むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

鎌原城(群馬県)

2017年03月31日 | 百名城以外の城
鎌原城かんばらじょう
別名
構造平城
築城者鎌原氏
築城年代1397年(応永4年)
指定史跡嬬恋村指定史跡
場所吾妻郡嬬恋村鎌原 地図


鎌原城は鎌原氏の居城でした。
鎌原氏は海野氏の一族で平安時代末期より三原庄を支配する豪族下屋氏の末裔です。
代々沼田の真田家に仕え、上杉、武田、徳川とつぎつぎに仕え一国一城令まで居城とし、
沼田藩改易後は大笹関所の関守となり廃関となるまで関番を務めたとされています。


三の丸追手口

三の丸入口にある追手道の碑。


霊城の碑

鎌原氏の墓所を示す碑。




鎌原氏の墓。


駐車場

追手道、墓所の隣に駐車場が設置されています。
この先は車で入って行くことは出来なくはないが、道幅も狭くすれ違いは出来ないので
やはり、マナーとしてはここから歩くのが望ましい。(城祉を荒らさないためにも)


案内看板

大河ドラマ「真田丸」に合わせて設置されたと思われる案内看板は駐車場内にあります。
ここで縄張図を確認して進みます。


三の丸

ここはほとんどキャベツ畑になっていて堀などの遺構は埋め立てられてかすかにしか
確認することが出来ません。


二の丸堀切

この大堀切はわかりやすい。
ここも本来もっと深い堀であったであろう。


二の丸

堀の土橋を渡ってすぐが二の丸。


本丸

本丸は二の丸より少し小高く土盛されています。


六文銭のベンチ

こちらも大河ドラマに合わせて見栄え良くきれいに整備された模様です。



本丸から更に奥の笹曲輪へと続くのですが、この先…私は何も知らず先に進むと目の前に
カモシカが居て、私を鳴きながら威嚇してきました。
睨み合ったままお互い後ずさりしてゆっくりその場を離れたのですが、カモシカは鳴いたまま本丸から崖下の方へ。


カモシカ

この写真は後からカメラに写り込んでいたものをズームしたものです。

家に帰ってからカメラの画像をチェックするとカモシカが何枚も写り込んでいて、
私が訪れた時からずっと私を警戒して見ていたことがわかりました。
それを知らずに私はどんどんカモシカに近付いて行ってしまっていたんですね。
前日も雪が降って、まだ熊の心配はなかろうと独りで訪れたのですが、まさかカモシカに出会うとは。
しかもかなりの接近戦?になったのでカメラなんて構えている場合ではありませんでした。
さすがに怖かったですが突進して来ることもなく、熊やイノシシでなかったのが幸いでした。



この後はまだ崖下でカモシカが鳴いていたので怖くて先に進めず、笹曲輪や虎口に行くことはできずに
慌てて引き返してしまったのでゆっくり散策することは叶いませんでした。

これから暖かくなり益々獣の活動期になると思います。
ここにはカモシカがお住まいなので訪れる方はくれぐれもご注意あれ。




平成29年2月4日登城
平成29年3月25日再登城


今回の参考本

片倉城(東京都)

2017年03月28日 | 百名城以外の城
片倉城かたくらじょう
別名
構造平山城
築城者長井氏
築城年代15世紀後半以降
指定史跡都指定史跡
場所八王子市片倉町 片倉町 地図


片倉城は大江備中守師親が在城したことが記されており後裔の長井氏の城郭とされていますが
確証はなく、城郭の構成からみて北条氏の築城とも拠点としての利用もなされたのではないか
との話もあります。

入口

国道16号沿いにある公園入口。


駐車場

午前9時から午後5時まで無料で開放されています。


案内看板

公園としての案内図です。


住吉沼




野鳥が多く見られるようで、この日も沼に向かいカメラを構えている人が数名いました。


住吉神社入口

公園に入ってすぐに住吉神社へ行く道と二の丸方面に行く道に分かれます。


住吉神社

鎌倉管領片倉城主長井大喜大夫道広が1372年に城の鎮守の神として摂津国住吉神社を勧請した。
ここは腰曲輪にあたります。



神社と言えば階段が付きもの。
でも、本丸へはこちらを通る方が近いです。


片倉沢

沼や沢といった水に囲まれた湿地帯に囲まれています。
外見からは小高い山にある城と思っていたので、予備知識無しに現地に入ってみて以外でした。



麓は菖蒲園など湿地帯の中を散策出来ます。



山を登ります。


休憩広場

出丸?かな。


土塁

低いですが土塁がしっかり残っています。
この下は休憩広場との間に空堀が巡っています。


二の丸

小高い山を登りきると目の前が拓けます。
とても広い芝生の公園らしい城跡です。



広い芝生が続く。
何組かの親子がスマホを持って歩きまわっていました。
城跡ではよく見る光景となりました。(どんなポケモン捕まえたかな?)


