むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

小山城(静岡県)

2017年07月30日 | 百名城以外の城
小山城こやまじょう
別名
構造平山城
築城者武田信玄
築城年代1571年(元亀2年)
指定史跡
場所榛原郡吉田町片岡2519-1 地図

武田信玄は大井川を越えて今川氏が築いた山崎の砦に入り小山城を築き、遠江をおさえる拠点としました。
この地をめぐり、徳川家康との激しい戦いが何度も繰りかえされ、13年間の攻防戦が続きました。
高天神城が徳川軍に攻略されると、敗北を悟った武田方は城に火をかけ、甲州へと落ちていきました。



能満寺公園入口

この先車での登城は出来ないので公園駐車場を利用して、
能満寺から歩いて行きます。


山門



大ソテツ

995年に植樹された日本三大大ソテツのひとつで国指定天然記念物です。

徳川家康が能満寺を訪れたとき、このソテツを大そう気入ったため駿府城に移植されました。
しかしソテツは「能満寺に帰りたい」と夜な夜な泣くので、
哀れに思った家康公は再び能満寺に戻したという言い伝えがあります。


能満寺

地元では知恵の仏様として親しまれています。


虚空蔵尊

とても急な階段です。登りきったところに虚空蔵尊があります。
登りは断念して女坂から行きましたが、帰りも下をのぞき込んで断念しました。
その位、傾斜角度がすごい階段です。


女坂

遠回りになれど、無難に女坂を歩くことにしました。


本丸

虚空蔵尊を経て坂を登りきると本丸に到着します。
本丸手前左側には堀も見えて来ます。


三日月堀

武田と言えば三日月堀。


丸馬出

本丸正面に築かれた馬出。
三日月堀と合わせて防御とされているようですがここが最後の防御とする
としたら、ここまで攻め入られてしまっているとかなりやばい状況なのではなかろうか。


虎口

赤い木の橋で復元されている本丸入口ですが、本来は土橋になっていたようです。
この橋を入れて撮る天守閣はとても見栄え良く撮影出来るので良い撮影スポットです。


そもそも天守の無い城で、犬山城をモデルにしたという模擬天守。


天守閣型展望台

展望台は9:00~16:30までです。
入城は16:00までなので夕方訪れる場合は注意が必要です。
ちなみに私も夕方訪れたため、かなりギリギリな時間で展望台には入れましたが
隣の郷土資料館は入れませんでした。
料金払うのに閉まるのちょっと早すぎ~


模型

縄張りを見ると一見納得できるようで、やはり三日月堀と馬出の位置がいまいち
素人ながら「ここかあ?」とちょっと疑問に思ってしまいます。(個人的感覚です)


甲冑

城内展示物撮影可です。


最上階



眺望

眼下には駐車場とトイレ、売店が見えます。
我が家の車はどーこかな。


三重堀

武田の土の城らしく三重に構えた堀があります。
模擬天守前はきれいに整備されているのですが、残念ながら肝心の当時からの遺構は
草木で覆われ良く見えません。復元よりも当時の遺構を観たいのになあ。


勘助井戸

山本勘助が手掛けたと言われる井戸があります。


勘助井戸跡

土に埋もれていますが小ぶりな井戸跡が残っています。
クモの巣と蜂と格闘しながらの撮影でうまく撮れてない~


大手門

冠木門で復元されている大手門。



スロープになっているので階段が苦手な方は大手口側から登城する方が楽かも。


大手口



駐車場

大手口側にも駐車場があるのでこちらからも登城できます。



ここに訪れて感じたことは、造り物感、見世物感たっぷりというところ。
本来手を入れるべきは残された遺構の方で、
今後残された遺構を後世に見せてもらえる整備をしていただけるとありがたいです。
肝心な三重堀や勘助井戸あたりはうっそうとしているうえに大きな蜂に追われて
じっくり見ることが出来ませんでした。
きれいなお城はもちろん、歴史的要素を求めて見に来る人が
どれだけ増えているか、お城ブームに乗っかる事業を行うのであればぜひ
遺構を見せる方向で検討していただけたらと思います。


平成29年7月23日登城


御当地グルメ

牧之原ラーメン:お茶と桜エビを練り込んだ淡い緑とピンクの麺です。
東名高速道路 牧之原サービスエリアにて


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

横須賀城(静岡県)

2017年07月28日 | 百名城以外の城
横須賀城よこすかじょう
別名松尾城 両頭城
構造平城
築城者大須賀康高
築城年代1578年(天正6年)
指定史跡国指定史跡
場所掛川市西大渕 地図
城郭検定出題あり

徳川家康は1578年(天正6年)家臣の大須賀康高に命じて、
高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせました。
1581年(天正9年)高天神城は落城と共に廃城となり、
横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。
288年間続いた後、明治維新で廃城となりました。

