙が上がっているのになぜ???
地元の放送が流れ事情が判りホッとしました。
これはこれで偶然ながら凄いものを見させていただきました。
お城とは関係ない話ですが^^;



平成31年3月16日登城



【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
日本城郭協会
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滝の城(埼玉県)

2019年03月25日 | 百名城以外の城
滝の城たきのじょう
別名滝之城・瀧之城・本郷城
構造平山城
築城者大石氏
築城年代不明
指定史跡県指定史跡
場所所沢市城23-1 地図

滝の城は、北条照氏が岩付城と滝山城の間の番城として
領地境目を監視するために築かれたと思われる城郭です。
主郭を中心とする主体部と、外郭と出郭からなる
二つの異なる城造りになっている特徴的な構造の城址です。
天正18年の豊臣秀吉による小田原征伐の祭に落城し、廃城となりました。



城山神社入口です。
二の丸の外にある二重堀と二の丸を横断するように本丸へと続く道です。



入口には案内看板が設置されています。


血の出る松

入口入ってすぐ右手に見える堀切と土塁に「血の出る松」という
とても気になる看板が立っています。


二重堀跡

通路で分断されていますが二重堀が見られます。


二の丸

二の丸跡が駐車場となっています。
神社へ訪れる方も多いでしょうから、郭内に駐車場が設置されています。



二の丸の堀は幅もあり、見事なうねりで見応えあります。


滝の城保存会掲示板

社務所前には滝の城保存会が管理する案内版があり、
城郭パンフレットなど設置されています。


参道

神社の参道を通って本丸へ。


城山神社

本丸には城山神社があります。
恒例の神社へのお参りをして周囲を散策です。


本丸(境内)

城址碑や案内板があります。
そして、ここからの眺めも良いです。


稲荷大明神

ここは櫓台であったのではないかと思われる高台です。


夫婦樫

稲荷大明神の脇にある二本の大木は、家庭円満・縁結び・子授け・安産・子育て・子守
家運隆盛・学業成就・浮気封じ・ボケ封じという御利益があるそうなので
しっかりお参りしておきます!
浮気封じ・ボケ封じというのはちょっと珍しいかな?


四脚門跡

城山神社の裏にまわってみると、こんな重要なものがありました。
本来の本丸への入口はこちらだったんですね。
門跡の先には堀を渡るために引き橋が架けられていたようです。
その橋を渡り、三の丸や馬出方面へと行き来していました。


本丸虎口

ここから本丸の四脚門跡へと橋が架けられていた場所です。
堀は深く、四脚門跡まではこちら側からは見上げるような位置関係です。


馬出

本丸虎口の北側に位置する馬出があります。


三の丸

本丸下の東側は三の丸です。
三の丸では家臣とともに茶の湯を楽しんだと伝わります。


大井戸跡

三の丸の中にある井戸跡。
茶の湯を楽しんだということなので、この井戸を利用して
お茶をたてていたのでしょうね。
しかし、よ~く見てみると蓋に「おすい」と書いてあります?????
井戸なのに汚水???ちょっと謎です。
これでは茶を楽しむというより、厠を想像してしまいます。(水洗のわけないですが)



道の左側の土塁の上が物見櫓跡らしいので行ってみようと思います。
そしてこの道の先右手が東曲輪になっています。


物見櫓跡

先ほどの写真の左手前から入れたようですが、今は立ち入り禁止になっているので
東曲輪の看板の反対側に道があるのでそこから登ってみました。


東曲輪

三の丸の東から下を覗き込んだ時に「何の曲輪?」と思ったところが
この東曲輪だったようです。


外曲輪

右側には堀があります。
背後に障子堀があったようですが、今は民家があって背後からその住人の目が
あったので民家の無い方向を向いてシャッター押しました^_^;



ここも民家の敷地内にある物見櫓跡です。
石碑が立てられていますが入ってみるわけにはいかないので垣根の外(道路)から
撮らせていただきました。


霧吹の井戸跡

この井戸に住む竜がたびたび霧を吐き、悪さをしたと言われていて、
困った村人は柳瀬川対岸に舞台を作ってお祭りをして竜を誘い出し、
弓で射たという伝説が残っています。