空堀

橋が架けられた大堀切。
浅く広くの堀ですが、造った当時はどこもそうですがもっと深かったのでしょうね。





本丸



片倉城の前を数えきれないほど通過して、ようやく散歩できる時間を作ることが出来ました。
片倉という地名に親しみがあるので群馬、長野との接点はどこに?と気になっていました。
(現時点では私の知識の中にはまだ接点は見出していないままですが。)
駅からも近く、車で来ても駐車場もあるのでアクセスは楽な方だと思います。
天気の良い日はぜひ!



平成29年3月23日登城

「日本の名城」卓上カレンダー(2018年版)
クリエーター情報なし
コミュニティネット

奥平城(群馬県)

2017年03月21日 | 百名城以外の城
奥平城おくだいらじょう
別名
構造丘城
築城者奥平氏
築城年代十二世紀末 
指定史跡市指定史跡
場所高崎市吉井町下奥平 地図


奥平氏の祖は赤松則景で甘楽郡司となり奥平村に城を築き、奥平姓を名乗るようになった。
奥平氏8代目になると三河に移り13代目奥平信昌は長篠の合戦の際武功をあげ、徳川家康が関東入部に
あたり現在の富岡市宮崎(宮崎城)に3万石を封ぜられたが後に美濃へ転封となった。


入口

奥平城跡の案内看板が立てらている。


石碑



案内看板

道路入口の看板と内容は同じ文言が記されている。



現在は畑と竹藪になっている本郭。



ここから郭の散策へ。


一の郭

ここは畑になっています。


二の郭

こちらの郭は竹藪になっていて遺構らしきものは見当たりません。


竹林

竹を伐採し、少しずつ手入れはしているようです。



竹林を一周してみましたが、ひたすら竹藪でした。







堀の代わりとした申田川と崖で守りを固めている。
この右上の高台に城主末裔の方がお住まいのようです。


遠望


さて、帰ろうかという頃に農家の方らしき人が声をかけて来ました。

奥平城主27代目子孫という老人が声を掛けて来たので話を伺いました。
奥平の地主だったことで古くからのお城に関しての歴史を語ってくれました。
重機で掘り返してみようという話も以前にはあったようですが話は進んでいないようです。


三河奥平氏発祥の地ということで三河方面から訪ねて来る人も多いとおっしゃっていました。
27代目という方が指をさしたお宅の前に行ってみると「矢島」という表札がありました。
そのお宅からは奥平城がよく見えます。
奥平城落城後の話として帰農された矢島氏が村長を務め後裔がいらっしゃっるとのことで
どうやら本当に私は27代目の末裔の方から貴重な生のお話が聞けたようでした。



平成29年3月11日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

板鼻陣屋(群馬県)

2017年03月20日 | 陣屋・館
板鼻陣屋いたはなじんや
別名
構造陣屋
築城者里見讃岐守義高
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡
場所安中市板鼻 地図

徳川幕府になると里見讃岐守義高に一万石が与えられこの地に陣屋を設けました。
現在陣屋跡はほとんど残されていませんが、陣屋門が称名寺の山門として残されています。


板鼻宿

板鼻陣屋を訪ね歩いていると、目にするのは板鼻宿の跡。
板鼻公民館前に板鼻宿の案内があります。


案内看板

中山道の江戸から数えて十四番目の宿場町で、伝馬宿場として栄えた場所です。


板鼻宿本陣跡

木島家の書院の一部が残されており、幕末に孝明天皇の妹・和宮が徳川家へ嫁入りの際宿泊をされた
という。


板鼻宿より北側の高台には「鷹の巣城」が構えられています。
そちらも合わせて今度ゆっくり訪れてみたいと思います。


平成29年3月11日訪問



染屋城(長野県)

2017年03月17日 | 百名城以外の城
染屋城そめやじょう
別名大熊屋敷・染谷城
構造丘城 
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所上田市古里 地図