駐車場

ここに来るまでの道は外堀で道路の外側はかつて入江になっていて海城となっていました。
城内には船着場があったのですが宝永の大地震により地形が変化して入江は干上がり
水堀すら現存していません。


櫓門跡

「玉石積み」とよばれる大井川の丸い河原石を用いた石垣が特徴的です。
思わず「おお~」と声をあげてしまう見事な石垣が目に飛び込んできました。



ここには横須賀城で最も大きな櫓門があったと推定されています。



埋門のようなここは何?
とても気になるのですが何なのかわかりません(>_<)


西の丸



二の丸へ

二の丸へ続く道です。





横須賀城祉碑

天守台付近にある立派な城祉碑。


天守台跡

礎石跡から推定して、ここには三重四階の天守が建てられていたと考えられています。





横須賀城復元模型

縄張り全体が確認することが出来ます。
できればこれは入口付近か駐車場にでも欲しかったなあ。
これで位置確認して散策して歩きたかった。


本丸の高石垣

見事な石垣です。
ほんと、きれい


北の丸

右側の高台が松尾山で最初に築かれた城はこの高台にありました。
ここに到着した頃には日が暮れてしまっていて、山に登るにはちょっと怖かったので
今回松尾山に登るのは断念しました。


三日月池
唯一水のある堀が残っているのが三日月堀です。
三日月堀と言えば武田信玄の城でよく見られるのですが、ここでは信玄は携わっていません。

この先の三の丸は宅地化されていて散策叶わず。


横須賀城はかつて海城で水上交通が発達していました。
ここから掛川城まで舟で往来出来たというのにはびっくりです。
現在では見渡しても海までは約2キロほどあるので海が目前にあったとは想像できませんでした。
丸い石の石垣はちょっと現代風で遺構という感じはしないのですが
とにかく美しく芸術作品のようでした。


平成29年7月22日登城



よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書
小和田 哲男
学研プラス







掛川古城(静岡県)

2017年07月27日 | 百名城以外の城
掛川古城かけがわこじょう
別名子角山城
構造平山城
築城者朝比奈泰煕
築城年代1473年(文明5年)
指定史跡県指定史跡
場所静岡県掛川市掛川1104 地図


掛川(古)城は今川氏の重臣であった朝比奈泰煕により子角山(ねずみやま)に築城されました。



掛川城からも近く、掛川城から歩いて行くこともできますが、車で行くことができます。
道が狭く急な坂を登ると龍華院の駐車場があるのでそこに車を置かせていただきました。


駐車場

龍華院には数台停められる駐車場があります。
ここにはトイレもあり、公園を利用する人のためにも設置されているのでしょうか。
(※駐車場もトイレもたぶん龍華院のものと思われます)


案内看板

案内看板と龍華院大猷院霊屋のあるこの場所が本曲輪にあたります。


龍華院大猷院霊屋

1656年(明暦2年)、嗣子のない掛川城主北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、
家の存続を願ったといわれる三間四方の方型造りの霊廟です。
掛川城主太田資始により1822年(文政5年)に再建され、県の有形文化財に指定されています。


土塁

霊屋を囲むように土塁が築かれています。


石塔



大堀切

見事な大堀切です。
尾根続きに築かれた城郭跡が良い状態で残っています。


龍華院子角山公園(りゅうげいんねずみやまこうえん)

こちらの公園側が二の丸にあたる場所です。





子角山からの眺望

この時期、草木で遮られ残念ながら眺望は望めませんでした。




早朝に訪れたため、朝の散歩をされている人とすれ違いました。
小学校も近く、近所の住民の散歩コースになっているようです。
また、地元の方に「掛川古城」について話を尋ねたら、掛川古城?といったふうで
子角山城と言ったら理解していただけました。
地元では掛川古城とは認識されておらず、ねずみやまと言わないとわからないようでした。
ちなみに10人ほどの掛川城に毎朝集まる地元住民の方々にお話を聞かせていただきました。
ホットでフレンドリーな方々でした。


平成29年7月23日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
写真工房

和歌山城(和歌山県)

2017年07月26日 |  百名城
和歌山城わかやまじょう
別名竹垣城・虎伏城
構造平山城
築城者羽柴秀長
築城年代1585年(天正13年)
指定史跡国指定史跡 国重要文化財
場所和歌山市 地図
スタンプ設置場所和歌山城天守閣楠門受付
動画日本の城郭 面白・残念ネタシリーズ

豊臣秀吉が紀州を平定した後、弟の秀長に築かせた城。
関ヶ原の戦いで功績を認められ浅野幸長が入城し、その後は紀州徳川家が治めることとなります。
水戸、尾張と並ぶ徳川御三家である紀州徳川の地としての拠点がここにあります。