「霧吹の井戸」や「血の出る松」など伝説を持つ城址で、縄張りも
メリハリ張りのある興味深い城址です。
全部見ようと思っても、結構見所がいっぱいあるので短時間では全部回りきれませんでした。
滝の跡やら東側に回り込めばまだまだ見て楽しめる場所があったはずです。
1時間以上居たはずですが、時間が足りない!想定外の見応えでした


平成31年3月2日登城


【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
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法音寺城(栃木県)

2019年03月22日 | 百名城以外の城
法音寺城ほうおんじじょう
別名
構造平城
築城者小山氏
築城年代不明
指定史跡
場所下都賀郡野木町友沼 地図

法音寺城の詳細はわかっていません。
小山氏の家臣である菅沼氏により築かれ、小山城の支城と考えられています。
現在土塁と堀が残されていますが、法音寺の裏手から思川にかけてが郭になっています。


駐車場

駐車場はこのほかにもありますが、今回私は墓地側の駐車場をお借りして
散策しました。


仁王門

日光街道(国道4号線)沿いから見えるとても立派な仁王門には
ガラスに入った仁王様がにらみを利かせています。



境内には山門脇に芭蕉の句碑や二十三夜塔・十九夜塔、弘法大師像などがあり、
奥には長屋門があります。


法音寺の芭蕉句碑

「芭蕉翁 道ばたの むくげは馬に 喰われけり」という松尾芭蕉の句碑があります。
元禄二年(1689)3月、芭蕉庵を人に譲り、河合曽良を伴って江戸を出発、奥州北陸へ旅立った。
「曽良旅日記」によると、3月29日の野木を通過して、
小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たということが案内看板に記されています。


山門

まだ新しいと見える山門の奥に本堂が見えます。
建物は改築したのか、古い感じの建物ではありません。


本堂

とりあえずお参りして散策です。
お邪魔しま~す<(_ _)>


土塁

さて、城域は法音寺から背後となる農地と民家がある場所となります。
土塁と堀に囲まれた縄張りになるので現地を見ると、まだその名残、遺構を見る
ことが可能な状態です。


空堀

法音寺の裏に廻ると見られる竹林の中の堀跡です。



この竹林に沿って堀が続いています。
郭側は整地したようで、以前はゲートボール場になっていたようですが
現在は空き地になっているようです。



南側の道路から見える堀です。



思川側には腰郭があり、北の角には物見台があったものと
思われます。


出征軍馬之碑

埋め立てられた堀の続きであったであろう場所にある出征軍馬之碑。
石碑の方が新しいように見えますが、このお宅の塀はしっかり石碑を逃げて施工されています。
日露戦争で没した軍馬の慰霊碑でしょうか。



法音寺が城館だと思って、法音寺を中心に散策をしていたのですが
法音寺の背後から思川に向かって城域だったようです。
道から思川方面を見ると、畑の向こうに土塁らしきものに沿って
垣根のようなものが植わっているのを目にして遺構っぽいなあとカメラを持って眺めていたら、
近所の住民らしき方がゆっくり車で近付いて来たので写真に納めるのを断念しました。
くれぐれも、城跡は法音寺背後から思川方面ですので…お見逃しなく。


平成31年3月16日登城



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大袋城(群馬県)

2019年03月20日 | 百名城以外の城
大袋城おおぶくろじょう
別名立林城・館林城
構造平城
築城者赤井照光
築城年代文明年間
指定史跡
場所館林市花山町大袋 地図

大袋城は館林城を築くまでの赤井氏の居城でした。
城沼に半島状に張り出した造りで本丸と二の丸から構成されています。
享徳の乱の中、長尾景信・太田道灌らの攻撃により赤井文三・文六は降り、廃城となりました。
現在は住宅地となり、土塁や堀が残ると伝わりますが遺構は確認が難しい状態です。