第二次上田合戦の際、徳川秀忠が着陣し上田城を見下していた地とされています。


案内看板

眞田三代ゆかりの地として紹介されている城跡ですが、眞田昌幸の重臣大熊氏が上田城の東の守りを
固めるために配置された城とされています。


染屋城跡要図

これを見るとあまり広くなく、かなりこじんまりとした城であることがわかります。


豊染英神社



社殿

ここが主郭であったと推定される。


土塁
一部だけ残る土塁と思われる高まり。


空堀

堀切跡と思われる散策道。


二の郭

現在畑になっているがその先は崖になっているので眺めも良く当時も上田城下が
よく見えたのではななかろうか。



三の郭は入口に火の見櫓があり、消防団の詰所があったり民家があるため
一見立ち入るには躊躇しましたが敷地の奥に神社が見えたのでお邪魔させていただきました。


平成29年3月12日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

吉井陣屋(群馬県)

2017年03月16日 | 陣屋・館
吉井陣屋よしいじんや
別名矢田陣屋
構造陣屋
築城者松平信友
築城年代1753年(宝暦3年)
指定史跡高崎市重要文化財
場所高崎市吉井町吉井 地図

吉井陣屋は高崎市の木部村と矢田にあったのですが、宝暦二年に矢田からここ吉井に移されました。
表門のある文化会館から吉井駅方面へ少し歩くと一帯が「旧陣屋跡」になります。



吉井藩表門

吉井文化会館入口に移築された表門。
廃藩置県の際に解体され東深沢の民家に売却されたものの、昭和四十五年に新井氏が吉井町に寄贈して
この地に移築されました。



屋根は軒反りがあったのですが移築の際に直線屋根に変わったそうです。
板扉は矢弾を通さないと言われる「さいかち」の木材が使用されています。


春日社跡

ここは、吉井藩陣屋の西南隅にあたる場所です。
陣屋内に氏神である春日社を寛政三年に奈良から歓請し祭っていました。


皇太后・皇后階下御駐輦遺跡記念碑


吉井藩沿碑

大正六年に建碑。


欅の大木

欅の大木の切り株が残っています。
周囲を囲って大切に保存しているように見受けられます。


土塁

ここを土塁と言っていいのかわからのですが土塁らしき場所はここぐらいしか
みつかりませんでした。


長屋跡

現在も誰かが住んでいるとみられ、あまり撮影するのは良くないのかなあと
悩みましたが、郷土資料館で聞いたのでちょっとだけ紹介します。



一屋ごとに改修するせいか屋根がカラフル?おもしろい造りです。


吉井八幡宮

小学校の西側まで足を延してみました。
明治末に「指定村社」となる。
指定の中には春日社も入っており、合祀されているようです。

実は郷土資料館で陣屋跡は春日神社に案内看板があると聞き、神社を探していて八幡宮に
来てしまいました。
小学校の方角とも聞いていたので春日社を通り越していました。
実際、春日社の方は神社っぽくなくて、住宅でわかりずらかった(私は方向音痴)ので近くを
歩きまわりました。

参考までに、牛伏山にある「一郷山城」に行くと吉井藩陣屋絵図が掲示されています。




平成29年3月4日訪問


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写真工房

本庄城(埼玉県)

2017年03月15日 | 百名城以外の城
本庄城ほんじょうじょう
別名
構造平城
築城者本庄実忠
築城年代1556年(弘治2年)
廃城年代1612年(慶長17年)
指定史跡市指定史跡
場所本庄市本庄4丁目 地図


本庄城祉




参道




城山稲荷神社


本庄実忠が本庄城の守護神とするため、西本庄の椿稲荷明神を城内に奉斉したと言われる。

欅の木

築城時に植えられたという欅の大木は県指定天然記念物に指定されています。


旧社殿鬼瓦

平成11年に解体された天保時代の旧社殿の鬼瓦。


ヤブツバキ

椿稲荷を西本庄からこの地に移したことにちなんで植えられたそうです。


銭洗弁財天



城下公園

城山稲荷神社の隣は公園になっていて、川沿いも遊歩道として多くの人が散歩していました。


元小山川


本庄城は城山稲荷神社付近だけでなく、市役所を含む広大な範囲であったが現在は土地開発が進み
その遺構はあまり残っていません。
それでもよく見ると土塁や堀であろう場所も見つけることができます。
自然の要害を利用し、石垣の無い関東の典型的な城郭がここにあったと言えよう。