大手門
昭和57年に再建。
徳川吉宗の時代には門の外に領民の訴えを取り上げるための訴状箱が設置されていました。


鶴の渓
窪地になっていて、関ヶ原の戦いの後城主となった浅野家がここで鶴を飼っていたことから
「鶴の渓」と呼ばれるようになりました。


西の丸庭園

この庭園は紀州徳川藩祖頼宣公が築造したものです。
「紅葉渓」の名で親しまれてきました。





御橋廊下

二の丸と西の丸をつなぐ藩主専用の廊下で、藩主とお付きの者だけが通れる橋です。
外から見えないように屋根のある板壁で覆われた造りになって、
二の丸側が高く、西の丸が低くなっていて勾配が約11%ある珍しい橋です。



歩くと足の裏が刺激されるほどの段差が付いた板敷き。
竹踏みの効果が得られます^^;


多門櫓跡

江戸時代にはここに多門櫓がありました。
現在は発掘調査により発見された礎石列が復元されています。


穴蔵状遺構

非常の際、大奥用の調度品などを納めていたと思われる場所です。


二の丸御殿

藩主が居所とした屋敷があった場所です。
御殿は南側を正面とし、東から表、中奥、大奥と建物が建ち並び
大奥が置かれたのは江戸城、名古屋城、和歌山城のみでした。


裏坂



銀明水



天守郭

小雨の早朝なので誰も居ません。


楠門

築城当初の階段は南側から登るように出来ていたが、嘉永の再建を機に
現在の向きに変更されました。


乾櫓



天守入口

格式高い唐破風の開放的な玄関。



この日はあいにくの雨だったので普段は外で出迎えてくれる忍者がこの入口に隠れていました。
まんまと私は忍法?にひっかかり驚かされました^^;
面白いので他のお客さんが引っかかるのをしばしここで観察していました(悪趣味…)
雨の日は…お気をつけあれ。


展示品



天守玄関桃瓦

天守玄関屋根にある桃瓦。
近頃お城の屋根を見ると桃瓦を探してしまいます。(見付けられるとなんだかうれしい)


天守からの眺め



二の門櫓内部



木造部分

楠門の部分は木造です。





虎襖絵

大河ドラマのセットとして使用された襖が展示されていました。


袋狭間の石落

おしゃれな?石落し。
曲線美というかとても特徴的な格好してます。


埋門外側

和歌山城は昭和20年の空襲で焼けた時、外側の扉も焼けてしまいました。
埋門の石垣は残ったため現在は復元されています。


埋門内側

御台所と呼ばれるこの場所から水の手に通じる門として造られ、
水の手である金明水に(井戸)に出られるようになっています。


乾櫓北東隅の転用石

何気なく天守閣を一周していたら石垣にお寺などで見る台座が挟まっているのを発見。
よ~く見てあるくといろいろ使われていておもしろい。
こんな石を探して歩くのも楽しいです。


表坂



七福の庭

七福神に見立てた石を配置し、小石で舟を形どり宝船としています。


松の丸櫓台の石垣

元和期の改修による石垣は野面積みと違って角が尖っていて
つい、見とれてしまいます。


岡口門

羽柴秀長時代はこの岡口門が大手門でした。
浅野時代には大手が現在の地に移され、岡口門も秀長時代のものから現在の形へと
建て替えられているようです。
また、岡口門は空襲を免れ残った遺構で、重要文化財に指定されています。


伏虎像



追廻門

岡口門とともに現存する江戸時代の遺構です。


朝起きてホテルから早朝散歩に出かけ、まず一回りして来ました。
途中雨に降られ濡れながら歩いて来たのですが城から一番近いホテルに宿泊したため
着替えて、ホテル内の和歌山城の見えるレストランで朝食。
その後食休みをしてからもう一度登城して天守内部を見学しました。
広くて見所沢山で写真もいっぱい撮ったのですがどれをチョイスしようかと
悩みまくりました。
今後も伝え足りないなと思ったら気まぐれに書き足して行くつもりです。^^;


平成29年6月25日登城



御当地グルメ・おみやげ

井出商店の和歌山ラーメンです。
和歌山に行ったら絶対に行ってみたいと思っていたラーメン店です。
店内はとんこつの香りでいっぱいで和歌山ラーメンのはしごをしてみたのですが
他店でも一緒のスタイルでとんこつ醤油のラーメンとテーブルには鯖寿司とゆで卵がに置いてありました。




日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ)
日本城郭協会,福代徹
学研プラス

頭陀寺城(静岡県)

2017年07月25日 | 百名城以外の城
頭陀寺城ずだじじょう
別名市場城
構造平城
築城者松下氏
築城年代1564年(永禄7年)
指定史跡
場所浜松市南区頭陀寺町 地図


