むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

豊田城(茨城県)

2017年08月30日 | 百名城以外の城
豊田城とよだじょう
別名
構造平城
築城者豊田善幹
築城年代1346年(正平元年)
指定史跡
場所結城郡石下町本豊田 地図

平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した桓武平氏一族の豊田氏が、
東部に流れる小貝川べりに城を築きました。
遠くからも見える7階建ての豊田城(常総市地域交流センター)は、
あくまでもこちらは模擬天守であり、城内は展示物や市民の交流の場になっています。



縄張図



駐車場

駐車場というほどの規模ではなく、ちょっと車を停められる程度です。
ここに車を寄せて周囲を散策しました。


上善若水

「上善若水」で思い浮かぶのは日本酒
川の一里塚とありますがこのあたりの水が良く、日本酒造りに適していると
この碑が表していると勝手に読み解く。
この後行く豊田城の展示室に醸造の展示があったのでやっぱりかと勝手に納得。


眺望

民家の間から立派な模擬天守が見えます。
もっとしょぼいのかと思っていたのでこれにはびっくりです^^;


模擬櫓

豊田城周辺にいくつか見られる模擬櫓。
シャッターが付いている櫓のような倉庫?には山車でも
入っているのでしょうか。
とても気になっていたので域交流センターで聞いてみようと思っていたのですが
ついうっかり聞きそびれてしまいました。


常総市地域交流センター

ものすごく立派なお城があります。
この地域交流センターは、別称を「豊田城」といいます。
平成29年4月29日にリニューアルオープンして9月いっぱいまで
無料で観覧できるとあったのでこの機会に!と思い、やって来ました。
受付の方の話によると無料で観覧できる時期が延長となり来年3月いっぱいまで
という話も聞きました。


玄関

玄関を入ったロビーの上を見上げると、西陣織を一枚で描いたという立派な絵が飾られていますが
下を見て歩いているせいか、頭上にそのようなものがあるとは受付で案内されるまでは
気付きませんでした。
あまり気付いてもらえないと言ってましたがとてもお金と技術のかかった逸品なので
ぜひ、上を向いて歩いてみてみて下さい。


眺望

7階の展望室からは筑波山が良く見えるはずですが…曇っていて見えません。
条件が良ければ富士山も見えるそうですがこの日は筑波山すら見えない天気でした。


失礼ながら豊田城ってもっとしょぼい櫓かハリボテ程度の模擬天守があるところだと
思い込んでいたのですが、実際現地に行ってみてびっくりしました。
こんな大きな模擬天守だったなんて、遠くから見えた時には「うそ~!」と叫んで
しまいました。
域交流センターの受付の方(男性)は一生懸命周辺の見所をパンフレットの地図で
説明してくれました。
ぜひ、声を掛けてどこに行くとどんなものが見られるのかや
歴史についての話を尋ねるといっぱい教えてもらえるのでそれから散策することを
お勧めします。
たぶん全部回っていたら一日かかるほど、たくさんの「なるほど~」
という場所を教えてくれますよ。


平成29年8月12日登城


白瀧酒造 月見酒の上善如水 純米大吟醸 瓶 箱入 500ml
クリエーター情報なし
白瀧酒造

私がイメージしてたのは新潟のお酒でした^^;

大宝城(茨城県)

2017年08月28日 | 百名城以外の城
大宝城たいほうじょう
別名
構造平城
築城者下妻長政
築城年代1232年(貞永元年)
指定史跡国指定史跡
場所下妻市大宝667 地図


1341年(暦応4年)北畠親房が小田城から関城に入り春日顕時が興良親王を奉じて大宝城に入り、
以後東国における南朝方の拠点となりました。
後に、高師冬を総指揮とする北朝軍の猛攻を受けることになり1342年(康永元年)、
激しい攻防戦が繰り返され親房は白河の結城親朝に書状を送って来援を促すも援軍は来ず、
1343年(康永2年)攻防はますます激しくなり、関・大宝両城は頼みとしていた
白河の結城親朝が北朝方に下ったことや、結城直朝・関宗祐・宗政らが討死にしたことにより
11月11日に関城が落ちると、続いて12日には大宝城も落城しました。


大宝駅

趣のある駅が見えてきた。


土塁

参道に入ると、宝八幡神社周囲に巡る土塁が見ることが出来ます。


大宝八幡神社参道
鳥居前後のお店の客引きが激しくゆっくり観て歩く雰囲気になれずとても不快な思いをしました。
商売熱心も良いがほどほどにしてほしい


随身門
昭和天皇御座位六十年を記念して建立された神門です。


お招霊木(おがたまのき)

現在の神事は榊を用いますが、古来は招霊木を用いていました。
1円玉の表のデザインに使われているのが、この「招霊木」だそうです。


なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃとは「何というものか」という意味で、名前のわからない見なれない木のことを
なんじゃもんじゃの木と呼んでいるらしい。


神楽殿
神楽殿は神社の境内に設けて神楽を奏する殿舎をいいます。
天照大御神が天の岩戸にお隠れになったとき、八百万の神々が岩戸の前に集まって踊りを舞い、
天照大御神のお出ましを願ったという神話が起源といわれます。


さざれ石

この石は国歌発祥の地といわれる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったものです。
なぜここに?