平成29年3月5日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

おんな城主「直虎」大河ドラマ館(静岡県)

2017年03月14日 | 大河ドラマ館
おんな城主「直虎」大河ドラマ館
施設浜松市みをつくし文化センターホール
構造大河ドラマ館
主催大河ドラマ「真田丸」上田市推進協議会事務所
開館時間午前9時~午後5時
期間平成29年1月15日~平成30年1月14日
場所浜松市北区細江町気賀369  地図

浜松市の気賀のにある浜松市みをつくし文化センターホールにやって来ました。
今話題の大河ドラマ「おんな城主 直虎」のドラマ館があります。



井伊谷 井戸端セット

館内では「フォトスポット」以外での撮影が禁止となっています。



今人気の俳優さん小野政次役の高橋一生さん。
小野但馬守と言えば、本来とても嫌~な感じの役のはずなのですが人気ある俳優さんゆえに
ここでの小野政次はそれほどひどい人に描かれていない気がします^^;



撮影スポットながら、この井戸の中を撮影することは出来ません。


昨年の大河ドラマ「真田丸」では少し並んでの入館だったのですが、この日はラッキーなことに
わりと人が少なくて、混雑することなくゆっくり観て回ることができました。
一番大変だったのは、「師官衛兵」で、この時は行列に並び、やっと入れたと思いきや
周囲は人だらけで立ち止まることも出来ず押し流されて出て来たという感じで
あまり見られなかったことを思うと、ここ二年は楽に入れたかな。


平成29年7月22日訪問



藤岡城(群馬県)

2017年03月14日 | 百名城以外の城
藤岡城ふじおかじょう
別名芦田城
構造平城
築城者芦田康寛
築城年代1590年(天正18年)
指定史跡
場所藤岡市藤岡 地図


藤岡第一小学校の敷地内にある芦田城祉。
残された土塁はきれいに整備され、遊歩道になっています。














銅像

学校建設のため土地を寄付した「井本たい」さんの銅像。








芦田城祉のプレート





城祉緑地の看板以外は案内看板なども無く、歴史を知りうるものは何もない。
土塁も奇麗に整備されているため、土塁と言われなければ小学校の景観に取り込まれて
見過ごしてしまうような場所です。
唯一、芦田城祉のプレートだけがこの辺りが城祉であったことを語る材料で、
せっかく学び舎の中にあるのだから説明看板が欲しいところです。


平成29年3月5日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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鍋蓋城(長野県)

2017年03月13日 | 百名城以外の城
鍋蓋城なべぶたじょう
別名
構造平城
築城者大井光忠
築城年代1487年(長享元年)
指定史跡
場所小諸市本町 地図



小諸城の前身となる城で小諸城が築城される以前の城である。
武田氏が制した際に城内を分断するかのように街道が造られ、新たに今の小諸城が築城されました。
江戸時代には鍋蓋城は小諸藩の城代家老屋敷として使われるようねなりました。


大井伊賀守居城鍋蓋城祉

現在の建物は、昭和になってから宿泊施設として建てられたもので現在は公開されていません。



遺構はまったく残っていませんが、小諸の町並みの中に城下の歴史をたどる上で
この地が重要地点であったことを伝えています。


案内板

門に掲げられた説明文を読んでみよう。





以前訪れた「富士見城」では美術館の館長さんから鍋蓋城の話をうかがったことを思い出しました。
鍋蓋城の支城として築城された「富士見城」もいっしょに訪れることをお勧めします。


平成29年3月12日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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谷戸城(山梨県)

2017年03月10日 | 百名城以外の城
谷戸城やとじょう
別名
構造山城
築城者逸見清光
築城年代1110年~1168年(平安時代末期)
指定史跡国指定史跡
場所北杜市大泉町谷戸 地図