頭陀寺城(松下屋敷)は、少年時代の豊臣秀吉や徳川四天王の一人・井伊直政にゆかりの地です。
直政(虎松)の実母の再婚先でもあり、徳川家康の家臣となるきっかけとなる重要な地となりました。
松下家がなければ、直政のその後の活躍もなかったのかもしれません。


頭陀寺第一公園

城跡はこの地の地中に眠っています。
公園を見渡しても遺構らしいものは見えませんが一部土塁らしき面影が残ります。


松下嘉平次屋敷跡碑

立派な屋敷跡の碑が建てられています。


案内板

あずまやの柱にくくりつけられた説明書き。
松下屋敷には、少年時代の豊臣秀吉が1551年(天文20年)から
三年にわたり奉公していたと伝わります。
今回行けてないのですが頭陀寺町内には「鎌研ぎ池」や「目刺」など
秀吉に関わる伝承なども残されています。


案内板

幼少期の井伊直政(虎松)が松下氏の一門である松下清景の養子となり、徳川家康との謁見が
叶ったことにより、井伊直政の運命が変わって行くこととなります。


土塁

わずかにこんもりした部分が見られます。


頭陀寺城を訪れた翌日のNHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」は虎松の実母しのが松下家に人質として
嫁ぐという話をしていました。
あらすじを知っていて訪れたわけではなかったのですが、タイムリーに訪れることが出来ました。
遺構はあまり残ってないのですが大河ドラマを楽しむことができ、これもまた旅の思い出となりました。


平成29年7月22日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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丹生東城(群馬県)

2017年07月20日 | 百名城以外の城
丹生東城にゅうひがしじょう
別名城山
構造丘城
築城者新田四郎義重
築城年代不明
指定史跡
場所富岡市上丹生310 地図

丹生城東側丹生湖隣の丘陵地が丹生東城となっており、丹生城の出城とされています。



二の郭



主郭

現在は農耕地として開発され、ひまわり畑となっていますが、平成16年に発掘調査された時には
本郭を取り巻くように障子堀が発見されました。


残念ながら遺構や看板など史跡を示すものはまったく見られないです。



平成29年7月20日再訪問


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編
宮坂武男
戎光祥出版

真壁城(群馬県)

2017年07月19日 | 百名城以外の城
真壁城まかべじょう
別名
構造丘城
築城者不明
築城年代不明
指定史跡
場所渋川市北橘町真壁字城山 地図



白井城と八崎城の繋ぎの城として発生され、長く越後上杉氏の配下にあり、白井長尾氏の四天王に次ぐ家臣の
神谷三河守が居城したと伝わります。その後武田・北条氏に属し、
天正18年(1590年)に白井城落城とともに廃城になりました。


入口看板

この入口の道は車高の低い車は車底を擦ってしまうので注意が必要です。


広場

郭のように見える広場はゲートボール場になっています。
この日も大勢の方々がゲートボールをしていたので挨拶をして見学させていただきました。


案内看板

広場の本郭側に立てられた案内看板。


縄張り図

丘の頂上に本丸を置き、周囲に空壕をめぐらせた単郭型の砦です。


広場

カメラを向けていたら、皆さん気を使ってくれてゲートボールを休憩にしてしばし撮影の時間を
いただくことができました。


つるべ

お湯を沸かしていました。
なんとものどかでここにマッチした風景です。


土塁

この土塁を登り、茂みの奥が本郭になります。
私有地のようで立ち入り禁止となっているため、立ち入ることは遠慮しておきました。


土塁か?

土塁かどうかは不明ですが、広場と畑との間を仕切るように段差が巡っています。


外から見た風景

こんもりした緑地が真壁城になります。


まずはゲートボールをされていた住民のみなさん、お邪魔しました。
とても親切な人々でお城についても知っていることを口々に話して下さいました。

近くにある桂昌寺は館跡だともおっしゃっていました。

帰り際には車に乗り込んだところを男性が追い掛けてきて広場から道路に
出る際に車体を擦らないようにと、
「一旦直進で道路を渡り、バックで道路に出ると車体を擦らず出られる」と教えてくれました。
正直、車高の高い車だったので心配はなかったのですが、住民の方によると
何度も擦った経験があるので心配してくださったとのことです。
確かに普通の車では上手に考えて通らないと前か後ろを擦ってしまいそうです。
行かれる方は要注意です。
ちなみに城郭付近にはこの広場以外駐車スペースが無いのでより近くまで車を乗り入れたい方は
十分に注意して出入りしてください。




平成29年7月15日登城


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箱田城(群馬県)

2017年07月17日 | 百名城以外の城
箱田城はこだじょう
別名
構造丘城
築城者箱田地衆
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所渋川市北橘町下箱田606-2 地図