大宝八幡神社拝殿

本殿の建物は1577年(天正5年)、下妻城主多賀谷尊経(重経)が再建されたものです。
屋根はもともと萱葺だったのですが、昭和40年に銅板に替えられました。
天正年代の貴重な建物として、国の重要文化財に指定されています。
かつて大宝八幡宮の境内には8つもの寺院(大宝八ヶ寺)があったそうです。


蝉鐘楼

この鐘は1573年(天正元年)9月に多賀谷氏が戦利品として持ち帰り奉納したものと伝わります。
屋根の右の角瓦に蝉が乗っています。
これは永久の防火・火災難除の祈りをこめたものだそうです。


ご神木 お乳銀杏

この木のお乳の処に触れると母乳の出が良くなるらしい。


太湖石

中国にある大きな湖で見られる穴の多い奇石。
鑑賞用にここに置いたようです。


城祉の紹介というよりは神社の紹介のようになってしまいました。
これはなんんだ?と注目したくなるものがいろいろある神社ですが
なぜここに?と思う物も多く商売熱心な神社というイメージが強く残りました。
(神社さん、勝手なイメージ付けてごめんなさい。)
と、いうわけでこの勢いにあやかろうと商売繁盛を祈願して来ました。


平成29年8月12日登城


NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」 緊急特盤 鶴のうた
クリエーター情報なし
Sony Music Labels Inc.

下館城(茨城県)

2017年08月25日 | 百名城以外の城
下館城しもだてじょう
別名螺城・法螺貝城
構造平城
築城者水谷勝氏
築城年代1478年(文明10年)
指定史跡市指定史跡
場所筑西市本城町 地図

藤原秀郷が平将門追討のために築いた三館(上館・中館・下館)のうち下館にあたるという。
平城で濠を三重に巡らし、別名「螺城」または「法螺貝城」とも呼ばれていました。



八幡神社

ここが下館城の本丸にあたる場所です。


案内看板

八幡神社入口に案内看板が立てらています。


縄張図

かつては広い敷地に下館城jの城郭がありましたが、現在は宅地化されて
ほとんどの遺構は残念ながら見ることが出来ません。


渋谷伊予作顕彰碑

国士である渋谷伊予作の顕彰碑があります。
渋谷伊予作は下館藩士の家に生まれたが下館藩を脱藩し、尊王攘夷運動の先駆けとなった人物です。



顕彰碑脇には説明板があります。
小田原藩の二宮尊徳を招き藩の財政改革に取り組んだ時にも
父の渋谷利左衛門が要職であったことなども記されています。


八幡神社本殿

本殿裏は崖になっています。


西出丸

水道配水場のある下館児童公園が西出丸にあたる場所になります。


八幡神社が本丸、お隣の下館小学校が二の丸となっていますが、本丸以外は宅地などの事情により
遺構を見られる場所はあまりないので西ノ丸まで駆け足で散策に行き、引き返して来ました。
八幡神社と小学校の間の道を下る(堀切跡)と、五行川に出るのでそこから本丸を見上げると
なんとなく、要害の城かなという感じを見受けられました。


平成29年8月12日登城


今回の参考書物紹介
改訂版 図説 茨城の城郭
クリエーター情報なし
国書刊行会

定価:本体2800円+税

関城(茨城県)

2017年08月24日 | 百名城以外の城
関城せきじょう
別名
構造平城
築城者関朝泰
築城年代1192年(建久3年)
指定史跡国指定史跡
場所筑西市関舘 地図

天然の要害地とした城郭で、市の南端にあり、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれています。
北部は台地続きで数重の土塁と大宝沼に通じる堀割をめぐらせた城郭が築かれていました。
結城家の領地の一部を相続した四男朝泰が、関氏を名乗り居城として築いたもので、
2年間にわたる北朝方の高師冬率いる大軍と攻防の末、ついに関父子は自刃し関城は落城しました。



案内看板

説明板があります。


伝 関宗祐墓(宝篋印塔)

関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
1343年(興国4年)11月11日、関城は大宝城とともについに落城し、
今では、落城の日を命日として墓前祭が行われています。