山梨で最古の城とされる。


谷戸城ふるさと歴史館

時間の都合で見学してこなかったのですが、こちらを利用して登城するのが一番近いと思います。


横堀

麓と山を分断するかのように横堀があります。


四の郭



帯郭

二の郭への侵入を防ぐ役割と、四の郭と五の郭を結ぶ役割を果たしている郭。


二の郭

土塁の内側に見事な薬研堀がある。
城の内側、それも二の郭に堀が築かれているのはめずらしいかも…。
虎口から覗いた時には一瞬はっとしました。



二の郭の土塁の内側は堀が張り巡らされています。
ちなみに三の郭の土塁の内側は浅いくぼみがあります。
浅くなってしまったものの堀の名残なのでしょうか。


一の郭虎口

ここには門があったとされ、礎石も見つかっているのですが門(建物)の跡がみつかっておらず
どのような門であったか定かではない。


一の郭

北側で沢山の穴が発掘されたが建物の跡ではなさそうとの見解。
柵でも造られていたのだろうかと考えられているようです。


南虎口

喰い違い虎口。
一の郭以外は喰い違い虎口が多く採用されている。
下から登って来て、すんなり郭に侵入出来ない構造になっています。


三の郭

帯郭のような三の郭は斜面で出来ていて平坦な所がありません。
ここからは一の郭から投げ捨てられたと思われる土器類が多く出土されたそうです。
なぜ投げ捨てられたんでしょう・・?
「投げ捨てられた」という表現がなんだか「そうなの?」って感じがします。



ここも内側に薬研堀があったのでしょうか…。


駐車場

南側の麓には駐車場があります。
こちら側から攻め上げるのもありですが、私は根性が無いのでゆる~いところから
登城しました。


遠望

こちら側から見るとあまり高くないこんもりとした林が見えます。



農業体験の家

近くに萱葺屋根の民家が見えます。
古民家の裏手は公園になっています。
農業体験などいろいろなイベントを催しているようです。



戦に使う城としては手入れがされているものの防御の手は薄いのかなと
思いました。
戦国時代より以前の遺構なだけにそれほど激しい戦には巻き込まれていない
構造の城であったのでしょう。
見た感じではむしろ奇麗な城址だなあと感じました。



平成29年2月18日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

七日市陣屋(群馬県)

2017年03月09日 | 陣屋・館
七日市陣屋なのかいちじんや
別名
構造陣屋
築城者前田利孝
築城年代1616年(元和2年)
指定史跡
場所富岡市七日市 地図

加賀百万石前田利家の五男「前田利孝」が大阪の陣で徳川方で武功を上げ、
一万石を与えられこの地に陣屋を構えた。
その後、明治維新を迎えるまで前田家十二代が居館としていました。
廃藩置県により、陣屋は鏑川学校となり一部を残し建物は取り壊されました。



黒門

江戸の加賀藩前田家の赤門(東京大学)に対して七日市の前田家は黒門ですが、
この黒門は元々中門だったものを黒門としてこの地に移築しています。



現在富岡高校の敷地内にあることから、学生もこの門を利用しています。


駐車場

富岡高校敷地内にあるため、校門が開いている日は高校内の駐車場が借りられます。


書院

現在の書院は1843年(天保14年)に再建されたもので玄関と共に一部が移築されて
残されています。


玄関

昭和7年の学校改築の際、建物は東向きから現在の北向きに変更されています。



御書院、二之間、溜之間、御使者之間、御玄関と御玄関の前には玄関式台が付く造りになっています。
残念ながら中の様子は見ることは出来ませんでした。




どこの瓦かなあ?


書院裏



御殿山

この土壇は櫓台跡と考えられていますが、櫓が建てられたという記録は残っていません。


とみおか名木十選

土塁の上に植えられた「欅」の木。
富岡市観光協会が認定した富岡市内の名木十選の中に選らばれました。


陸軍中野学校終焉之地

太平洋戦争末期に東京にあった陸軍中野学校がこの地に疎開してきて、講義が行なわれていました。
当時は富岡中学校でしたが、現在は富岡高校になっています。



世界遺産の富岡製糸場と共に訪れる観光客も増えたためか、前日も業者が庭園の手入れをしていました。


聖駕駐蹕記念碑




現在ある庭園も、建物を方向転換した際に
合わせて移築したものです。


庭園

石橋や木石を配した池泉回遊式の庭園です。


移築門

富岡市内、下仁田町に払い下げとなった門が点在するようなので
探してみました。
こちらが、下仁田町馬山に払下げとなった移築門です。


陣屋地は国道254号線で分断されていて、学校の敷地に残されている部分と、
住宅地になっている部分とあり、今回は住宅地での散策はしていません。
何か残っているものがあるのか散策してみたい気もしますが、それはまたの機会に。。。