箱田城は戦国時代、上野国の守護代白井長尾氏の出城として、箱田地衆によって築かれたと
考えられています。

遠望

この付近の道を通るたびに山の上に見える天守閣っぽいものは何だ?と気になってはいたのですが
本当に城跡だったんですね。


追手口

この先の土居をよじ登ると追手虎口があります。
土居下からなんとなく追手道らしき獣道のような筋は見えるのですが
草が行く手を阻んでいるので進入して行くのはやめておきます。


たちばなの郷城山
以前は「老人福祉センター城山荘」でしたが「たちばなの郷城山」という温泉宿泊施設に生まれ変わりました。





案内看板

宿泊施設の駐車場にある案内板。


櫓台

櫓台の看板はあるものの駐車場と化しているので櫓台と言われてもよくわかりません。



この先追手虎口ですがここまでで封鎖されています。



箱田城祉標柱

本郭西側の武者屯隅に立てられた標柱。


武者屯

本郭西側、少し凹んだ場所になります。


帯郭

この奥は温泉施設への階段があり、車での進入はできず、歩いて行くにも行き止まりになってしまい
遺構は破壊されているのかなと言う感じです。


搦手虎口





壕は帯曲輪と土居の間に浅く名残程度に残っています。


土居

本郭を囲むようにぐるっと巡って出来てます。


北橘温泉ばんどうの湯

箱田城本郭の下段にある温泉施設。



ばんどうの湯からの眺望は良く、郭だったのかな?と思わせる場所がありました。
箱田城案内看板に記されている縄張り図には無いので実際は郭跡かどうかはわかりません。


チラシ

宿泊施設・日帰り温泉施設としていろいろなプランが用意されています。
遠方からの宿泊、近所であれば日帰り入浴などいかがでしょうか。


平成29年7月15日登城


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戸崎城(埼玉県)

2017年07月16日 | 百名城以外の城
戸崎城とさきじょう
別名
構造平城
築城者戸崎国延
築城年代不明
指定史跡
場所加須市戸崎 地図


竜宝寺から諏訪神社一帯が戸崎城の跡で、方形状の遺構が広がっています。
現在遺構は土塁と堀跡を見ることが出来ます。


周囲は田んぼです。


諏訪神社
諏訪神社と聞くと長野県諏訪市の諏訪大社を思い出し、とても馴染ある感じです。
と言っても諏訪神社って大小合わせるとものすごくいっぱいあるんですよね~。


本堂

本堂左に案内看板があります。
五穀豊穣を司る神として崇拝されています。



信州諏訪大社の分霊を祀ったものと思われる。と案内看板に記されています。
ビンゴ!!
思わずお賽銭もはずんでしまいます^^;
親しみを込めて参拝しちゃいます!


戸崎城周辺の図

平らな田畑に土塁が残っているようです。
早速、探してみましょう。


土塁

諏訪神社から見える土塁。



こんなところに島のようにある土塁。



土塁っぽい土塁。



L字になっている案内看板にも表記されている場所の土塁。
草と篠で土の部分はよくわからないです。


竜宝寺

山門の両脇には仁王像がいらっしゃるのですがアルミサッシ付きの現代的なお住まいのようで…^^;
最初観た時はまさか仁王様が居るとは思いませんでした。


水屋

この先に大坂相撲の前頭として活躍した戸崎出身の力士、初代「伊勢の海」の墓所があります。


本堂

本尊は釈迦如来を奉安しています。
江戸時代末には寺子屋としても使用されていたそうです。



石の蓋が付いている賽銭箱。
最初はどこから賽銭を入れたらいいのか迷いました。(※蓋がズレて賽銭を入れることが出来ます)


撫で宝珠

「願いをこめて撫でて下さい」と書いてあったのでお願いしながらなでなで


水子地蔵

大きくて立派なお地蔵様です。
水子地蔵と言えば小ぶりなことが多いのですがこんなに大きいとはお見事です。


諏訪神社は古来戸崎の郷の鎮守として村民の幸福と五穀豊穣の神様として祀られていました。
明治時代に村社となり厳島神社と八坂社と合祀し、平成7年に不慮の火災に見舞われてしまいました。
翌平成8年に信州諏訪大社へ詣でて分霊を奉載し新しい社殿を建立したそうです。
ということは諏訪神社としては歴史は浅いということなのかしら。
また、信州の諏訪大社を選んだ理由というのも案内板や石碑には書かれていないので謎です。
というか、神社のことに詳しいわけではないし、お城の歴史についてもブログを書くことで勉強してる
のでいずれにしても知識は浅くわからないことだらけなので追々調べてみようと思います。


平成29年7月5日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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皿尾城(埼玉県)