二の丸

本丸方面から二の丸方面を見ています。
この写真の左側の宅地が二の丸になります。


本丸跡

本丸に当たる先端を道なりに回り込み、車で侵入出来る終点までやってきました。
ここに車を置いて周囲を散策してみました。
城沼には釣りをしている人が居ます。



本丸と二の丸の間です。
二の丸の南側は宅地になっていない部分も残ります。
二の丸からは外れた部分なので地盤が緩く宅地に向いていないのでしょうか。


城沼

北側の城沼です。
このような沼が北・東・南を囲っています。


この日は釣りをしている人が多く見受けられました。
きっといつもこんな光景なのでしょう。
蓮沼にもなるみたいなので、訪れる時期を選ぶんだったなあ。


平成31年3月16日登城


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小谷城(栃木県)

2019年03月18日 | 百名城以外の城
小谷城こやじょう
別名
構造平城(館)
築城者小谷三郎俊景
築城年代12世紀末期
指定史跡
場所小山市上生井 地図

小谷城は旧巴波川や旧思川を天然の塞とし、堀・土塁をめぐらした平城でした。
西北面に円形の土塁がありましたが、整地後消滅しして現在郭内は田畑となっています。
築城者は小谷三郎俊景で、後に小山政光が城主となり、居住したと伝えられています。
南北朝時代には、小山一族網戸村重が生井八郎と称し、小山の支城の役割を担っていましたが、
結城合戦に敗れ、奥州に逃れました。
その後、秀綱が再興し、大橋左京亮を城代としましたが、
天正18年小山城落城とともに廃城となりました。



道路から見えたのでそのまま乗り入れて周囲を散策しました。
軽自動車1台分のスペースです。


城祉碑

とても立派な城址碑と看板があります。
縄張図もあればもっとありがたいのですが^^;


神明宮

小山秀綱公が小谷城再興の砌、御祭神として伊勢皇大神宮より勧請奉りました。
とりあえずお参りをしようと思ったら賽銭箱が見当たらず、そのまま
お賽銭を置いて手を合わせて来ました。


裏側

そのまま裏側に抜けられるようになっていたので祠の脇を通過して裏に廻ってみました。
この高まりは土塁なのか?と周囲を見渡したのですが、他に土塁や堀のようなものも
見当たらず、よくわからない。



見渡す限りほぼ平らで、かつてここに城(館)があったことは
まったくと言っていいほど想像が出来ないような長閑な風景が広がっていました。


ほぼ城址は消滅しています。
しかしながら、ここに城(館)があったことを残すために建てられたであろう
城址碑や看板によって、こうして城址を訪ね歩く人が足を運び後世に語り繋いで
行くことと思います。
もし、ここに何もなかったらただ通り過ぎてしまったのかもしれません。


平成31年3月16日登城



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武蔵岡城(埼玉県)

2019年03月14日 | 百名城以外の城
武蔵岡城むさしおかじょう
別名岡の城山
構造丘城
築城者太田氏
築城年代16世紀中頃か
指定史跡県指定重要遺跡
場所朝霞市岡3-30 地図

太田道灌築城と伝わる岡城は、太田氏の居城であったこと以外は
よくわかっていません。
黒目川を真下に舌状大地の先端部に立地する城山です。
戦前には縄文時代の貝塚で貝を採掘して鳥の餌にするなど地元生活に密な土地柄でもあります。
現在は「城山公園」として市民の憩いの場として利用されています。



朝霧城山公園入口(西入口)