平成29年3月5日訪問


今回の参考本

若神子城(山梨県)

2017年03月04日 | 百名城以外の城
若神子城わかみこじょう
別名若神子古城
構造山城
築城者新羅三郎義光
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所北杜市須玉町若神子 地図


ふるさと公園

この図を見ながら公園を散策してみることにします。


管理棟

こちらにパンフレットが置いてあるのですが、残念ながらお城に関してのパンフレットはありませんでした。
でも、観光も目的とされるようであればありがたいものです。


薬研堀

北条軍が築構したという薬研堀。
ここも大分手がはいっており、遺構というにはちょっときれいすぎるし、堀の部分がかなり浅い。


薬研堀

主郭から二ヶ所の薬研堀がみつかっています。
こちら側は堀の跡すら無くて、
石が何か意味ありげに置かれているが…オブジェ?


主郭

がっつり公園で~す!



見たまんま、広々とした公園です。


狼煙台

見張り台としての柱穴がみつかっており、通信拠点として使われいたと考えられ
そのことから、ここにつるべ式の狼煙台を復元したようです。
但し、壊れかけているのか残念ながら狼煙台に登ることはできません。



狼煙台から先、大手門の方へ進む道がある。
この周囲は凸凹していて堀切とも土塁ともわからない形状になっている。
ここからは公園としての整備が緩く、山城跡っぽさが出て来ます。



下り坂がつづく。途中二ヶ所休憩できるようにベンチが備えられています。
下から登って来ると良い感じに疲れたあたりでベンチ出現!といった山道です。



大手門付近なので石が積まれていたのか、角の無い自然ぽくない石がごろごろしてます。


宿借石

このあたりに大手門があったようです。
ヤドカリに似てるからこの名前が付いたのか、この岩が屋根の役目をして休めそうだから野宿できたとか?
でもここは大手門跡なんだよなあ。それは無いか。



階段になっていたのが崩れた?


妄想ばかりであまりはっきりしたことは語れないのですが若神子城祉とはこのような公園になっています。

残された遺構は少ないが、北条軍と徳川軍が対峙した重要な場所であることは間違いない。



平成29年2月18日登城


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能見城(山梨県)

2017年03月02日 | 百名城以外の城
能見城のうけんじょう
別名
構造山城
築城者武田勝頼
築城年代1581年(天正9年)
指定史跡
場所韮崎市穴山町 地図


新府城の北側の防御の為に築かれた城らしい。
遺構らしい遺構はあまり確認できない。



新府城へ向かう途中、目に飛び込んで来た「能見城跡」。
こんなに大きく掲げられていては見て見ぬままに帰るわけには行かず、立ち寄ってみました。

道はありますが結構荒れた砂利道です。乗用車はパンク注意です。


本郭

道の終点が山頂で駐車場はありません。


守屋一族発祥の地の碑

武田信玄の家臣守屋一族の発祥の地らしい。
高遠に守屋姓が多いのですが、ここから信玄に着いてきたのでしょうか。
守屋姓の同級生もいるのでちょっと親しみが沸きます。


長靖寺跡?

なにやら人が住んでいたのか?と思わせる廃墟には「長靖寺」という文字が。
昔はお寺でもあったのでしょうか。


石碑

馬という文字ははっきり読めるので馬頭観音か。
お寺の廃墟から守屋一族の碑の前までの数メートルが道のようになっていて
両脇に石垣として積まれていたっぽい石と石碑があります。


石碑

こちら側の碑にも馬の文字が読み取ることが出来ます。
他には石碑らしきものも、墓石らしきものも見当たりません。


石垣?

枯れ草の中に二段程の石垣のようなものが見えるのですが、崩れた形になっていて
石垣かどうかの判別が出来ないのだが、かつてお寺や建物が存在したであろうことから
何かに利用されていたのではないかと想像できる。


土塁?

よく見ると土塁のような高まりもありますがいまいち確信が持てません。

敷地としてはとても狭く、お城跡?という感じがします。
物見を造るか砦にするかしかないスペースのように思います。

ものの本には武田氏滅亡後、新府城に徳川家康が在城した際改修したと記されて
いるのですがそこまで手を入れたのかなあとちょっと疑問が残る規模に思えました。
何にせよ、あまり資料が無いので想像しまくるしかないのかな(^^;

ちょっと寄り道の城跡でした。。。。

平成29年2月18日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
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