2017年07月14日 | 百名城以外の城
皿尾城さらおじょう
別名
構造平城
築城者上杉謙信
築城年代1561年(永禄4年)
指定史跡
場所行田市皿尾 地図


上杉謙信が皿尾の地に城を築き、忍城に対しての守備の城としました。
(もともと忍城の支城があったのを奪取した説もあります)
羽生城を築城した広田・木戸兄弟のうちの木戸忠朝に皿尾城を守らせたが忍城城主成田氏に攻められた際
岩槻城からの援軍を得て戦ったものの決着が付かずに成田氏と和睦をしてしまいました。
そのことで上杉謙信は木戸氏が成田氏と内通していると思い怒り、皿尾城を焼き払ってしまいました。


皿尾城跡碑

農村センター右側のフェンス脇に見えるU字溝はかつて水堀だったであろう用水路です。

1590年(天正18年)の忍城水攻めの際には石田三成が陣を置かれた場所でもあります。


参道

一の鳥居が見えます。
本来はそちらから入って来なければならないのでしょうが、目的が城祉だったので
城祉碑のある農村センターの方から入ってきてしまいました^^;


大雷神社(久伊豆神社)

1188年(文治4年)に成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請したそうですが、
謙信がここに皿尾城を築城した時にはすでにこの神社があったといことになります。
ということは、成田氏の築いた神社に謙信が奪取して城を築いたという説の方が有力か。


本殿

明治6年に村社となり明治41年には生駒神社・神明神社・天神神社の三社を境内に合祀した経緯があります。



社の奥に見える土塁。


石碑



社殿新築記念碑



農耕地

この田畑の風景は太平洋戦争後に生活改善や酪農の実験村として
取り組んでいたことで広がったようです。


蚊喰塚

近くにある物見に利用したであろう(推定)古墳です。
この塚周辺には沼地にあって罪人のお仕置き場とされていたようです。
蚊が多く発生するため罪人を全裸にして木に縛り付け多くの蚊に襲わせて一晩で身体中を蚊に刺され
むごたらしい姿で死亡させるという恐ろしい言い伝えがこの地には残っているそうです。
また、沢山の蚊が集まるように頭から全身にお酒を掛けたそうです。
人間とはなんとむごいことを思い付くものなのでしょう…。


皿尾城を訪れた頃にはもう日も落ちて薄暗くなる寸前だったので神社には明かりが灯っていました。
時間も少ない中での訪問だったので土塁や堀もじっくり見て廻ることは叶わず急ぎ足で
見て歩きました。
最近、城祉の紹介というより神社の紹介のようになってしまうことが多くなってきました。
城祉と神社仏閣って、だいたいセットになっちゃうんですよね。
これも歴史を語るには切っても切れない縁があるので自然に神社仏閣を知ることになるのですね。



平成29年7月5日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
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羽生城(埼玉県)

2017年07月13日 | 百名城以外の城
羽生城はにゅうじょう
別名
構造平城
築城者広田直繁・木戸忠朝(兄弟)
築城年代1540年代
指定史跡市指定史跡
別名場所 羽生市東5-7-1 地図


羽生城は古河公方家臣の広田直繁によって築かれました。
北と東は蓮沼、南は小沼に囲まれた要害の城でした。
広田直繁・木戸忠朝の兄弟がこの城を守り、忍城の支城になると大久保忠隣が城主となるが、
慶長19年に徳川幕府の直轄領となり城は廃城となりました。



「羽生古城天満宮」の看板に従って進みます。


鳥居

鳥居が見えて来ました。羽生城に近付いてます。



駐車場ではないですがここだけ道が広くなっていて通行の妨げにならないように車を寄せます。


羽生城祉碑

ここは天神曲輪にあたる場所です。
現在本丸や二の丸は宅地と化しています。


羽生古城之図

この看板を見ると右上に鳥居が見えます。
この辺りは看板右上の鳥居辺りに当たるのでしょうか。


古城天満宮

鬼門除けのためにあった神社に位置するものと思います。


本殿

本殿脇に廻ってみました。


額殿

古そうな建物があり、古そうな看板等も見えます。


天神社改築記念碑

昭和六年に雨漏りがひどくなった天神社の屋根の葺き替え工事等を氏子や崇拝者の寄付によって
行なったことが感謝の意を込めて記されています。



この敷地内には沢山の石碑が建っています。


牛伏せ像

菅原道真が牛に乗って来たと言われることから天満宮の各地にはこうした牛の像が祀られています。

周囲をぐるりと周ってみたのですが住宅地となっていて遺構らしいものはみつかりませんでした。
縄張り内には曙ブレーキ工業があり、入口には土塁のようなものが!!
と思ったのですがまったく違いました^^;


平成29年7月5日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
クリエーター情報なし
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種垂城(埼玉県)

2017年07月11日 | 百名城以外の城
種垂城たなだれじょう
別名種足城
構造平城
築城者佐々木氏
築城年代室町時代
指定史跡
場所加須市上種足450-1 地図