墓所内

明治3年建立の城祉碑があります。


土塁

土塁の上には社があります。
周辺には土塁や堀跡が残ります。





北向き地蔵尊

関宗祐父子の墓の道路の反対側にはお地蔵さまや社があったりします。



この向こうは下段との落差があります。
下の小道からは堀跡などが見ることが出来ます。
樹木が無ければ川の方まで見渡すことが出来たことでしょう。



下調べが足りず、坑道跡を見逃して来てしまいました。
なんとも悔しい。
もともと土浦城を目指して訪れたのでここまで来たならと急遽数ヶ所城跡に訪れたので、
「ここ、堀っぽいなあ」と言いつつ写真を撮らずに通り過ぎて来てしまったり、失敗をしてしまいました。
日頃とっさの訪問にもすぐに調べられる体制を考えておかないとダメですね^^;


平成29年8月12日登城


LEDソーラーライト REAK ソーラー充電式LEDセンサーライト 六つのLED電球内臓 和風ライト 光センサーライト 玄関ライト 屋外照明/軒先/壁掛け/庭先/玄関周りなど対応 屋外仕様 防水夜間自動点灯 (2個, 暖色)
クリエーター情報なし
REAK

久下田城(茨城県)

2017年08月23日 | 百名城以外の城
久下田城くげたじょう
別名上館・元館
構造平山城
築城者水谷正村
築城年代1545年(天文14年)
指定史跡県指定史跡
場所筑西市樋口 地図


藤原秀郷が平清盛追討のために築いた三館(上館・中館・下館)のうち上館にあたると伝わります。
戦国時代中期には宇都宮勢の来襲に備え下館城主水谷氏が上館跡に新たに城を築きました。

二の丸跡が公園となっておりいますが現在はほとんど利用する人はいないようです。
二の丸の公園をを囲むように二つの曲輪が残るり、空堀、土塁のほか、
現在、用水路となっている水堀などの遺構が残されています。


案内看板

県道216号線から久下田城祉の標柱が見えるのでそこから本丸方面へ進入して行きます。
畑が広がる二の丸の細い道を進み、本丸虎口から本丸に入るとすぐに
案内看板があります。


本丸

この先本丸奥へと道が続いています。
…が、写真は例によって明るく撮影されてますが、夕方4時です。
夏なので日は長いとはいえ、現地では道の先を見ると木々がうっそうとしていて
独りで入って行くのをためらってしまいました。

まったく人気もなく薄暗くてクモの巣にひっかかってしまったところで
先へ進む気力が失せてしまいました。
ここで時間を割くより残された時間を他に回すことを考え、またの機会に。。。。
ということで入口だけ覗いて久下田城を後にしましたとさ。



平成29年8月12日登城



今回の参考書物紹介
改訂版 図説 茨城の城郭
クリエーター情報なし
国書刊行会

定価:本体2800円+税

壬生城(栃木県)

2017年08月22日 | 百名城以外の城
壬生城みぶじょう
別名馬蹄城
構造平城
築城者壬生綱重
築城年代1469~86年(文明年間)
指定史跡
場所下都賀郡壬生町本丸1 地図
御城印壬生町観光協会事務局・道の駅みぶ

1462年(寛正3年)、下野国に来た壬生胤業がこの地に居館を構えました。
その後室町時代半ば壬生綱重によって壬生城が築城されたとされています。
江戸時代の記録によると壬生城は6つの郭から構成されており、土塁と堀で囲まれていました。
天守や櫓といった建物は建てられおらず、本丸には御殿があり江戸時代には
将軍の日光社参の宿舎として使われていました。


二の丸門(復元)

二の丸門を模して復元されました。
高麗門です。


天井石

吾妻古墳は国指定の前方後円墳で、玄室の天井とされていた巨石です。


土橋跡

土塁も奇麗に芝生が植えられています。


外堀

以前は空堀だったらしい。
ちょっと奇麗に変身しすぎな感じもします^^;


壬生領榜示杭(石標)

江戸時代に領地の境界のしるしに立てらた石や木の柱のことです。
中村家から南側が壬生領であることを示しています。


玄門石

「玄門石」は石室の中を仕切る門で死者を葬る「玄室」と装飾品を置く「前室」との間の門です。


中央公民館

大・中ホールがあってコンサートなども行われています。



公園にはポケモンを求めて10代の若い子たちが大勢集まっていました。


駐車場

二の丸門の隣に無料の駐車場があります。


御用水通り

江戸時代に検地の際、壬生城内の防火用水と田んぼへ水を引き入れるために
造られた用水路です。


冬は防火用、夏は農耕にと水車を設け住民の日常生活に大いに貢献していました。



公園としてきれいに整備されていて図書館や中央公民館(城祉公園ホール)、歴史民俗資料館が
あって市民にとっては随分と利用価値のある公園のように見受けられました。
外には子供たちが集まって遊んでいたり、図書館には小さな子供から大人まで利用客が
多く、充実した公園なんだなあという印象を持ちました。
遺構としては古めかしいところのイメージが湧かない現代的な公園に見えて
私の求めていたイメージとは違っていましたが人がいっぱい集まる史跡としては
賑やかな町だなあと感じました。


平成29年8月12日登城


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬
クリエーター情報なし
吉川弘文館

多賀谷城(茨城県)