こちらが城山通りに面した公園の正面入口となる場所です。


城山公園案内図

ここに案内図があるので位置確認をします。


四の郭

一段登った踊り場のような場所が四の郭になります。
公園と化してその遺構はすっかり姿を変えています。


空堀

三の郭と二の郭の間にある空堀です。
空堀内は「屏風折り」になっていて、直線ではないので堀の先が見通せません。



先ほどの堀の反対側に来ています。
堀の部分は浅くなってはいるものの、その姿は変わらず保存されているようです。


二の郭

あずまやもある広い郭です。
一の郭よりも広く、この城の中で最も規模が大きい造りになっています。



正面奥が西側へ突出する「出隅」となっています。



遊歩道の橋

一の郭と二の郭の堀に架かる橋を一の郭側から見ています。


空堀

一の郭と二の郭を隔てる空堀です。


一の郭

一の郭の東南隅に櫓台跡があります。
城跡についての案内看板はこれひとつしか見られませんでした。
もう少し何かの案内があるといいんだけどなあ。



一の郭から黒目川の駐車場へ向かって下ります。


東入口

下りきると南側は、わんぱく広場になっていて
こちらには公園で元気に遊ぶ子供たちで賑わっていました。


駐車場

黒目川の方に向かうと駐車場があります。
この駐車場からだと一の郭に近いです。


駐車場利用案内

利用可能時間以外の出入りが出来ないようなのでご注意を。



あまり詳しいことがわかっていないだけに、公園内に案内看板は1枚だけ。
それでも城跡であることは認識されているので名残は十分あります。
城山の麓は賑やかで、上部の郭はひっそりとしていますが木もある程度
伐採されているので暗いということもなくのんびり出来ます。
…といいつつ、私は駆け足で一回りしちゃった^^;


平成31年3月2日登城



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三木城(兵庫県)

2019年03月11日 | 百名城以外の城
三木城みきじょう
別名釜山城・別所城
構造平山城
築城者別所則治
築城年代1492年(長享2年)
指定史跡国指定史跡
場所三木市上の丸町 地図

三木城は、別所則治によって築城され、1578年(天正6年)に
織田信長の命により豊臣秀吉が兵糧攻めにした「三木の干殺し」とも呼ばれる
三木城の戦いの主戦場となった場所です。
その際に築かれた付城も周囲に残り、これらの遺跡群は
国史跡に指定されています。



右に行くと別所長治の首塚があるという雲龍寺があります。
ここを左に向かい、三木城本丸を目指します。


駐車場

上の丸保育所前にある駐車場を利用して散策開始!


本丸

天守台と土塁が残る本丸は現在は公園になっています。


別所長治公像

別所長治は、13歳から当主となり織田信長と同盟関係にあったが
毛利氏の味方をしたために信長の家臣である羽柴秀吉に攻められ、
三木合戦が始まり、秀吉軍に包囲され兵糧攻めに遭い、飢えに苦しむ家臣や領民のために
自分の命と引き換えに23歳という若さで自害しました。
この銅像はそんな別所長治公の武者姿をイメージして制作されたものです。


天守台

天守台の入り口です。
ここを登れば秀吉の本陣がある平井山が一望出来ます。


辞世之碑

今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば
自分の命と引き換えに自害した城主長治の辞世の句です。
この時代の死様を考えさせられる句です。
なんとも切ない…。


別所家一族の辞世

長治が自害する際、一族も自害しています。
長治弟友之「命をもおしまざりけり梓弓すゑの世までも名の残れとて
長治妻「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ後れ先だつならひなる世に
友之の妻「たのめこし後の世までに翅をもならぶる鳥のちぎりなりけり
長治の叔父賀相の妻「のちの世の道も迷はじ思い子を連れて出でぬる行く末の空
家老三宅肥前守治忠「君なくばうき身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも
私も今から辞世の句を考えておこうかなあ。
たぶん後世に伝わるようなことは絶対に無いと思うけど^^;


眺望

城下の様子も一望出来ます。
当時の城主もここから城下を見下ろしていたのでしょう。



秀吉が本陣を置いた平井山ノ上付城跡を望むことが出来ます。


三木合戦図

この24枚の三木合戦絵巻は、毎年法界寺で絵時が行われています。


案内看板

平成25年3月、領主の居城と攻城側の付城が一体的に残る貴重な事例として、
三木城の本丸・二の丸・鷹尾山城跡が、平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)などの付城跡とともに
国の史跡に指定されました。


三木城包囲の秀吉軍武将配置図

これだけの武将に包囲されていたのではお手上げですね。


四百年祭記念碑

別所長治公四百年祭にあたり、思いを新たに遺徳を顕彰し
冥福を祈って建てられた記念碑です。


本丸井戸(かんかん井戸)