種垂城は近くの菖蒲城の支城であったとされています。
西騎城城主小田顕家は忍城城主成田親泰の子を養子に迎え入れ、種垂城を隠居城としました。


種足城祉公園

この城祉碑のデザインにはどんな意味があるのでしょう…。
何か意味のある形なんだろうなあという感じのデザインですが近くに説明書きなどはありません。


駐車場

公園になっているので駐車場とその横にはトイレが完備されています。


案内看板

現在は公園となっていますがここには城が築かれていたことが記してあります。


種足城祉公園看板

ここでは「種足城」と呼ばれていますが古くは「種垂城」と呼ばれていたようです。






公園内をぐるっとまわって遺構を探してみましたが何も残ってません。



土塁発見!と思って近くまで行ってみたら…植込みでした^^;




苔むした歩道にクモの巣があって、放置された公園ではなさそうですが
あまり散歩に使われている感じもないような公園でした。
この周辺一帯は平で凸凹している場所も無いので遺構らしきものがまったくありません。
妄想すら出来ない場所です。


この日は仕事で出張帰りだったのでこの後近くの「ゆで太郎」で、かなり遅い昼食を食べました。


平成29年7月5日登城


城 2018年 カレンダー 壁掛け C-2 (使用サイズ 594×420mm)
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里見城(群馬県)

2017年07月08日 | 百名城以外の城
里見城さとみじょう
別名
構造山城
築城者新田義俊
築城年代不明
指定史跡市指定史跡
場所高崎市下里見町 地図


里見城は新田義重の子義俊が里見郷に居を定め築城したと伝わります。
以来新田義俊は里見義俊と氏を改め、里見氏十代の子義実が房総へ移るまでの290年間拠点としていました。

入口

二の郭横に虎口への道があります。
車では入って行けないので車を停めて歩くことになりますが、近くに駐車場は無いので
少し先の城山稲荷付近の駐車スペースに車を置くことに。



畑と農機具置き場?のある小屋との間の道を進みます。


一の郭虎口

東側から一の郭に入る虎口。


一の郭

今は一面草が生い茂っていて中に進んで行く気にはなれません…。
草むらに入って行っても広場になっているだけで何も無いと思いますが^^;


案内看板

虎口から一の郭に入ってすぐに里見城祉を示す標柱と案内看板があります。


小道

この道をたどって行くと一の郭内に民家が一軒建っています。
そのお宅へ行くための道のようです。


一の郭土塁

一の郭西側にある土塁。


堀切

一の郭と三の郭の間にある堀底から一の郭の土塁を見上げているところです。
ちなみに堀底にはお墓があります。


三の郭土塁

この土塁は道路からも見えるので比較的わかりやすい土塁です。


城山稲荷

里見城の鬼門除けとして祀られたと伝えられています。
里見氏が房総へ転出後いつしか朽ちてしまったのですが、
この地区の人々が結集して地域の守り神として復活させたそうです。
この日もお参りに来る人、草むしりする近所の人らしき方をみかけました。
地元ではとても愛された稲荷だなあと感じました。


長寿地蔵尊(ぴんころ地蔵)

城山稲荷は土砂崩落災害にみまわれても奇跡的に崩落を免れたことから
「落ちない稲荷」として地域住民の心のよりどころとなり、崩落災害から40年の経過にあたり
地域住民への感謝と長寿を祈ってこの地に長寿地蔵尊を建立されたそうです。



沢山の鳥居が建ち並び稲荷~って感じです。


大鳥居

地域の皆さんで協力し合って整備された稲荷や鳥居。



城山稲荷側から鳥居目指して入って来ると城祉がみつけやすいです。



南西側から見た城祉。


この日は地域の河川清掃があるため、朝8時までに戻らなくてはならず急いで巡ってきました。
この辺りには里見館や上里見城など城と館と砦が点々とあります。
近いといつでも行けると思って後回しにしたり、時間をかけずに見に行ったりしてしまいがち。
そのうちに…時間が取れたら周辺の城や史跡を少しずつ紹介できたらなと思っています。


平成29年7月2日登城


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菖蒲城(埼玉県)

2017年07月07日 | 百名城以外の城
菖蒲城しょうぶじょう
別名
構造平城
築城者金田式部則綱
築城年代1456年(康正2年)
指定史跡
場所久喜市菖蒲町新堀 地図


菖蒲城主初代の金田式部則綱は古河公方足利成氏の家臣になり、
それ以後氏綱・顕綱・定綱と続き、五代頼綱の時に後北条氏に属しました。
六代秀綱の時には豊臣秀吉の関東侵攻により落城し廃城とされたと推定されています。