2017年08月21日 | 百名城以外の城
多賀谷城たがやじょう
別名下妻城
構造平城
築城者多賀谷氏家 
築城年代462年(寛正3年)
指定史跡市指定史跡
場所下妻市本城町2 地図


現代では「多賀谷城」と呼ばれていますが、戦国時代の多賀谷城は「下妻城」と呼ばれていました。
かつてこの地は沼地が多く、下妻城は大宝沼と広砂沼に挟まれた島状の水城でした。
現在は主郭部分は多賀谷城祉公園となって市民の憩いの場になっています。


平和塔

公園によくある戦時中に亡くなられた方々の慰霊塔のようです。


本丸

公園のあるこの辺りが本丸とされ、本丸を中心に広大な土地を有していましたが
今はその遺構はここではほとんど見ることができません。


案内看板

公園内に立てられた案内看板。


多賀谷氏遺跡碑

高まりの上に立つ多賀谷氏遺跡碑。
土塁のようにも見えるこの辺りの高まりは、どうやら公園整備で造られたもので
遺構ではないという。


蔵屋敷跡

縄張り図を参考にするとこちら側が蔵屋敷跡と呼ばれる場所だったようです。





多賀谷城祉公園(本丸)には遺構と思われるものはほとんど残っておらず、遺構探しをするには
市内のあちこち(広い)の土塁や伝承の遺物を探し回るこことなります。
今回も急ぎ足で数多くの城祉を巡り歩くため、本丸のみの訪問となりあまりおもしろみのある
記事にはなりませんでした。




平成29年8月12日登城


 おぼえておこう!

今回の参考書物紹介
改訂版 図説 茨城の城郭
クリエーター情報なし
国書刊行会

定価:本体2800円+税

一夜の城(長野県)

2017年08月19日 | 百名城以外の城
一夜の城いちやのじょう
別名一夜城
構造平城
築城者織田信忠
築城年代1582年(天正10年)
指定史跡
場所伊那市富県貝沼4542 地図


1582年(天正10年)に織田信長の長男信忠による武田軍の高遠城攻めで一夜にして築かれ、
陣を構えたと伝承があります。
一夜の城は「織田軍の兵士がこの辺りの農民の道具を借りて一晩のうちに築いた城」と伝えられていますが、
近年の発掘調査により3方に堀があったことが分かり、一夜で築くのは難しいことが判明しました。
この織田軍高遠攻めでは武田信玄の五男、仁科五郎盛信が最後まで抗戦、討ち死にしました。


虎口

虎口にある一夜城の標柱は文字が消えてしまっていてただの白い柱になっています。


土塁

虎口から向って左側を見ています。
虎口から入るとほぼ四角の箱型をした郭が今でも確認できます。
当時は今より約1mほど高かったようです。


土塁と堀跡

発掘により土塁の外側には幅約6m、深さ約2mの堀も発見されています。
したがって、この道路もかつては堀だった場所です。



虎口から向って右側を見ています。
こちらの土塁は途切れてしまっています。
地主さんの話によると田んぼを作るために近所に土を分けてあげたとのことです。
地主さんがこの土地を譲り受けた当時は遺構を残すことよりも
自分たちが生きていく術として田畑にすることの方が重要だったそうです。


虎口石垣

石垣が良好な状態で残っています。


宮ノ花八幡社

こちらの神社の地形も防御の一部であったと考えられています。


本殿


地元の方々曰く、
織田軍は一夜の城を築くために近所から道具を奪って行ったそうですが
後日道具をすべて洗って返却されたようです。
この地域の人々にひどいことをしたという話は伝わっていないところをみると
信忠は後のことを考えて手荒なことはしなかったようです。


一夜の城の話からそれますが、
仁科盛信の妹「松姫」は信忠のいいなづけで、本来は盛信とは戦をしたくなかったという話も聞きました。
信忠と松姫の婚約は破談となりますがその後も二人は文を交わし合い、とても仲が良かったようです。

武田家滅亡後八王子に落ちのびていた松姫のもとに信忠からもういちど
娶りたいと迎えが来て松姫は信忠のもとへ向うのですが、その途中本能寺の変が勃発し、
父信長とともに信忠も明智光秀に討たれてしまいました。

松姫はその後誰とも結婚することなく尼になり、後の保科正之公の養育係を勤めたそうです。

なんて運の無い話というか、せつない話でしょう。
このような伝承もここ一夜の城では語り継がれています。

平成29年8月15日登城



高遠藩 (シリーズ藩物語)
クリエーター情報なし
現代書館

伊佐城(茨城県)

2017年08月18日 | 百名城以外の城
伊佐城いさじょう
別名中館
構造平城
築城者藤原実宗
築城年代1111年(天永2年)
指定史跡県指定史跡
別名筑西市中館522 地図