石を投げ込むと「カンカン」と音がすることからかんかん井戸と呼ばれています。
この井戸からは別所氏愛用の鐙が出土していて、雲龍寺に保存されています。


忠魂碑



稲荷神社

別所治定奮戦図と三木城復元図が掲げられています。
神社周辺には沢山の鳥居と石碑があります。


金物神社

日本で最初の金物のまちと言われる三木市ですが、
秀吉は三木城合戦で焼失した社寺や町並みを復興させるために、
免租の制礼を立てて復興の政策を実施しました。
町の復興のために大工職人が集まり、鍛冶職人の数を増やし栄えて行きました。


古式鍛錬場

ここでは、製造業者がふいごを使った古式ゆかしく金物を鍛える
古式鍛錬の公開実演を実施しています。
時間があれば、「三木市立金物資料館」へ寄って、大工道具を見てみたかったなあ。


三木市立みき歴史資料館

三木城二の丸跡に位置しています。
旧三木市立図書館を改装し、みき歴史資料館として平成28年に開館しました。
閉館直前だったのですが、お願いして入れてもらえました。


具足

入ってすぐに展示されている具足。


付城跡パネル

周辺に残る付城跡のパネルが掲げられています。


三木城包囲図

このように多くの付城で周囲を囲まれ、食糧の補給も断たれ
城内では飢えによって、ありとあらゆるものを食べ尽くされ、雑草や馬、人間までも
食されていったが、飢えによって衰弱した兵も7千から3千にまで減っていました。


竹中半兵衛ゆかりの史跡

秀吉の軍師、竹中半兵衛は三木の陣中で病死しています。
また、墓所は三木平井観光山ぶどう園の中にあります。


模型

上から撮ろうと思ったら反射してしまうので、横から撮ってみました。
これではいまいちわかりずらいので、実際来てみて下さい^^;
でも、正面に見える柱にあるテレビに流されているビデオが
なかなか見入ってしまうものなので、三木城跡に来たらぜひ立ち寄ってみてください。


二の丸遺跡案内看板

二の丸跡からは、ほぼ空になった備前焼の大甕が見つかっています。
大甕の底にはわずかに残った麦粒が発見されていて食糧庫として使われていたことが
想像できます。
しかし、食糧は極わずかで兵糧攻めによって食糧は尽きていたことがここからも窺い知れます。


遠望



姫路城への帰り道に思い立って寄ってみました。
付城まではとても足を延ばせそうにない状況でしたが、歴史資料館で見れば見るほど
全部廻ってみたくなりました。
機会があれば秀吉の陣跡と半兵衛の墓所には行ってみたいですね。


【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
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学研プラス



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス

明石城(兵庫県)

2019年03月06日 |  百名城
明石城あかしじょう
別名喜春城・錦江城
構造平山城
築城者小笠原忠真
築城年代1619年(元和5年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所明石市明石公園1-27 地図
スタンプ設置場所明石公園サービスセンター受付窓口
城郭検定出題あり

元和3年に松本城主だった小笠原氏が明石に入封しました。
徳川秀忠の命により一国一城令により廃城となった周囲の城から用材を用いて
大阪の防衛のために新しく明石に城を築城したのが明石城です。
しかし、本丸には大きな天守台が築かれるも、天守が建てられることはありませんでした。


駐車場

ここに着いた時にはもう日が暮れる寸前で急いで散策!
ちなみに、写真は最後に撮ったので日没後です。


before

木の伐採前の様子(4年前)です。


after

そして、今回今年で築城400年を迎えたことで樹木の伐採や剪定をしたということで
一目見てみようと急遽寄り道しました。
4年前と比較するとこんな感じです。上の写真とほぼ同じ位置からの撮影です。
石垣がまる見えになっているのがわかります。



伐採された木が置いてありました。



正面の高石垣が天守台です。


天守台高石垣

明るい時にもう一度見たかったなあ。
とても立派な天守台の石垣です。



4年前は青々とした木々が写り込んでいます。



下から見上げた坤櫓。
現在残る二つの櫓の他に当時は乾櫓と艮櫓もあり、本丸の櫓は全部で4基ありました。



切って間もない木はまだ道の端に寄せてありました。
ここに来るまでの間に稲荷曲輪を抜けて来たのですが、写真はすべてピンボケ。
やっぱり夕方から夜にかけての撮影は苦手です。