現在は菖蒲園として親しまれています。


旗本内藤屋敷門

この門は江戸時代この地域を治めていた旗本内藤氏の陣屋の裏門と伝えられています。
明治以降陣屋が解体された際名主であった三須家に移築されたが、
三須氏の厚意によりこの門が町に寄贈されこの地に移築されました。


案内看板

旗本内藤屋敷門のことが記された案内看板が門の脇に掲げられています。


菖蒲園

門から菖蒲園を眺める。
見ごろは5月頃で久喜市のホームページで開花情報を提供しているようです。


門の裏側



あずまや

あずまやと城祉碑があります。


菖蒲城祉碑

菖蒲城があったことだけは城祉碑で残されています。


菖蒲城祉之碑

城の遺構は残っていません。



菖蒲の咲く時期は過ぎてしまっているので蒼々とした葉が生い茂っています。
菖蒲の手入れをしている方が居ました。

久喜市のホームページで菖蒲園を確認すると、見事に一面花菖蒲が咲き誇っています。
こんな時期に狙って来られれば、画になる写真が撮れたんだろうなあと思います。
そして菖蒲園として賑わうことでこの地の歴史も語り継がれて行くのでしょうね。




平成29年7月5日登城


「日本の名城」卓上カレンダー(2018年版)
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コミュニティネット

岸和田城(大阪府)

2017年07月05日 | 続百名城
岸和田城きしわだじょう
別名千亀利城
構造平城
築城者信濃泰義
築城年代1394年~1428年(応永年間)
指定史跡県指定史跡
場所岸和田市岸城町9-1 地図
スタンプ設置場所岸和田城天守閣受付
城郭検定出題あり

1954年に再建された鉄筋コンクリート造りの復興天守。
本来の天守は五重の天守であったが、三重三階で内部は展示室になっています。






本丸虎口



本丸櫓門





甑用大釜

櫓門をくぐると正面になぜか大釜!
信貴本家酒造より寄贈された大釜のようですが、酒造に使っていたようです。
インパクトはありますが…^^;


八陣の庭

諸葛孔明の「八陣法」をイメージして設計された庭園です。
八陣法は敵を攻める陣形ではなく外敵から守る平和確立のための陣形です。


復興天守

内部は歴史に関わる資料が常設展示されています。


眺望

天気が良ければここから明石海峡大橋や淡路島、六甲山など見渡すことが出来ます。





攻城団チラシ

攻城団のチラシがあったのでもちろんいただきました!
ついでに受付の方に続百名城のスタンプについてうかがってみたのですが、現時点では何の動きも無いようです。協会からは半年ほど待ってねと言われただけだそうです。



下に降りて来ました。あじさいがきれいです。
天守閣の周りを一周してみます。








友好記念松



二の丸トイレ

櫓と思いきや、トイレでした^^;
でもこーゆーの好きです。


二の丸御殿跡



伏見櫓跡

二の丸には伏見城から移したという伏見櫓がありました。
他にも大坂城、江戸城、膳所城、尼崎城、福山城にも伏見櫓がありました。


内堀



午前中は大坂城をめぐり、午後2時過ぎ岸和田城に到着しました。
なんで2時間もかかったかと言うと、恥ずかしながら電車に乗り慣れていないことでたかが隣駅での電車の乗り換えに失敗していろいろな地に行ってしまったことです。
普段電車に乗る機会はなく、年に1~2回程度しか乗ることが無いので乗り方を知りません。
しかし、この日の前日江戸城まで電車で出掛けたことで少しばかり自信を持ってしまったのが大きな間違い!勘違い!。
東京でひとりで電車に乗れるなら大坂だって平気!なんて思ってスマホ頼りに電車に飛び乗ったものの、乗り換えるたびに違う電車に乗ってしまい、快速だったために隣駅と言っても何駅も乗り越した状態で、引き返して来るのに時間がかかってしまい、乗り直した電車がまた違って「どこ行くの~」って状態で何回も行ったり来たり。
もうお腹いっぱいというほど電車に乗りました^^;
最後はホームに入って来た電車の車掌さんに「この電車で岸和田城まで行けます?」って聞いて教えてもらいました。
これではまだまだぐんま~国からは出られません!単線でないと乗り降りできません!
生れは長野の高遠なので高遠駅というのがありますが高遠駅は電車は通ってません。バス停なのに何故か駅。
おかげで私はバス停も全部駅だと思って育ちました。
あ~あ、どんだけ田舎者だ。というか頭悪すぎ!


でも、こんな苦労があったのでもう電車は怖くありません!(その勘違いが危険)
あと、東京と大阪では道を尋ねても大坂の方が親切ですね。
関西の方の方が面倒見の良い人柄のようです。(^^)


平成29年6月24日登城



続日本100名城公式ガイドブック (歴史群像シリーズ特別編集)
公益財団法人 日本城郭協会
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