藤原魚名の子孫である藤原実宗が、1111年(天永2年)常陸介に任命され、
伊佐荘中村に居住し、この地に伊佐城を築きました。
また、伊達氏発祥の地がここ伊佐城です。
5代目の朝宗は奥州征討に武功をあげ、奥羽伊達郡を与えられ次男の宗村と
伊達郡に移り伊達氏を名のるようになり仙台65万石の伊達家の祖となりました。



観音寺入口

ここからでは城祉碑は見えないので一度ここまで訪れたのですが、ちょっと覗き込んで
「ここはお寺さん」と言って「伊佐城はどこ?」とぐるぐると周辺を探しまわりました。



再び「この辺りが城祉なんだけどなあ?」と戻って観音寺の本堂前まで来てみたら
ありました!城祉碑。


観音寺本堂

2013年に新しくなった本堂。
旧本堂は江戸時代のものでとても立派そうなものだったようですが、
見られかったのがちょっと残念。


観音寺山門

まるでお城にあったかのような城郭にお似合いの門ですが、
これは城の門ではなく観音寺の山門です。


土塁

ところどころに残る土塁。
わりと残ってます。


下館藩 主石川総管の墓所

1732年(享保17年)国替えにより伊勢国河曲郡神戸(三重県鈴鹿市)より
下館城に移って明治維新まで9代続いた9代目石川総管の墓がここにあります。
初代から8代目までは江戸下谷の大久寺に埋葬されています。
8歳で父の遺領を継ぎ藩主となり下館藩知事まで暦任して総管だけがこの地に
埋葬されました。
さぞかしこの地で重要な人物として親しまれ、総管もこの地を嘉としていたのでしょう。


延命橋

橋の下は道になっていて、かつては堀切であったと考えられます。


延命水

飲んではいけない延命水。
昔はこの水を飲むと長生きできるとか言われていたのでしょうが
現在は生活用水と一緒に流れている水なのか飲めるような状態ではないようです。
案内看板は文字が消えてしまい読めません。何て書いてあったのでしょう…。


伊達氏と言えば仙台や宇和島で有名ですが、この地が発祥であることは
あまり知られていません。
伊達氏発祥の地とは思いもよらない展開に驚きました。
現地に行ってもそのような主張はなく、帰宅して調べはじめて知った次第です。
伊達氏と言えば東北のイメージが強く、後に奥州の覇者伊達政宗を生み出す祖と
なることを伊佐城では想像する余地もありませんでした。
なぜ、伊達氏にのっからないのかちょっと不思議ですがこんな物語があるのも
歴史を追っていて面白いところですね。



平成29年8月12日登城


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石毛城(茨城県)

2017年08月17日 | 百名城以外の城
石毛城いしげじょう
別名石毛城
構造平城
築城者豊田政親
築城年代1532年(天文元年)
指定史跡
場所常総市本石下99 地図

1532年(天文元)に豊田城主・豊田四郎政親が下妻城主・多賀谷氏の南下に備え築城し、
石毛城主に次子の次郎政重を任じました。
石毛城は多賀谷氏一族の居城となってから、天正十三年、多賀谷家の内紛により築城五十四年にして
廃城となり焼却されたと伝わります。



八幡神社

石毛城・豊田城の有縁、無縁の精霊菩堤供養のために建立された神社のようです。


案内板

この辺りのこの手の説明の書かれた石板は、かなり細かく説明文が書かれています。
この文字数はありがたいことです。


石毛城祉碑



土塁

神社を囲うように残っている土塁。





土塁

八幡神社本殿裏の土塁。


駐車場

神社にある駐車場。
車で訪問の際はこちらに駐車することが出来ます。



多賀谷氏の出城があった場所ということですが、こちらも土塁と堀らしき遺構が少し残されて
いるだけのようです。
周囲は宅地なので遺構の破壊は免れない事情もわからない。
ただ、この辺りの石で造られた説明板はかなり詳しく説明がなされているのがありがたい。
欠けないかぎり消えることもないので長持ちもするし、このような手入れをされるのは
大歓迎です。


平成29年8月12日登城



続 図説 茨城の城郭
クリエーター情報なし
国書刊行会

向石毛城(茨城県)

2017年08月16日 | 百名城以外の城
向石毛城むこういしげじょう
別名豊田館・西館
構造平城
築城者豊田四郎平将基
築城年代1062年(康平5年)頃
指定史跡
場所常総市向石下 地図

豊田館跡に築かれた城で、全盛期には常総にかなりの領地を領有し武蔵の地を治めていました。
坂東武士発祥の地として中央・地方の政治史に一大変革をもたらし、武家社会の遠因となりました。
馬の名産地でもあったという。



案内石板

豊田城祉と平将門の説明文がここに記されています。


平将門のレリーフ



法輪寺



土塁

以前は土塁が残っていた場所は整地されていて土塁すらわからなくなっています。


供養塔

この奥は墓地になっています。


斜面も削って整備途中に見えたので「まだ整地の最中なのかな?」という印象でした。
平将門の育った館跡にしては随分さっぱりあっさりとしたもので豊田城(常総市地域交流センター)に
投資するならもう少し史跡として残せるものを残す努力をして欲しかったなあと感じました。