本丸虎口

本丸の虎口は東西各1ヶ所にあり、ここは西側の虎口です。


天守台

天守台は熊本城天守と同規模だそうです。
ここまで来たらもう暗いです(>_<)
しかし、オレンジ色の空と街の明かりのコントラストがとてもステキでした



入母屋破風の妻壁は朱色に塗られた木連格子で華麗な外観です。
他ではあまり見たことが無いです。
※昼間の写真は4年前のものです。


坤櫓

この日はガイドさんの説明を聞きながら坤櫓の内部の見学をしました。
ガイドさんから坤櫓は伏見城からの移築と伺いました。
二つの櫓は、三木城、高砂城、船上城、枝吉城など
一国一城令によって廃城にった城の資材で造られています。



明石城には、天守台はあるものの天守は築かれていないので
天守代用として坤櫓が使われました。


坤櫓内部

内部見学 坤櫓:3月・5月・9月・11月/巽櫓:4月・10月と
時期によって見られる櫓が変わるので両方の櫓内部を見学するには
時期を変えて行くしかないのですが…
遠いので巽櫓の内部が見られるのはいつになるのかなあ。



用材は松の木が主に使われています。
見られるのは1階のみで二階、三階には上ることはできない。
中ではガイドさんが阪神淡路大震災の話など、いろいろ説明してくれました。


本丸

日が沈み、薄暗い中はしゃぐ若者たちが本丸に居ました。
暗くても全然さみしい感じがありませんでした。
ちなみに暗いと言っても健全にボール遊びに盛り上がっているようだったのでホッ。
むしろカメラを持った私の方があやしいかも^^;


巽櫓

高さは坤櫓とほぼ一緒ですが少しスリムな造りになっているので
やや細身に出来ています。
そしてこちらの破風には朱色の格子は無く、シンプルに見えます。
ガイドさんの話によると、巽櫓は船上城からの移築と伝わります。
明石海峡大橋も観られて眺めも良し!夜景もなかなかよろしいもので。


本丸虎口

東側の本丸虎口です。
いよいよ足元が見えずらいほどの暗さになって来ました。



反対側から見ても、もう暗くて見えなくなって来ています。
そろそろ限界かな。


二の丸

街灯のある場所は少々明るいのでなんとか撮影可という感じ。



カメラとスマホを駆使して撮影してみたのですが
見られる写真はほんのわずかでした。



暗いけど、これはこれで良い景色でしたよ
巽櫓・坤櫓は日本に12基しかない現存三重櫓で、
巽櫓は、船上城の天守であった可能性もあるそうです。
但し、最初に建てられたものは焼失してしまい、現在のものは再建されたものです。
やっぱりこっちも中が見てみたいですね。





東の丸石垣

城内には20基の櫓、27棟の城門、石垣と土塀、帯郭と堀で強固な備えでした。


東の丸虎口

枡形門や枡形虎口が東西南方向に配置されています。


武蔵の庭園

山里曲輪には宮本武蔵が作庭した樹木屋敷がありました。
御茶屋や鞠の懸り、築山・泉水・滝などがあったと伝わります。
明石の城下町の町割りは宮本武蔵が行ったと伝わるのですが
宮本武蔵をそんなに知ってるわけではないのでイメージ的にちょっと想定外でした。


攻城団のガイドブックとクリアファイル

明石城築城400年を記念して造られた「明石城完全攻城ガイド」は1冊100円(税込)で
売られていますが、とても100円とは思えない内容とクオリティです。
他にも攻城団のご当地缶バッチも売っています。(ここでしか買えない)


マンガでわかる明石城

明石城完全攻城ガイド」の中にある大久保ヤマト先生の描いたマンガは
歴史が苦手、難しいという方にも入りやすく判りやすいです。
これを入り口にぜひ明石城のことを知ってもらえるといいですね