平成29年8月12日登城



信長の野望・大志
クリエーター情報なし
コーエーテクモゲームス

龍潭寺(静岡県)

2017年08月14日 | その他
龍潭寺りょうたんじ
別名地蔵寺・自浄寺・龍泰寺
構造寺院
造営者行基
造営年代733年(天平5年)
指定史跡
場所浜松市北区引佐町井伊谷1989 地図


大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台になっている井伊家の菩提寺です。


東門

龍潭寺では約400年前の一番古い建造物です。
現在は建物の痛みのため下部分を切り取り、低くなっています。


鐘楼堂

正月1日から5日までの間は「いのりの鐘」を撞くことができます。


庫裡(くり)

ここで拝観料を支払い内部を見学します。



玄関を入ったところです。
内部は歴史ある建物や仏様の他に庭園や大河ドラマの影響で訪れる人のために
直虎ゆかりのものが展示されています。



ここに座って名勝 龍潭寺庭園を鑑賞します。
とても落ち着いて、ずっと座っていたくなります。


名勝 龍潭寺庭園

とても奇麗に手入れされた庭で、四季折々の顔を見せてくれます。



庭園の池に咲く水連。





丈六の釈迦牟尼仏

仏さまの体には黒い落書きがあります。
これは明治初期に起きた「廃仏棄釈」によるもので
本堂前にあった大仏殿を壊された時に傷ついたもので動乱の歴史を
今に伝えています。


本堂

井伊家誕生は平安時代に遡り、以来ずっと龍潭寺は井伊家歴代の御霊を祀ってきました。





直虎と虎松



開山堂
とても美しい造りで赤いお城のようにも見える建物です。


開山堂 龍の彫刻(伝左甚五郎作)

伝左甚五郎作の江戸時代中期 仏殿に使用された蛙股の彫り物です。


稲荷堂

祈れば夢が叶うと言われている正夢(まさゆめ)稲荷と言われています。


井伊直虎像


井伊家墓所

正面向って右が共保、左が直盛の墓です。
直虎の墓も左側の列、奥から二番目にあります。


龍潭寺墓所

龍潭寺の歴代住職のお墓です。
墓石の上の部分が丸くなってる形の墓をよく見かけますが
この形の墓石は寺の住職の墓なんだそうです。
家臣の新野氏、奥山氏、中野氏や松下氏などのお墓もあります。


龍潭寺本堂修復記念瓦

平成23年の本堂大改修の際に記念に建てられた鬼瓦です。
本堂屋根大棟の両側飾りとして使用されてたものです。


龍潭寺本堂外観

井伊家の家紋が入った本堂。


仁王門

この門は昭和になってから造られた比較的新しい門です。
あうんの呼吸でにらみを利かせています。


伝井伊共保出生井

直虎の先祖・井伊氏初代共保が平安時代1010年に生まれたと伝わる井戸。
ここには駐車場が無いので龍潭寺から徒歩で訪れます。





古来より水の湧き出る所は神聖視され、
井伊家千年(遠江600年、近江400年)の歴史がここに始まります。


石田三成の居城であった滋賀県の佐和山城の搦め手側登城口にも龍潭寺があります。
井伊直政が彦根藩主になったことから浜松市の龍潭寺から分寺したそうです。
ちなみに佐和山城の龍潭寺には昊天が住職として迎えられました。
佐和山城を先に訪問していたので同じ名前のお寺だなあと思っていたのが
繋がった!という感動で、やはり歴史はおもしろいと思いました。


平成29年7月22日訪問



大河手帳2017 おんな城主 直虎
クリエーター情報なし
潮出版社

浜松城(静岡県)

2017年08月10日 | 続百名城
浜松城はままつじょう
別名出世城
構造平山城
築城者徳川家康
築城年代1570年(元亀元年)
指定史跡市指定史跡
場所浜松市中区元城町 地図
スタンプ設置場所浜松城天守閣一階
城郭検定 出題あり
御城印浜松城入城窓口
攻城団チラシ浜松市役所

徳川家康が29歳~45歳まで過ごし、生涯最大の敗戦と言われる三方ヶ原の合戦で命からがら逃げ帰ってきた城が浜松城です。この敗戦から力を蓄え天下盗りの夢をつかんだ城でもあり、出世城と呼ばれるようになりました。