ちょっと視点が違うのかもしれませんが、大久保先生はお城や甲冑の描き方がきっちりしていて
私はそこがとても気に入っています。
人物ばかりに力を入れがちですが、構図がしっかりしていて細かいところも拘っているので
歪んで見えるところがなく、お城や甲冑がとても綺麗に見えます。


以前は、木々が生い茂る公園でも頭の上から虫がぶら~んと降りて来るので「ぎゃっ!!」と驚くいた
のですが、木々が伐採されてすっきりしたので夏場でも歩きやすくなったのではないでしょうか。
元長野県民としては小笠原氏が松本から明石まで来て築城したことを考えると
とても親しみ深いです。
車を使ってここまで8時間弱、いつも思うのですがこの距離感は昔の人の移動の能力って
すごいなあって感じます。

2月11日に行われた「明石・お城フェスティバル」の時に来たかったなあ。


平成27年5月3日登城
平成31年2月24日登城


【公式】日本城郭検定過去問題集―2級・3級・4級編―
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス


後期高田氏館(群馬県)

2019年03月04日 | 陣屋・館
後期高田氏館こうきたかだしやかた
別名陽雲寺
構造
築城者高田氏
築城年代1449年~1459年(宝徳~長禄)頃か
指定史跡
場所富岡市妙義町菅原29  地図

高田憲頼公を弔うために開基したと云われる寺院です。
高田氏は鎌倉時代に源頼朝の御家人として仕えていました。
妙義を本拠として菅原城、高田城と築いたのち武田軍の侵攻により
上杉氏から武田氏に降っています。
陽雲寺の裏には高田氏の累代の墓があります。


陽雲寺参道入口

県道51号線から案内看板に従って進むと陽雲寺参道入口の石碑が見えて来ます。


参道

まっすぐ続く参道。
陽雲寺の背後には妙義山が聳えています。
参道の両側には段々となった郭があり、ここも既に城域であることがわかります。



本堂が見えて来ました。
この写真の右側に駐車場があります。


駐車場

こちらの駐車場を拝借して散策開始です。


本堂

立派な本堂の中では法要が執り行われているようで
中から御経が聞こえて来ます。


梵鐘











ここはかつて堀であったとされる場所で
現在も水が流れる場所であり名残を感じられる場所です。



この先の右手に入って行くと高田氏の墓所があります。


高田候墓所

堀を渡り右手奥に高田氏の墓所があります。



墓地を囲むように堀が巡っています。



再び、参道の方へ戻ってきました。
参道の両脇には段状に郭があり、土塁を見ることが出来ます。








石垣

石垣も見られます。
しかし、この石垣は後世に造られた農地用に築かれた石垣のようにも思えます。
というのも、妙義や下仁田はちょっと見渡すだけでも古い石垣が段状になっていくつも
築かれているのを目にします。
街道や屋敷などに多く石垣が使われていたようです。



それではそろそろこの辺で散策終了と致します。


妙義スカイパーク

ここからパラグライダーが飛んでいるのが見えました。


Twitterのフォロワーさんや箕輪城でこちらの陽雲寺の話を伺い
訪れてみました。
攻城泣かせの菅原城を語るには高田氏のルーツとしてこの陽雲寺は重要な地です。
そのことを教えていただける方が周囲に居ることはとてもありがたいことです。
近いといえど用でも無ければここに足を運ぶことは無かったかも。
お寺に用があると言っても…あまり良いことで呼ばれることはないでしょうし。

でも、高田氏を調べていたら行き着く場所ではあったのかもしれませんが
きっと、もっと後のことになっていたことでしょう。。。


平成31年2月9日登城


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公益財団法人 日本城郭協会
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城 カフス c0143
カフス専門店 CUFF
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渋谷城(東京都)

2019年03月01日 | 百名城以外の城
渋谷城しぶやじょう
別名金王丸城
構造平山城
築城者渋谷重家
築城年代平安時代末期
指定史跡
場所渋谷区渋谷3-5 地図

金王八幡宮は渋谷城内にあり、春日局と青山伯耆守忠俊が家光将軍決定の御礼として社殿を建立しました。
河崎基家の子、重家は堀河帝より渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の発祥とされています。
渋谷金王丸常光は渋谷平三重家の子で、源義朝に従って1156年の保元の乱で大功を立て、
金王丸の名を後世に残すべしとし、金王八幡宮とされています。