5年前に訪れた時は天守門の復元工事中だったこの場所も、
今回はきれいに整備され今回は堂々と入城できます。


徳川家康像

浜松城公園に建つ徳川家康像。


天守門

平成26年3月に完成した天守門(櫓門)は140年ぶりに復元されました。
前回訪れた時は工事中だったので、完成した折にはぜひ来てみたいと思っていました。


天守門外観

天守曲輪から見た天守門。
天守曲輪をもつ城は少なく、地形の問題で本丸と天守曲輪をいっしょに
せざるをえなかったこといからこのような配置となったようです。


天守門内部

太くて立派な柱や梁や桁は地元天竜の木材を使用。
地元高校生の手によって鉋掛けがされているそうで受付の方からお話をお聞きしました。


石落し

この時代のお約束?の石落し。
真下を通りたくないですね^^;


稲荷神社

本来なら天守門を抜けて稲荷神社に行けますが
天守門内部公開の都合上通過して行くことはできません。


天守入口

1階、2階は展示室、3階は展望台、地下には井戸があります。
展望台からは天気が良ければ富士山も見えますが私が訪れたこの日は
残念ながら富士山を拝むことはできませんでした。


甲冑



陣羽織



石組井戸

天守台地下「穴蔵」にある井戸。
戦国時代には城の水利は極秘だったため、資料が残されておらず詳細は分かっていません。


復興天守

天守台の規模から実際の天守の3分の2の大きさでの復元である。
復元当時の予算の都合で規模が小さいものとなりました。
浜松城城主であった堀尾吉晴は、この後浜松から出雲に移り国宝「松江城」を築くのですが
浜松城天守を踏襲したとも言われています。



浜松城の石垣は野面積みです。
内側に小石や砂利を詰め水捌けも良く堅固に出来ています。


銀明水

そしてここにあるのは「銀明水」と呼ばれる井戸です。
浜松城には全部で10の井戸があったと言われています。


埋門跡

埋門跡を上から見ています。
天守台より高い位置にあるのが八幡台。
城を守る八幡大菩薩を祀った神社があったようです。

屏風折石垣

天守曲輪から埋門跡にかけての石垣(右側の石垣)が、屏風折れになっていて
全国的にも珍しい石垣です。


日本庭園

今は緑ばかりで華やかさは無いので、秋の紅葉の頃がきれいだろうなあと
想像しなが散策して来ました。



鳥や虫が豊富に居ます。


最初に訪れた時から5年が経っていました。
工事中であった天守門も完成し、本当に再びこの地をを訪れることになるとは…。
思っても、随分先のことになると思ってました。
大河ドラマのおかげでこの時期に訪れることが出来ました。
前回よりもじっくり観て歩くことも出来たし、浜松市も活性化してる時期に来ただけあって
賑やかになった印象があります。


平成24年6月23日登城
平成29年7月22日再登城




御当地グルメ・おみやげ

浜松餃子




続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
学研プラス

田中城(静岡県)

2017年08月07日 | 百名城以外の城
田中城たなかじょう
別名徳一色城・亀甲城・亀井城
構造平城(円郭式)
築城者今川氏家臣
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所藤枝市田中3-14-1 地図
城郭検定出題あり

独特な円形の縄張りで、本丸を中心に四重の堀を同心円状に巡らせた
円郭式縄張りで構成されています。
丸馬出と三日月堀が6ヶ所もあったことから武田氏の「甲州流の城」として知られています。
また、1616年(元和2)鷹狩りに訪れた家康が田中城に宿泊した際
駿府で食した鯛の天ぷらにあたり、発病した場所でもあります。
この後駿府に戻り4月17日、家康は没しています。


田中城復元図

360度 敵の侵入を防ぐ構造を持つ縄張り。


平島一の門跡



三日月堀跡

二の丸新宿二の門の外にあった馬出がこの奥の民家の敷地内にあります。


三の堀と土塁

平島一の門に接続していた土塁。手前はかつて堀になっていました。


大手二の門跡



二の門木橋

大手二の門に架けられていた木橋を当時とほぼ同じ場所に同じ大きさで再現しています。


二の堀

中学校の入口に残る堀。


本丸跡

本丸は現在小学校の敷地になっています。


西益津小学校庭園

小学校の敷地内にある庭園には田中城の縄張りを縮小して再現されています。
道路から覗き込んで撮影しましたが怪しい人に思われないかヒヤヒヤです。


馬出曲輪

6つもある三日月堀&馬出のひとつ。

この絵図のように造られていたと思われます。


田中城下屋敷

こちらに駐車場があるのでこちらの駐車場に車を停めて散策するとよいです。
しかし、この日は夕方5時になってしまい到着した時には駐車場を閉めているとこいろでした。
残念ながら庭園や屋敷など見ることができませんでした。



中にはいれないので仕方なく外から眺めて歩きました。


旧本丸御亭

天守を持たない田中城での天守の代わりとなる役割をしていた建物。





こんな面白い縄張りの城郭、もっとゆっくり観て歩きたかった。
静岡は城跡が沢山あるのでどの城跡から巡ろうかとほんと迷います。
今回チョイスした中でも田中城は予定していなかった城でした。
帰路の高速道路に入る前にもうひとつ回れる城はないかと欲ばりして、
夕刻訪れた城だったので時間に余裕がありませんでした。
こんなに見所ある城跡ならばじっくり散策したかったなあと後悔。
また機会があればぜひ寄りたい城跡でした。