神門(赤門)

建立年代は、「地子古跡寺社帳」による1769年(明和6年)と、
門の額裏面の1801年(享和元年)の刻銘があり、
丹波篠山藩青山忠裕より150両の寄進があり修理が行われていることから
1801年より前に建立されていたことは間違いないと思われます。


御嶽神社

御嶽神社は、開運と商売繁昌の神として、客商売を営む人々の信仰を集めています。
また、古来より武道守護の神として武士の信仰を集め、 渋谷氏の居城であったこの地に祀られました。
ちなみに、社前の狛犬一対と西参道の鳥居はかつて実践女子学園の校内にあった
「香雪神社」のものを移設したものです。
私も商売繁盛!しっかりお願いしてきました


玉造稲荷社

玉造稲荷神社が創建された江戸中期には、渋谷も農家が多く稲作や茶畑も広がっていました。
国道246号の宮益坂には町屋が並び商業が盛んでした。
天照皇大神のお食事を司る神として祀られています。



うろうろと渋谷駅から渋谷城跡を探し歩いて疲れたのでちょっと休憩。
(知ってる人なら徒歩5分程度ですが、私は多分3倍くらいかかって到着)
日差しがあったのでちょっと暖かです。


社殿

社殿は、1612年(慶長17年)の建立です。
家光の乳母の春日局と守役の青山伯耆守忠俊が徳川家光を三代将軍にと、金王八幡宮に祈願しました。
それが成就したお礼として春日局と青山伯耆守忠俊が社殿を奉納しました。


砦の石

渋谷城は、鎌倉街道沿いにあり、1524年(大永4年)1月13日に起きた、
北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦で、渋谷氏が交戦中だった北条軍の別動隊により
襲われ焼き払われてしまいました。
境内にあるこの渋谷城砦の石だけが渋谷城の遺物です。


金王桜

金王桜は長州緋桜という種類で、1189年(文治5年)源頼朝が藤原泰衡退治の下向の際、
渋谷高重の館に立ち寄り、神社に太刀を奉納しました。
その際金王丸御影堂へ参り、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植、「金王桜」と名付け
江戸三名桜の一つに数えられていて、代々実生より育て植え継がれられています。


芭蕉の句

しばらくは 花のうえなる 月夜かな
この句碑は、1691年(元禄4年)芭蕉48歳の時のものです。
1817年(文化14年)に、蕉門十哲の1人であった太白堂門人山奴社中が建立しました。


金王丸御影堂

金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。



この神社、前を通るたびに道路から神社に向かって一礼してるのを
見かけました。(地元の方かしら?)
この信仰ぶりはこれは現代なのか?と驚きました。


鎌倉道

ここは、道に迷って偶然訪れた場所です。
北条軍が江戸へ攻め登る際に戦火で渋谷城が焼けてしったことが記されています。
迷子になったものの収穫ある看板に出会いました(^^)v


この日は攻城団の「城がたり」に参加するため渋谷駅から青山のふくい南青山291へ
向かう途中?に渋谷城に寄ったのですが、余裕があったはずなのに、渋谷城を出て
青山に向かっていたはずが、まったく逆に向かって歩いていました。
並木橋の交差点でみつけた鎌倉道の案内看板で立ち止まったことで気が付いたのですが
この看板を見つけなかったら、私はどこをさまよっていたことでしょう…。
もちろん、スマホ片手に歩いているのですが真の方向音痴とはこんなもんです。^_^;
おかげでお昼を食べる時間もなくなり、途中の路地で🍙をかじり、遅刻することは
無かったものの、帰りの電車に乗る時も渋谷駅周辺でうろうろすることになり、
ギリギリで目的の電車に乗るという迷子ぶり、やっぱり一人って大変ですね。
普段ひとりで登城する人の方が多いと思うのですが、凄いなあと思ってしまいます。


平成31年2月17日登城


古地図とめぐる東京歴史探訪 (SB新書)
荻窪 圭
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