平成29年7月23日登城



甲陽軍鑑 (ちくま学芸文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房

掛川城(静岡県)

2017年08月05日 |  百名城
掛川城かけがわじょう
別名雲霧城、松尾城
構造平山城
築城者朝比奈氏、山内一豊
築城年代1512年(永正9年)、1590年(天正18年)
指定史跡県指定史跡 国重要文化財
場所掛川市掛川113-24 地図
スタンプ設置場所掛川城御殿
御城印掛川城御殿
城郭検定出場あり

今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城です。
その後、山内一豊が城主として10年間在城しまし、一豊は大規模な城郭修築を行い、
城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。
掛川は、一豊の人生にとって重要な土地であり、四国高知で築いた高知城は
掛川城を模して作られたとも伝えられています。



大手門

実際の位置から50mほど北に移築、復元されている。


大手基礎根固め石

発掘調査で発見された12個の礎石のうちのひとつで河原石を円形に4~5段積み重ね
その上に門柱の礎石が置かれました。


大手門番所

大手門番所は、大手門の内側に建てられ城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。
大手門に付属した番所が残っているのはとてもめずらしことです。





縄張図

幕府に提出された城絵図と発掘調査をもとに作られています。


四足門

発掘調査では跡がみつからなかったのですが、正保城絵図を元に復元されました。
ここにも門の内側に城の出入りを調べる番所があったと考えられています。


十露盤堀(そろばんぼり)

水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることから
名付けられたと考えられています。


三日月堀

丸門の前面に配置された三日月状の堀です。
深さは8メートルで、調査では堀の南側から石垣が見つかり、
その下からは柱穴が並んで見つかりました。


太鼓櫓

時を告げるための櫓で三の丸から移築されました。
元々ここには荒和布櫓(あらめやぐら)が置かれていました。



何度も折り曲げられた道は敵の進入を防ぐため登りにくくなっています。
掛川城天守は、安政東海地震で被害をうけたため、解体されたが平成になって復興された。
復興された天守は高知城天守を参考に再建された三重四階の望楼型天守です。


霧吹井戸

今川氏真がたてこもる掛川城に、徳川家康が攻撃した際に霧が覆い城を守ったという。
掛川城の別名「雲霧城」の名前の由来とも言える井戸です。


眺望

見下すと二の丸御殿、その奥正面が掛川古城のある子角山(ねずみやま)が見えます。


二の丸御殿

本丸御殿は1854年の大地震により倒壊したことにより代わって建てられた二の丸御殿。
藩の式典の場、藩主の公邸、藩役所に利用されていました。
廃城とともに勤番所と徳川家兵学校に転用されいましたが、
廃藩置県にともない、掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。
その後は女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用されました。


三の間

ここでしばらく日向ぼっこ。
居心地良すぎて時間を忘れてずっと、ぼーっとしていたかったです。


次の間

書院造りで畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。



二の丸御殿から見上げた天守閣。
すごくバランスが良く美しい眺めです。


勝手台所の井戸

二の丸にある二の丸御殿勝手台所の井戸です。


みかんの木

このみかんは、駿府城公園に植えられている「家康公お手植え」の紀州みかんの苗木を
静岡市から分けてもらった木です。


顔出し

山内一豊と千代の顔出し。
恥ずかしいのでお見せできませんが主人と顔出ししてしまいました^^;


ライトアップ

夜間はライトアップされています。
こちらも幻想的で奇麗ですよ



周囲を散策してみました


(公社)大日本報徳社

報徳の思想を形成する四つの柱は、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」という言葉で表されています。

正門

道徳門・経済門と刻まれている正門左右の門柱は明治42年の建立です。


淡山翁(たんざんおう)記念報徳図書館

昭和2年に建てられた鉄筋コンクリート造りの図書館です。


大講堂

この大講堂は、報徳運動の拠点として明治36年に建設され、
当初は「遠江国報徳社農学社公会堂」と呼ばれていました。
現存する公会堂としては最古の建築物となるため、貴重な文化施設です。


仰徳学寮・事務室

仰徳記念館とともに移築された有栖川宮邸の一部です。



早朝さんぽに出掛けると、まだ開門されていない天守閣前に近くの住民の方が集まって
楽しそうにお話をしていたのでその輪に加えていただき楽しくおしゃべりして来ました。
いつも思うのですが、百名城に早朝訪れると近所の住民が集まって
まるで安否確認じゃないけど、誰ちゃんまだ来てないとかいつも集まる人の確認を
し合っている光景を見掛けます。
お城に集まることが日課になっているのがなんだか羨ましいなあと思ったりします。


平成23年12月29日登城
平成29年7月23日再登城



日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス